シルクロード、西へ


第8章 フェルガナ盆地を行く――国境線と飛び地の旅


外国人登録

ビシュケクはキルギス共和国の北部高原地帯に位置し、一九九七年の統計によると人口はおよそ五十九万人である。旧ソ連時代は「フルンゼ」と呼ばれていた。これはロシア革命の時に活躍した将軍の名前、一方の「ビシュケク」は馬乳酒造りの道具であるという。高原のこぎれいな首都といった趣がある。

現在では一国の首都であるが旧ソ連時代は地方都市だったため、見どころは少ないが滞在しやすそうな街だ。

ここでやっておかねばならないことが一点ある。それは旧ソ連の国々に多く見られる「外国人登録」である。キルギスに長期滞在する外国人は、到着後三日以内にオビールなる役所へ行って外国人登録を行なう必要がある。登録していない場合は高額の罰金が課せられるという。ただ、カザフスタンのところで述べたように、制度自体がすでに形骸化している可能性もあり、やるべきかやらないで放っておくか、少し迷う。

だが、万一のこともある。また、どうせ観光的な見どころの少ないビシュケクではすることもないのだ。街をぶらぶらしがてらオビールに赴いてもいいだろう。

地図でオビールの位置を調べてみた。街の中心に位置しているらしい。現在宿泊しているバスターミナルの簡易宿泊所は西のはずれにあり、中心部までは直線距離で三キロほどである。のんびり歩いて行くにはちょうど良い。この宿には荷物保管所があったため、そこに荷物を預けて出かけることにした。
     
   ビシュケクのバスターミナル。  

バスターミナルの前を東西に大きな道が走っており、これを「ジベック・ジョル通り」という。アルマトゥイにも同じ名前の通りがあった。ここから街の方に向けて、無骨な形のトロリーバスが出ている。疲れたらこれに乗れば良いと思いながら歩く。ビシュケクは標高約八百メートルの高原地帯にあるために空気がひんやりしていて気持ち良いが、同時に照りつける日差しが容赦なく肌を焼く。大通りを猛スピードで走り抜ける自動車が巻き上げる砂塵と排気ガスに悩まされつつ三十分ほど歩いていると、公園や博物館などが立ち並んでいるエリアに出た。この辺りから街の中心に入るのであろう。公園を横切ってなおも歩く。
     
   博物館か、それとも国会議事堂か。  

すると、道の両側に店舗や露店がずらりと並んでいる。どうやらここが、ビシュケクの中心街だろう。大きな噴水が勢いよく水しぶきを上げ、緑も多く涼しげな雰囲気だ。

やがて一軒の古びた建物にたどり着いた。ここが目指すオビールだった。入り口付近にも大勢の人がたむろしている。ほとんどが地元の人だろうと推測される。
     
 ビシュケク中心部。緑が多くて明るい印象を受ける。    この他にも多くの噴水を見かけた。

人ごみをかき分け、二階にある事務所に入る。人々が列を作って並んでおり、格子の向こうの係員が業務をしている。とりあえずどうすればいいのか分からないので、係員に尋ねるもまともにとりあってもらえない。例のごとく、言葉が通じないのである。パスポートを取り出して「俺はツーリストだ」と叫ぶとようやく理解してもらえたのか、あごをしゃくって申請書の場所を教えてくれた。

ぺらぺらの紙に必要事項を記入して列の後ろに並ぶ。業務は遅々として進まない。周囲の人から好奇のまなざしでじろじろ見られる。私は完全によそ者である。

ようやく私の番になった。申請書とパスポートを受け取った係員は旧型のパソコンになにやら入力を始め、すぐにパスポートに大きなスタンプを押して返してくれた。これで外国人登録はあっけなく終わった。

パスポートに押されたスタンプを見るが、全てキリル文字で書かれていて何のことだかさっぱり理解できない。恐らく地方の宿に泊まる時や警官から職質を受けた時などに必要なのだろうと思った。だが、結局キルギスを出国する時まで一度もこのスタンプをチェックされることはなかった。

