シルクロード、西へ 

 
第12章 ボハラ――砂塵の都 


ボハラの概況

ボハラはサマルカンドの西方二百五十キロほどの砂漠に位置する人口二十三万五千人(一九九二年の統計による)の街である。古くはイラン系サーマーン朝(八七四?九九九年)の都となり、サマルカンドが栄える以前にイラン・イスラム文化が既に繁栄していたが、後にトルコ系ウズベク人がボハラ・ハン国(一五〇〇?一八六八年)の都とし、ロシアやイラン、トルキスタンとの中継貿易で栄えた。近代になって旧ソ連のウズベク共和国に編入された関係もあり、現在ではウズベキスタンの一地方観光都市だが、その歴史的経緯からイラン系タジク人が相当数居住している。

ボハラはイラン・イスラム文化とトルコ・イスラム文化が融合した古都であり、それがサマルカンドと異なった文化的相違点と言えるだろう。出かける前から心が躍る。

さて、サマルカンドからボハラへの移動は、久しぶりに鉄道を利用することにした。中央アジアの国々は中国ほどではないが、鉄道がそれなりに活躍している。但し、これまで見てきた経験だと車両がおんぼろのソ連製なので旅客鉄道の乗り心地はあまり良くなさそうである。

まあ、何日もかけてモスクワくんだりまで出かける訳でもなし、僅か二百数十キロの距離くらい何てことないだろう。そう思っていた。それに、これから乗る列車はウズベキスタンが誇る観光特急「レギスタン号」である。まさかおんぼろ列車を充当してくるはずはなかろう。

その予想は半分当たるも、もう半分は意外なところから足をすくわれることになるのであった。


サマルカンド駅へ
泊まっていた宿の主人が、列車の発車時間に合わせて自動車で送ってくれることになった。この宿、結局三十畳ほどの大広間に客が私だけだった。そういうこともあって少し恐縮するが、好意に甘えることにする。荷物を車に積んで助手席に乗り込む。ティアードロップ型のサングラスをかけた主人は、八〇年代初頭にレコード大賞を獲得した二世俳優のような渋さをかもしだしている。思わず嬉しくなり、その歌を口ずさんでいると主人が「日本の流行歌か?」と聞いてきた。

サマルカンド駅へ到着した。すでにホームには多くの客がひしめいている。あらかじめ購入しておいた切符を見ると、私の名前と思われるタイピングがキリル文字で施されており、一応座席指定になっているような雰囲気なので、とりあえずは安心である。宿の主人が私の切符をちらっと見て「二号車の指定席だ」と言って誘導してくれた。

まもなく他の客がざわつき始めた。ホームから身を乗り出して線路の彼方を見つめると、緑色の機関車に引かれた列車が接近してきている。当然のごとく到着チャイムや案内放送のようなものはない。代わりに駅員の吹く笛や空気ブレーキの音を辺りにまき散らしつつ、グレー地にターコイズブルーのラインが入った巨大な客車列車が猛然とホームに滑り込んできた。

     
 到着したレギスタン号は混雑していた。   一応、禁煙車のようである。 

ウズベキスタン国旗のカラーリングをあしらった車体は一見明るく見えるが、車体自体はアルマトゥイやタシケントで見かけた旧ソ連製の客車と大差ないので、車内設備は最悪だろうと思いつつ高いステップに足をかけて列車に乗り込んだ。

勿論、その前に宿の主人と固い握手を交わして別れを告げた。


豪華特急「レギスタン号」
車内に入った。デッキ付近に立ち客がいるほど込み合っているが、私の指定座席は確保されている。入ってみて驚いた。予想に反して車内が驚くほど綺麗なのである。通常ソ連製の客車といえば、向かい合わせの古びたボックスシートに裸の白熱灯と相場が決まっているのだが、そこはさすがに観光特急、飛行機並みのリクライニングシートにテレビまでついており、地元の映画が放映されている。さらには美人の女性車掌がひとりひとりに機内食ならぬ車内食を持ってきてくれた。ウズベク風ピラフであった。昼ご飯を食べていなかったので、おいしくいただいた。

