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シルクロードからの手紙

山本 純也

1.タクラマカン砂漠の風景


  タクラマカン砂漠の北縁を東西に走る天山山脈。その峡谷を南北に削る開都河河岸に、タマリクスが群生していました。

  砂漠の風物詩といわれるこの植物は、中国語で紅柳と呼ばれ、5月になればうすい桃色の花を咲かせるそうです。これを遠くから眺めている分には、石灰岩で覆われた河岸にうすぼんやりと赤い塊があるように見えるのですが、いざ近づくと、砂漠の蜃気楼のようにたちまち色彩を失って、立ち枯れた黒い無数の棒に変わってしまいます。

  そこで視線をはずしてあたりをうかがうと、遠くの向こうに神秘的な赤い塊が、白い風景にぽつんぽつんと色をおとしているのに気づき、再びそれに惹かれて歩みはじめます。

  順光では赤く、逆光では黒く見え、太陽がもっとも高くなる時間帯には、短くなった自分の影法師を追うように、しだいに川上へと追いやられていることに気がつきます。

  赤い色を探して、イタチごっこでもしているようにうろうろと河岸を歩き回り、まだ春の訪れは遠いのだろうかと考えます。それでも、目を凝らしてみると、タマリクスの枝は1本1本紅色をしていて、その先端に、小さな赤い芽が生まれていました。


天山南路のオアシス都市・コルラで迎えた春節

  2月18日は、中国全体が、さらに赤く染まる日です。新疆ウイグル自治区を北と南に分ける、天山南路のオアシス都市コルラ。ここで、春節(旧暦の正月)をむかえています。平均気温約−1度。一時期の肩がこるような寒さは峠をこえ、足のつま先まではりつめていた気持ちも、心なしかほぐれた気がします。

  チョンジエ(春節)――。いかにも中国語らしい響きのする言葉ですが、爆竹や花火で厄除けをして神や祖先をまつり、新年を祝うという、お盆と正月を一緒にしたような行事です。爆竹でばら撒かれる赤い紙筒や包装紙の残骸、赤と金のちょうちん、対句の書かれた張り紙や横断幕……。この日は、町中が赤で覆われていくのです。

  17日の大晦日。「厳禁煙火」と大きく描かれた特設の花火屋に人だかりができています。爆竹は500g8.4元(約126円)、小さい花火は20個1〜4元(約15〜60円)、大型の花火は5〜40元(約75〜600円)、花火セットは400〜1700元(約6000〜2万5500円)ぐらいで売られ、バーゲン・セールのように紙幣と商品が飛び交います。

  中国で「ケー・エフ・シー」と、どこかの国の情報機関のように呼ばれているケンタッキー・フライド・チキンで店じまいの爆竹が終わると、ほうきを持ったおばちゃん4名がどこからともなく集まってきて、掃除をはじめています。

  「うれしいけど、仕事が増えるからねえ」そう言いながらも顔がほころんでいます。その笑顔は、店員ににぎらされた少額のチップのためではなく、春節のおかげということでしょうか。

  物乞いのおじさんも、小額紙幣で分厚くなった札束を片手に座りこんでいます。めでたい日とあって景気がいいようす。1元(約15円)の靴磨き屋も繁盛しています。騒々しい爆音が四方八方からぶつかってきます。

春節の風物、爆竹を求めてビルの間を右往左往

  それにも関わらず、いざそれを見つけようとすると、点在する高層ビルに反響するらしく、なかなか位置がつかめません。音は派手ですが、実際に爆発している時間はごく限られているので、駆けつけたときには爆竹の残骸だけが散らばっているということが多く、そうこうしているうちにまた別の方角から爆音が聞こえてくるといった具合です。

  市街戦かテロでも繰り広げられているかのようで、突発的に現れてはいなくなり、姿を消したと思えば目の前に潜伏していたりと、つかみどころがありません。ここコルラでも、赤い色を探して、右往左往させられているのです。


  「春節?アタシはキライよ。帰る家もないし、半月も仕事がなくなるのよ。お金かせげないじゃない」甘粛省蘭州出身の漢民族、布台(23歳)は、「ディスコで踊りまくるの。もちろんオール・ナイトよ」と化粧に余念がありません。「春節のときは、あなたみたいなビンボー旅行者はきっと食いっぱぐれるよ」町の中心部は、妙に整然としていて、人影は少なく、漢族のほとんどの商店や飲食店が閉まっています。

  当日は、日本の正月のように実家に帰って家族と過ごし、親戚を訪ねたりお年玉をあげたりするのが通例のようです。夜8時。市内中心部の人民広場を囲む行政機関に設置された大型モニターで、国営放送の歌謡曲が放映されています。妙に光を反射する派手な衣装をまとった10人もの歌い手と踊り手が次々と現れ、軽快な音楽とともに合唱します。漢族の集団の演奏が終わると、ウイグル族、モンゴル族、苗族と演目は続いていきます。

  コルラは不思議な町です。故城の土塊(遺跡)や、前涼時代の創建で鉄壁を誇った砦、幻の湖ロプ・ノールへと続くコンチェ(孔雀)河のほかに、とくに見どころは多くはないのですが、総人口約100万のうち、ウイグル族や回族といった「少数民族」が約44.4%を占めるバインゴル・モンゴル自治州の州都に指定され、市内にはモンゴル族もわずか1%未満が生活しているようです。


3種類の文字で書かれている役所の看板


  漢字、ウイグル文字、縦書きのモンゴル文字。行政機関の看板はびっしりと埋められています。町の中心と南部を南北に結ぶ「団結路」は、コンチェ河を境に北側は漢族、南側はウイグル族が多く、その市場には眩しいほどの原色で描かれたウイグル絨毯の間で、黄土色を主体にしたチンギス・ハンの絨毯が際立って見えます。多言語が飛び交う町。言葉だけに依存できない環境を強いられてきた人びとの柔軟性というのでしょうか、こちらの稚拙な中国語と互いの強い訛りにも関わらず、不思議と意思疎通に軽快さを感じています。

