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『西南シルクロード紀行』 -第7章-
                                                                 


第7章 ローカル鉄道とバスの旅

 「五尺道」と「懸棺」の位置関係を私が制作した略図をもとに説明したいと思う。しかし雲南省と四川省の省境はあまりにも辺境の地で、見当もつかないに違いない。そのため、第4章で示した「西南シルクロード」の地図をまず見ていただきたい。

  広義の「五尺道」とは、今から2300年ほど前に秦帝国が着手し、漢帝国が完成させた四川省から貴州省の西側を通り雲南省へ通じるルートを言う。当初は民間の絹の道としてスタートした古道が、国家レベルの官道に作り替えられたわけである。具体的には成都から宜賓まで岷江を船で下り、塩津~昭通~曲靖を経て昆明に到る狭い道であった。


四川省南部地図。

昆明から昭通へ

 雲南省の東北部に位置する昭通市は半島のように突き出しており、四川省と貴州省と複雑に入り組んでいる。2000年に貴州省可楽鎮で戦国時代から前漢期(BC300年頃)にかけての墓葬112基が発掘された。

 西南夷最大の勢力を誇った夜郎国にもようやく考古学のメスが入ったことになる。その可楽と昭通は隣接していて、昭通の近辺でも後漢の墓からの出土品がある。今回のリポートは移動・交通事情を中心に述べたい。

 私たちは昆明から飛行便で昭通へ入った。小さな飛行場である。積み込んだ荷物はすぐ出てきた。すべて人手による作業である。折悪しく雨と風のなか、白タクに乗り込んで街の中心へ出た。

 軽食を摂ったあと、市内の中学校を訪れた。敷地内に東晋時代に描かれた(385年~394年)壁画と後漢時代の石碑があり、

小さな飛行場なので荷物は車で運び、人手で手渡すことになる。

 それを見学させてもらう予定だった。ところが鍵を保管している教師が不在で連絡もとれない。残念ながら諦めざるを得なかった。スナップ撮影のみ。

霍承嗣墓(かくしょうしぼ)壁画。イ族の豪族の様子が描かれている。 孟孝居(もうこうきょ)碑亭。250字以上の隷書が彫られている石碑。

内昆鉄路

 5月22日(月) ホテルを出てタクシーで昭通駅へ向かう。昭通が始発だったせいか切符の購入はスムーズにいく。普通快速5604号である。中国では鉄道料金が安いからだろう、売り場はいつも長蛇の列で切符を買うのが難しい。例えば、昭通~昆明は400キロあって、鉄道料金は40元である。日本円に換算すれば、400キロメートル列車に乗って600円ということになる。

昭通駅は中心街からタクシーで20分以上、離れてポツンとある。 15の民族が生活している昭通エリア、何族の老人だろう?

2002年に開通した内昆線。昭通始発で内江~重慶に連絡する。 昭通~塩津、5604次に限り11元。普快は早いだけわずかに高い。

 車中で知り合った女教師が「塩津駅でなく塩津北駅で降りる」と教えてくれたので助かった。塩津駅から街まではかなり離れているとのこと。12時20分着。

 女教師も塩津北駅下車。彼女の亭主も教師だといい、大きなバイクで迎えに来ていた。
車中で話しかけてきた女教師。ホテルの紹介までしてくれた。

 ここで私たちは三輪タクシーでホテルへ。昼食ののち、豆沙村にある五尺道の古道を取材したことは第5章、第6章で述べた。

  私たちは5月22日、23日の時点で塩津(地図「四川省南部」参照)にいる。次なる目的は地図右下の洛表鎮にある「懸棺」取材である。直線距離でいえば東に60キロ弱なのだが、険しい峰峰が隔てている。塩津から高県を経て宜賓へ抜ける省道(ルートとしては五尺道をたどる)は連絡がうまくいかない。列車のほうが早そうだった。いずれにしても宜賓へでて、乗り継ぐことになる。


宜賓へ向かう

 私たちは昨日利用した普通快速5604号に乗ることにして、塩津北駅へ向かう。線路も駅舎も道路から20メートル以上、上にある。線路をコンクリートの橋が支えているのである。地形が狭く、それだけ険しいのだろう。
橋桁の上に線路がある。4階ほどの階段を登ると駅舎だ。

 切符販売の窓口になにやら書いてある。「12時18分発の昭通~重慶行き5604号は、内江より遠方行きに限り販売する、近い所については販売しない」というのだ。私たちの行く宜賓は近いから販売しない、つまり乗れないことになる。ガオヤンは「とにかく切符を買って、改札してもらいましょう」と言い、「宜賓行き」を2枚買う。