     
 車内はかなり混んでいる。    車内食のウズベク風ピラフ。美味。

これは新型の、まさに特別な列車なのだろう。そのようにことを考えながら窓の外の砂漠や農園を眺めつつうとうとしているうちに、妙なことに気づいて居眠りどころではなくなってしまった。

車内が妙に暑いのである。

エアコンが壊れているのだろうかと思って天井を見てみると、当然存在しているはずのエアコンの排気口が存在していない。

これはどういうことなのかとしばし思ってから、ピンときた。この車両はロシアの雪原を走る寒冷地用に相違ない。つまり、冷房がついてないということになる。

窓を開けようとするが、窓は一番上の部分が僅か六分の一ほど開くだけで外の風が全く入ってこない。

やはりここは旧ソ連圏、すんなりと物事が運ぶ訳がない。そのうちに車内は蒸し風呂のようになってきて、体中から汗がぽたぽたとしたたり落ちるようになってしまった。周りを見渡すと、上半身裸になっている男性も見られた。
     
 車内は整然としてきたが、エアコンがないので恐ろしく暑い。    後ろのシートに座っていた親子連れ。

このような過酷な旅程を経て、二時間強でボハラ駅に到着した。その間、ちょっとしたサウナに入っていたようなものである。距離の短いサマルカンドから乗っていたから良かったものの、始発のタシケントからだったら確実に脱水症状になっていただろう。タシケントから乗った人々はどうなったのだろうか。

とんだ「豪華特急」に乗ってしまったものだと思った。


ボハラ新市街
ボハラの駅は市街地から離れているため、マルシュルートカ(ミニバス)に乗って市街地入りする必要がある。駅舎を背に歩きながらマルシュルートカ乗り場まで歩く。暑さでへばった体が重い。振り返ってみると、立派な駅舎にローマ字で大きく「VOKZAL」とあった。「VOKZAL」とは「駅」とかそういう施設だろうと勝手に判断したのだが、これまでキリル文字が主体だったのにここではローマ字で書かれている。ウズベキスタンは旧ソ連より独立後、キリル文字を廃止してローマ字への転換を図っているようなのだが、上手く浸透していない。よって各所でキリル文字とローマ字の混在が見られる。
     
   立派な外観のボハラ駅。  

駅前広場よりマルシュルートカが出ていた。鉄道の車内があまりに暑くて体力を消耗したため、ろくに行き先を確認せずに乗り込んでしまった。他の乗客も乗っていたからいいや、というような感覚だった。

乗り込んで少し落ち着いたところで初めて冷静になって考えた。このマルシュルートカは旧市街へ行くのか、それとも新市街へ行くのだろうか。普通、マルシュルートカはフロントガラスのところに番号と行き先が書かれたボードを掲示しているが、乗り込んでしまったらこのボードを見ることができない。まあ、終点についてから考えるのも面白いかなと思い、さほど気にも留めなかった。

マルシュルートカは荒野の中を突っ走る。貨物線と覚しき線路と並走しているが、列車の姿は見えない。そうこうしているうち、行く手に旧市街と思われる建物群が見えてきた。モスクのドーム屋根や低層で味のある建物が密集しているため、ここが旧市街と考えて相違なかろう。下車する準備をと思っていると、マルシュルートカはその直前でにわかに交差点を左折し、旧市街を後にしてしまったのである。

少し慌てたが、ちょうどタシケントに帰る飛行機のチケットを買っておきたかったので、新市街の中にあるウズベキスタン航空のオフィスに寄ってから旧市街に行くことにした。ボハラからタシケントへ向かう飛行機が片道二十五米ドル(約2,900円、当時)と破格の値段だという情報を教えてもらっていたからである。

マルシュルートカは新市街の中にある高層ビルの前に停まった。「ホテル・ボハラ」というらしい。低層の住宅が多いボハラにおいて、おそらく一番高い建物ではなかろうか。十五階ほどはある。が、ビルは埃にまみれ、あまり綺麗とは言えなかった。

ホテルのフロントで、米ドルを三十ドルだけウズベク・ソムに両替する。三十ドルとはいえ、ウズベク・ソムでは相当な札束になってしまう。数え間違いのないように慎重に数える。米ドルからの両替は珍しいのか、フロントのおっさんは嬉しそうにしていた。

