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『シルクロード自転車旅行1998』遠征報告
(ツール・ド・シルクロード20年計画:第6次遠征)

クチャ〜カシュガル間 750 km


(ツール・ド・シルクロード20年計画)
写真・文 長澤法隆
(
遠征報告は、『CYCLE SPORTS199810月号に発表したレポートに加筆しています。自転車で見聞した日々をレポートしています。)


(ツール・ド・シルクロード20年計画)
注記:『ツール・ド・シルクロード20年計画』は、
長澤法隆が地球と話す会の事務局長を務めていた1993年から2001年までは、長澤法隆が隊長として実施しています。2002年からは『シルクロード雑学大学(歴史探検隊)』にて、『ツール・ド・シルクロード20年計画』を継続しています。


夏の挑戦 「日焼けの跡」  異常気象の天山南路750キロメートル

 世界的に異常気象の今年、『ツール・ド・シルクロード1998』もそれを実感した。
砂漠なのに冠水した道を走り、洪水で橋が流された川を渡って進んだ。
スタート地点のクチャからアクスまでの約300キロメートルは、約1400年前にあの『西遊記』の玄奘三蔵が刻んだ足跡と重なる。43人が参加した砂漠越え750キロメートル。


素晴らしい自然がエネルギーをもたらす

 8月3日午前8時30分、『ツール・ド・シルクロード1998』に参加の43人は、クチャのキジル賓館をスタートした。クチャは東経約80度の北京と比較して、35度西に位置する。しかし、中国は全土で北京時間を使用している。そのため、生活時間(太陽の高さ)で言えば、午前6時過ぎの早朝にスタートした感じなのだ。

 太陽を背にし、前方に長く延びた影の先に750キロメートル先のゴール、カシュガルにあるイスラム教のモスク・エイテイガル寺院を思い描きながら走る。

 キジル賓館は新疆ウイグル自治区の区都ウルムチと、パキスタンとの国境であるクンジュラブ峠とを結ぶ国道314号線に面している。アカシアの並木が続く大通りを10キロメートルほど西へ進み、T字路で進路を北へと向けた。



  北へ進む道は旧道であり、天地創造を思わせる塩水渓谷、奈良の正倉院の螺銅紫檀五弦琵琶(らでんしたんごげんびわ)と同じ形の琵琶が描かれているキジル千仏洞へと通じている。

 ゴビ砂漠 のなかをゆるやかな上り坂がどこまでも続く。いつしか茶色い山肌が行く手をさえぎると、道は右に左にと蛇行しながら上る。

(「ゴビ砂漠」には普通名詞と固有名詞があります。固有名詞では、モンゴルにある「ゴビ砂漠」、のことを示します。普通名詞では、地表の状態を示します。説明を加えますと、まず、沙漠とは年間降水量10インチ(254ミリ)以下の所をいいいます。地表の状態によって、「岩石砂漠」、「砂沙漠」、「土漠」などといいます。普通名詞の「ゴビ砂漠」はこの一種で、「川原のように石と砂の混じった状態の砂漠」をいいます。)

 ゆっくりと四方の風景を見渡しながら進むと、低い山並みに目をひかれた。赤紫色、茶掲色、赤銅色、オレンジ色、灰色を基調に山のひとつ一つが異なった色で彩られている。色彩の美術館のようだ。

 樹木は1本もなく生命を拒絶しているような光景だ。それでいて、青い空と呼応し、生命の誕生を予感させるような温かみがある。



 走り去るのが惜しい。何度も停まって見入った。来てよかった。風景との出会いに感謝した一時であった。雄大、壮麗、絶景……。いや、息を呑むような、としか表わしようがない。こんな自然に出会うと、脚力による旅の苦労は前向きなエネルギー源に変化する。自然も人間も、不思議な力を秘めていることを実感した。


冠水道路で10人転倒それでも充実の表情

 さて、初日は60キロメートル走行して、14時30分にキジル千仏洞のふもとにあるバンガローのような宿泊施設(トイレ&シャワー付き)に到着した。



 2日目は、曇り空の中を午前9時にスタートした。気温は24℃と涼しい。平坦で50キロメートル強の道のり。変化のない一日のはずであった。ところが、石ころだらけの凸凹道。悪路の真ん中で小田部妙子さんの後輪がパンクした。これ幸いと、ポプラ並木で休憩して修理。