 しかし改札口で駅員が切符を見て、「駄目、次の列車にしろ」と頑強に阻止するのだ。やむを得ない、切符を買い直してとにかく5604に乗り込もう。8元の「宜賓行き」をキャンセル、17元で「内江行き」を買い求めた。今度はすんなり通してくれた。
手書きの表示だから臨時的な決定に違いないと思われる。 料金表。普通、快速、特急などの表示はなく、数字のみなので分かりにくい。


乗り過ごした老婆

 車内は空いていた。なぜ乗車制限をしたのだろうか、よく分からない。列車が走り出してしばらくして、隣の席の男性が大きな声を出した。80歳のおばあさんが塩津の駅で降りそこなったらしい。次の停車駅で降り、引き返すしかない。

  灘頭駅が近づいて来た。親切な男性がおばあさんをデッキに誘導していく。われわれの5604号が停車。内昆鉄路の線路は勿論単線だ。対向の列車がホームに入るのを待つのである。見ると、駅の係員がわめいている。おばあさんが向こう側のホームに渡るには遅すぎたのである。対向の列車が間もなく入って来た。


塩津北駅で降りるのを忘れた80歳のおばあさん。どうしよう。 「危ないよ、気をつけて」と叫ぶ駅員。

「この昭通行きの列車に乗れたらよかったのに」と男性。 「おばあちゃん、一人で行ける?」

「この上着をしいて、その上に」 「・・・・・・・・・・」

無事にホームに立つおばあちゃん、よかった、よかった。 一件落着。

 一件落着。おばあさんが帰宅するのは夕方になるだろう。隣の席では、何事も無かったように男たちがトランプを始めた。

桃の実

 私たちと同席のおばさんが「桃を食べないか」と話しかけてきた。ありがたくいただく。列車は向かい合って座るので、「旅は道ずれ、世は情け」と会話も弾む。バスはこうはいかない。昨年の5月、李家山頂で食べた桃と同じ大きさだった。
日本の桃とは比較にならないほど小さい。 四川省との境界にある水富県で別れた親切なおばさん。

交通の要衝・宜賓

 桃のおばさんは水富駅で降り、やがて宜賓駅に着いた。私たちは下車して大急ぎで長距離バスターミナルに移動し、乗り続けなければならないのだが、ここで宜賓を説明しておきたい。

 昔から四川省南部随一の大都市で、それは交通の要衝であることに起因する。岷江と金沙江がここで合流して「長江」と名を変えるのだ。つまり日本でいう揚子江である。岷江をさかのぼれば蜀の国の成都があり、北方に96キロ「千年の塩の街」・自貢がある。しかし観光都市ではないので、成都や楽山の陰に隠れてあまり名は知られていない。

  付け加えるなら、宜賓は有名な『五糧液』の産地である。日本では「中国を代表する酒は紹興酒」と考えられがちだが、紹興酒は江南地方の酒といっていいほどであり、全国的には白酒(アルコール度数が30度~53度の強い酒)が愛飲されている。
右の大きな船は水上レストラン。右の濁った河が金沙江で左から流れて来るのが岷江。合流して長江となる。 このおおげさな建物が「五糧液」酒造会社の門。門も大きいが、態度も大きい、会社見学でお金をとる。テレビのCMぶんだけ、酒も高い。

中国の白酒は、土に大きな穴を掘り、その中で原料を固体のまま醗酵させて作る。「撮影厳禁」をくぐり抜け、その作業風景をパチリ。

 塩津から内昆鉄路に乗り宜賓で下車。バスを乗り継いで2時間半、珙泉鎮に着く。夕暮れである。今夜はこの町に宿泊しようと小さな賓館へ入る。ところが、この町に外国人が泊まれる宿はないという。あわてて、ミニバスに飛び乗って、引き返すことにした。30分前に通過した巡場鎮が大きな街だったからだ。

懸棺の地

 翌24日、さらにバスで3時間南下して、ついに洛表鎮に着いた。午前11時15分、曇り。腹ごしらえをすることにした。ここまで来ることが<たたかい>であり、懸棺をどうとらえるかも<たたかい>のような気がした。腹が減っては戦(いくさ)ができない!
遠路はるばる、ついに到着しました。「ボーレンの故郷」の広告塔が目立ちます。世にも不思議な懸棺葬は、ここからすぐ近く。 私たちの食事が終わるのを待つ三輪タクシーと運転手の牟家華さん。彼はこの村の出身で懸棺にはくわしい。

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