札束をジーパンのポケットに突っ込み、一方で地図を見ながら五分ほど歩くとウズベキスタン航空のオフィスが見えた。隣接してアエロフロートのオフィスもあったが、こちらは閉まっている。
     
   ウズベキスタン航空のオフィス。  

早速タシケントへ戻るチケットの値段を聞くと、翌々日の夕方出発便が二十三米ドル(約2,730円、当時)と情報よりも更に安くなっているので、すぐに購入を決意した。念のために機材を聞いたが、ボーイング757とのことだった。東側の機材を期待していたので少し残念である。

ここから旧市街は近いと思ったので、歩いて行ったがすぐに後悔することになった。砂埃と熱線が容赦なく身体を攻めつけ、四十分ほどかけて旧市街の宿にチェック・インした時にはどこでもいいから早く横になりたい、と思うようになっていた。体中埃まみれになっている。

とにかくシャワーを浴び、すぐに眠ってしまった。旧市街の観光は明朝からである。
     
   宿へ向かう小道を歩く。  


ボハラ旧市街を歩く

夜が明けた。いよいよボハラ旧市街観光の日である。地図を見てすぐに分かるのは、旧市街がサマルカンドのように大きくないということだった。東西が二キロ程度と短く、歩いても半日程度で回れるだろう。勿論その間に、モスクやマドラサなどが密集しているのである。街はずれには砦を少し大きくしたような城塞もあった。どうやら城塞の上からボハラ旧市街を一望できるらしい。

私の泊まっている宿は旧市街の東の外れに位置していた。小さくもこぎれいな部屋である。早速準備を整え、外に出る。宿の一階はちょっとしたカフェになっており、イギリスから来たという新婚夫婦がお茶を飲んでいた。ボハラはサマルカンドからやや遠いためか、他に観光客の姿を見かけることはそれほど多くなかった。さらに遠いヒヴァだと、なおさらだろう。

宿を出てすぐのところがちょっとした広場になっており、真ん中に池がある。これをタジク語で「ラビ・ハウズ」といい、周囲にレストランが密集している。おそらく地元の人々、そして観光客が集まる場となっているのだろう。ここは夜になってから食事に行くことにする。
     
   ラビ・ハウズ。緑が多いが埃も多い。  

ラビ・ハウズの東側にあるのが「ナーディル・ディワン・ベキのマドラサ」であった。マドラサとは神学校のことだが、とにかくボハラはマドラサだらけの印象があった。砂埃のせいか、どことなく茶色っぽい印象を受ける。

それにしても、ボハラに舞う砂塵は強烈すぎる。今までの感覚で回っていたらすぐにダメージを受けてしまった。まず、目をやられて涙が止まらなくなった。次に喉をやられて声が変になった。砂漠の真ん中にある街だからだろうか、防護林のような木々は多いのだが、それらをものともせずに容赦なく砂塵が巻き起こる。正直、つらい。

そのような中でも路上でマーケットを経営している女の人がいた。瓜、トマト、カボチャ、スイカなどがならんでいる。目が合ったのでにこっと笑いかけるが、その瞬間に砂埃に目をやられた。苦しむ私を見て、店のお姉さんは笑っていた。
     
 ナーディル・ディワン・ベキのマドラサ。   路上でマーケットを営んでいた女性。気さくに笑いかけてくれた。 

このような状況なので、のんびりと旧市街を歩いて行く。と、ウズベキスタン全体の観光案内書や地図を売っている店があった。その隣はCD屋で、民族音楽が大音量で流れている。食指が動いたが、やはり荷物が増えるのは困るので、やむなく購入を断念した。個人的には緑、白、水色三色のラインに月と星をあしらったウズベキスタン国旗が欲しくてたまらなかったのだが。

色鮮やかなマドラサが目立つのに対し、モスクの数はそれほど多くない。ラビ・ハウズから西へすぐのところに「マガーギー・アッタリモスク」が建っていた。これがボハラ最古のモスクとのことだが、砂にまみれて崩れそうな危うさも併せ持っているのであった。発掘は一九三四年というから、さもありなんと思う。更にこの地下には、六世紀ごろに栄えたゾロアスター教の遺跡も眠っているという。ボハラの歴史の深さが垣間見れる遺跡である。
     
