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挑戦しつづける人たち

オーストラリア4200kmを車椅子で横断した宮崎美奈

 文・長澤法隆

障害のために車イス生活となったけれど、サポートを得て車イスでオーストラリア4200kmを横断した女性のルポです。
宮崎は、大学3年生の時、登山中に滑落事故で両足の自由を失った。 それでも、不慮の事故から3年経た1991年10月14日、 オーストラリアの西海岸にある春のパースを車イスで出発。 そして、198日目の1992年4月28日に東海岸・秋のシドニーに到着し、 腕力によるオーストラリア大陸4200kmの横断に成功した。23歳であった。
読めば元気をもらえることでしょう。

この原稿は、雑誌『ポカラ』の第7号(1998年3月発行)に掲載されたものに、加筆しています。

歴史探検隊の主催している『ツール・ド・シルクロード20年計画』では、車イスを利用しているけれどもシルクロードを旅したいという人の参加も歓迎します。サポーターを探すのもお手伝いします。 自転車やウォーキングの参加者同様に、出発までトレーニングに励んで体力と気力を高めて臨んでください。

   


 2001年、車イスによる北米大陸横断をめざしている宮崎美奈。(発表当時のままです。実現することはできませんでした)

 宮崎は、大学3年生の時、登山中に滑落事故で両足の自由を失った。 それでも、不慮の事故から3年経た1991年10月14日、 オーストラリアの西海岸にある春のパースを車イスで出発。 そして、198日目の1992年4月28日に東海岸・秋のシドニーに到着し、 腕力によるオーストラリア大陸4200kmの横断に成功した。23歳であった。

 思い起こせば、高校生の時から自転車による海外冒険旅行の夢を追いつづけていた。 車イスの生活を余儀なくされてからは、一つの出会いにヒントを得て発想を転換、 脚力(自転車)を腕力(車イス)に置き換え、長年の夢に挑んだ。

 オーストラリア横断後すでに6年。21世紀のはじまりに、医学研究へのチャリティー を兼ねたバリアフリーな旅づくりにチャレンジ中!
これからも「希望を持って生きつづけたい」と夢を追いつづける。
 

       
21世紀への夢
 
「これからやってみたいと思っている事が二つあります。一つは、これまで出会った人たちと一緒に、車イスを何十台も連ねて北米大陸を横断する旅。もう一つは、障害のある人も無い人も一緒になって旅行やアウトドアを楽しめるような仕組みを作りたいんです。頭の中で思い描いているだけで具体的じゃなんですが……」
 
車イスの上から21世紀の夢を笑顔で返すのは、宮崎美奈(29歳・取材当時)。  
1991年から1992年にかけて、198日を要して世界で初めてオーストラリア大陸を車イスで横断した。だが、“世界初”の大胆な行動力の片鱗も感じさせることはない。問いかけに対しては、敬語も交えて丁寧に言葉を返す。育ちの良さがうかがえる。  さて、美奈が21世紀の夢として描く北米大陸横断の旅には、4000m級の山並みを連ねたロッキー山脈が立ちはだかる。人力で移動する自転車は、壁のような上り坂に対してペダルに加わる負荷を調整しながら前進できるように工夫されている。また、全身の体重をペダルにのせて進むこともできる。しかし、車イスの場合は、手からタイヤに伝える負荷を調整するギアはない。タイヤに伝えるパワーも腕力と上体の重さだけ。“腕力の旅”は、“脚力の旅”と必要とする体力の面で比べて、かなり厳しい旅になる。

 美奈は、高校生の頃、北米大陸を自転車で横断してみたいという夢を描いていた。人力による旅にこだわっていたのである。その可能性を、島原半島を一周して確かめたこともあった。そして、両足の自由を失ってからは、自転車でやりたかった人力の旅を、形をかえて車イスでチャレンジ。1992年4月には、オーストラリア大陸4200kmを車イスで横断した経験がある。とはいえ、美奈は、車イスによる北米大陸横断の旅を個人的な夢の実現をめざして計画している訳じゃない。

「新聞や雑誌を見ていると、骨髄損傷を治療する研究に多くの医師が取り組んでいることがわかります。中には、もっとお金があれば十何年かかるところが10年以下で治療方法が見つかる、と断言した医師がいるんです。『タイム』で“脊髄を損傷した鼠が治療によ って自分の体重を支えられるまでに回復した”という報道を読んだこともあります。事故で失った下肢の機能を治療で回復するのも夢ではない、と思っています。