 村人が取り囲み、パンク修理のギャラリーとなる。そのなかの1人の女性が、やかんと茶碗を手にして、隊員の間を周ってお茶を振る舞ってくれた。お腹の調子が悪い人は断っていた。しかし、前日から下痢で苦しんでいたわたしにも、茶碗を差し出してくれた。わたしは迷うことなくごちそうになった。

 1991年、西城南道を100頭のラクダと共に歩いていた。その時、村人から差し出された一杯の水を思い出した。茶色く濁った水だったが、茶碗を手にした男性の顔は笑顔に満ちていた。すがすがしい表情の前で、躊躇(ちゅうちょ)しながらもごちそうになった。砂漠の民にとって一番大切な水を、見ず知らずの旅人に振る舞う。そんな姿から、大きな教訓を得たのだった。

 パンク修理を終えて再び走りだすと、道路が300メートルほど冠水している。対向車のタイヤの沈み具合を観察すると、水深は浅い。しかも路面は平らなようだ。試しに、隊長を勤めているわたしは、メンバーの安全を第一として行動する必要がある。まずは、わたしが冠水している箇所を横切り、安全を確かめることにした。砂漠の雨は恵みの雨。砂漠でこんな場面に遭遇するとは……。100年ぶりの洪水だという。砂漠の民にとっては、天の恵みの雨でも、自らの脚力で旅をしている身にとっては厳しい。玄奘三蔵の偉大さに思いをはせながら陥没した道路を渡ることにした。



 ギアを軽くして、乗用車のタイヤが通ったあたりを進む。水の流れとハンドルの駆け引きが微妙で、おもしろい。渡りはじめを終えると、センターよりのワダチの安全を確かめるために、完遂した道を再び戻った。その後、メンバーが続いて、完遂した道路を慎重に渡った。だが、途中で約10人が転倒。その中の一人は自転車を流され、唇を切るケガをしてしまった。残念だ。それでもみんな、充実した顔。生き生きとしている。子供のころの水遊びの境地に戻ったような喜び方だ。

 13時30分に52キロメートルを走行してバイチェン賓館に到着。1430分の昼食は、うどんの上に脂で炒めた野菜と羊の肉をのせた皿うどん。自転車から降りたら再び下痢に襲われていた。よせばいいのに、脂ぎったうどんを食べたことが原因のようだ。

子供たちの顔にシルクロードの歴史

 3目目は、6時30分に起床。朝食と体操をすませて8時20分にスタートした。

憤れてきたうえに、今日は103キロメートルの走行を予定しているので集合や準備もスムーズだ。

 ボブラ並本の道は路面状況も良好。右手のはるかかなたに、天山山脈が白い頂を連ねて見える。道路の両側に、ひまわり、麦、落花生、トウモロコシなどの畑が広がる田園地帯。時おり、羊飼いの少年が羊を追って道を横切る。そんなのどかな光景の中を進んだ。

 ところが11時過ぎ、川にかかる橋が洪水で流されていた。道は通行止めだ。う回路を進んで、幅30メートルほどの川を渡ることになった。今度は川床が砂だ。行き交うクルマを見て浅そうなルートを選び、慎重に渡河した。



  12時の昼食は、村外れのポプラ並木の下を選んだ。野菜入りのパン、トマト、キユウリ、ザーサイ、ゆで卵、ソーセージを箱の中から各自が取り出し、思い思いの所に腰を下ろして休む。どこからか子どもが集まってきた。中には、道路脇の茶色の水たまりに飛び込んで水浴びを始める子ども現れた。上手な水泳の腕前を見せたいのだろうか。だが、素っ裸である。

 昼食で休憩した村はずれの木陰から、午後のコースを眺めた。ポプラ並木は100メートルほどで終わり、その先には一木一草も生えていない。茶色一色の砂漠が広がっている。しかも上り坂。

 午後の走行が始まると太陽が顔を出して気温が上昇。アップダウンが続き、上りは時速10キロメートル、下りは時速50キロメートル。15時には向かい風となり、下り坂でもペダルを踏んで、ようやく前へ進むことができた。シルクロードの自然の厳しさに遭遇すると、体力の差が歴然と現れてくる。集団走行の隊列は徐々に伸び、ついに2つに割れた。さらに、宿舎まで約5キロメートルもダートが続く。対向車が砂塵(さじん)を舞い土げるたびにゴールが遠のくように感じられた。

