シルクロード、西へ
 

 第6章 アルマトゥイ――無聊な日々
 
 滞在の理由

 アルマトゥイには二、三週間滞在する予定である。

 それはこれ以降に通過する国のビザを取得するためで、他に特別な理由はない。

 この街は一九九七年までカザフスタンの首都だったこともあったせいか人口百二十万人ほどの大都市だが、大きな見どころといえば博物館くらいなもので、長い滞在の割に退屈してしまいそうである。

 ビザ取得が主目的とはいえ、時間はたっぷりあるのでできるだけ街の様子を観察しておこうと考えた。

 足の怪我のこともある、焦る必要はない。

 アルマトゥイでの日々が始まった。時間のつぶし方に苦慮しそうである。

     
 ビヤガーデンの看板か。    売店のおばさん。

バスターミナルでの食事

 アルマトゥイでの滞在先は、サイラン・バスターミナル二階の簡易宿泊所である。

 先にも書いたが、この宿泊所は地元の商人が利用するようなところで、六人部屋が数室並んでいる。後で分かったが、個室もあった。共同のバスルームは一応お湯が出るが、洋式トイレは便座が外れていて、用を足すのに苦労する。

 銀行からカードを返してもらったあとこの宿泊所に戻り、改めてチェック・インしようとした。

 するとフロントのおばさんが時計を指さして何やら言うのである。

 意味が分からないのでメモ帳とペンを出したところ、おばさんは「17:00」と書きつけた。

 どうやら、午後五時にならないとチェック・インができないようなのである。仕方がないので、ターミナル周辺をぶらぶら歩くことにした。荷物はボイラー室の柱にチェーンでぐるぐる巻きにくくりつけてある。他人が手を出す余地は全くないだろう。

     
 バスターミナルより山の方角を眺める。  

路線バスの行き先は全く読めない。

 

 まずは歩きながら、待機場に停まっているバスを眺めてみた。バスはそこそこ立派なものから旧ソ連製のお下がりとおぼしきおんぼろバスまで様々なものがあったが、概してウルムチやイリで見かけた中国製の長距離バスより乗り心地が悪そうである。

キリル文字で「Тараэ」と書かれた行き先のバスが停まっていた。これなど普通にローマ字読みだと「タパサン」と発音してしまいそうだが、「タラズ」と読む。世界史で習った「タラズ河畔の戦い」を思い出す。キリル文字に囲まれているためか、その法則性がおぼろげながら理解できつつあるようだ。

とりあえず次の目的地にと考えていたキルギスのビシュケク行きのバスだったが、探すまでもなかった。ターミナルの片隅に「ビシュケク」の行き先を掲げたマルシュルートカがたくさん停まっており、およそ十五分間隔で発車して行く。ここに来れば問題なく乗車できるだろう。

バスに見飽きたら空腹感を覚えた。傍にある食堂街で何か食べることにした。

 カザフ料理はどのようなものなのかよく分からないが恐らく、ロシア料理と中央アジアの料理が混在しているのではと思った。そういえば食堂街のあちらこちらに露店が出ており、羊の肉を串に刺して焼いている。これを中国では「羊肉串」と呼んでいたが、ロシア世界では「シャシリク」ということは知っていた。他のお客が食べているのを見ると、ボルシチやオクロシカのようなスープ類や、黒パンやピロシキのようなパン類もあるようだ。とりあえずテーブルについた。

 太った年配のウェイトレスがメニューを持ってきたが、キリル文字で書かれているので当然ながら理解できない。たとえ発音の法則性を理解できても、意味が分からなければお手上げである。仕方ないので、まずシャシリクを焼いているところまで行って身振り手振りで数本注文し、次に大鍋のところでスープを頼み、ついでに生ビールを所望した。

 シャシリクは中国のものよりさらに粒が大きく、つけあわせに玉ねぎと黒パンがついている。スープはボルシチではなく、大きめに切った野菜がたくさん入っていてポトフのようであったが、骨付きの羊肉が入っていて結構食べにくかった。だが、ビールは日本のものと違って薄めなので暑い中でも飲みやすく、数杯おかわりした。

     
 シャシリクと黒パン。    ポトフのようなスープ。

 いい気持ちで宿に戻ると、すでにチェック・インの時間を過ぎている。前日と同じ六人部屋に放り込まれたが先客が数人いて、やはり好奇のまなざしでじろじろ見られた。「ヤポンスキー」とか「キタイスキー」とか言っている。ロシア語で中国のことをキタイというので、キタイスキーとは中国人のことであろう。だがとにかく、見世物にされているようであまりいい気分ではない。シャワーを浴びてすぐに寝ることにした。