  コルラの南西約95km、タクラマカン砂漠を東西に流れるタリク河の畔には、ロプ人の末裔とされる人びとが胡楊樹に囲まれて暮らすそうです。北東約78kmにあるボステン湖の畔では、アシの農場で漢族、回族、ウイグル族、モンゴル族、カザフ族、キルギス族の季節労働者が、砂塵にまみれながら働いていました。

  北の天山山脈には、標高3000mの草原に移動式住居で遊牧生活をおくる人びとが住むそうです。その麓にあり、コルラの北東約86kmの和静県では、高い頬骨と鋭くつぶらな目をした人びとが、唾をとばすように話しかけてきます。ここでは彼らモンゴル族が多数を占め、ウイグル族や回族も片言のモンゴル語を操り、見た限りでも3つのチベット仏教寺院とモスクがありました。

  メインストリートと交差する繁華街の「東帰旅遊歩行街」には、チベット仏教の仏塔とイスラム教のモスクを模倣した真新しい建物に、各民族の飲食や衣服、家具などの店がところ狭しと並んでいます。「共祝全州各族人民節日快楽」人民広場の大型モニターに、こんなスローガンが映し出されました。

  これら民族の数を思えば、共通の祭りを催し、誤解を恐れずにいうならば、外に敵をつくるということさえも、国家の分裂を未然に防ぐひとつの自衛策として、ひどく必然的なことであるかのようにも思えてきます。

漢族。ウイグル族、モンゴル族、それぞれの「新年」

  漢族たちは12月25日の「聖誕節」に赤と白の三角帽子をかぶり、1月1日の「新年」をみなでカウントダウンし、2月14日の「情人節」で女性にバラの花やチョコレートをプレゼントしています。ウイグル族は、旅人たちの幻想を軽やかに裏切って西洋風の衣装を装い、3月21日の春祭りよりも中国の正月を祝います。

  モンゴル族のチベット仏教僧たちは、薄暗い寺院で読経の合唱を終えたあと、骨付きの羊肉にかぶりついてビールとタバコで歓迎してくれました。

  18日午前0時。花火と爆竹が次第に勢いを増してきます。さきほどまでがテロか市街戦なら、こんどは空襲です。火薬のにおいで呼吸が困難になります。すさまじい音と光、におい、色です。アパートの住人たちが地上におりてきて、いっせいに爆竹をはじめます。空はもうもうとたちこめる煙で霞み、それに白、黄、緑、赤の爆光が乱反射して地上を照らします。爆音に触発された車の防犯ブザーが電子的な警告音を発し、何台ものハザードが同時にせわしなく点滅します。

  はしゃいで花火を頭上で回転させる子ども、うなりをあげて走り去っていく消防車、腕を火傷して病院に運ばれていく若者、上階の部屋の窓から花火を発射する住人、置き忘れられた花火を拾い集めて売る親子、耳を覆ったまま立ちつくす女の子、クラクションを轟かせてしきりに巡回する客待ちのタクシー……。

  町は爆竹がまき散らす赤い紙筒や包装紙で覆われ、うす暗く静かな部屋にたどり着くと微かな耳鳴りがします。窓ガラスの向こうからは、午前3時になっても機関銃のような連続音がいまだに続いています。「イイこともイヤなことも、すべて消してくれる。全部オシマイにして新しい年のはじまり」皮肉屋の不良娘、布台が大げさにため息をついて、こんな意味のようなことをいいました。

  すべてのことが、騒々しい爆竹の破裂音と赤と金の装飾のなかで融和され、しだいに形を失っていくような心もとなさのなか、2008年の北京オリンピックに向けて、高層ビルが次々と建てられ、新しい都市が着々と造られていきます。


シルクロードの旅は、「縦横に入り組んだ歴史への旅」を実感

  正直、シルクロードを旅してみて、縦横に複雑に入り組んだ長い歴史について、深く理解できないままに旅を続けています。それでも、いま、『週刊シルクロード紀行』にあった長倉洋海さんの言葉を思い出しています。「幾多の民族が交差し、富をめぐって戦火が絶えなかったシルクロード。戦いのなかで消えてしまったものがたくさんあるが、人びとが受け継ぎ、残したものがたくさんある……歴史の一瞬一瞬が人びとの表情にいまも宿り、息づいている」。

  明日の朝、砂漠公路を縦断して西域南道のオアシス都市チャルチャンに向かいます。住みなれた町を離れ、またゼロからのスタートです。昨年の身内の不幸で新年の挨拶を控えましたこと、海外にいるためにE-MAILで送信していますこと、たまのMAILにだらだらと長文を書き連ねていますこと、ご容赦ください。

2007年2月19日中国、新疆ウイグル自治区、赤に染まる春節のコルラで。              山本純也


ご無沙汰しております。山本純也です。

 昨晩、春の嵐が吹きました。食堂を30分ほどで出ると、あたり一面にぼんやりともやがかかり、生温かい風がひゅうひゅうと吹きつけ、乾いた砂の匂いを運んできました。今までも、それが鼻の奥底にへばりつき、妙なむずがゆさが残っています。

 最高気温、約20度。心地よい季節の到来です。胡楊やポプラに薄黄緑色の若葉がおどり、タマリクスに薄桃色の花がひらき、梅の花が満開です。東京も、すっかり春日和とのこと。いかがお過ごしでしょうか。
 旅に出て、5カ月半。当然、もう、まだ、・・・・・・中国にいます。それもそのはず、ウルムチの南西に「アジア大陸中心地」の碑が立っているのですから、距離的にはすでに半分以上をめぐった計算になります。中国は、広大です(といって、自分を慰めます)。

