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敦煌ウオーキング
シルクロードで玄奘三蔵の足跡を巡る


    文・長澤法隆

2000年3月下旬から4月はじめにかけて開催した「敦煌ウォーキング」の様子をレポートします。

 シルクロードの中国側の玄関口として知られている敦煌の玉門関。漢の時代と唐の時代を比べると、玉門関の位置は東西に約200キロメートルも離れている。莫高窟で大量の古文書が発見されて100年目の年でした。砂漠の歴史に閉じ込められたロマンを求めて、唐の時代に玄奘三蔵が通った玉門関の遺跡を訪ねて、敦煌郊外の砂漠を歩いた。
 
 古くからシルクロードにおける東西交易の要衝として栄えた敦煌。数世紀に渡って栄えてきたこの砂漠のオアシスには、数々の遺跡が眠っているが、中でも世界的に有名なのは世界遺産リストに登録されている莫高窟だろう。直に切り立った絶壁に400を越える横穴が掘られ、その壁面には多くの佛教美術が描かれている。約1600年前、インドへ向かう求法の旅の途中で敦煌を訪れた法顕も、莫高窟の様子を記録に残している。

 そして、今からおよそ100年前の1900年、莫高窟を一躍世界的に有名にした発見があった。当時、莫高窟に住みついていた王道士は、いつもの癖で16窟の壁面の亀裂に煙草の吸いさしを突っ込んでいた。すると、そのタバコがズブズブと亀裂に全部入ってしまった。壁を叩いてみると、コンコンと壁の向こうにも部屋があるような音がする。そこで、壁を壊してみると、中に大量の古文書が封じ込められていたのだ。こうして発見された古文書や経典によって、シルクロードにおける東西交易の歴史を紐解くことができる。そう考える研究者の注目を集めるようになり、敦煌は世界的に知られるようになったのである。
 

古文書発見100周年の敦煌ウォーク
 ところでわたしは、さまざまな歴史の道を調べて、歩き、見て、伝える活動を目的とした「歴史探検隊」を主宰している。日本国内では、防人の道ウォーキングとして、茨城県の鹿島神宮から福岡県の大宰府までを18回に分けて歩いたりしているが、敦煌文書発見100年目のこの年は、敦煌研究院の進めている莫高窟の壁画や古文書の研究や保存のために寄付をする『敦煌チャリティーウォーキング』を実施した。

 3回目の今年は、唐の時代、つまり約1400年前にインドへ仏典を求めてシルクロードの旅人となった玄奘三蔵の足跡を巡るウォーキングだ。参加者は、北は山形県から南は沖縄県まで、18歳から62歳までの12名。3月25日、搭乗したMU524便は機体整備の遅れで15時に成田から上海へ向かった。さらに飛行機を乗り継いで、上海から西安へ移動。西安へ到着したのは20時50分。1時間の時差を考慮すると、約7時間の空の旅だった。  3月26日、西安発敦煌行きの飛行機は朝の7時30分に離陸。上空から眼下を見下ろすと、朝日を浴びてオレンジ色に輝く黄土高原、美しい曲線を描く砂丘が広がっていた。

 敦煌へ到着したのは10時。10時30分に宿泊する敦煌賓館に到着後は自由行動として、 昼食後の15時、鳴沙山へ観光に出かけた。わたしは、左手の砂丘に登り、敦煌の観光スポットしてお馴染みの月牙泉を見下ろした。他のメンバーは、ラクダに揺られて砂丘の間を進む。ラクダから降りて砂丘に登る。そして、夕陽を待つ。太陽が傾いた時の方が、影が長く伸びて風紋の曲線が美しく浮かび上がるのだ。光線とともに変化する砂丘の風景をたっぷりと愉しむことができた。

  ホテルに戻っての夕食は18時30分。19時30分にはみんなで町に出て、屋台で包子を注文した。恐る恐る箸をのばし、一人一個づつ食べてみる。食べ終えるとお店の若い店員は「次にこれはどうか」と、他の種類の包子を奨める。新しい包子に順番に箸をのばし、ビールを飲んだ。市場や屋台で食事をするのは、土地の人たちの暮らしに直接触れたような雰囲気が味わえるので、楽しいものだ。
 
 

莫高窟周辺の見逃せない穴場
翌朝の8時過ぎ、突然停電になった。中国は、全国を北京時間に統一しているために、ここ敦煌では朝8時といってもまだ薄暗く、早朝の6時くらいの様子である。懐中電灯を持っていたのでトイレも洗顔も不自由なかったが、部屋の暖房は電気を利用しているため、室内の温度はドンドン下がっていく。朝食までベッドにもぐりこんで寒さをしのいだ。
 
  10時頃に敦煌職業教育センターの日本語学科を訪問し、一人が5冊の日本語の書籍を寄付した。家庭で眠っている本のリサイクル。それでいて、日本を理解しようという学生に役立つ。一石二鳥というわけだ。午後からは、世界遺産・莫高窟で参加者一人が3,000円を寄付。その後、窟を巡りながら、神戸大学へ留学経験もある女性研究者楊さんから流暢な日本語で説明を受けた。