     
 オビール。係の人がパソコンに入力している。   申請を求めて、多くの人が並ぶ。 


ビシュケクの街角

オビールを出た。しばらくぶらぶら歩く。街の雰囲気は明るい。屋台やオープンテラスの店が多いせいもあるかも知れない。

喉が渇いた。ふと道の傍らを見ると、清涼飲料の自動販売機がある。自動とは言っても、お金を入れると缶やペットボトルが転がり出てくる方式ではなく、紙コップが滑り降りてくる訳でもない。ガラスのコップが備え付けられているのである。つまり、飲みたければまずコップをセットしてからお金を入れなければせっかくの飲料が無駄に垂れ流されることになってしまう。飲み終わったコップは備え付けられている水道水で洗って返却するようだ。
     
   クワスの自動販売機。  

誰が飲んだのかも分からないコップを使うのが苦手な人にはお勧めできないが、その手のことには無頓着な私はコップを設置してコインを投入した。出てきたのは冷たいクワスだった。
     
 街の目抜き通り。やや渋滞気味である。   ビールの露店もある。 

喉が潤うと腹が減る。何か美味しそうな物が売っていないかときょろきょろしていると、ドネルケバブの店が目に入った。ドネルケバブとは、垂直に延びた太い串にスライスした羊肉を巻き付けて塊状とし、串をゆっくり回転させながら電熱器であぶった料理のことである。これを削り取ってナンに挟んで食べる。日本でも秋葉原などで見かけるようになったので、知っている人も多いかと思う。
     
ドネルケバブ屋の兄ちゃん。    両替屋の看板。

ドネルケバブを食べながら店の兄ちゃんと喋る。この兄ちゃんはトルコ系の顔つきをしているのだが、実はドンガン人だった。ドンガン人(東干人)とはカザフスタンやキルギスに住む中国系ムスリムの末裔である。清末に中国の甘粛や寧夏でムスリムの大規模な反乱が起こり、弾圧された人々が当時ロシア領だったこの地に逃れて住み着いた。よってドンガン人は中国の回族と祖先を同じくしており、言葉も中国語がベースのドンガン語を喋る。

そのため、ロシア語やキルギス語がまるっきり分からない私は、中国語でこの兄ちゃんと会話をした。だいたい言っていることの半分くらいは理解できる。ただ、ロシア語や中央アジア諸言語の語彙が混ざっているため、中国語の方言というよりもはや別の言語なのではないか、と感じた。

帰りがけに立派な中華料理屋を見かけ、入りたいとする欲求が強かったがなんとかその思いを払いのけ、帰りはトロリーバスを乗り継いでバスターミナルに戻り、例のごとくシャシリクと生ビールで夕食にした。
     
 オープンテラスの店が並ぶ。    ガレージセールをしているようだ。


オシュ・バザールへ

ビシュケクには数日滞在したが、そろそろ南部フェルガナ盆地のほとりに位置するオシュに移動しなければならないと思った。実は、オシュに出立する気にはなかなかなれないでいた。というのは、このルートは厳しい山岳地帯を一晩かけて移動するかなり過酷な旅程だからである。鉄道だと気晴らしにデッキにでて一服などできるが、バスは身動きできない。トイレにも行けないので自由に飲み食いすることもままならない。そのような訳で、ビシュケクを夕方四時ごろ出発して翌朝十時ごろオシュに到着する夜行マルシュルートカをなんとか避けつつオシュに向かう方法はないかと調べていたのである。

しかし、オシュにたどり着くには航空機を除けばこのルートを通る他ないようだった。覚悟を決めた私は足取りも重く、オシュ行きマルシュルートカが出ているというオシュ・バザールへ向かった。

オシュ・バザールはバスターミナルからバスで南へ十五分ほどのところにあった。整然としたイメージの市内中心部とは異なり埃っぽく雑然としていて、食料、衣料品、生活雑貨を売る店からクワスの自動販売機、シャシリクの屋台まで何でもそろっていた。
     
 トロリーバスにてオシュ・バザールを目指した。 埃っぽいオシュ・バザール。

オシュ行きマルシュルートカを探し、人ごみをかき分けつつ歩いて行くと、ソ連製の旧型自動車が大量に停まっている駐車場があり、その片隅にマルシュルートカが数台ひっそりと停車していた。そのうちの一台が「Ош」の行先表示板を掲げている。これがオシュ行きマルシュルートカだった。だが、乗客は誰ひとりとしていない。運転席で眠そうにしていた運転手に尋ねた。