車イスによる北米大陸横断の旅でアウトドアスポーツを楽しみながら、このような研究への理解と協力を兼ねたチャリティーの旅をやってみたいんです」  車イスによる北米大陸横断の旅では、車イスの人はもちろん。自転車で参加したい人、医師、看護婦、介護、荷物を運搬する車の運転手など、ボランティアとして参加したい様々な人も加えて、障害者と健常者が一緒にアウトドアスポーツを楽しむ機会にしたいと願 っている。もちろん、日本とアメリカだけでなく、世界中の人に参加を呼びかけたいともいう。二十一世紀に向けて、美奈の夢はかたちを表しつつある。  一方、健常者と障害者が一緒になってアウトドアスポーツを楽しむとなれば、アウトドアスポーツのノウハウのほかに心身のケアを行えるだけの専門的な知識も要する。

「あと半年で大学を卒業しますが、その後は大学院に進もうと考えているんです。ミネソタ州立大学に障害者と健常者がどうやって一緒にアウトドアを楽しむかを研究している教授がいます。そのテーマを知った時『私にピッタリのテーマだ』と思って、大学院へ進む 決心をしました。そして大学院で学んだことを、日本で紹介したいと考えています」
 
1993年に渡米した美奈は、現在、オレゴン州立ポートランド大学の4年生(取材当時)。元々は、アメリカに滞在する目的で大学に進んだ美奈であったが、漸く自分自身の体験を活かした未来が見えてきた。
 


不慮の事故
 
美奈は、自分自身では“子どもの頃は、おてんばだった”といった。おてんばであったかどうかは別として、運動神経のいいスポーツウーマンであったことは間違いない。というのも、高校生の時には弓道で高校総体九州大会に出場。玉川学園大学文学部に進学してからは、少林寺拳法に所属し二段を取得。全国大会出場の経験もある。専攻していた英語の勉強に加えて、新たにチャレンジしたスポーツでも成果を得るなど、充実した学生生活を楽しんでいた。

 ところが、大学3年生の6月、栃木県内でハイキング中に滑落。10カ月の入院生活を送ることになった。

「病室のベッドの上で何時も“退院したら思いっきりペダルを踏んで自転車で北米大陸を横断しよう”と夢を描いていたんです。ところが、担当の医師からは、下肢機能全廃と宣告されました。その衝撃は、一瞬にして奈落の底に突き落とされた感じ。泣いて泣いて泣き通す日が続きました」

 あれほど夢見ていたペダルを踏み、自分の力で北米大陸を横断する旅は不可能なのだ。自分の足で歩き回る事も不可能なのだ。自分の未来から全ての可能性が、失われてしまったという不安。そんな思いに陥るたびにやり場のない悲しみが、美奈に襲いかかる。

 とりわけ、夜中になると可能性を失った未来への不安と孤独感が増幅された。看護婦に暴言を吐いたり、枕を投げて当たり散らして泣いてもみた。しかし、悲しみは癒えない。看護婦の同情や親切に甘え、夜中に泣き叫びベッドごとナースステーションの前に運んでもらい、一晩中話し相手になってもらうわがままも続けていた。


            
脚力を腕力にかえた出会い
 
そんな時、長崎県庁に勤める父・金助(当時48歳、宮崎さんが入院していた当時のこと)が、仕事の合間をみて宇都宮の病院まで見舞いに来た。
「父が、飛行機の中で目に留まったという新聞記事を持って来てくれました」

 一つの記事が、美奈の目は、ある一つの記事に釘付けになった。その記事は、宮崎と同じく事故による骨髄損傷で車イス生活を送っている北海道の宮下高(当時42歳、宮崎さんが入院していた当時のこと)が、三輪手こぎの車イスでカナダ横断に成功したことを知らせていた。

「宮下さんの記事を読んだ瞬間に“脚力(自転車)の旅を、腕力(車イス)の旅にすればいいんだ”と閃いたんです。目の前がパッと開けたような気持ちになって、生きる目標が見つかったような安堵感を覚えました」