   路上でマーケットを営んでいた女性。気さくに笑いかけてくれた。  

なお、このモスク周辺になんてことのない空き地があったが、これはカフカスからやってきた隊商たちが宿営していたキャラバンサライ(隊商宿)の跡だという。このようなちょっとした空き地からもボハラの歴史を感じ取れる。密度の高い旧市街だと思う。

ボハラ旧市街で変わった点といえば、通路を塞ぐかたちで何カ所か屋根付きの立派な建物が見られるというところだった。通行者は商店街のアーケードをくぐるように、その中をくぐって次のゾーンへ出て行く。これは「ターク」と呼ばれ、ボハラ・ハン国が中国の清朝や帝政ロシアとの中継ぎ貿易で繁栄していた際のバザールとして使用されたという。ボハラには三つのタークが残り、それぞれのタークで宝石販売、帽子販売、金融業が営まれていたそうである。

私は金融業が営まれていた「ターキ・サッラファーン」のなかをくぐった。ひんやりして気持ちがいい。内部は現在では勿論金融業が行なわれている訳でなく、民芸品や布、絨毯などが売られていた。

(12_14)逆光で少し見にくいが、奥のドーム上の建物がターキ・サッラファーン。絨毯も見える。
(12_15)絨毯を売っている様子。

絨毯と言えばサマルカンドでも少々見かけたが、ここボハラでは比べ物にならないほど多く売られている。我々が普段「ペルシア絨毯」と呼んでいるものにそっくりだが、色の鮮やかさが全然違う。それは、この地の絨毯が鮮やかな空の下に並べられているのとも無縁ではあるまい。絨毯こそ持って帰れるものではなく、また興味もないのだが、私はその鮮やかな絨毯を飽きることもなく眺めていた。


キャラバンサライとマドラサ
ここで北上し、帽子の売買で栄えたというターキ・テルバック・フルシャーンをくぐるといくつかの廃墟や空き地があるが、これらも古都ボハラの栄光を偲ばせるものばかりである。中でもこの通りを北上して突き当たりのターキ・ザルガラーンに入る手前、右手にみられる空き地はインド人キャラバンサライの跡だという。

ソグド人やモンゴル帝国、ティムール朝など、我々はついつい東西の交易ルートのみに注目してしまう傾向にあるが、サマルカンドやボハラは北インドとも密接な関係があった。ティムールはデリーに侵入するなど華々しい軍事行動を行なっているし、これと同時に古くから民間交流も行なわれていたことは想像に固くない。ただ、ボハラ・ハン国が繁栄していた時代は北インドのイスラム化が始まっていたとはいえ、ヒンドゥー教を信仰するインド人も多く、そういった者はこのキャラバンサライに押し込められ、商業以外の行動を制限されていたという。
     
 奥のドームがターキ・ザルガラーン。   その内部。ひんやりして気持ちいい。 

ターキ・ザルカーンで道路は行き止まりになり、南から来た一本と東西二本の道路が交わるT字路となっている。ここで右折、すなわち東方へ向かうと「ウルグ・ベクのマドラサ」がある。同名の施設がサマルカンドにも見られたので、おそらくティムール朝時代、各主要都市に建てられたものなのだろう。
     
   ウルグ・ベクのマドラサ。サマルカンドにも同名のマドラサが存在する。  

ウルグ・ベクはティムール朝第四代の皇帝だが、政治よりも学問を奨励した君主で、天文台を建築したという記述を高校の世界史で見た記憶があるが、神学校たるマドラサをこれらの地に建てていることからもそのような業績が伺える。ただ、ウルグ・ベクは軍事に消極的だったため、それを不服とした部下に暗殺されたという。
     
 凝った装飾。    ミナレットはそれほど高くない。

踵を返して再びターキ・ザルガラーンをくぐり、西の方向へ歩いて行くと、ボハラ最大のモスク、「カラーン・モスク」が見えてくる。カラーンとはタジク語で「大きい」という意味で、ティムール朝やボハラ・ハン国が成立する遥か以前、九世紀にこの地にあったイラン系サーマーン朝の時代に成立したものである。
     