「このマルシュルートカはオシュまで行くの?」

「ああ、行くことは行くが、たった今前の便が出てしまったばかりだ。お客がいっぱいになるまで少し待ってろ」

時刻表がなく、乗客がいっぱいになった時点で発車というのは内陸部の交通でよく見られるパターンである。この調子では発車は一時間以上待たねばなるまいなと思いながら腕時計を見た。午後三時過ぎである。荷物をトランクに積み込み、傍らにある食堂でビールを飲みつつ時間を潰すことにした。

一時間ほどして食堂を出ると、マルシュルートカには六割ほどの乗客が乗り込んでいた。そろそろ乗っておくかと思い、空いていた助手席に乗り込む。身動きが取れない後部座席より、眺めのよい助手席の方が少しは旅の無聊をなぐさめることができるだろう。だが、実は助手席は二人乗りだった。ほどなくしてもう一人の乗客が乗り込んできたため、私は運転手とその乗客に挟まれる格好になってしまった。
     
   オシュ・バザールの駐車場。  


峠道を行く

マルシュルートカは猛然と砂煙を上げつつオシュ・バザールを発車した。しばらくはビシュケクの市街地を飛ぶように駆け抜ける。大通りに出て鉄道の高架をくぐり、しばらく行くと辺りはのんびりとした郊外の風景となった。
     
   ビシュケクの街はずれで見かけたロシア正教会。  

立派に舗装された幹線道路を突っ走るので、乗り心地も良い。これは意外と楽な旅程になるかも知れないと思っていると、マルシュルートカはにわかに左折して南へ針路を転じた。道路が上り坂になる。両側には果樹園が広がり、そして道路の先には険しい山々が連なっているのが見えた。山越えかと何気なく思って地図を眺めると、「テュル・アシュー峠、標高三千五百八十六メートル」とあったので驚いた。この辺りは三千メートル級の山々がたくさんあるようで、この先も同じくらいの高度の峠越えを控えているようだった。一瞬、高山病が心配になったが、ビシュケクもある程度の高地にあるので既に身体が慣れている、大丈夫だろうと考え直した。

午後五時、あたりはまだ明るい。果樹園の他に牧草地も見られ、放牧された馬や牛がのんびり歩いている。美しいドーム屋根を持つモスクも見える。トルコ系、ロシア系、中国系と様々な民族が暮らすキルギスだが、根底にあるのはやはりイスラム教なのだ。
     
 国道を快走する。    まもなく山道へ入った。

まもなく果樹園は尽きて、ごつごつした山肌が迫る中を峠道に突入した。道幅は広いとは言えないが、対向車が少ないためにマルシュルートカは減速せずに飛ばす。かなり危険であるがここは運転手を信頼するしかない。ふと道路脇を見ると、大破してスクラップになったトラックが転がっていた。このようにはなりたくないものだ。

それにしても乗客たちは車酔いする者もなく、落ち着き払ったものである。山間部の峠道をバスですっ飛ばすというのは中国南部や東南アジアで慣れっこになっているが、かならず車酔いする乗客がいる。特に中国西南部のチベット系少数民族に多いように思える。彼らは車に酔うと、窓際の者は窓の外に吐き、通路側の者は通路に吐く。おかげで車体、車内ともに地獄絵図のような有様となる。窓を開けっ放しの場合、前方に座っている乗客の吐瀉物の飛沫が顔にかかることすらある。そのような状況を予想していただけに、これは嬉しい誤算である。
     
  牧草地を飛ばす。  

窓の外を眺めると、これまで上ってきた道が蛇のように連なっている。はるか下には農耕地が緑色の絨毯のように広がる。随分高いところまで上がってきたものだと思っていると、マルシュルートカはトンネルに突入した。ここがテュル・アシュー峠のサミットなのだろう。長いトンネルである。二?三キロはあろうか。トンネルを抜けると、日は落ちて周囲は薄暗くなっていた。時計の針は午後七時半を示している。
     
   峠道に入った。  


過酷なオシュ街道

 地図を見る。この地点から高地を七十キロほど西に走ると今度は標高三千百八十四メートルのアラベル峠があり、そこから山を下りつつ南に五十キロほどで高原の湖・トクトグル湖に到着する。この湖がビシュケクとオシュのちょうど中間点にあたる。