 母・知(当時46歳、宮崎さんが入院していた当時のこと)は、勤めていた中学校の英語教師の職を辞めて、美奈の看病に専念。病院の近くのビジネスホテルから、病室へと通って励ましつづけていた時のことであった。

 美奈は、体力が回復して車イスで移動できるようになると、早速、病院から宮下に電話をかけた。宮下の謙虚な電話の声に嬉しくて、ますます生きる目標が明らかになったと喜ぶ美奈。宮下から届いた手紙のアドバイスを何度も何度も繰り返して読んで、退院した ら車イスで宮下と同じようにカナダを横断する決意を強くした。
 その後、宮下から旅の様子を記録したビデオが届いた。見ると、 「宮下さんの旅は、後ろからキャンピングカーが伴走していました。車イスのメカニック、マッサージ士、看護婦、栄養士、調理士といったスタッフを10数名抱えての旅でした。車イスも走行用と生活用の2台を持ち込んでいました。あまりにもお金が掛かり過ぎて、そういう旅は美奈にさせてあげられないと、私は感じていました」
 と母・知は当時を振り返る。


             
思いがけない協力者の登場
 

そんな時に、美奈が大学2年生の時にカナダで知り合った板東誠一(当時26歳、宮崎さんが入院していた当時のこと)が病院に駆けつけてくれた。

 憧れの地であった赤毛のアンの島であるカナダのプリンスエドワード島を友達と2人で旅行している時に、美奈は雨に濡れながらペダルを踏む板東とすれ違ったことがある。偶然、美奈たちが泊まっている民宿に野宿をあきらめたサイクリストも同宿することになった。そのサイクリストが坂東だった。西の端のバンクーバーから東の端のプリンスエドワード島まで、七八〇〇キロを自転車で走ってきたと、美奈たちに語る板東。大平原の中での暴風体験、熊との遭遇など。板東が旅で体験した数々の出来事は、けっしてバスや飛行機の旅行では体験できない事ばかり。美奈たちは驚いた。そして、自らの力で移動する旅への憧れは、ますます強くなった。

「板東さんとの再会が、こんな形で訪れるなんて思いもよりませんでした。早速、板東さんに『何時か、板東さんのように自転車で北米大陸を横断したいと考えていたけれど、これからは車イスの生活になるので、車イスで挑戦してみたい。脚力の旅を腕力の旅に代えても自分の力で旅をして、自分の人生を自分で拓く可能性と目標をつかみたい』と話してみました。板東さんは、とても興味を持ってくれた上に『その時には自転車で伴走してもいい』と、その場で約束してくれました」
 さらに板東は、自らの体験やサイクリストの情報を考慮して、地形が比較的平らで熊などの獰猛な動物と遭う危険の少ないオーストラリアの方が走破しやすい、というアドバイスも加えてくれた。

 カナダを横断した経験のある板東が自転車で伴走してくれるならば“鬼に金棒”と勇気づけられ、美奈の夢は広大なオーストラリア大陸をも凌ぐほどに広がった。

 嬉しくて、早速、母・知に、板東が自転車で伴走してくれると約束してくれたこと。カナダよりもオーストラリアの方が、危険も少なく地形的にも走破しやすい。気候も温暖で人も優しいというアドバイスを受けたことを伝えた。ついに夢が見つかったし、実現できる。そう思うと、おっとりしている美奈が、このときばかりは早口になった。

「宮下さんは、絶対に伴走車が必要だという意見でした。例え、板東さんが自転車で伴走してくれるとしても、いざという時のために車は必要と思いました。だから、車イスの美奈と自転車の板東さんだけで、オーストラリアを横断するなんて無謀としか思えず、私は反対しました。自分が車を運転して、後ろからついて行くのならいい」と、母・知は“自分が二人の後から車で伴走する”ことを条件とした。



『美奈の夢をつぶすな』
 
ところが、板東は人力の旅にこだわる自転車冒険家。母・知の申し出に、 「それでは僕が行く意味がない」  と言葉を返す。

 美奈は、自分が希望を持って生きつづけるために、オーストラリア大陸の横断に挑戦し自分の力を試してみたいと考えて計画を立てた。それだけに、母・知の伴走には抵抗した。美奈も板東も人力にこだわったのである。

