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『シルクロード自転車旅行1997』遠征報告
(ツール・ド・シルクロード20年計画:第5次遠征)

中国のトルファンからクチャまで670キロメートル

(ツール・ド・シルクロード20年計画)
写真・文 長澤法隆
(
遠征報告は、『CYCLE SPORTS199810月号に発表したレポートに加筆しています。自転車で見聞した日々をレポートしています。)


(ツール・ド・シルクロード20年計画)
注記:『ツール・ド・シルクロード20年計画』は、
長澤法隆が地球と話す会の事務局長を務めていた1993年から2001年までは、長澤法隆が隊長として実施しています。2002年からは『シルクロード雑学大学(歴史探検隊)』にて、『ツール・ド・シルクロード20年計画』を継続しています。


【タイトル】
シルクロード自転車旅行
 中国のトルファンからクチャまで670キロメートル

『ツール・ド・シルクロード20年計画』第5次遠征

【リード】
20年がかりでシルクロード走破計画を進めている『ツール・ド・シルクロード20年計画』。
第5次遠征である「ツール・ド・シルクロード1997」を1997年の夏に実施した。
70キロも続く上り坂、45℃を超える熱風と日本では体験できない自然に遭遇。
メンバーは、14歳から68歳までの28名(女性7名)。
お伝えするのは首都圏を中心としてハワイ、鹿児島、愛知からも馳せ参じた一行の、ロマン溢れるツーリングのシルクロード見聞録。


【本文】     

 1日目は気温35℃から40℃の中を走行

 1400年程前、トルファンの東の郊外にある高昌古城に、玄奘三蔵が滞在した。留まることを強いる高昌国王・麹文泰に、3日間断食をして仏典を求める意志の強さを示した。結果、麹文泰は玄奘三蔵に少年僧4名、手力(クーリー)25名、馬30頭、他に金品を提供して、支援した。玄奘三蔵の求道の旅は、我々の遠征とほぼ同程度の人員の旅であった。

 8月9日午前8時、「ツール・ド・シルクロード1997」はトルファン賓館をスタートした。気温43℃の中、熱い1日が始まった。時速20キロメートルで賓館の前の通りを覆うブドウ棚の下を進んだ。ブドウ棚はすぐに途切れ、強い日差しが肌を刺す。

 1130分、太陽の光を遮る並木もない小川の脇で昼食とした。今日の昼食はゆで卵、ソーセージ、饅頭、トマト。日本の薄味トマトと異なり、トマトの香りが強い。


写真を clickすると説明付き拡大写真が見られます。


 午後の走行は1230分にスタートした。ホテルまでは7.8キロメートルとのことだったが、到着したのは14時。強い向かい風のために、休憩時間ばかりが増えていたのだった。今日の宿泊は托克遜宵館。入り口には、樹齢500年ほどの大きな木が構えていた。私達の部屋は3入部屋。トイレは共同だ。共同シャワーは6時から2時間使用できる。冷房もあってなかなか快適な宿と言える。



 最大の難所、虎の牙を行く

 さて、2日目(8月10日)は、通称“虎の牙”と恐れられている難所だ。70キロメートル走行して、2000メートルほど標高を上げる。出発前、水野秀雄サブリーダー(53歳)は1列走行を基本とし、上りの部分だけをフリーランとした。

 8時、曇り空でスタートしたが、向かい風のために一木一草もない平地を時速13キロで進む。10時過ぎ、難所の上り口に到着した。ここからフリーランを開始する。先頭は時速13キロメートル。だが、最後尾は時速9キロメートル。しかも、最後尾の速度はどんどん落ちて、時速5キロメートル程になると、バスに乗る。切り立った崖の間を坂は続き、疲労がピークに達した一行は、近くにクルマの修理店をみつけて休憩させてもらった。1時間半休憩し、午後の部開始だ。峠までは15キロメートルだという話だが、15キロメートル進むと中国スタッフは「あと7キロメートル」という。ゴールは遠い。

 吐き気、ふくらはぎの痙攣、熱射病の症状を訴えるメンバー達。無事、完走したのは11名であった。



 3日目(8月11日)、峠までバスで移動し、午前8時に快晴の中を下って再び上る。ゴビの山は黒くなったり茶色になったり、遠くなったり近くなったり。風景は目まぐるしく変化してゆく。

骨折者が出るアクシデント

 4日目(8月12日)、6時の気温はすでに25℃をさしている。だが、雲が出て気温はあまり上がらず、スタート時の気温は26℃である。

 1110分、隊列の後ろ半分が急停車した。20代の女性が転倒したのだった。鎖骨を骨折してしまった。ハワイから参加の医師・矢沢珪二郎さん、看護婦の岡部美津恵さんが応急手当てを済ませ、ジープで病院へ搬送することにする。転倒の原因は、風邪薬を飲んで走行したために、眠くなり注意散漫となっていたことによる。

 再スタート後、30分程でホテルに到着した。昼食後の半日は休養とした。

 道行く人の顔は彫りが深く、青い眼の人もいる。文化と民族の交差点であったシルクロードを改めて実感した。



 5日目(8月13日)、ポツポツと雨の落ちる中、8時にスタートした。10時前には横なぐりの風雨となった。いくらペダルを踏んでも前に進まない。しんどい。だが、昼食にラーメンを食べると午後は快走。右手前方に遠く雪を頂く天山山脈が例えようもなく美しい。

 今日の宿泊地エンキの街は、17世紀、ロシアでの迫害から逃れて、この土地に住み付いたモンゴル族の末裔が住むオアシスである。



 急激に変化している西域

 6目目(8月14日)、8時に走行開始し、コルラヘの到着は1240分。午後は自由行動を楽しむことにした。街には便利店(コンビニエンスストア)が数店あり、何でも揃う。しかし、便利な生活を振り返る意味もあってシルクロードを旅しているだけに、少し複雑な気分になった。

 



 7目目(8月15日)、コルラを出発して天山南路を行く。右手には草も木もない山、左手にはタリム河沿いに緑が広がっている。生と死の境界にいるような気分だ。40キロ程進むと高速道路と鉄道工事の様子が見えた。トルバクの急激な変化がよく分かった。だが、私達が求めているのは、古代シルクロードの面影を残したかつての西域の姿である。

古代シルクロードの旅人の気分を味わう

 8日目(8月16日)、モーニングコール代わりの笛で目を覚ます。朝食の卵入りチャーハンは、中国スタッフの用意してくれた日本人好みのメニューだ。

 走行を開始すると、道の両側にタマリクス、胡楊の群生に出会うことができた。古代シルクロードの旅人も同じ風景を目にしたことだろう。きっとここで、水のありかを知り、葉の緑にホッとしたに違いない。

 9日目(8月17日)、いよいよ走行最終日。軽快に走行していた我々を、追い越そうとしたトラックが、対向のロバ車に激突してしまった。この事故でロバは即死。ロバを御していたおばあさんは、顔面を負傷してしまった。あっと言う間の出来事だった。

 そして、午後は向かい風の中の走行。きついので休憩の間隔は30分おきから20分おきに短縮した。114キロ走って、横断幕と爆竹が迎えるホテルにゴールした。向かい風や長い上り坂に苦しんだ。しかし、苦しんだ分だけ風景も自然の厳しさも記憶に残り、満足感は大きかった。暑い夏を熱く過ごす。全行程669キロの挑戦は幕を閉じた。