 ミーラン、チャルクリク、チャルチャン、ニヤ、ホータン、ヤルカンド、カシュガル、タシュクルガン、クチャ・・・・・・。前回のメールから2カ月近くが経っていますが、南新疆を時計回りに一周するようなかたちで、再びコルラにもどってきました。

 3月21日のナウルーズ(春分祭り)には、カシュガルから国境を越え、キルギスタンのオシュにも立ち寄りました。

 これから、北のバインブルク、イリ、アルタイなどへ足をのばし、ウルムチからシ
ルクロード特急に乗って、カザフスタンのアルマトゥイに向かいます。


バックパックの底に残ったものは何?

「盗難にあいたい――」
 たまに、そんな妄想にとり憑かれます。

 砂漠の直射日光にさらされながら、肩に食いこむバックパックを絶望的に眺めているときに、よく思う。今晩の寝床のベッド・シーツの清潔さと、薄い財布との相談に折りあいがつかず、ひたひたと成長していく影法師をぼんやり見つめながら、考える。うさんくさい地元民たちが持ち前の好奇心でいつまでもまとわりつき、気狂いじみた叫び声にうんざりしながら、妄想するのです。

  だから、バックパックは軽いほうがいい。でも、荷物が少なければ少ないほど、不便になってしまいます。軽量化と利便性。これらを天秤にかけて不必要なものを捨てていくと、最後に残ったものに、人それぞれの性格や趣向が現れます。大げさにいえば、バックパックは取捨選択の小宇宙であり、その中身は持ち主の内面をうつす鏡でもあるのです。

  たまに、バックパックの中身を、ひとつひとつと確認することがあります。Tシャツ2枚にジーンズ1着、帽子も兼用のタオル1枚、身体や頭、汚れた衣服も洗濯できる石鹸1つ……。数々のライバルたちを蹴落としてきた精鋭部隊がならべられていきます。けれども、その奥底を探っていくうちに、どこそこの観光名所で衝動買いした量産製のみやげものだの、誰それにもらった思い出の品だのといった“大切なガラクタ”が無造作にしまいこまれているのを発見し、しばし呆然とすることがあるのです。

 いま、バックパックの奥底に眠っているものがあります。


大小の玉石を囲む黒ずくめの8人の男

 西域南道のオアシス都市、チャルチャン。崑玉歩行街にある広場で、「卵割りゲーム」を見ていたときに、ことは起こりました。

  2人のプレイヤーが、ゆで卵の先が尖った方と丸い方を交互にぶつけあい、より多くを割ったほうが勝ちというルールなのですが、これを野次馬10人ほどと審判兼得点係が取り囲み、白熱した試合が展開されていました。ゲームで使われたゆで卵0.5元(1元は約15円)を、かじりかじり観戦していていると、
「おいおいおい、ちょっと来てみろよ」

  顔中ヒゲだらけのウイグル人が、秘密ありげに手招きしています。黒い革のジャケットに黒いズボン、黒い髪に黒いヒゲ。まわりを黒づくめの男8人が取り囲んでいます。

 そのとき、入念に卵選びをしていた青年が、卵15個抜きの偉業を成し遂げたところで、誰それの最高記録を上回るかどうか(はわからないけれど)で、最高に盛りあがりを見せているところでした。

 でも、こちらも野次馬の男たちにもまして暇でしょうがないので、警戒しながらも、黒づくめのヒゲ集団に近づきます。すると、大小さまざまな鉱石が、麻のゴザにならべられているのです。

  顔中ヒゲだらけの男、スーレイマン(42歳・厄年、無職)は、それらには目もくれず、内ポケットを探って、何かを取り出そうとしています。

「ユウェだよ。シャンシャンツァンだぞ」

――You? しゃんしゃんつぁん?
  「善王国産だよ、楼蘭も知らねぇってのか? おい」

  透きとおるような白い鉱石を、もったいぶってみせます。こちらも、楼蘭に少しでも近づこうとしてこの地域を訪れたものですから、いきなりそれが鼻先を通り過ぎていくのに、ひどく心を引かれました。
スーレイマンは、目尻に皺をよせ、至福の表情。目に入れても痛くない。そんな様子です。ひととおり掌でもてあそぶと、名残惜しそうに手渡します。

  「いくらかって? いやあこればっかりは売れねぇよ、オレのタカラモンさ」
そこで、こちらも負けじと、町の南西6kmにある且末古城の近くでひろった白い石を取り出します。そこには、数多くの鉱脈が眠る崑崙山脈のムスターグ山(6973m)から流れ出た、チャルチャン河の乾いた河床があったのです。「なんだこれ、ただの石っころじゃねぇか」スーレイマンは、一瞥するなり馬鹿にした顔。となりにいた10歳ぐらいの子どもまでが、できの悪い子を諭すようにいうのです。
「ぼくだって探すのに苦労するんだよ。それが、昨日今日きたヤポンに見つけられるわけないじゃない。そうでしょ?」


  こうして、軽い挫折のもとに「玉(ぎょく、中国語でユウェ)」探しの旅がはじまりました。

 玉には、硬玉と軟玉があります。硬玉は翡翠の一種で、西域南道で採れるのは軟玉。透明度とまばゆさは硬玉に劣るそうですが、潤いがあり、磨くと油脂のような光沢を発します。ここチャルチャンも、最古のシルクロードとさえいわれる「玉の道」のオアシス都市で、古代世界では、この道を通じて民族の交流があったといいます。