「板東さんの言葉を聞いて、自分たちのことしか考えていなかったなあ、と反省しました。『自分の力で生きる希望を求めて』美奈が考えた挑戦に、板東さんが協力を申し出たのに……。でも、あまりにも万一の時に対する準備が甘いとしか思えなくて、2人だけで行くことに反対したんです。それで、反対すると美奈は落ち込んでしまいました。どうすることも出来ずに、長崎にいる主人に電話をかけました。『そんな無茶な旅行をさせられませんよね』と同意を求めたんです。主人は『美奈はどうしてる』と問います。『反対されて落ち込んでいます』と応えると、即座に『美奈の夢をつぶすな』と強い口調が返ってきました」

 父・金助の一言で、母・知も開き直った。横断できなくても、行けるところまで2人で行けばいい、と。
         


トレーニングと愛情
 
1990年4月、美奈は大学を中退して、長崎県島原市にある自宅に帰った。庭から仰ぎ見れば、島原城の白亜の天守閣ある。美奈が子供のころから見慣れた光景だ。懐かしい。

 しかし、故郷に帰っても、家にじっといる暇はない。世界で初めて、車イスによるオーストラリア大陸を横断にチャレンジするのだから。車イスで長い距離をこげるような腕力を鍛える必要もあれば、体力を付ける必要もあった。
 早速、トレーニングが始まった。

「家から車で15分くらいの所に、全国植樹祭を終えたばかりの百花台公園がありました。1周すると400mから500mくらいの小さな公園なんですが、ここで毎日10時から昼頃まで練習しました。そしてある日、有明町から国見町までの農道を走ってみました。長く急な上り坂での辛さは、普段練習している公園と比べようもありません。それに、時々脇を走り抜ける車には随分と緊張させられました。それでも、目標の10kmを走り終えると、車で先導してくれた母も、汗だらけになりながら後ろから徒歩で応援してくれた父も心から祝福してくれました」

 美奈が自宅へ戻る前、父・金助は長崎県の教育庁から島原市内の定時制高校へと勤務を替えた。そして、両親が揃って、早朝から午前中いっぱい美奈のトレーニングの応援や送迎に力になってくれたのだった。

 また、車イスでオーストラリア大陸を横断する夢を持っていることを耳にした高校の先輩が協力を申し出て、熊本県の長洲から福岡県の柳川までの30km走破を体験することができた。自分の力で三〇キロを走った時、初めて美奈はオーストラリアが近づいたこと実感した。

「東京にいる頃は、あまり実家にも帰らず、仕送りのときだけ両親の有り難さを感じるくらいでした。でも、私の夢に両親で応援してくれる姿を見て、本当に両親に愛されているんだなあと実感しました。留学中の妹も電話で励ましてくれました。わが家の絆は強くなったと思います。家族の有り難さが身に沁みて感じていた日々でした」
 美奈は、トレーニングを重ねてオーストラリアが近づくと共に、家族の愛情の深さを感じていた。また、バックアップしてくれる高校弓道部の先輩や級友の友情に導かれたり励まされたりしながら、夢に向かって進んでいた。愛情や友情の応援や励ましの数々。この頃になると、美奈の車イスによるオーストラリア横断の夢は、同時に家族の夢であり、励まし応援する友人・知人の夢へと大きく広がっていた。


               
オーストラリア大陸横断と出会い
 
1991年10月9日パースに到着した。そして、オーストラリア大陸横断を目前に控えた10日には観光局へ情報収集に出掛けた。

「観光局では、いろんな人から『ナラボー平原を車イスで越えようなんて自殺行為よ。やめなさい』なんていわれていたんです。その時に、リタさんという女性の責任者の方がこられて『わたしが応援するから、頑張ってみなさい』と励ましてくれました。リタさんは、ラジオ放送を利用して、私たちが通ったら宿泊の便宜を図ったり、宿泊させてくれる人を紹介したり、様々な面で援助を惜しまないでほしいと沿道のリスナーに呼びかけてくれたんです」

 オーストラリアの人々の懐の深さを感じた最初の出会いであった。

 10月14日、リタさんと彼女の親友のアンジャラさんに見送られて、パースの駅前を出発し、4200キロの旅が始まった。

 病院で使用しているようなごく普通の車イス。そのタイヤを両手でこいで前へ進む美奈。その後ろを走る板東の自転車は、4つのバッグがくくり付けられ、さらに改造したカートに100kgを越す山のような荷物を引いていく。