 ターキ・ザルガラーン。左手の広場はインド人キャラバンサライの跡。   カラーン・モスク。 

サーマーン朝時代にはイラン・イスラム文化が栄え、イスラム学者のブハーリーやイブン・シーナーなどが活躍したというのを学校で習ったが、その中心地となったのがここボハラだったとは知らなかった。現在でもボハラ付近はトルコ系ウズベク人ではなくイラン系タジク人が多く居住するが、そのような歴史的経緯もボハラの発展に大きく関わっていたはずである。
     
 土産物を売っていた。    本物のコカコーラやファンタなのだろうか。


砂塵の街
カラーン・モスクを過ぎるとボハラ旧市街は尽きる。広場があり、その右手に城塞がある。中国の都市だと巨大な城壁の内部に市街地が形成されているものだが、この街では一辺が三百メートルほどのいびつな台形型の城塞が独立して存在している。戦争の時など、住民はどうしていたのだろうか。ただ、城壁は相当堅固な印象を受けた。
     
 ボハラ城の城壁。    その城門。

早速四千ウズベク・ソム(約四百円、当時)を払って城内へ入る。至る所に説明文が掲示されているが、それによると、この城塞はサーマーン朝の頃より既に存在しており、以来、ボハラ・ハン国まで各君主の居城として栄えたそうである。城内には売店やカフェがあったりしてちょっとしたバザールとなっているが、あまり流行っているようには見えない。

それより、先ほどから見てきた旧市街の建物に比べて整備が行き届いていないのが気になった。建築様式の問題なのか、細い柱で大きな屋根を支えているところが多く見られたが、今にも崩れそうで怖かった。
     
 細い柱で支えている。    柱の装飾自体は精巧なものである。

内部を歩いて行くと、屋上と覚しき場所へ出た。今までの整然とした城塞内部とは異なり、でこぼこの空き地といった具合である。そこから新市街が見える。砂塵が舞う旧市街とは異なり、緑や白くて綺麗な家が多く、快適そうな印象を受けた。

旧市街は見えないのだろうかと思い、そちらの方向へ足を進めるが、これが見えないのである。邪魔な建造物が建っていて旧市街の展望が遮られてしまっている。イスラム文化の建築物を高いところから俯瞰するなど滅多にあることではないので、この障害には大いに失望した。しばらくその場にいて、そろそろ帰ろうかと歩き始めた。
     
   ボハラ城の屋上はでこぼこした空間が広がっていた。
 

と、私の袖を引く者がある。見ると、十歳くらいの少年が旧市街の方向を盛んに指差しているのである。これは、旧市街が見えるスポットがあるに相違ないと思った私は彼について行くことにした。するとこの少年はちゃっかり右手を差し出すので、ポケットをまさぐり五百ウズベク・ソムをその手に握らせた。少年は不服そうな顔をしたが、私を屋上の隅にある柵の方へ誘導し、それを乗り越えた。その先には細い通路があり、十メートルほど歩くと目の前に旧市街の埃っぽい展望が開けていた。

緑のドームを持ったモスク。その前後にそびえ立つマドラサ。タークの独特な形状をした屋根も見える。至る所で絨毯を売っているのも見える。あまりの壮麗さに、私は言葉を失った。これを見るだけでもボハラまでやって来た甲斐があると思った。しばらく、旧市街を見ながら立ち尽くすのみである。
至る所で砂塵が舞っている。
     
 ボハラ旧市街全景の美しさには圧倒されるばかりであった。   鮮やかな絨毯。 


憩いの場
ようやく城塞を下り、旧市街へ戻った。夕方になったので宿にいったん戻ってシャワーでも浴び、夕食へ繰り出そうとする心づもりである。

宿に戻る前の横町がユダヤ人街であることを知った。その辺りを歩いてみるが、何の変哲もない通りである。コピーさせてもらったガイドブックによると、ボハラのユダヤ人は七百年前からこの地に住んでおり、タジク化しているという。そういえば福建省の泉州や広州などにもかなり早い段階からユダヤ人が居住していたという話を聞いたことがあるが、その実態はよくわからないままであった。少しく興味のわくテーマではあるが、ここはおとなしく旅を続ける.
     
