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『西南シルクロード紀行』 -第11章-



第11章 「五尺道」と「霊関道」はどこで合流するのか?



霊官橋

  私たちの車は緬公路をひたすら西に走る。南華県の中心・龍川鎮から西に5km走った地点に霊官橋があった。その存在を知らなければ、車は気づかずに通り過ぎてしまうに違いない。川幅は30mくらい、さほど大きくない川(龍川江)である。緬公路に平行にその橋は架かっている。

霊官橋の長さは51m、高さ8m、幅7m。現在の滇緬公路から撮影した。30mほど離れているだろうか。

  霊官橋が作られたのは明の時代(1601年)というから、400年以上の歴史がある。橋の上に立って、下流方向(南)を眺める。目の前を緬公路(1981年改修)が横切っていて、大きなトラックが走り去る。現在、私が立っている橋の上は旧道ということになるのだろう。そして、前方数百m先に高速道路(1998年開通)があり、振り返れば北の方向に鉄道(広大線)が東西に走っている。1998年に開通した昆明~広通~楚雄~大理の路線だ。このように、次々とライバルが登場して来て、霊官橋の役割は26年前に終了していたのだ。

逆に、霊官橋から下流にレンズを向けた。手前が滇緬公路で、その向こうにトラックが小さく見える。高速道路だ。 交通量の多い滇緬公路にひきかえ、旧道はときどき村人が農具を手に家路を急ぐ。夕陽に吼える獅子、なぜか南国風。

  しかし、誕生した時ははなばなしかったに違いない。3つのアーチをもつ石橋はこの地方では唯一の存在であった。<鎮南八景>のひとつに数えられ、近在からわざわざ眺めに来る人たちさえいた。今はもう無いが、当時は橋の両側に模様を彫った石の柵がついていて、豪華な雰囲気を漂わせていたという。

孫を抱く老夫婦の話。「家の娘が1歳のとき、新しい橋ができた。いま27歳だから、26年前になる。孫はかわいいね」 自動車が通らなくなった旧街道。軒が連なった家並みは、昔の賑やかさを髣髴とさせる。ここが街の中心だったに違いない。

  車輌の交通量が増えるにしたがいカーブが急で不便となり、26年前に新しい橋に架け替えられて以来、旧街道はさびれるばかりである。

  400年前の道を私たちは確認した。しかし2000年前の五尺道となると、もう確認のしようがない。

昆明の書店で購入した『南方陸上シルクロード』は1987年発行。1.4元、日本円では21円の掘り出し物。

『南方陸上シルクロード』
  ここでひとつ報告しておかなければならない。私は第4章で「1986年の三星堆の発見を契機として<西南シルクロード>論議が始まった」と述べた。しかし、それ以前に『南方陸上シルクロード』が準備されていたのである。徐冶、王清華、段鼎周の共著による小冊子(雲南民族出版社刊)で、後記によれば「資料集めなどは1980年に着手した」とある。西南シルクロード関連本では、私の知る限りにおいて最も早い。脱稿したのは1986年11月、三星堆に関する記述は一行もない。

  多くの本がそうであるように『南方陸上シルクロード』も、「霊関道」と「五尺道」は雲南駅で合流する、とある。先を急ごう。

今、雲南では「茶馬古道」のほうが人気が高い。保存状態のいい雲南駅は高速道路の出入り口にも近く、観光地としては有望。
「雲南駅風景名勝区」への入場券は40元。年々、値上げする感じ。しかし、住民の生活向上には結びつかない。

雲南駅
  2006年11月、雲南駅に入った。今年2度目の訪問で、5月のときは雨のなかだった。正式には「祥雲県雲南駅鎮」という。「駅は駅馬に乗り継ぐ意。ゆえに駅車・駅伝の意となる」(白川静『字統』)。駅と言う文字が地名になっていて、昔はこの地方では最大の宿場町だった。何頭もの荷駄を率いた隊商を泊める宿が軒を並べていたのだろう。その一軒が博物館として残されていて、興味深い。

これは雨の茶馬古道、昨年5月撮影。
博物館入り口。奥行きは深く、大きい馬の宿屋である。説明によれば、馬一頭につき料金が決められており、人間は計算外。

 漢の武帝のころ、空に五色の祥雲(めでたい雲)があらわれ、吉の兆しだというので、宮廷に届けた。「慶雲南現」である。その話を聞いた武帝は、この地に祥雲県を設けた。祥雲県の南にある宿場町、つまり雲南駅である。雲南省はこの名前から発展したという説もあるが、「雲南省という呼称ははるかな後世、清朝になってつかわれた。おそらく、雲におおわれた蜀(四川省)の南にあるからであろう」(『街道をゆく 中国・蜀と雲南のみち』)とする司馬さんの説が正しいと思われる。