高原地帯とは言っても道路はそれほど曲がりくねっておらず、スムーズに進む。辺りはこれまでの農耕地に代わって一面牧草地となった。馬や牛が寝そべったり草を食んだりしている。その周りには人々が住まうのであろう、丸い形状のテントがたくさん設営してあった。

やがてあたりは真っ暗になり、車外もほとんど見えなくなった。街灯もなく、人家も稀である。頼りになるのはマルシュルートカが照らすヘッドライトだけだ。空を見上げると無数の星がきらめいている。滅多に見られる光景ではないので、首が痛くなるまで眺めていた。

午後十時前、マルシュルートカは一軒のドライブインに入った。ここで夕食をとるのである。運転手と私を含めたおよそ十人の乗客は細長いテーブルについた。椅子はなく、一段高くなった床にあぐらをかく。

乳茶を飲みながら待っていると、細かく切ったナンと塩ゆでされた羊肉が出てきた。タマネギのスライスが申し訳程度に添えられている。周囲の人が「食え、食え」と勧めてくれるのだが、夜遅い時刻に胃もたれしてしまいそうな料理だ。ゆっくりと時間をかけて食べた。他の人々は猛烈な勢いで羊肉を平らげ、塩味のナンにとりかかっている。
     
 マルシュルートカの同乗者たち。    ドライブインで出てきた羊肉の塩ゆで。胃にもたれる。

午後十一時過ぎ、マルシュルートカは再び走り出した。夜も完全に更け、辺りには村もないのかひたすら闇が広がり、寂しい雰囲気である。単調な風景に見飽きたと思ったら、急に眠くなってきた。熟睡はとても望めないだろうが、しばらく眠ることにする。

目が覚めるとマルシュルートカは湖畔の曲がりくねった道を走っている。トクトグル湖に相違ない。アラベル峠は既に越え、海抜八百五十メートルまで下ってきている。時計を見ると一時半、まだまだ先は長い。

湖の北側にトクトグルの街があるはずだが、すでに通過してしまったのか見えない。東西に細長い湖の東側を迂回して通行しているのだと思うが、方向感覚が失われているために現在位置が把握できない。あきらめてもう一度眠る。

車体に衝撃を受けて目を覚ました。何か段差のあるものを通過したと思って外をよく見ると、これは線路だった。キルギス中西部からウズベキスタン領のフェルガナ盆地へ向かって数本の線路が延びている。その一本であろう。トクトグル湖から南西に百キロあたりの地点で、すでにフェルガナ盆地の東縁をかすめつつある。

この辺りは国境が複雑に引かれており、オシュまで直線距離だとそれほど遠くはないが、ウズベキスタン領が東に食い込むように伸びてきているため、国境沿いに東に遠回りしてオシュへ向かわねばならない。飛び地も多い。マルクス・レーニン主義の原則に基づき、スターリン時代に遊牧地はキルギス族に、農耕地はウズベク族に帰属させた結果国境線が複雑になり、多くの飛び地が生まれたという。ソ連時代はそれでも相互の住民が自由に通行できたが、ソ連崩壊によって各共和国が独立した結果、これが逆に仇となって複雑な国境線は密輸の拠点や反政府ゲリラの温床となり、飛び地の住民は通行が制限された結果、往来に苦労するようになった。このあたりの地図を見ると、複雑な国境線と飛び地のために、ほぼ直線で引かれている道路や鉄道が何度も一旦国外に出てもう一度戻ってくるというような状況が発生している。現地の人々は通行証でも持っているのだろうか。外国人はビザの関係もあって、このような地域の通行はほぼ不可能であろう。

時計を見た。午前三時半。標高がかなり下がってきているようだ。車窓は牧草地から再び農耕地が多く見られるようになってきた。遠くの空が薄明るくなってきている。

午前六時、辺りはすっかり明るくなった。ジャララバードなる街に到着。この街には鉄道が走っており、フェルガナ盆地を経てウズベキスタンの首都タシケントまで通っている。だが地図を見ると、一旦ウズベク領に入った線路がしばらくして再びキルギス領に入り、さらにウズベク領に出て行くという複雑怪奇なルートを取っている。明らかに鉄道が引かれた後に国境線が画定されたという感じである。このような場合、輸送はどのような方式をとるのだろう。列車は僅かな距離を走っただけで何度も国境で停車し、その度に乗客は出入国手続きを行ない貨物は検査を受ける。非効率極まりないように思える。だが、駅には貨物列車が停車しており、緑色の機関車が入れ替え作業をしていた。