ウズベキスタン領事館へ

 朝八時ごろ目を覚ました。同室のおっさんたちはすでに出かけている。私も早速出かけようと思い、フロントに連泊の旨を伝えに行くと、また何やら文句を言われた。筆談でも何を言っているのか分からずに困っていると、フロントのおばさんは私の泊まっている部屋に行き、荷物を室外に運び出す仕草をした。これで何となく理解できた。この宿は連泊する時でも一度チェック・アウトして夕方に改めてチェック・インをしなければならないのだった。何とも面倒くさいシステムである。仕方がないので、前日と同じようにボイラー室の柱に荷物をくくりつけてから外出した。

 今日はウズベキスタンの領事館へビザの申請に行こうと思う。現在泊まっているところから路面電車一本で行けるようなので便利である。路面電車の乗り場へやってきたが、二十分ほど待っても電車が来る気配がない。外国のバスや路面電車の停留所には時刻表が掲示されていないことが多いため、いつ来るとも分からない電車を不安とともに待つことになる。前日に走っている電車を目撃したので、まさか廃止されている訳ではないと思うが、線路を眺めているとレールがぐにゃぐにゃに曲がり、その周りには雑草が生い茂っている。廃線跡だと言われても疑いを持たないほどである。

 待つこと三十分、ようやく単行の路面電車がやってきた。いかにも旧ソ連か東欧製といった無骨な造りで、音もなく停留所に近寄ってきたと思うと「きき〜」というブレーキ音を響かせて停車した。乗客はそこそこ多い。

     
 路面電車に乗客が乗り込む。    乗客は結構多い。

 路面電車はゆっくりと発車した。すでに述べたが、この線路はセンターリザベーションになっていて、路面電車のゾーンに自動車が入れない構造なので、渋滞気味の車道を尻目に電車はすいすいと走る。運賃はいつ払えばいいのかと思っていると、太ったおばさん車掌が近寄ってきて二十五テンゲ(約25円、当時)を徴収し、代わりに乗車券をくれた。

 十五分ほどすると、センターリザベーションが尽きて自動車と混走するようになり、渋滞に巻き込まれて全く進まなくなった。いらいらするが、仕方がない。前方に大きな交差点があるようだ。そこを抜けると、少しはましになるかも知れない。十五分ほどしてようやく交差点にさしかかったが、ここで線路が左右に分岐している。線路のポイントをどのように切り替えるのか気になったので注目していると、ドアが開いておばさん車掌が電車から降り、手に持った鉄の棒を線路のポイント部に差し込んで切り替えているのだった。「路面電車はどのようにして曲がっているのか」というのは長い間の疑問だったので、それが解けて少し嬉しい。

 そろそろ降りる停留所のはずである。もとより初めての土地であり、言葉も通じないので自分でもよく把握していないのだが、まずは地図をざっと見て、電車が何回曲がったかとか、交差点を何回通過したかとか、そのような情報で感覚的に判断するようにしている。見当をつけて降り、通りの標識名を見たところ、果たしてウズベキスタン領事館への通りと一致していた。七、八分ほど歩くと、高い塀に囲まれた建物が見えてきた。ウズベキスタンの国旗が掲揚されているのでここが領事館で間違いなかろう。

 守衛に目的を告げたところ、門の脇にある待合所に通された。ここは屋外の通りに面していて、簡単な屋根があるだけなのですこぶる暑い。すでに先客が何人かいた。いずれも旅行者ではなく、所用でウズベキスタンに入国する人のようだ。ウルムチのカザフスタン「領事館」を思い出した。

 壁に申請手数料の表が貼ってある。日本人は十五ドル、他の国も大体似たようなものである。カザフスタン人やキルギス人など近隣の国々は無料なのだが、「百ドル」というべらぼうに高い値がつけられている国があった。アメリカである。ムスリム国家に目の敵にされているのか、以降に訪れた国々でも決まってアメリカ人だけ手数料が高いのだった。

 申請用紙に記入をして座っていると、守衛が話しかけてきた。もとより言葉が通じないので単語を並べるだけである。「キタイスキー? カレーヤ?」と聞いてくる。カレーヤとは韓国人のことだろうと言葉の響きで判断する。日本人だと答えると、いきなり握手を求めてきて「タカダ、タカダ!」と連呼する。タカダって誰だ、そんな有名人いたかとしばし考え込む。するとその守衛は「なんだ、知らないのか?」というような素振りを見せ、格闘技風のキックをするではないか。それでピンときた。スポーツ冒険家をハイキックで沈めたプロレスラーのことか。