 4日目は、走行55キロメートルではあるが、ほとんどがダート。100年に一回という大雨による洪水で、道路が流されたのだ。砂漠の土砂を盛り上げて、とりあえず堤防のような盛り土の簡易道路を走ることになった。最初の10キロメートルは、石の直径が大きく、石畳の上を走っているように、白転車が大きく上下にゆれた。休憩のたびにタイヤの空気を抜いたりサドルを下げたりと、それぞれ工夫しながら走った。途中で雨もぱらつき、疲労は増すばかり。

 50キロメートル地点でようやく舗装道路になり、おもわず自転車をとめて万歳。1330分ごろにアクスのホテルに到着することができた。雨に降られた後に、トラックの舞い上げる砂塵のパウダーを浴びている。黄粉をまぶした安倍川餅状態なのだ。まずはシャワーを浴びた。その後、自転車整備点検の時間をもうけて、タイヤに空気を入れたり、泥を落としたり。自転車もきれいさっぱりさせて、翌日に待っている120キロメートルの走行に備えた。

 18時にアクスの民族小学校を訪問して交流することにした。みんな踊りがうまい。愛敬もいい。また、モンゴル系、トルコ系などなど。子どもたちの容姿からシルクロードを介して氏族が交わった歴史がうかがえる


ダートを20キロメートル走行じりじり上昇する気温

 5日目、雨上がりのアクスのホテルを、目の出前に出発。時刻は8時だった。みんなが自転車の走行に慣れてきた。気温が低めなこともあり、快適な走行を楽しむことができた。

 昼前にダートがあり、スビードを殺しきれずに、わたしが転倒。その脇を、サポートのバスもトラックも通り過ぎた。遠征も6回目となり、通訳などのスタッフもドライバーも顔なじみ。「あいつなら、大丈夫」と思ったのか、置いてきぼりを食らった。ところが、自転車はチェーンが外れていて、なかなか入らない。困った。自転車を押して宿をめざすか、ヒッチハイクかとあきらめていた。すると、トラクターで通りがかったウイグル族の若い夫婦が、外れたチェーンを直すのを手伝ってくれた。15分ほどで修理完了。助かった。



 お礼にと、コンパス付きのマップメーターを受け取ってもらった。だが、彼らに使い道はあるのだろうか。地図を持って農作業に出かける人なんて、日本にだっていないのだ。

 1315分、ようやく昼食中のみんなと合流することができた。午後は、ダートを20キロメートル走行し、以後は舗装路を進むことができた。気温はじりじりと上がり、本来のシルクロードらしくなってきた。暑い夏がやってきた。それでも、1620分にアーチャ招侍所に到着。部屋はコンクリートの土問にベッドが4つ並んでいるだけだった。



 6日目も8時に出発。直後に後輪がバーストして、3キロメートルほどバスで移動することになった。後輪はスポークも1本折れていて、ゆれるタイヤがブレーキシューをこする。負荷をかけて走行するわけにもいかなので、リヤブレーキのワイヤを外した。フロントブレーキだけで走ることにした。ブレーキをかけるときに、重心を後ろ下げれば、ひっくり返ることもあるまい。

 11時、そんなわたしの脇で石に乗りあげて一人が転倒してしまった。後続の2人は、対向車線に逃げようとしたが、避けきれずに転倒してしまった。路面の状況がよく、時速25キロメートルほどのスピードが出ていた上に、車間距離が短くなっていた。幸い、近くを車が走っていなかったので、後続の2人は命拾い。大事に至らなかった。

 石に乗り上げた人は、その後の診察でヒジの骨折と判明した。先に帰国することになった。

 7日目は、休養日。昼寝、飲酒、カード、散歩と、思い思いのスタイルで骨休めを楽しんだ。



 8日目は西に進む。そのため、8時にスタートしたが、月に向かってペダルを踏んだ。右手には、色彩の博物館のような岩山が続く。左手には、タクラマカン砂浜が広がる。

 1230分、昼食の揚所は、うっとりするような風景の中だった。3mほどに盛り上がった砂山を植物が取り巻いている。空の青、山の赤、植物の縁の三原色が鮮やかで、神が自然を創った光景をそのまま目のあたりにしているようだった。