鉄道駅の前で四?五人の乗客が降りた。オシュまであとどのくらいかと尋ねたところ「二時間」とのことで、いよいよ到着かと思ったが、突如運転手が「疲れたから仮眠をとる」と言って寝てしまった。交替の運転手などいないので、彼が起きるまで待つしかない。他の乗客は文句を言う訳でもなくじっと座っている。通常だといらいらさせられるのかもしれないが、私も眠い。うとうとしているうちに気がついたら再び発車していた。


タジクかウズベクか
午前十時、ようやくオシュに到着した。南北に細長い街で、ビシュケクに比べて日差しが強く暑いイメージがある。空腹なので重い荷物をひきずりつつ近くの食堂に入り、ナンとスープの朝食をとる。

これからどうするか考える。移動先として考えられるのはウズベキスタンとタジキスタンである。このうちウズベキスタンへはオシュの北方十キロほどの地点に国境があり、フェルガナ盆地のアンディジャンを目指すことになる。一方のタジキスタンへはオシュ西方のバトケン州までバスか乗り合いタクシーで行き、中心都市バトケンから国際バスに乗り継ぐというかたちになる。手っ取り早いのはウズベキスタン行きだが、古代ソグド人の末裔と言われるイラン系民族の国家・タジキスタンに寄り道していくのもいいかも知れない。しばし迷ったが、地図を眺めていてはたと気づいた。

オシュからバトケンへ向かう街道上に、ウズベキスタンの飛び地が存在している。つまり、この道はキルギス国内を移動するのに一旦ウズベキスタンへ出国し、キルギスに再入国するという複雑なルートをとっているのである。そして、私の持っているウズベクビザはシングルエントリー、すなわち飛び地に入った地点で無効となってしまい、改めてウズベキスタンを目指すことが不可能となってしまう。申請料をケチってシングルエントリーのビザしか持たなかったのがこのようなところで裏目に出るとは思わなかった。かくして、不本意なれど私の進む道はウズベキスタンに決まったのである。


国境を越える
先にも述べたように、オシュからフェルガナ盆地一帯にかけてはキルギス、ウズベキスタンに加えタジキスタンも国境を接しており、国境線の引かれ方は奇々怪々、おまけに多数の飛び地が存在する。道路と国境線が互いに無関係に交錯しているため、直線距離では短くても車両はわざわざ迂回ルートをとらねばならない。国境線が複雑で飛び地が多いのをいいことに、この地は反政府ゲリラが出入りする地域となり、タジク内戦の際はここから武器の密輸等が行なわれたという。密輸や密入国も横行していたため、二十一世紀初頭になってウズベキスタンは国境警備を厳重にしてしまった。現在、カザフスタンやキルギスからウズベキスタンに向かう国際バスが存在しないのはそのためである。アルマトゥイにいた時、タシケント行きの表示を出しているバスが実際にはウズベキスタン国境の手前までしか行かずに不思議に思った理由がようやく納得できた。

そのような訳で、オシュからウズベキスタン領内へ直通するバスは存在しない。国境の手前でバスを降り、国境は歩いて通過しなければならない。多少面倒くさいが、国境を越えるとフェルガナ盆地の都市へ向かう乗り物が見つかるだろうと当たりをつけるしかない。

とりあえず国境へ向かう路線バスに乗り込む。バスはマイクロ型で、狭い車内に多くの男女がひしめき合っていた。二十分ほどで国境の街、ドゥストゥックへ到着。

出国手続きの際、例の外国人登録証をチェックされるかと思いきや、全くもってノーチェックだったので拍子抜けした。旧ソ連圏の外国人管理システムは一体どうなっているのだろうか。もちろん、他国の場合はきちんと機能していることもあるだろうから、安易な決めつけは考えものである。

キルギスの出国手続きを終え、国境の中立地帯へ足を踏み入れた。金網に囲まれた細い通路をとぼとぼ歩く。金網には有刺鉄線がぐるぐる巻きにされている。元々は同じ国家の民だというのに、これほどまでに警戒しなければならないのだろうか。国家の分裂というものを経験したことのない私には、この感覚は絶対に理解できないのだろう。