「ああ、タカダ・ノブヒコね。」
「知ってる知ってる。オブライト、ベイダー、キタオ……」と言うと、相手は嬉しそうに今度は「タムラ、タムラ!」と叫ぶ。またもやしばし考えた。田村という名前のレスラーはいないこともないが、国外に名を轟かすほど有名ではないと思う。と、その守衛は相棒を連れてきて組み合い、柔道の大外狩りの真似をするのである。それでようやく分かった。近年政治家に転身した女流柔道家のことだったか。

「彼女は結婚して名前が変わったよ」と言うと相手はきょとんとしていた。そのうちに私の名前が呼ばれた。ビザの発給は三日後である。

     
 クワスの売店。    ケバブの売店。


足の痛みと乗車マナー

 帰り際に喉が渇いたので近くの売店に入ってミネラルウォーターを買い、蓋を開けてラッパ飲みで一気にあおった、と同時に吹き出してしまった。ミネラルウォーターではなく、炭酸水だったのだ。暑い中で砂糖の入ってない炭酸水をがぶ飲みするというのはあまり気持ちの良い感触ではないので、普通の水を求めて探し回ったが、結局中央アジア諸国では見つけ出すことはなかった。

 炭酸水のボトルを手に持って帰りの電車乗り場まで歩いているうちに、例の傷が痛みだした。次第に痛みが増してきて、電車に乗るころにはまともに歩けないほどになってしまった。床の高い電車にぶら下がるようにして乗り込む。低床車というものに今までは特別注意を払わなかったが、このような旧ソ連のおんぼろ電車に乗る羽目になって初めて、その便利さに気付かされたのだった。

     
 センターリザベーションの軌道に電車がやってきた。   綺麗なロシア正教会の建物。 

 電車に乗り込んだ頃はそれほど混んでいなかったが、次第に乗客が多くなり、立ち客も見られるようになってきた。そして、この国では座っている若者は老人たちに進んで席を譲る習慣がついているようなのだった。座っている人が気付かない場合は周りの乗客が席を譲るように促している。日本はこの手の乗車マナーに関して遥かに遅れていると思う。

 乗車マナーが良いのは見ていてすがすがしいことなのだが、困ったのは自分も若者であるということである。そして今は足の痛みに苦しんでいるところなのだ。しばらくして私の座っている近くに一人の老人がやってきた。隣りに立っていたおばさんに肩を叩かれ、なにやら言われる。恐らく「席を譲ってやれ」と言っているのだろう。そうしてやりたいのは山々だが、足が痛んで立てないほどである。手すりをつかんでよろよろと立ちあがろうとしている様子を見て、相手に哀れまれたのだろうか、「お前はいいから座ってろ」とばかりに座席に押し戻されてしまった。我ながら情けない。そうこうしているうちに電車はサイラン・バスターミナルへ着いた。よろよろと電車から降り、宿のチェック・インまでは数時間あるので食堂街で早めの夕食をとりながら時間をつぶした。

     
 シャシリクを焼いているところ。    ややトマトが多いスープ。


韓国の旅行者たち

 前日と同じようにチェック・インをし、いつもの六人部屋に入った。見たところ、宿泊客のうち数名は連泊しているようで顔を覚えてしまっている。鳥打帽をかぶった目つきの悪いおっさん、朝鮮系と覚しき気の弱そうなおっさんなど、いずれもひと癖ありそうな面々である。そのうちに朝鮮系のおっさんがこちらに近づき、おずおずと私に話しかけてきた。日本語だった。

 「シベリア鉄道に乗るのですか?」

 いきなり、カザフスタンとはかけ離れた印象の単語が出てきたのでびっくりした。シベリア鉄道はロシア極東から乗るものではなかろうか。

 「いや、確かにそれが正調のシベリア鉄道ですが、カザフスタン発の列車もシベリア鉄道に合流します」

 このおっさんはキム氏といい、シベリア鉄道でモスクワに行くためにわざわざ韓国からやってきたのだという。話を聞いてみると、カザフスタンからシベリア鉄道を利用する韓国人旅行者は相当数いるそうだ。カザフスタンは朝鮮系の人々が十万人ほど住んでいるためか韓国人に対するビザの発給が割と簡単で、そのためロシアを目指す韓国人旅行者の拠点と化しているとのことだった。