あくまでも主役は馬なのである。馬に食事をさせ、休ませるところが「駅」。鞍や鐙が展示してあった。
西南シルクロード(現代の滇緬公路)と茶馬古道(南北)が交差する雲南駅は古くから栄えた。雲南省のほぼ真ん中に位置する。

博物館
  「荷駄隊文化博物館」の壁にあった説明図(写真上右)は、雲南駅がいかに交通の要衝であったかを図式化して示している。東は楚雄、昆明へ行く昔の名で「五尺道」、西はミャンマー、インド方面へ行く「博南道」。南下は普(プーアール)へ、北上は麗江~チベットへ通じる「茶馬古道」。そして、右上方は四川省へ抜ける「霊関道」である。まさに扇の要、中心に雲南駅がある。

広場に展示されている飛行機のうちの1機。現代のそれに比べると、まるでおもちゃのように見えてしまう。 飛行場の跡地、今は畑になっている。平らな滑走路と少し高台になっている部分もそのまま。まさに<兵どもが夢の跡>。

飛行場
  現在は、畑や草っ原になってしまった飛行場について語ろうと思う。今から70年前のことになるが、1937年の盧溝橋事件で日中は全面戦争に突入する。日本軍は中国沿海部の都市を占拠。内陸の重慶に移ることを余儀なくされた国民党政権(総統・蒋介石)はアメリカ、イギリスからの援助物資を受け取るルートを次々と失って行く。

援蒋ルート
  陸路で唯一残っていたビルマから昆明への緬公路・通称「援蒋ルート」は、日本軍がビルマから雲南へ侵攻することによって遮断される、42年のことである。やがて米英軍の支援を受けた近代装備の中国軍(国民党のみ)は44年5月から反攻を開始した。その反攻の基地になったのがこの飛行場である。

赤い「ビルマロード」を一部、日本軍が遮断した。そこで雲南駅が一躍、空の前線基地となった。「記念館」にて撮影。 大河にかかる重要な輸送路の吊り橋を、敵の侵攻を防止するために中国軍が自ら爆破する。「記録館」にて撮影。

  私たちはこの後も緬公路を西へ進むわけだが、ミャンマーへ近づけば近づくほど激戦の地に入るのである。雲南駅は連合軍(米・英・中)が急いで作り上げた飛行機の前線基地であり、完全に制空権を奪われてしまった日本軍はその名さえ知るところではなかったろう。

  「荷駄隊文化博物館」の斜め前に「交通発展史記念館」があり、当時の資料が展示されていた(上の写真参照)。この戦いで、国民党軍が最終的に日本軍を打ち破った、と言う事実を中国政府(共産党)は長い間、認めなかったのである。

旅行事務センター前に掲示された地図。茶馬古道、旧滇緬公路、現在の320号国道=滇緬公路が入り組んでいる。

合流地点はどこか?
  西南シルクロードの話に戻る。目の前をひっきりなしに自動車が走っている。国道320号で現役の緬公路だ。道路の両側に並木があり、見通しのよい一直線である。さきほど私たちが通ってきた道路でもある。
<霊関道と五尺道は雲南駅で合流する>というのは間違いではないのだろうが、<どこか別の地点で合流して、雲南駅に至る>がより正しい言い方に違いない。私たちは合流地点を素通りしてしまったのだ。科技旅行社のSさんが地元の青年たち数人に聞いて回るが、ぜんぜん要領を得ない。彼らも知らないのだが、それ以前の問題として「それって何?」、大の男たちが大騒ぎすることかよ、と言う態度なのであった。

雲南駅で交差する道のなかで最も旧い「茶馬古道」。ここ10年、観光化の波が押し寄せてきて、近年、石畳も改修した。
左の標識のあたりは旧道である。写真では見えないが、15mほど先で右から来た国道20号線(滇緬公路)が合流して大理へ。
国道320号線、楚雄方面へ。写真上のオレンジ色のトラックもこの道を走り抜けて行った。交通量多い。

雲南横断2000キロの旅
  こういう取材旅行では、「引き返して合流地点を探す」のは誤りであろう。まだまだ先の予定がある。疑問は疑問として残しておく、すっぱり諦めて、前へ進むのが正しい。<雲南横断2000キロ、西南シルクロードの旅>は、まだ前半戦である。

  2006年11月、<雲南横断2000キロ>の取材旅行を終えて東京に帰った。それは12章~15章で報告したい。ところで私は07年3月、別の用事で雲南を訪れた。そして余った時間を利用して、その合流地点を探すことにしたのである。その顛末をここで述べる。