  約609km西方にある玉のメッカ・ホータンを起点に、西はヤルカンド、カシュガル、カブール、イスファハーン、バクダット、東はチャルチャン、チャルクリク、西安へと続いたそうです。

  楼蘭は、中継貿易都市として繁栄。漢代(前202〜220年)には敦煌の北西約102km、唐代(618〜907年)には東方約150kmに関所が造られました。当時の国威がおよぶ最西端。ここを越えれば、いよいよ異民族が徘徊する西域。そこに「玉門」という名がつくほど、西域を象徴する存在だったのです。
玉は権力とも深い関わりがありました。崑崙山脈に源を発してホータンを流れる三河川では、それぞれ種類の異なる玉石が採れ、秋の渇水期になると、まず国王が良質の玉石をひろい集めたと伝わります。中国では、国の専売品として玉交易の利益を牛耳っていたようです。

  玉には、悪霊を払いのける呪力がある。そう信じられました。そのため、粉状にして不老不死の薬として飲んだだとか、神霊と接するときの媒介としてつかっただとか、遺体の腐敗を防ぐために身体のありとあらゆる穴につめて葬っただとか、いろいろと珍奇な話が出てきます。あげくの果てには、何千もの玉板を金の糸でつないで、埋葬用の玉衣までつくっちゃった皇帝もいたようです。

  中国にはこのような信仰がいまでも残り、町のいたるところに玉製品が見られます。これらには、さほど感銘を受けなかったのですが、はじめて原石に触れたとき、中国人たちの玉狂いに共感しました。表面の不思議な艶っぽさ。内側からじんわりとしみでる奥ゆかし「ほのかな光。例外にもれず、玉の呪力に惹かれました。

  「いいか、ようく聞け」

 まずは、先輩であるスーレイマンの講義を受けます。とくとくと話す内容を簡略にまとめてしまうと、

1.玉の道は1日にしてならず

2.玉とは何ぞや

3.玉の見分け方、ことはじめ

という、ためになるような、ならないような、抽象的な講義が続きます。
一口に玉といっても、さまざまな種類があるようです。

「これが羊脂玉で、これが白玉、黄玉、青玉、碧玉、黒玉。ほかにもあるぜ。これが子玉、これが金叶玉、秀玉、青白玉、糖白玉……」
――いったい、全部で何種類あるの?
  「とにかく、いっぱいだ」
  知らないわりに、快活で少し得意気です。もっとも、同じ玉石をとっても、人によって判別はまちまち。だいたいが色の特徴を基本に、各カテゴリーにあてはめているような具合です。言語的に言い表す(創造する)ことができる分だけ、玉の種類がある。そういった感覚でしょうか。
――最も高価な玉石は?

  「そりゃあ、モノによって違うもんさ。見てみろ」
  ――ここ?
  「そうそう、ここ、ここ。いいだろう。な? まるで龍だろ?」

  透き通った白玉のなかに、濁った茶色の塊が浮かんでいます。なんだか、羽の生えたミミズのように見える気もしましたが、とりあえずは感心してみせます(同時に、さきほどの質問に対して話をはぐらかされたようにも思えてきます)。

  一般的に、透明度の高いものほど高値で取引され、それに希少性、付加価値といった要素が加わります。主観をつけ加えるならば、素人目に見ても、きわだって美しいものには、それなりの高値がついているようです。

  「で、問題は、これがどこに落ちているか、だ」

  講義はいよいよ佳境に入ります。でも、気をつけなければなりません。少し油断をすると、

4.玉を探そう(応用編)
 だったはずが、

5.オレさまは、いかにして玉を手に入れたか(番外編)
という武勇伝になってしまいます。そのたびに、話を戻さなければなりません。
――で、どこでとれるの?

  「この広大なゴビ灘からひろってくるのさ」
  その土地すべてが我がもの、といった顔です。
  ――崑崙山脈やアルティン山脈のも有名だって聞いたけど?
  「ここチャルチャンのゴビ灘のが、いちばんに決まってらぁ」
  少し、バツが悪そうに顔をしかめます。
  「昼もいいけどよ、夜もいいぜ。いいか、月のない夜に歩くんだ。そうすっと、視界のどっかで一瞬なにかが光るんだ。そいつが、玉石ってわけさ。3年前にオレがゴビ灘を歩いていたときもよぉ……」

 話が再び脱線しそうなので、このへんで退散しようと思います。

  まわりには、10〜15もの黒づくめの輪ができています。それぞれが、太陽光に透かしたり、息を吹きかけて表面をこすったり、金属の棒で表面に傷をつけたりして、鑑定に励んでいます。

  そのなかで、ひときわ大きな人だかりがあります。見るからに金持ち、栄養過剰、身なりのこぎれいな漢人旅行者の親子です。父親とそっくりの顔をした息子が、ものほしそうな顔を隠しきれずに、「これ、いくら?」と尋ねています。

  ウイグル人の売り手は、「えっ、いくらなら出せる? キミがいいなよ」と小手調べ。何度聞かれても知らぬ顔、売り手のほうが一枚上手のようです。
やっきになった漢人、「じゃあ、10元」。それでも取り合わないウイグル人。劣勢に業を煮やした漢人、「15元」と譲歩。ウイグル人、視線をあわさず「30元」と初の提示。日ごろから仲の良くない両者、空気は殺気だってきます。

  「じゃあ、あいだをとって20元だな」

  漢人、強引に決着をつけようと懐の財布を探ります。ウイグル人、そっぽを向いてうなずくような、うなずかないような、あいまいな様子。この時点で、少なくとも正規の料金には達していたはずです。そんな余裕が、顔からにじみでているのです。