 「アルマトゥイ発の列車は乗り心地が悪いですが、あちこちに行くことができます。モスクワ、ノボシビルスク、セミパラチンスク、シムケント……」

 首都のアスタナまで行くと、モスクワを越えて遥かワルシャワやウクライナまで行く列車も運行されているそうだ。

 それは確かに魅力的だと一瞬期待感が膨らみかけたが、モスクワまでダイレクトに行ってしまうのはどうにも楽すぎるような気がする。それに聞いた話によると、日本人がロシアのビザを取得するには相当ややこしい手間を経なければならないらしい。膨らみかけた期待感はしぼんでしまった。

 「あ、それから、そこの交差点の向こうに大きなスーパーがあります。二階にはインターネットカフェもありますよ」

 そういえば、数週間インターネットをしていない。

     
 バスを待つムスリムの女性たち。    満員のバス。

 キム氏との話を切り上げ、廊下に出たところで今度は別の韓国人青年に話しかけられた。確かに、カザフスタンにおいて韓国人旅行者の数はかなり多いようだ。

 「君は日本人か? 俺はソウルから来たクリスチャンだ」

 韓国人は名乗る前に自分がクリスチャンと言う人が多い。彼は続けた。

 「君はキルギスへ行くのか? それとも直接ウズベキスタンを目指すのか?」

 そう言われて、アルマトゥイ以降のルート作りをまだしてなかったことに気付いた。ウズベキスタンのビザを申請中ということなので、ひとまずの目的地がウズベキスタンの首都にして中央アジア随一の大都会・タシケントであるということは漠然と思い描いている。が、その間のルート選定を考えていない。

 「ああ、一応タシケントを目指しているんだけど、その間のルートはまだ決めてないな。

 このバスターミナル内の駐車場には、「Ташкент」の行き先表示を掲げたバスが大量に停まっていて、およそ十五〜三十分の割合で頻繁に発車していくことはチェックしていた。

 「あのバスには気をつけなければいけない。数年前からウズベクの国境警備がやたらと厳しくなって、タシケント行きの国際バスは国境の手前で運行を打ち切ることになっている。国境からタシケントまではタクシーを乗り継いで行かなくてはならないよ」

 そうか、そんなに厳しいものなのか、確かにカザフスタン国境からアルマトゥイまでの乗り合いタクシーを探す時のつらさといったらなかった。

 「それに」と青年が続けた。「君は、カザフスタンで外国人登録をしてないだろ?」

 外国人登録というのは主に旧ソ連の国々に一時滞在する外国人がやらなければならない制度である。ただ、国によって方式がまちまちで、コピーさせてもらったガイドブックには、カザフスタンでの外国人登録は不要と書いていたように思えたのだが。

 「あそこの国境では、外国人登録がないと絶対に通過させてくれないよ。イミグレ付近にたむろしているタクシードライバーに四十〜五十ドル払ってこっそりウズベク側に抜けるしか手がないんだよ」

 何か話がよく見えないのだが、役人が駄目だと言っている国境の通過が、そんな訳の分らないタクシードライバーに金を渡せばできるものなのか。

 「さらに」青年が言う。まだあるのか。

 「それらのドライバーが突然刃物をつきつけ、無事でいたかったら五百ドルにしろ、という話も聞いたことがある」

 この青年、さらっと恐ろしいことを言う。聞いてみると、中央アジアは五度目で今回はキルギスの山岳地帯をめぐるという。

 「そういう訳だから、タシケント方面へダイレクトで抜けたいなら気をつけな。じゃあな」見るといつの間にいたのか、若い韓国人女性が我々の後ろに立っている。二人は外へ出て行った。なんだ、女連れか。

 こういう話を聞いていると、今後のルートはおのずから決まったも同然であろう。ダイレクトにタシケントを目指すのでなく、一旦キルギスのビシュケクに出ることに決めた。

     
 バスのトロリーを調整しているところ。   繁華街の売店。 

旅のルートとゲイ男

 夜はまだ浅いため、食堂街でシャシリクをかじりつつ生ビールを飲む。カザフスタンのビールも中国のそれと同じく、味が薄い。日本のビールは濃いものが多く、これら薄めのビールを嫌う人も多いが、慣れてしまえばこちらの方が多く飲める。

 数杯飲んで宿に引き上げた。午後十時を回っていて、既に室内は消灯となっている。ただ、廊下へ通じる扉が開きっ放しなので、そこから灯りが漏れてきて完全な闇になっている訳ではない。