 初日から、午後には5kmの上り坂が待っていた。グリーン・マウントという丘だ。道路の端には歩道があるが、歩道の終わりで車道に下り、再び歩道に上がるときが大変だ。長々と続く上り坂で腕は疲れきっていた。にもかかわらず、坂よりもさらに角度のある歩 道に上がるために勢いをつける。しかし、途中で力尽きてづるづると後退。一呼吸置いて再び挑戦する。美奈は、余程のことがないかぎり板東に助けを求めない。板東もそう簡 単には手を貸してくれない。

 苦労の末、グリーン・マウントを登り切った。すでに夕暮れが近かった。

「後ろを振り返ると、遠くにパースのダウンタウンが見えました。出発前にグリーン・マウントを見たときは、あまりの高さに自信を失って、出発の日が怖かったくらいなんです。今、自分の力でここまでやって来た。その丘の上にいると思うと気分が良かった。信じられないくらいでした」

 オーストラリアの人々の優しさに包まれて初日を迎えたが、試練とも思える自然の厳しさがスタート直後に待っていたのであった。連続する5kmの上り坂は、これまでに体験をしたこともない困難であった。が、自分の力で乗り越えた時の充実感。目標に向かって喘ぎながらも一こぎ一こぎて進めば、目標を達成したときに思いがけない視界が待っている。美奈は、貴重な教訓を第1日目から手にすることができた。

 また、走りだして何日かすると、観光局のリタさんのラジオからの呼びかけに応じて、自宅に招いてくれる人も現れた。

「50歳くらいの夫婦で、2人暮らしのクリスマスさんは、ラジオの放送を聞いて2泊もさせてくれました。お醤油も手に入れて待っていてくれて、ご飯の上に生卵をかけた食事まで用意してくれました。これは、私の大好物なんです。この時のことは、とても印象に残っていますね。また、わたしたちが東側まで進んだずっと後のことですが、わたしが床擦れで入院して治療していることを新聞で知ったクリスマスさんは、東側に住んでいる息子さんに連絡をしてシープスキンを届けてくれたこともあったんです。しかも息子さんは、わざわざ仕事を休んで届けてくださったんです」

 皮膚が呼吸できるために床擦れを防いでくれるシープスキン(羊の毛皮)。宿泊の提供、水の補給、食料の差し入れ、冷たいビールの差し入れ、お金のカンパ、クラクションを派手にならした激励、日本人サイクリストとの会話。様々なスタイルで励ましてくれるオーストラリアの人々や旅人たち。全ての出会いが、美奈の旅の大きな支えになってくれた。
         


自分自身との出会い
 
しかし、多くの人の親切に出会う一方で、美奈が反省する場面もあった。

「日本人のバイクの旅行者から『アボリジニーは、すごく貧乏だから観光客をみると金をくれと迫ってくる。だから気をつけたほうがいい』と言われたことがありました。そのすぐ後に、スピードを落とした車が、私たちと同じくらいのスピードでついてくるんです」

 美奈が、後ろを振り返ってみると、車を運転しているのはアボリジニーの女性だった。先程の日本人の言葉を思い出した。お金がほしいに違いない。そう思って、美奈は一生懸命に車イスをこいだ。相手は車だから逃げられる訳はないのだが……。その中に車から女性が下りてきて美奈の前に手を差し出した。

「これはお金を要求しているんだと思って、『お金はない』と手を振りながら何度言っても、ニコニコしながら手を差し出してくるんです。しつこいなあ、なんて思って……。思わず女性の手を振り払おうとしました。その時、手の中にキラリと光るものがあって、何かと思ってよくみたんです。二ドル硬貨でした。『これはどういう意味ですか』と尋ねると、ニコニコしながら彼女は『あなたたちが大変な旅をしているみたいだから、これはほんの僅かだけど旅行の足しになればと思って追いかけてきたの』と言うのです。硬貨を受け取ったとき、有り難さと同時に恥ずかしさがこみあげてきました。人種や民族で決めつけて、先入観で人を見てはいけない。人間はひとり一人違うんだということを、つくづく感じさせられた出会いでした」