中立地帯に両替屋がいたので、持っていたキルギス・ソムをウズベク・ソムへ両替した。ウズベキスタンはインフレが激しいのだろうか、それほど多くない額のキルギス・ソムがかなりの札束になった。
     
   キルギスとウズベキスタンの国境。歩いて越境する人が多い。  

のんびりしたキルギスの出国手続きに比べ、ウズベク側の入国手続きはかなり厳しかった。パスポートを入念に調べられ、荷物をひっくり返されてしつこくチェックされた。その間一時間強。洗面道具やデジカメのパーツに至るまで「これは何だ」と厳しく尋ねられた。あるいは怪しい物を密輸している外国人だと思われたのかもしれない。税関の係官がいばっているのはカザフスタンと同様であった。初めての国に入国する際、これはマイナスイメージとなる。

ともあれ、ほうほうの体でようやくウズベキスタン領内へ入った。すると意外にもそれまで曇っていた空が晴れてにわかに明るくなった。そしてゲートには「Welcome to Uzbekistan」とアルファベットで大書されていた。


フェルガナ盆地
 こうして私はやや不本意なかたちながらも、フェルガナ盆地へ足を踏み入れた。

第三章でも述べたが、中国前漢時代の将軍、李広利が汗血馬を求めてフェルガナ盆地まではるばるやってきたのは紀元前百四年、今から二千年以上も前である。そして前漢の都長安(西安)からここフェルガナ盆地まで、二千キロ以上も離れている。古代の人はどのような想いでここまでたどり着いたのであろうか。少しくそのような感傷にひたるが、すぐに地元の子供たちが寄ってきた。東洋人が珍しいのであろう。明るい笑顔に長旅の疲れも癒される。

フェルガナ盆地方面へ至る乗り合いタクシーはすぐに見つかった。停車している韓国製の小型車・デウの周りに人だかりがしており、運転手が「アンディジャン、アンディジャン!」と叫んでいる。アンディジャンはこの辺りの中心都市である。たどり着けば首都・タシケントへ向かう交通機関もあるだろう。
     
   乗り合いタクシーを探していると、子供たちが集まってきた。  

乗り合いタクシーに飛び乗った。料金は千ソム(約100円、当時)だった。さっそくタクシーは走り出す。時計の針は正午過ぎを指している。

盆地とはいえ広大なので、日本のそれのように狭苦しい感覚はない。暑苦しくもない。日差しはきついが、空気が乾燥しているために木陰に入ると涼しいくらいである。ほぼ直線に延びた道路を小型のデウは突っ走る。
   
 乗り合いタクシーは農耕地帯を走る。   途中、小さな村に立ち寄った。
 

二時間ほどでアンディジャンへ着いた。ウズベキスタン第四の都市である。もっとも、首都タシケントを除けば他の都市は人口が少なく、約三十四万人ほどである。

アンディジャンと言えば、「暴動」と切り離すことのできない都市である。一八九八年に当時ロシア領のトルキスタン総督府に対してムスリムの大規模反乱が発生し、多くの人々が殺害されたという。また、二〇〇五年には政治不信等が原因で民衆がデモを起こし、それに対して秘密警察が発砲した。この時の死者は公表されていないが、千数百人に上るとする見方が一般的である。ウズベキスタンの歴史における負の部分を担った都市、それがアンディジャンである。

遊園地の前でタクシーを降ろされた。人が入っていない。大きな観覧車も停止したままだ。あるいはすでに閉鎖されているのかもしれない。旧ソ連の街にはサーカスと遊園地が必ず設置されたという。それが却って頽廃的なイメージを植え付けてしまう。そう言えば、あのウクライナ・チェルノブイリ原発に隣接するゴーストタウン、プリピャチの街にも遊園地があった。
     
  アンディジャンの遊園地。寂しい光景だ。  

寂しい光景の中、タシケント行き乗り合いタクシーが停まっていた。今度はデウではなく、ソ連製の旧型車・ラーダ2105だった。私の他にシルクのワンピースとゆったりしたズボンを着用し、頭にスカーフを巻き付けたおばさんが乗り込んだ。タシケントまでの運賃は6000ソム(600円、当時)である。