  しかし、最後の最後で、ウイグル人の顔がくもります。日ごろの無駄づかいがたたってか、漢人の出した50元札に、つり銭がありません。まわりを囲む野次馬のウイグル人たちに助けを求めましたが、彼らのポケットの中身(おこづかい)もさみしいらしく、誰も両替できません(実はこのとき一緒になってポケットを探りましたが、残念ながら状況は似たようなものでした)。結局、漢人の財布にあった「18元」で交渉終了。両者痛みわけ、といったところでしょうか。

  同時に、別のウイグル人と交渉を進めていた漢人の父親は、コブシ大の玉2つで「70元」。しかし、ウイグル人はそ知らぬようす。しまいには、まわりから入った野次に怒り出し、こちらは決裂したようです。
 交渉が成立した18元は、ウイグル人たちがレストランで日常的に食べている手延べ麺ラグメン3〜6杯分ぐらいで、彼らにとっても法外な大金というわけではないはずです。

  だいたい交渉に際して、金額を提示しない売り手は相手にせず、決してこちらからは具体的な数字を言ってはいけない、というのが買い物の鉄則ですが、こんどばかりは、彼ら売り手の気持ちが、痛いほどよくわかるのです。

 スーレイマン風に言えば、「オレの自慢のコレクションがそんな価値だと。そんな態度じゃあ、ゆずれねぇな」といった具合です。つまり、「高く売れれば、しめしめだ」という金銭欲に増して、「オレのタカラモンはすげぇだろ。認めろよ、おい」という自己顕示欲が働いているのです。まるで、子どものコレクションです。

  言いかえるならば、「オレのオンナって、すげぇキレイだろ」といった感じで、やはりこれも男たちの大好きな自慢のひとつです。「上等の玉(たま)」という言葉がありますが、スーレイマンが男の子になってしまうように、玉のもつ艶っぽさが、妙に女性を連想させるのです。

  辞書によれば、「珠に対して、美しい石をいう」「石の美しく貴いもの」。つまり、「石は石なんだけど、なかでもちょっとキレイなやつ」ということで、定義はあってないようにも思えます。美しさの基準は人それぞれ。たくさんの美に囲まれ、あの人も美人、この人も美人とやっているうちに、「俺はぽっちゃりが」「でもやっぱり白い肌が」「いやあ鼻が低いほうが」という具合になっていき、希少性とか、付加価値とか、趣味の領域に入っていくのです。

  そういった曖昧な基準なので、同じものをとっても、人によっては玉であり、人によっては玉でないということもありえます。「あの玉石の匠、メイメイティーさんが言うんだから、これは玉だろう」といった感じで、誰それだかの基準にある「美しい(女)か否か」によって判断されてきた部分が大いにあるのです(科学的な定義は別にして)。ともかく、玉は女性に喩えるとぴったりくるのです。

 疲れ果てて、宿に帰宅。すると、一見何の取り柄もなさげな主人が、急にインテリ風になって、「さっき、キミを広場で見かけたよ。ちょっと私のアレもみていくかい?」戸棚を空けると、大小さまざまな玉が一面におかれています。

  「わかるいかい? 一般的にもっとも高値がつくのが、羊脂玉。次は白玉で、次は碧玉、青白玉、青玉。でも黄玉は希少だから、ときに羊脂玉を上回る。供給の多い黒玉は安値になりがちだけど、これもものによっては高値がついたりするんだね」

  ここでも、玉談義は続きます。「で、キミのは? ははあ、これは石英だね。つまり石だよ、玉じゃない」そのやりとりを、主人の妻は「これだから男は」という顔で、遠巻きに眺めています。

チャルクリクの玉石を鑑定依頼

 チャルチャンの東方352km、タクラマカン砂漠の東端にあるチャルクリクでも、いくつもの黒づくめの輪ができあがっています。そのなかで、後輩たちに叱咤激励している「玉山百貨商店」の主人メイメイティー(84歳)に、こんどはチャルクリク河で発見したきれいな石を見せました。すると、「こりゃあ単なる石ころじゃないか。しょうがないね、これも勉強のうちじゃろう」と、こぶし大の黒玉とピンポン玉大の白玉を握らせてくれます。

  チャルクリクのさらに北東約90km、鄯善王国の都城ミーラン付近のゴビ灘では、白茶けた砂礫のなかで、冷たく透明な光を放った秘蔵の石を見つけました。こんどこそは、絶対、玉石に違いない。そう思いました。

  ロプ人王3代目の末裔と噂されるラフマン(2006年1月逝去)宅で、その近所に住み、「私のひいおじいちゃんもロプ人よ」と、さらりといったハイリーチェン(25歳)に自慢すると、ひと目見るいなや後方にむかって投げ捨てました。あわれ秘蔵の石は、ラフマン宅の土壁にかわいた音を立ててぶつかって、無残に落下しました(あとで、それを秘かにひろいあげているところをラフマンの奥さんに目撃され、告げ口されてしまいました)。その代わり、あとで青玉2つを「仕方ないわね」という感じでくれました。

  これらをスーレイマンに鑑定してもらうと、確かにどれも玉石だといいます。念のため、秘蔵の石(「東陵石」というらしい)を見せてみると、「価値ないよ、こりゃ」とゴミ同然。別れの際に、卒業記念とばかりに小指のツメ大の黄色いゴビ玉を手渡してくれました。

  こうして挫折は続き、それに反して玉石は次々と増えていきます。価値があるといっても石には違いないのですから、重さもそれ相当あるのです。 

ホータンの玉石探しは「一攫千金」か?