 ユダヤ人街と思われる通り。シナゴーグも存在するらしい。   通りで出会った少年。
 

宿に戻ってシャワーを浴びる。この宿は嬉しいことに、エアコンと温水シャワーがある。どちらも久しぶりだ。何気なくテレビをつけると、天気予報を放送している。これによってウズベキスタン内の多くの都市名を覚える。また、一見国土面積は広いように見えるが、実は日本とそれ程変わらないということも知った。

さて、食事である。ラビ・ハウズ周辺にいくつも屋台が出ているのでそのうちの一軒に入る。例のごとくシャシリクを注文するが、これまで食べてきたシャシリクのなかでも特に粒が大きいのである。串の長さは一メートルもあろうか。これではかじることができないと困っていたら、店員さんがやってきて肉を串から外してくれた。

ところどころで民族音楽が鳴り響き、ボハラの夜は陽気に更けて行く。
     
   特大シャシリク。すぐにお腹いっぱいになった。  


タシケントへ戻る
翌日午後、私は旧市街から少し離れたバス停で空港行きのマルシュルートカを待っていた。タシケントへ戻るためである。戻るとすぐ、アゼルバイジャンのバクーへ向かう飛行機へ乗り継ぐことになる。そのため、飛行機が遅れると少し厄介なことになる。
     
   旅行者には使いにくいバス停。  

空港はボハラ鉄道駅と旧市街の中間にあるらしく、それほど時間はかからないらしい。そのため、わざわざタクシーなどを使う必要がないのが嬉しかった。

バス停の背後は貨物列車の操車場があるが、列車が動いている気配はない。人影もない。不気味な空間が形成されていた。例のごとく、砂埃で目をやられる。早くマルシュルートカが来ないかと思うが、このような時に限ってなかなか来ないものである。

三十分ほど待ち、ようやくマルシュルートカがやってきた。乗客は半分といったところか。乗車してすぐマルシュルートカは旧市街の方向へ車体を転じ、ラビ・ハウズの前でUターンしてから元の交差点に復帰した。つまり、このマルシュルートカはラビ・ハウズでも乗客を拾うシステムになっていたのだ。重い荷物を背負ってわざわざ旧市街の外れまで歩いて行った自分の調査不足を多いに恥じる。

十数分で空港へ到着した。こじんまりとした空港である。日本のそれのように過度な装飾がなされておらず、素朴で好感が持てる建物だった。
     
 マルシュルートカの中。そこそこ空いている。    ボハラ空港の建物。こぎれいな印象を受けた。

早速チェック・インを済ませると早くも機内へ案内する放送が鳴った。人々の列の後ろについて飛行機へと向かう。建物を出ると、遥か彼方にウズベキスタン国旗をあしらったカラーリングの飛行機が駐機している。空港内にある飛行機はそれだけで他に飛行機は見当たらないので、あれが乗り込むべき飛行機に違いない。ただ、普通はバスに乗って駐機している飛行機まで連れて行ってくれるのだが、ここでは延々と列を作ってぞろぞろと歩いて行くのである。このような珍しいシステムはそれほど経験したことがなく、新鮮であった。

五分ほど歩いて、ようやく飛行機までやってきた。飛行機の機種部には太目のゴシック体で「UZBEKISTAN」と書かれ、尾翼周辺に「Boeing 757-200」とあった。あとで飛行機好きの友人に訪ねたところ、ボーイング757という機体も東側のそれに劣らず、かなり珍しいものらしい。

     
 滑走路を歩いて飛行機へ向かう。    ボーイング757は珍しい機体だという。

飛行機の中での出来事は特に書くことがない。離陸したと思ったらすぐに着陸のアナウンスが流れた。タシケントからボハラまで、相当な時間をかけて移動したと思っていたが、飛行機はそのようなことには全くお構いなくタシケントの空港へ着陸した。時間にして一時間弱であろうか。辺りは薄暗くなっている。

この飛行機を出ればサマルカンド、ボハラの旅は終わる。しかし旅の余韻に浸る暇もなく、このまま国際線でバクーに飛ばなければならない。それはすなわち、中央アジアを離れてカフカスという新しい地域に足を踏み入れるということを意味する。

中央アジアの旅がまさに終わらんとしているが、実感はまったくない。ただ、狭い機内での軽い疲労感を覚えるのみである。
     
   タシケント空港での荷物の受け取り方がユニークだった。