手がかり
  ほんの僅かだが,手がかりはあった。ひとつは『謎の西南シルクロード』の27ページに「東西二線は雲南駅の東、普朋で合流する」の一行を見つけたこと。同書の目次には「東・西線の合流地」として雲南駅を2枚の写真と見出しつきで大きく取り上げている。何度も読み返すうちに、そのことに気づいたのだ。

  もうひとつが、最初は渋っていたSさんが同行することになった時点で見せてくれた地図。そこでは、霊関道と五尺道が雲南駅の東で交わっていた。文字がはっきりしないけれど、「普」だけは読める。何と読むのか分からないが、とにかく行くだけは行ってみよう。

手書きMAP。姚安(ようあん)とプーピンを結ぶ点線が霊関道である。現在も道はあるが、私たちの車では無理。

プーピンを探せ
  その町を「プーピン」という。日本には「ピン」の活字はなく、小学館の『中日辞典』にも出ていない。私の手書きの地図参照。今年の3月、Sさんと運転手の楊さんの3人で昆明を発ち、プーピンに向かったのである。天気もいいし、行けばなんとかなるだろう。高速道路を降り、20分ほど山道(緬公路)を下ると、広々とした盆地が眺められた。しかしよく見ると、小さい盆地がいくつか繋がっているのだった。

滇緬公路。青の小型トラックは昆明方面へ向かっている。細い分かれ道の先に集落が見える。それがプーピンの町。
1990年祥雲県政府が建てた碑。説明文こそ見当たらなかったが、霊関道と五尺道の合流地点を選んだものに違いない。

雲南駅へ
  公路から分かれて、プーピンの町に入る。旧い町並みと開発中の新しい町が同居していた。車を止め、私たちは旧い町並みを歩いた。狭い町で、すぐ白壁の建物にぶつかる。昔の集落の入り口=門に違いない。迂回すると予想通り細い下り坂の道が続き、大きな石が敷き詰めてある。村の老人たちの話を聞く。山道を越えるとその先は雲南駅に行く、という。

少し進むと旧い家並みが続く。道路の幅や家のつくりが霊官橋(万暦29年―1601年)の旧街道のそれとよく似ていると思った。
道を遮るかのような建物。町へ入るための門なのだが、人は通れない。「門の記念碑」ということだろうか。
白い壁のような門を迂回すると古道らしい道があった。村人は「雲南駅に通じる昔からの道」と説明してくれた。
口数の少ない老人たち。こういう場合、中国人の楊さんはうまく答えを引き出してくれる。標準語はなかなか通じない。

  古老だけでなく、若い人たちの情報も集めなければならない。いったん戻り、四川省へ抜けるコースも調べる。祥雲県人民政府が立てた石碑のところは三叉路になっていて、まさにそこが合流地点だったのだ。三叉路の空間には駐車場であるかのように、乗用車や小型トラックが停めてあった。

日本から持参した資料を示し、地元の女性に取材する。古いお寺の写真を見て「これは近くにある寺だ」と教えてくれた。 バイクに乗った男と畑仕事をしていた農夫に道を尋ねるSさん。「あの車で山を越えていくのは無理だろう」。

この道が霊官道
  私たちは再び車に乗り、砂利道を進む。少し下り、少し上る。暑い陽射しの中、革ジャンを着たライダーと農夫に取材する。二つの事実が確認された。砂利道を進み山を越えると姚安(ようあん)県に至る、つまりこの道が霊関道であること。もうひとつは私たちの車では無理だろう、ということ。

この道が昔の霊関道。翌日の取材で確認することになる「連廠橋」を渡り、姚安~大姚、さらに四川省へ向かうルートだ。 写真・左に見える町がプーピン。従って右の小高い丘を霊関道が越えていく。かなり離れた高い丘から撮影した。

  私の賭けは見事、的中したのだ。雲南駅とプーピンは直線距離では25kmも離れている。いくら前者の知名度が高く後者の活字がないからと言って、合流地点を前者にするのは不正確極まりない。はっきりさせるべきだ、<五尺道と霊関道はプーピンで合流する>と。

籠を背負った村人が遠ざかる。山を越えたその先は雲南駅の方向である。どこで滇緬交路に合流するのだろうか?

写真・右にプーピンの集落が見える。従って、左の小高い山を越えると雲南駅の方向。細く、白い部分がおそらく道だろう。

  興奮がさめると、とたんに空腹を覚えた。昼飯をとりながら、これからどう動くかの相談をする。とりあえず、プーピンの近く(と言っても8キロ離れた)にあるお寺はチェックする。「明日は姚安県にある連廠(れんしょう)橋へ行って、このルートが西南シルクロードである証拠を押さえましょう」とSさん。初めは半信半疑だった彼も、私の興奮が伝染したようである。南華~姚安県へ走り、連廠橋を確認することにした。かなりの大回りである。道路の状態や天気次第でどうなるか分からない。

プ-ピンの取材が大成功だったので「乾杯!」。宿泊は南華の町。ふたりの健闘に感謝して、ご馳走は食用蛙!