 玉探しの最終目的地は、玉石のメッカ・ホータンです。
ここでは、ビジネスの色合いが濃厚です。はるかに高値で取引され、「本気」「根こそぎ」「一攫千金」といった雰囲気が強くなります。

  2005年10月にリニューアルしたばかりの和田博物館。展示された21の玉製品のうち、青銅器時代(前21世紀頃〜前3世紀頃)の小さな青玉の斧があるほかは、残りの20すべてが清代(1694〜1911年)のもの。年代ものの遺物はすでに世界各地に散らばってしまったのか、あるいは民衆が家宝として手離さないということなのか、玉のメッカにしては、きわだったものが見当たりません。

  ウイグル語で「石の市」を意味するタシュ・バザール。ホータンの東方約6kmを流れるユルンカシュ(中国語で白玉)河東岸には、玉売買を専門とする市場があります。売り手の99%がウイグル人。少しでも安物の玉石を高価に見せようと、油で化粧をほどこした品々がならぶ露店や、各々の獲物でポケットをじゃらじゃらとふくらませた売り手と買い手、野次馬たち(彼らはときとして、その全部になりえます)がひしめき、その人だかりを目当てにしたハミウリやナン、羊肉の串焼きの屋台が点在します。そのあいだを、石炭を山盛りにしたトラックや、超満員の公共バス、ロバ車、三輪タクシー、バイクなどが通るものですから、慢性的な渋滞が続きます。

  露店をほったらかして、どこかで世間話をしたり、屋台で軽食をとっている売り手もいます。大混雑のなかのこと。大切な玉石を、いつどこで盗まれやしないか。そう心配していたら、やはり事件は起きました。
「不行! 不行!」

 売買のようすにカメラを向けていると、厳しく咎められたのです。

  珍しいことでした。イスラム教徒といっても、写真好きの彼らのこと。敬愛するコレクションを自慢したい彼らのこと。普段ならむしろ歓迎されるぐらいなのですが、この日だけは違いました。

  輪の中心に、ヒステリックにわめく35歳ぐらいの男とうなだれた少年が見え隠れしています。少年は15、6歳。目はぼんやりと地面を映し、膝はガクガク、力なく震えています。

  「こいつが、オレの玉石を盗ったんだ」

  男は自分の発した言葉に触発されるように、その怒りをむくむくと膨張させます。少年の襟首をつかみ、ひとさし指を額に突きたて、ひときわ大きく、大げさに怒鳴り散らします。

  興奮は頂点に達し、それは報復という形にとって変わりました。首根っこをつかんで、建物の裏側へと連れ出します。少年は、覚悟を決めたように、されるがまま。同時に、人びとも流れました。黒づくめの野次馬たちは、雪崩となって2人を追い、市場の10分の1もの人が消え去りました。わめき、はやしたて、噂が飛び交うなかで、輪の中心から罵声と人を殴るような鈍い音が聞こえてきます。

  報復は続きます。建物の暗がり、路地の一角、河原の広場、河畔。見せしめとばかり、次々と場所を変えてくり返します。そのたびに、雲霞のような黒い塊が移動していくのです。

  「5700元の玉だったらしいぞ」

  はじめは具体的な数字だったのですが、10分後には「7000元もしたんだって」になり、20分後には「1万元だってよ」。話は、どんどん膨らんでいきます。少年が顔を真っ赤にして泣きじゃくるころには、「200〜300万元もしたんだ」。数字は一気に飛躍し、しかもかなり大雑把になっています。

  先ほどまで温厚だった50歳ぐらいの男が、興奮に唾をとばします。

  「これは、していいことだ」
殴るジェスチャーをして、さかんに親指を立てます。制裁は正当なこと。今回の事件に部外者であるはずの男までが、ことを荒立てようとするのです。

「これは、“ハン”の問題だ。君らにも“ハン”はあるだろう?」

ハン(行)――。この言葉の起源は、中国の隋唐時代(581〜907年)以前にまで遡ります。当時の都市は、国によって薬や酒といった各商業を地域ごとに区画され、それらを薬行、酒行といったように呼びました。唐末になると、規制が崩壊。商人たちは、自主的に西洋でいうギルドのような同業組合、ハンを新結成しました。イスラム社会の、しかも田舎なら、なおさらその結束は強いものになるでしょう。裏切りは重罪です。

同時に、海外の華僑たちが相場の安定した金を売買する「金行」、通貨を取引する「銀行」があるように、彼らウイグル人のなかに、「玉行」という概念があるのかもしれません。玉は財産であり、貯蓄である。ハンという言葉は、彼らの玉信仰を強調する言葉のようにも聞こえます。

見せしめとしての制裁。一見野蛮にも思えることですが、これが、彼らの流儀です。長い伝統に培われた、掟と秩序。礼儀と道徳。規則と約束。そういったものがいっしょくたになって、外部の人間の軽々しい批判を拒んでいるかのようです。

 電子的なサイレンの音が響きわたります。騒ぎを聞きつけたパトカーがやってきたようです。取調べは、路上での簡単な事情聴取のみ。窃盗未遂をした少年も、暴行をくわえた男も、ともに無罪放免。彼らの流儀をまえに、公安すらも容易に立ち入れない、ということでしょうか。パトカーの甲高いサイレンとともに、付き添いに肩をあずけた少年は、びっこを引きながら、夕暮れの村へと消えていきました。

 遺跡にぎりぎり迫る玉石探しの欲望

  翌日は、ユルンカシュ河の上流へ。玉の採掘現場を訪ねます。

  ホータンの南方約25km、マリカワト村へ向かう毎朝1本の公共バスは、シャベルやクワなど、それぞれの獲物を手にした男たちで超満員。一攫千金の夢を乗せて出発します。

  河原では、「根こそぎ組」たちが、爆音を轟かせています。さながら、工事現場。何台ものショベル・カーを動員し、掘りおこした石をばら撒き、その小山を丹念に探していきます。昼食は、ニンジンとタマネギの炒めものに、オムレツとナン。5人が就寝と煮炊きをするテントが点在しています。少なくとも機械代と燃料費を稼がなくては、大赤字。彼らは、いたって本気なのです。