 見ず知らずの旅人も気軽に受け入れてくれるオーストラリアの人々、懐の大きさに接し感心していた。しかし、日本人旅行者の一言を鵜呑みにして、親切に気付こうとしなかった自分。美奈のショックは大きかった。しかし、このアボリジニーの女性との出会いは、美奈自身が懐の大きな人間としてその後も旅を続ける上でも、また自らの力で生きていく時に自分自身を見つめる上でも貴重な出会であったと振り返る。
     

      
自然の厳しさと美しさ
 
オーストラリア大陸横断の最難関は、ナラボー平原。日本の本州よりも長い1700kmも続く砂漠地帯である。しかも、春にパースを出発した美奈がこの砂漠地帯を通る時、一帯は真夏になっていた。 「強い日差しが背中に突き刺さるように暑いんです。現地の人たちは、この日差しをサン・バイト(太陽が噛みつく)と表現しています。本当に、何者かが肩に食らいついているような感じがするんです。

でも、ナラボー平原で本当に困ったのは風との戦いです。周りに木も生えてないので、向かい風をもろに受けました。でも、クリスマスの日にそれまでずっと何もない砂漠を走っていて、いきなり目の前にグレートオーストラリア湾が見えた時は、感動ものでしたね」  パースを出て2ヵ月ぶりに見る海となったグレートオーストラリア湾。白い砂と青い海のコントラスト。そして、右手には大平原の中にこれまで走ってきた道が一直線に伸びている。熱暑、熱風、砂嵐に風雨、何時までも続く向かい風といった中を黙々と車イスをこいだ苦労が報われたと思えた。素晴らしい景色だった。美しい景色に見とれながら美奈は、自分の力でここまで走ってこれた喜びを噛みしめていた。  

そして、4月11日の午後、自分の力を信じて最後の難関、グレートディバイディング山脈にチャレンジする日が来た。 「最後の壁のような登りを前にして、わたしと板東さんは『ひぇーっ』と悲鳴をあげてしまいました。しかし、この坂を越えないことには次の町に行けないのです。おまけに路肩部分は、砂利道で車輪が埋まって中々思うように進めません。それまで時速4kmから5kmのペースで走っていたのに、この坂にさしかかったとたんに時速1kmの超スローペース。自分が、かたつむりか亀になったような心境で心身ともに疲れ果てました」  頂上は見えているが、このペースでは日が暮れる前に峠を越えることは出来そうもない。ガードレールがあって野宿もできない。こんな辛い思いをして何のために走っているのだろう。やめたい。手を上げて車を止めたい。そんな安易な考えが美奈の頭にちらついた。

その時、 「絶対あきらめたらいかんでぇー。どんな長い坂でもいつかは終わるんやから」  と、登りでは無口になっていた板東から励ましの言葉が飛んできた
。 「口には出さなかったけれど、あの一言には『こんなに苦しんでいるのに、まだ、わたしのことを苦しめたいの。この鬼』と反抗的な気持ちになりました」  やめたい気持ちをグッと堪えて、一こぎしては休み、また一こぎしては休みと、美奈はのろい歩みを続けた。

「やっとのことで頂上に着くと、一面の牧草地に夕日がさして、黄色く色づいたポプラ並木があって、池があって、羊が放牧されている。この風景が一番感動的でした。こんなに素晴らしい風景と感動が私を待っていたのだから、諦めないでよかった。励ましつづけて くれた板東さんに、心のなかでありがとうを何度も繰り返しました」
     
     

涙のゴール
 
 4月28日は前日から続く雨だった。雨の中の走行を思い出すだけで寒けがした。シドニー市内に入ったのだからもうゴールとしようかと美奈はも思った。が、板東の助言を得て、雨のやむのを待った。最後の走行の時を伺っていた。一瞬、窓の外に雲の切れ間 から青空が見えた。今しかない。急いで街に出た。
「それでも、シドニー市内はアップダウンが多く、簡単にはゴールさせてもらえませんでした。空まで伸びているような坂道が、いくつもあるんです」

 シドニーを代表するランドマークとなっているオペラハウスとハーバーブリッジ、そして海。目の前にある光景こそが、オーストラリア横断を決意したその日から美奈の心を支え続けてきた。入院中の辛いリハビリ、普賢岳の噴火に怯えながらのトレーニング、みんなこの風景に身を置く日を夢見て耐えてきた。行く手を阻むようなナラボー平原の灼熱の太陽も向かい風も、グレートディバイディング山脈の壁のように急な坂も、この風景に飛び込む自分の姿を胸に描いて越えてきた。