  楊さんは、作家の故・井上靖氏のお気に入りの通訳だった。研究者だが、素人にもわかりやすい用語を使い、時代背景や昔の人々の生活にまで説明ははずんでいた。遥さんの説明によれば、敦煌文書発見100年目のこの年(2000年)の夏は、北京、蘭州、敦煌で国際シンポジウムが予定されているという。
 
  ところでわたしたちは今回、莫高窟の周辺に点在するさまざまな見所も見学することにした。例えば、100年前に敦煌文書を発見した王道士の住まいである。これは、敦煌文書が発見され17窟のすぐ前にある。そして、莫高窟の入口、大泉河にかかる橋の手前にある王道士の墓。さらに、敦煌研究院の初代所長を務めた常書鴻氏の住まいは、莫鴻窟でももっとも大きな仏像のある25窟の近くにある。

  そして、大泉河を挟んで東にある丘の上に眠る敦煌研究院の研究者や職員のお墓も参拝した。大泉河を下って北に役500m進むと、莫高窟と並んだ絶壁にも窟が見える。これは、役1,000年前に窟の壁面に佛教画を描いた画工の住まいであったと伝えられているものだ。
 
  ツアーに参加して敦煌の莫高窟を訪れる多くの観光客は、莫高窟を観光するといえば、莫高窟そのものしか見学しないであろう(というか、周辺を案内されることがない)。だが、莫高窟の周辺には、壁画の研究を通して、ユーラシア大陸の東西を結ぶシルクロードの歴史を明らかにすることに人生をかけた人たちの歴史も眠っている。莫高窟を観光した際には、ぜひとも彼らの足跡を訪れて、このような人たちの努力にも思いをはせてほしい。

      
日本語学校生と一緒に陽関までの砂漠ウォーク  
  3月28日、いよいよ砂漠ウォーキングのスタートだ。朝の9時、ホテルへ日本語学科の学生が迎えに来てくれた。今日は、陽関の手前にある南湖村から、陽関の烽火台をめざしてのウォーキングである。学生達に日本語を教えている先生も、なぜか奥さんと2歳くらいの子どもを連れて一緒に砂漠を歩くことになった。敦煌の西約80km、烽火台の見える丘の上でバスを降りた。丘の下の水路を勢いよく水が流れている。

  「砂漠の真中なのに、こんなに水がたくさん流れているなんて不思議」福岡市から参加した安倍五十子さんは、声を上げて驚いた。他の人も同じ思いのようだ。皆、水しぶきを上げて流れる水路の脇で立ち止まった。流れの中に手をさらしてみたり、学生達と写真を撮った。再び、烽火台をめざして歩く。学生との筆談が忙しく、なかなか前へ進まない。
 
  風食で割れた石を拾ったりしながらのんびりと歩く。12時、赤い岩の上にある陽関の烽火台に到着した。東からの風が強く吹いている。陽関は、漢の時代の遺跡である。2000年も昔、国境を警備する兵士たちは、この烽火台から東の風景を眺めて家族へ思いをはせ、西を眺めてはどんな珍品を携えたラクダ・キャラバンが来たかと、胸を高鳴らせたのであろう。風化が進む陽関の烽火台は、タイムマシーンのように、古代シルクロードへの旅へと誘ってくれる。
  

  烽火台の南側にある骨董灘へ降りた。骨董灘といわれるのは、強い風の後に、骨董品が砂の下から顔を出すからだ。発掘調査も行われ、漢の時代の遺跡であることがわかった。一般に、“陽関”といわれている遺跡は、陽関近くにある烽火台の遺跡のことを示す。陽関そのものは、骨董灘のあたりにあったと思われている。

  砂の上に陶器のかけらが落ちていた。曲線から、大きな壷と思われる陶片だ。壷は水かめか。あるいは穀物を入れておいた壷なのか。持ち主はどんな服装をしていたのだろうか。シルクロードの旅人に、どんな食事を出していたのだろうか。一片の陶片から、古の人々の暮らしへと思いをはせながら砂漠を歩く。一片の遺物と想像力によって、2000年前のシルクロードの旅人や防人たちの暮らしへと、旅は広がった。
  
  14時30分、日本語学科の学生たちは、帰る時間だという。夕方には家路につきたいのだろう。みんなで学生たちのバスを見送った。リサイクルの本で日本語を磨いた来年の再会が楽しみだ。15時、陽関の近くにある遺跡、寿昌城へ向かった。唐の時代(紀元後618年〜907年)のこの遺跡は、半ば砂に埋もれている。ところどころに城壁の一部を残している。押し寄せた砂のために放置されたような状況だ。砂漠の真中の静寂と風紋に包まれた遺跡は、時の流れを忘れさせてくれる。

  ふと地表を見ると、風紋の奥に30cmほどの大きさのレンガが姿をあらわしていた。遺跡とともに生き歴史の舞台から消えた人々の営みが、ここでも垣間見れた。ホテルに戻って購入した資料によれば、この遺跡で白と黒の碁石が発掘されている。辺境の地で、防人たちはどんな気持ちで囲碁を打っていたのであろうか。
 