連廠橋
  南華から北上するルートは驚くほど良い道路だった。まるで高速道路のようである。広く、新しい有料道路で、「高速」とはどう区別されるのか分からないけれど。とにかく予想以上に早く姚安県へ到着。一度、繁華街で車の運転手さんに行き方を尋ねただけで19kmを走り抜け、連廠橋を探し当てた。

南華から姚安までは一直線。姚安の町で「連廠橋」への行き方を聞くSさん。ここから19km西南へ、山をいくつか越える。 道が下りになり「間もなく目的地です」と言うので車を停めてもらう。木立の間から遠く菜の花畑が見えた。
橋がふたつ。左は旧く、右が新しい。「李贄(りにえ)橋」また「連廠橋」とも言う。道はひとつになりプーピン方面へ。
420年前に創建された橋。長さ30m、幅6m。現在、車輌は通行禁止、盛り土がしてあって通れない。  

  その橋は数度の改修がなされたため、保存状態がよく命を永らえたものである。現実的には車や馬車は通れない。誤って車が通らないように土を盛り上げて、車止めしている。ときおり、農夫や子供たちが歩いて渡る。

私たちが下りてきた方向を撮影。馬車が数人の客を乗せて、走ってくる。もちろん左側の新しい橋を渡るのだ。 明の万暦6~8年(1580年)に知事の李贄が完成させた。彼は福建の出身で政治家なのだが思想家としても知られた。
碑の説明文では幅4.6m、調べてきた資料によると幅6mとある。実測する楊さん(左)とSさん。 ふたつのアーチの下を水が流れるのだが、乾季なので水量はない。昼休み、食事に帰る子どもたち。

  「この橋は西南シルクロードの通過点である。漢,唐の時代以来、中原の商隊や官兵などすべてこの橋を渡った。成都、金沙江を越え、ここを経て海地区、さらにミャンマー、インドへ行き来した」。橋の説明のお終いの部分は薄れて文字が読めなくなっているが、おそらくこんな内容であったに違いない。別の資料にはそう書かれていた。

司馬遷が通った道
  「司馬遷もこのルートを通ったのではないか」という考えが浮かんだ。勿論、連廠橋は明代に架けられたものだから、その何代も前の橋になるけれど。

 繰り返しになるが、司馬遷は「使を奉じて西のかた巴蜀以南を征し、南のかた邛、笮、昆明を略して、還って命を報じた」と『史記』自序で述べている。そして昆明とは現在の昆明市ではなく、海地区に勢力を張る昆明族のことであることも第9章で述べた。

  ルートを辿れば、私の手書きの地図にある「~大姚(だいよう)~姚安~連廠橋~プーピン~雲南駅~大理」を往来したはずである。ほぼ100%間違いない。

昔も家畜としての山羊はいたはずである。車の少ない山道なので、車を避けようともしない。停車してやり過ごす。 昼休みは2時間。家で昼食をとりまた学校へ戻る。学校と家が離れているので、早く下校となる。11時半ころの撮影。
明るく元気な少年の眼は輝いている。司馬遷が通過した頃、道は狭い。しかし子どもたちとも遭遇したはずである。 昔はもっと森林が多く、畑の部分は少なかったろう。しかしこの眺望は変わらない。黄色い菜の花も咲いていた。

  橋の存在を確認して、引き返すことにした。司馬遷が<騎乗か徒歩か>のいずれにしろ、彼が見た2000年前の光景を撮影しよう、と思いたつ。それには連廠橋から姚安まで、19kmの山道がいい。それ以外にない。黒い山羊の群れ、明るい子供たち、菜の花畑、みずうみ、牛。

姚安県城(県の中心街)の公園。赤い桜の花が咲いていた。隣接する旧い寺は、博物館になっている。
白塔。高さ約18m、形式は中国でも他にあまり例を見ない。サンスクリットと漢語の経文や呪文が彫ってある。

大姚県城のシンボルである。『雲南通志』に<唐時に建つ>とある。1975年の改修。中心街から西へ500mの文筆峰に立つ。

  姚安県の公園、大姚の白塔。そのほか、印象に残るものはあまりない。道路は広く、車が少ないので帰りは早い。見渡す限り畑のなか、スイカを収穫し、即売もする小屋があった。車が何台か停車している。私たちもつられて、お土産に3個ばかり買う。楚雄イ族自治州では3月がスイカの旬なのである。

広い道路沿いに屋根付きの作業小屋があり、女たちがスイカにネットを被せる仕事中。試食したら甘い。つい3個も買ってしまう。


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