 1430分に宿舎に到着。トイレは外、シャワーはなし。今日で4日間、シャワーを浴びていない。10分ほど歩いてダム湖へ行き、パンツー枚で泳いだ。

ダートぎらいの人も全員が自転車に乗ってゴール

 9日目、日の出前に出発。クルマの往来もほとんどない。15分ほど走ると日の出となり、目の前に長く伸びる影を追いかける。50キロメートル地点までは緩やかに下り、さらに75キロメートル地点までは急な上りとなった。とはいえ、追い風に背中を押され、上り坂であることを意識しないまま、午前中の走行を終えた。

 午後の走行スタート直後に2ヵ所の水たまりを通過した。それでも順調に進んでいた。ところが、100キロメートル地点で、突如ダートが始まった。5キロメートルのダートだったが、今年初めてシルクロード特有の熱風の洗礼を受けた。しかも向かい風。風の向こうにパミール高原が冠雪を頂いて、青空に浮かんでいるのが見えた。



 アトスに到着したのは1530分。久しぶりにビル街を目にした。久しぶりに、部屋にシャワーもトイレもある。久しぶりに蛇口をひねった。お湯が出た。お湯はいつでも出る。ドアをロックできる。何事もなく、淡々と過ぎ去る日常生活のありがたさを実感した。

 10日目、いよいよラスト・ランの日を迎えた。走行距離が短いので9時の出発。だが、今日もダートが現れた。ダートを嫌いの藤野和子さんがバスに乗ろうとした。するとすると、みんなで「ふじのさ〜ん」と呼び止めて、自転車に乗ってもらった。シルクロード好きにとって、カシュガルは憧れの土地。民族の十字路だ。せっかくここまできたのだから、しっかりと自分の足で大地を感じながら入ってほしいのだ。

その後、路面状況はよかった。ゴールまで10キロメートルという地点で先頭を最長老の渡辺一郎さんと村田俊夫さんにまかせて、ゆっくりとカシュガルに入った。

 エイティガル寺院の前の広揚を1周し、ホテルヘと向かった。爆竹とホテルの従業員の熱烈な歓迎に迎えられた。



 握手でスタッフにお礼をして、抱き合って泣いたり、涙を流しながら、しばし喜びにひたった。わたしは、無念にも骨折のため途中で帰国した人から借りたままになっていたボールペンを胸にゴールした。
 また、いつの日か一緒にシルクロードを走ろう。真夏のシルクロードを。




参加希望は自転車に乗り慣れる努力を
 
 

 毎年、参加者は初心者が多い。それはそれでいいのだが、極端な場合は、出発の2週間前に自転車が届いたという人もいた。少しでも自転車に慣れていると、旅はますます楽しくなる。それで、今年は、出発直前の10日間を利用して走行練習を行った。平日は午前9時に東京・国立集合で、12時まで多摩川を走った。土、日曜、祝日は9時にスタートして国立と羽田を往復。他にも、栃木県の日光などヘツーリング。参加を希望する人は、自転車に乗り慣れてほしい。

 問い合わせは、〒186-0003東京都国立市富士見台2-46-2-2-504長澤法隆方 シルクロード雑学大学 電話050-1462-3141まで。

ホームページはhttp://www.geocities.jp/silkroad_tanken/


長澤法隆(ながさわほうりゆう)

1954年、新潟県生まれ。法政大学に7年間在籍後卒業。1991年と1992年で、西域南道をラクダとともに踏破。1993年からシルクロードを調べながら自転車で走破する『ツール・ド・シルクロード20年計画』を開始。1996年から世界遺産へのチャリティーを目的とした『西安チャリティーウォーキング』や『敦煌チャリティーウォーキング』を主催。歴史の道を調べて、人力で移動することをライフワークとしている。


20年計画で完全走破 シルクロード1万5000キロメートル

  

『ツール・ド・シルクロード20年計画』は、中国の西安からイタリアのローマを結ぶ古代シルクロードの1万5000キロメートルを自転車で走破する試み。20年計画で、生活や仕事を続けながら一般の人が、毎年夏休みに挑戦する。1993年に西安をスタートし、延べ約300人が参加した。これまでの参加者は、最年少が12歳、最高齢は74歳。全員が準備に参加し、衛生、整備、記録、庶務と、それぞれ役割を担う。帰国後も、写真展、報告会、報告集の作成といった役割がある。この計画では、最も多くの民族が交流したと思われるオアシスルートを選び、中央アジア横断した。ローマへのゴールは2012年の予定。