  
楡林窟とダムに沈んだ唐代の玉門関へ
  3月29日は、敦煌の東約150kmの渓谷を挟んで広がる楡林窟を見学するために、朝9時に敦煌を出発した。右手に三危山、疏勒河のほとりに続く木立を眺めながら、朝日に向かってバスは走った。途中で5つの烽火台と1つの城壁を見た。遠くの峰の上に、朽果てた烽火台の痕跡のような塊も見えた。敦煌と安西を結ぶルートには、観光客には知られていない遺跡がまだまだ多く眠っているようだ。11時に安西に到着した。
  
  ホテルに荷物を置き、街中の食堂で昼食を済ませて、13時30分に楡林窟をめざして南下した。道路は舗装してある。とはいえ、時折バスは大きく飛び跳ねる。その都度、車内に歓声が満ちる。こうして高度を上げながら峠を越えると、意外にも湿地が広がっていた。
  
  さらに集落を過ぎて、石ころが転がるゴビ灘へと窓外の景色は変化した。大地に鋭く切り込んだ河が見えた。楡林窟に到着したのだ。だが、洪水の影響で窟を見学できないと職員は繰り返す。頭を切り替えて、楡林窟の上に広がる大地を歩いた。
  
  埼玉県から参加した伊藤さんは、 「本当に深い絶壁だね。なぜ、こんな厳しい条件のところに窟を掘ったのだろうか」 とつぶやいた。まったくその通りだ。うなずいた。壁画を見ることはできなかったが、掘った人たちの志の偉大さに触れることはできた。
  
  翌3月29日は、玄奘三蔵が通ったと記録に残している唐の時代の玉門関近くを歩く日だ。だが、ガイドさんは、「周りは畑で何もありません。漢の時代の玉門関を案内しましょう」と、強く抵抗する。だが、わたしたちは、お土産屋さんも復元した建造物もない砂漠を望んでいる。何もないところだからこそ、想像力で古代シルクロードへと旅することができるのだ。
  
  敦煌の西の郊外にある玉門関は、古くから東西交易の要衝として知られ、記録によれば漢の時代(紀元前202年〜紀元後220年)、西域の和田(ホータン)で採取され、中国の都・長安へ運ばれた玉石が必ず通る関所だった。その玉門関も、漢の時代と唐の時代では、東西に220kmも移動しているのである。安西の東へ約50km離れたところに、双塔湖ダムがある。このダム湖の湖底に、唐の時代の玉門関は沈んでいる。ダム湖の西には、玉門関から西に向かって最初の烽火台、第一の烽火台といわれているモクシュク烽が残っている。

  ダム湖の湖畔から西へ向かって歩き、モクシュク烽を過ぎ、さらに西へ向かって歩いた。ここは、いつも強風が吹き荒れている風庫である。風は常に、東から西に向かって吹き降ろしている。モクシュク烽の周辺には、いくつもの塹壕がある。固い岩山の頂に、胸の高さくらい、2・5mほどの溝が切りこまれている。幅は1mくらいであろうか。しかも、土や石を盛り、人為的に西側を高くしている。塹壕を過ぎると、風食による土塁があちこちに見える。地を這う植物はない。
  
  約1400年前、玄奘三蔵はただ一人でこの風景の中を歩いた。人を拒んでいるような厳しい自然は、まるで熱砂熱風の地へと向かう旅人の心根を試しているかのようだ。
  
  バスに揺られて敦煌への帰路、道路の右手の彼方に、遺跡のようなものが小さく見えた。城壁のように見える。 「あの遺跡のようなものまで歩きたいのですが、道はありません。わたしは歩きます。一緒に歩きましょう。遺跡じゃないかもしれませんがとみんなに呼び掛けた。疲れて歩きたくないという人は、バスで待っていれほしいと伝えた。全員が、遺跡のようなものまで歩きたいという。道は無い。枯れ草を踏みながら、茶色い物体をめざした。遺跡を発見できるかもしれない。足は自然と早足になった。

  福岡から参加した村上さんは「ほんとうの探検隊になりましたね」と、言いながらも顔はニコニコしている。わたしも、童心に返ってワクワクした。歩くこと45分で到着した。城壁がほぼ完全に残っていた。石碑があり、唐の時代の十功城遺跡であることが説明されていた。遺跡発見はできなかった。

  それにしても、こんなに立派な遺跡が、ほとんど知られないままに残っている。シルクロードは、歴史の宝庫であることがよくわかった。  周辺をゆっくりと廻ること約1時間。玄奘三蔵の足跡を巡りながら、新しい遺跡を発見したような気分を味わうことができた。歴史の舞台を巡るたびならではの体験だ。  来年は、漢の時代の玉門関を歩くことにした。近づくたびに大きく見える玉門関は、シルクロードの旅人の期待や不安といった心象風景とも重なるはずである。砂漠を歩きながら、その心理も追体験したい。

     
   
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