ラーダは危うい音をきしませながらも順調に街道を西へ飛ばした。雲ひとつない青空からは燦々とした日差しが照りつけ、周囲の農耕地には青々とした農産物が美しく輝いている。これまで回ってきた国々を見ると、ステップ地帯のカザフスタン、高原遊牧地帯のキルギス、灌漑農耕地帯のウズベキスタンと、それぞれ産業構造がはっきりして分かりやすい。これもスターリンの民族政策によるものなのだろうか、などと一瞬考える。

一時間半ほど走り、コーカンドに着いた。コーカンドと言えば高校で世界史を習っていた人にとっては「コーカンド・ハン国」の名でおなじみだろう。ヒヴァ・ハン国、ボハラ・ハン国と並び、十六世紀以降、中央アジアで栄えたウズベク人の国家のひとつである。受験生時代、呪文のように「ヒヴァ、ボハラ、コーカンド」と唱えていたために名前は覚えていたが、中央アジアのどこに存在していたのかは知らないままであった。実際に訪れてみないと一生分からずじまいだったかもしれない。

ウズベク西部のヒヴァ、ボハラ両都市は当時の文物が豊富に残され、世界遺産に登録されているが、東部に位置するここコーカンドの街は一九一七年の革命の頃に白軍の根拠地となったことでボルシェビキに徹底的に破壊され、現在では見るべきものがほとんど残っていない。マッチ箱のような団地群、必要以上に広い公園など、旧ソ連の典型的な都市の風景が延々と続くだけである。
     
   無機的な印象を受けたコーカンドの街角。
 

コーカンドを後にすると、にわかに山道に入った。フェルガナ盆地が尽きる辺り、南北から険しい山々が迫り、あたかも盆地の出口は狭い門のような形状となる。必然的に道路は曲がりくねった山道になる。この辺りはすぐ南方にタジキスタンの国境が迫ってきており、例のごとく飛び地も多く存在するようだ。

これまでの豊かな農耕地帯がうそのように、辺りは草木もろくに生えないごつごつとした山に囲まれることになった。運転手が英語で言う。

「俺はタジキスタンやパミール・バダクシャンに行ったことがあるが、国中このような光景だ」

タジキスタンは山岳国家だと聞いていたが、全国土がこのような感じなのかと驚く。主産業は綿花の栽培だと聞いたことがある。

「パミール・バダクシャンて言うのは何?」

そう尋ねると、「タジキスタン南部にある自治領だ」と返ってきた。九〇年代は政府との間で内戦となり、タジキスタン領内はぼろぼろになったらしい。そして運転手は、「俺もタジク人だ、ウズベクのな」と付け加えた。

しばらく走って運転手が小用を足すというので車を停めた。もちろん峠道の途中にトイレなどないので、用はそこらで足すのである。私もつきあうことにした。車外に出たため気分が開放的になり、つい辺りをうろうろしてみたくなった。

すると運転手が言った。

「この道路のすぐ南側はタジキスタン領だ。むやみにうろうろすると国境を跨いでしまうぞ。気をつけろ」

私は国境がかくも近く、身近なものなのかと驚かされた。

やはり我々日本人は島国の民なのだろう。陸地の国境についてそれほど深く考えさせられることはない。せいぜい海外に行く際の空港、少し旅をしている人でも税関のあるポイントを意識するくらいなものだろう。国境を「点」としか捉えず、「線」と認識することは少ないのではないだろうか。

これほど国境というものを強く意識するのは、旧ソ連時代に時の為政者によって細かく民族の居住地が決められ、それによって国境が画定され、飛び地まで設定され、その後ソ連崩壊によってそれまで気軽に往来できたところに行けなくなった、そのような経緯を持つ人々だからこそ強く意識するのであろう。

そのようなことを考えているうちにタクシーは山岳地帯を抜け、平地に入った。それまで片側一車線だった道路が三車線のバイパスになり、首都・タシケントに近づいていることは明らかであった。鉄道線路と並走し、行く手に高層ビル群が見えてきた。綺麗な路面電車も現れた。その規模はアルマトゥイやビシュケクより遥かに大きなものである。いよいよ中央アジア随一の大都会に入ろうとしている。私は大きく深呼吸をした。
     
  ようやくタシケントへ到着した。