 その風景のなかに、ゴールのテープを持つ母と叔母の姿が見えた。アメリカから駆けつけた妹・香織は、祝福のメッセージを書いたプラカードを高く掲げて待っている。

 ゴール50m手前、母の顔がハッキリと見えるところまで来ると、美奈は声を出して泣いていた。それでも、残りのエネルギー全てを両腕に集めて車輪を回し続けていた。


    
更なる挑戦
 
「車イスは、自転車とかバイクと比べたら本当にのろい乗物なんです。でもオーストラリア大陸を横断できました。どんなに小さな力であっても、持続すれば大きな力になること。時間はかかっても少しずつ続けていたら絶対にいつか目標は達成できるんだということ。 横断を通してこの二つのことを、自分に残すことができました」

  しかし、美奈のチャレンジ精神に終わりはない。オーストラリア大陸4200kmを自分の力で横断すると、直ぐに次のテーマを見つけた。
「何とか残された機能を十二分に発揮したいという願いが、いつも頭にあります。そのために、車イスから抜け出して自由に動き廻る方法を探していたんです。一生懸命に考えたんですけれど、やはり水の中しかない。水泳を習うことにしました。実は、ケガをする前、水泳がいちばん苦手。金槌だったんです。もう、水に対する恐怖心は人一倍強い。でも、自由に動き廻りたい気持ちの方が勝っていました」

 日本でも水泳を習えた。しかし、アメリカには、障害者にマンツーマンで水泳を教えている専門家がいることを知り、美奈はアメリカへ渡って水泳を習うことにした。その後、野性のイルカと泳いでもみた。すっかりアメリカが気に入った。長期間アメリカに滞在 するために、大学へ進んで学生ビザを取得することにした。

「大学では、膨大な量の読物を宿題として出されることがあります。何時になったら読み終えるんだろうと、嫌になることもあります。そんな時、オーストラリアの旅のことを振り返ってみて『あれができたんだから何でもないさ』と受け止められるんです。あの体験は、生きる上で大きなバックボーンになっています」

 大学へ進んでからも美奈は、スキューバダイビング、スキー、カヌーなど様々なアウトドアスポーツを体験。  そして、昨年、川下りの旅にもチャレンジした。参加者の中には三人の障害者がいた。 「一番変化したのは知的障害の方でした。最初はずっと眠りこけて何もしない。手伝わないし、食べるだけという感じでした。その彼が、旅の終わりには『何か自分にできることはないか』と聞いて廻り、自分から手伝えることを探して、実際に手伝うようになったんです。その変化を見て、障害者と健常者の世界が一つになったときに、何か奇跡が起きるように感じました」

 美奈の参加した団体は、アウトドアスポーツを健常者と障害者が一緒になって楽しもうという趣旨で、全米で活動している。しかし、専門的な知識のない若者が中心になっていた。やはり障害者のケアに対する専門家の参加が必要だと美奈は感じていた。  この体験が、美奈に健常者と障害者が一緒になってアウトドアスポーツを楽しむ方法を学ばさせるチャンスとなった。

 さらに、健常者と障害者の世界がひとつになったときに奇跡が起きると信じた時、北米大陸横断の旅が閃いた。二〇〇一年の北米大陸横断の旅という新しい夢を描き、美奈は今日も夢を追い続けている。(文中敬称略)
  

 
【宮崎美奈さんの書籍の紹介】
『何だってやれるさ オーストラリア大陸4200キロ車椅子横断』(あらき書店発行) 車イスでオーストラリアを横断した体験をまとめた手記です。宮崎さんは、現在もアメリカに在住です。
あらき書店の連絡先は、福岡県北九州市小倉北区吉野町1-14 電話093-952-6635です。



【筆者のプロフィール】 ながさわ のりたか
 1954年新潟県生まれ。民間シンクタンク、コピーライターを経て、現在ライター。仕事も自分の時間も楽しんでいる人の人物ルポが専門領域。最近は、中高年や若者の仕事観や会社への考え、手に職を付けての転職など自分のキャラクターを生かそうとする生き方にも関心あり。シルクロード、ペーパーロード、玄奘の求道の道、遣唐使の道、防人の道といった歴史・文物の足跡を調べて、人力で巡る旅をライフワークとしている。
  


 

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