  別グループのショベル・カーが掘りかえした跡を、子細に探していく「おこぼれあずかり組」の姿もあります。「手作業組」も健在で、1万元の羊脂玉を発掘したという家族が7人がかり。シャベル片手に、人海戦術で掘り進めます。

  「のほほん組」もいます。失業中で肩身のせまいお父さんが、タバコを買うのを理由に家を抜け出すように、玉探しは外出の格好の口実になるわけです。こんな形で玉散歩、玉デートをしゃれこんでいる人びともいるわけですが、いずれも足元を気にして、下を向きながらの散策です。

  河原はひっくり返されて穴ぼこだらけになり、わきには小山が盛り上がり、そこに目印に立てた石が置かれ、半分に切り落とされた石が捨てられます。近くに、遺跡があるのですが、この四囲にめぐらされた鉄条網の、ぎりぎりまでが急峻に削られていきます。人びとのおもいおもいの夢と希望と欲望が、やがて遺跡を侵食してしまうかのようです。

  「日本から来たって? これを、おみやげにするといいよ」
マリカワト村の青年ワイバンヌサー(32歳)は、苦労して発掘した白玉を、いとも簡単にくれました。
これが、続きます。「手作業組」の家族に、82歳の老人に、玉デート中の男女。糖白玉に、小さな白玉に、青白玉・・・・・・。彼らを観察していくうちに、これらを、次々にもらい受けてしまったのです。

  こんなはずではなかった。そう思うのです。かといって、せっかくの好意。簡単に踏みにじれるものではありません。夢と希望と欲望。その結晶が、これらの玉石なのです。スーレイマン風にいうと、「オレの自慢のオンナの価値を認めないだと。いい度胸じゃねぇか」という、激しい侮辱にもつながるわけです。理由はさておき、これで、さらに荷物は重たくなります。

  ここで、再び事件が起きました。なにげなく河原を歩いていたときのこと。
――視界のどっかで一瞬なにかが光るんだ

  突然、スーレイマンの言葉が、フラッシュバックしました。それと酷似した状況に、遭遇したのです。
一瞬のことでした。鈍い光が、ちらりと輝き、消えました。反射した太陽光。河原を埋めつくす、白い石からでした。その、どこからか。あたりを見回し、ひとつひとつをじっくりと見定めました。少しずつ視線をずらしていくと、再びわずかな光。水たまりのなかに、それはあったのでした。

  取りあげると、ずしりと重い。コブシ2個分ほど。表面は、白く透明。油をぬったような、不思議な光沢。内側からしみでる、うすい緑色の光。何より、その艶っぽさ。

これは、あるいは・・・・・・。スーレイマンの自慢げな笑顔が、脳裏をよぎります。

――そいつが、玉石ってわけさ。

 ホータン中心部にある団結広場。周辺に漢人たちが営む玉器店がならびます。そのひとつ、「鼎玉軒」で37歳の女性・楊燕(仮名)、いわゆる玉のプロに鑑定してもらいました。1日に100人近くのウイグル人が玉石を売りにくるそうで、片言のウイグル語を解します。

 マリカワト村でもらった白玉は100元、青白玉は15元、小さい白玉は10元、糖白玉は50元。ミーランの青玉は30元と3元。そして、スーレイマンがくれた卒業記念のゴビ玉は1元・・・・・・。

  「残り12個まとめて、10元ってとこね。ほんらいなら値はつかないんだけど、まあオマケね」

  そして、問題の、ユルンカシュ河でひろった石――。信じがたいことに、価値は、
「没有」

  ふり返れば、自分で発見したもので価値のあったものは皆無です。それでも、玉石は増えていくばかり。いま、バックパックの奥底に眠る玉石は、総計219元。日本円にして約3285円の価値です。それに比べ、重さは約2.22kg。そのうち、ユルンカシュ河でひろったものが約1.28kg。生後3ヵ月頃の子犬を抱え歩いているようなものなのです。

  けれども、重要なのは金銭的な価値ではないのです。楊燕も、こういいます。
「金や銀には1kgいくらって相場はあるけど、玉に定価はないの。たとえば私が『没有』といったこれは、私にとっては価値がなくても、あなたにはあるわけでしょ? そこが玉の面白いところね」
こうして、誰それにもらった“大切なガラクタ”は手放すことができず、自分で拾った本当のガラクタまでも、なかなか捨てることができません。それを町から町、国境から国境へと、後生大事に抱えもって運びます。いっそ盗難にあってしまえば、どんなに楽か。たまに、そう妄想するのです。

*   *   
  作家、藤原真也氏はインドで聖人のような乞食のような巡礼者サドゥーと会し、その埃まみれのズダ袋の中身をひとつひとつと取り出したことがありました。すると、生活必需品がほんの少しとガラクタ、そして、その奥底に干からびた花びらを見つけたといいます。

 これに、作者は次のような意味の、かくも美しいオチをつけました。

「世捨て人たちが俗世で生きていくために必要なものを少しずつ捨てていき、最後に残ったもの――、人間が生きてうえで必要不可欠なものは、家や服、食べ物ではなく、富や名誉でもなく、……それは一輪の花だった」

*   *   

  重たくなったバッグパック。その奥底にしまいこまれた“大切なガラクタ”もそう
いった類いのものなのです。本当にそうだといいのだけれど。

  2007年4月16日 
中国、新疆ウイグル自治区コルラ、重たくなったバックパックに悩みながら
山本純也


ロシアの不意陰気の漂うイリの街

  天山山脈の北麓、カザフスタンの国境付近にあるイリ(伊寧)にいます。ここは同じ新疆でも、未踏の中央アジア文化圏、つまりどこかロシア的なにおいがします。

  町の中心部は5、6階の建物がならぶ中国的なつくりで、見た目は他の都市と大きく変わりません。もっとも、写実的な文様を濃厚な色づかいで描いた絨毯や、顔立ちの異なるカザフ人たちを目にしますが、もっと根源的なものが違うのです。