 ガイドブックのコピーを眺め、今後のルートを組み立ててみる。ひとまずキルギスの首都・ビシュケクまで向かい、そこから同国を縦断して南部の主要都市・オシュへ至る。ウズベキスタンへ入ってフェルガナ盆地を経由するとタシケントはすぐである。このルートが一番理想的だろう。余裕があれば、オシュよりさらに南下してタジキスタンに入国するのもいいかもしれない。

     
 おんぼろの路面電車。    二両連結も存在する。切符はどのように販売するのだろう。

 そのようなことを考えていると、急に室内の灯りがついた。どうやら新たな宿泊客が着いたらしい。と、強烈なウォッカのにおいに思わず顔をしかめた。入室してきた彼はしこたま飲酒しているようで、戸口から五〜六メートル離れている私のところまで酒のにおいが漂っているのだった。

 見ると、背丈は百七十センチ弱しかないがたくましい体格のロシア系の男が、私の隣りのベッドで旅装を解いているところだった。なぜか上半身裸である。けむくじゃらの上半身は見事にビルドアップされていた。アントニオ猪木を裏投げでマットに沈めたソ連の柔道家を連想させる。酒臭さとともに、危険な雰囲気をふりまいている。あまり関わり合いになりたくない手合いなので、目を合わさずに眠ったふりをしているうちに本当に寝てしまった。

 漬け物石が乗っかっているような息苦しさを感じた。金縛りにあっているのかと思った。特に疲れている時はよく金縛りにあうからだ。そのような場合は半分目が覚めているのではないかと思う。目を開けよう、目を開けようを念じているうちに、目が開いた。普通なら、それで終わりだった。少し間をおいてから目をつぶれば、再び眠ることができる。

 が、目を開けた時に見た光景は、そのようなものとは遥かにかけ離れた、驚愕すべきものだった。

 先ほどのロシア男が、体の上に乗っているのだった。上半身裸のままで私の体を組み敷き、荒い息遣いが下品に響き渡り、ウォッカの臭いが不愉快に鼻をつく。

 「こいつ、ゲイか!?」

 私はゲイ男から何とか逃れようとするが、屈強な上半身を振りほどくことがなかなかできない。電気が落ちているためか、周りの宿泊客は気づく気配もない。これはこの手の旅を始めての大事件である。成都でデジカメをトイレに落としたり、ダッカでゼネストに巻き込まれたり、ドンダンで刃物沙汰の格闘になったりしたことなど、このゲイ男に襲われていることを考えれば微々たるものだ。無事にこの場を切り抜けられるのか、頭の中はそれだけである。

 ふと、この男は上半身は屈強な体格をしているが、下半身はそれほどでもないことに気付いた。背もそれほど高くはないし、狙うなら下半身だろう。

 右足を思い切り蹴り上げると、ゲイ男の股間を直撃した。男は股間を抑えてうずくまり、その隙に私はようやくのことで逃げ出すことに成功した。

 ほうほうの体でフロントにたどり着き、顔なじみになっていた浅丘ルリ子似のおばさんにこの惨状を訴えて部屋を変えてくれるように頼んだが、もとより言葉が通じるはずもない。仕方なく、この夜はフロント脇のソファーに横になった。いつゲイ男の「襲撃」があるか分からないので、明け方まで眠ることができなかった。

 翌朝、ゲイ男がチェック・アウトする前に宿から避難した。荷物だけが心配だったので、こっそりと宿泊部屋まで戻って取ってきたが、ゲイ男は泥酔しているのか高いびきをかいて眠っていた。彼を起こさないようにこっそりと荷物をまとめ、ボイラー室に持って行った。午前八時半である。寝不足でまぶたが重い。

     
 天山山脈を望む。   カザフスタンは石油が安い。 


無聊な日々

 私はアルマトゥイで何をするのでもなく、ただただ街中をうろつきまわっている。普通は新しい街へ行った場合、何かしら面白いものを見つけようと活動的に動き回り、何かしら興味深いものを見つけ出すものである。それが昨晩のこともあるためか、この日はだらだらと歩き回るほかはない。旧ソ連がステップ地帯のど真ん中に遺したこの共産主義の遺物のごとき街で、私はどのように行動すれば良いのだろうか。それを見出すことができず、マッチ箱のようなアパート群の中を私は無目的に徘徊するのみである。

 それはこの旅を始めて以来初めて味わう、無聊な日々でもあった。

     
 ポールを震わせ、トロリーバスがやってきた。   ナザルバエフ大統領の写真。他の旧ソ連諸国と同様、カザフスタンも独裁国家である。