 空気が違う。そうとしか、いいようがありません。

 天山山脈南麓のコルラから北西へ。砂漠地帯から山上の草原地帯、そして3000m級の峠を越えると、山肌に鮮やかな牧草が覆い、針葉樹林が生い茂っていました。

 いま、「草原の道」に入ったのです。

 最高気温、28度。洗濯物が、すっかり乾く。これだけのことで、生活が円滑にまわりはじめるのですから、旅とは不思議なものです。

 
タリム盆地さいはての地、カシュガル。

  町を南北にわける人民路の周辺に、行政機関が集中しています。威を振るう巨大な毛沢東像、真一文字の三車線道路、ゆるぎない長方形の大広場。ここに、中国で「超市」と呼ばれる、スーパー・マーケットがありました。

 民楽福。めでたい漢字があてられた、フランス外資の大型店舗。これが中国全土に急速に広がり、そのつくりを模倣したものが、軒並み増えています。

 傾斜のゆるやかな細長いエスカレーター、多売をうながす巨大なショッピング・カート、見わたすかぎりの商品群と定価の値札・・・・・・。ここにくれば、何でもある。そう、ウイグルの青年がいったように、急成長をとげる、中国の豊さを象徴するようにも思えました。

 ここは、何より便利な場所でした。多種多様な商品から必要なものを選び出し、流れ作業的に買い物できる。それでいて、七面倒くさい金額の交渉をする必要もなく、つたない言語能力で会話することなく、与えられた定価に満足して、買い物できる。一旅行者として、非常に重宝していたのです。

 作家・小田実氏は、アメリカのスーパー・マーケットを題材に、その衛生的で、無害無益な匂いを、クスリ屋に喩えました。同時に、その画一的なつくりから、「誰もが同じものを食べ、・・・・・・同じふうに行動する」という、アメリカ全体の雰囲気をにおわせました。半世紀も、前のことです。

 ここ中国で目についたのは、嗅覚の匂いというより、もっと単純な、視覚的な、違和感でした。

 影が、ないのです。

 天井にいくつも設置された蛍光灯が、真っ白な壁とぴかぴかに磨きあげられた床に反射し、ありとあらゆる角度から照らしています。

 すみずみに満たされた光。それは、広間の角という角、奥という奥にまで届いて微細な埃を浮き立たせ、均一にならべられた商品の立体感を損なわせます。

 流行りのTVドラマのような、非現実的で味気ない既視感。清潔さに相反する、化学的な不健全さ。しだいに、あるはずのない暗闇が、ブラック・ボックスとなって、ひたひたと膨張しているようにも思えるのでした。

 もちろん、これは中国のスーパー・マーケットに限ったことではありません。しかし、これと対照的なものが、北部のウイグル人居住区にあり、それを強調してみせるのです。
 旧市街、老城――。

 よくいったもので、丘の上にへばりつくように赤茶けた住居群が連なり、遠くからは砂漠の城砦のように見えます。

 日干しレンガを、玩具の積み木のように組み合わせ、積み重ね、形を整えたもの。これが、老城の縮図です。

 日干しレンガは家の壁になり、壁は家を囲む塀となり、塀は隣の塀と連なって路地を造り、路地や塀の上にもさらに家が積み重なり・・・・・、迷路のように入り組んだ路地と無数のトンネルを形成しています。

 細い路地では、近所の人びとが憩う小さな寄り合い広場が現われ、突如として袋小路が立ちふさがり、ミニチュアのようなモスクにでくわします。土壁には、細長い煙突がニョキニョキと突き出し、上下に開いた小窓から雑貨屋の小物が顔をのぞかせ、色鮮やかな扉がゆたゆたと風になびいています。そこを、子どもたちがゴム段で跳びはね、ハト飼いが旋回する群れを赤い旗で誘導し、女性たちが世間話に花を咲かせています。

 影があってこそ、光が強調される。老城を歩いていると、それがわかるのです。トンネルの出口を照らす正午のまばゆさ、モスクの絨毯に描かれたアーチ型の黒い模様、砂の路地に不似合いなビニールごみを塗りつぶす夕日影。

 暗闇は、聖域をつくります。両存する美醜を覆い、べールに包むことで、それを隠し、より際立たせているのです。日本の神社や寺の堂内にいるように、どこかなつかしく、本能的に落ち着き、それでいてひどく現実感を伴っています。

 ここに、自らに暗闇を課す人びとの姿がありました。スカーフやマスクで頭部を包み、わずかな隙間から、両目だけを露出させた覆面の女性です。

 その、きらびやかな色彩。砂漠の厳しい自然に立ち向かうようでもあり、砂一色の環境にあってこそ強い力を欲しているようでもあり、枯れた風景を調和しているようでもありました。それは、激しく照りつける直射日光になかでこそ、不思議と映えてみえるのです。

 スカーフの暗がりにひそむ、眼光の鋭さ。裾の広がったロング・スカートで強調された、足のゆるやかなライン。侵しがたい聖域。そう、思えてくるのです。

 どこまでも、とめどもなく満たされた光。それに力強く立ち向かうように、自らに暗闇をつくり、聖域をつくり、あやしく、秘密めいていて、ときに色っぽく映る女性たちの姿があったのでした。

2007年4月29日 
中国、新疆ウイグル自治区、町中に綿花が舞うイリで
山本純也