キルギス情勢-現状と解説- |
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濱野道博氏のキルギスの現状と解説 |
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最新 その10 |
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キルギスで2010年4月に発生した暴動事件に関し、2009年10月までキルギス日本センター所長を務められた濱野道博氏の情勢分析及び事件の解説です。 豊富な情報ルートから入手した情報を基礎に分析・解説されたもので、キルギスや中央アジアに興味がある人にとって、日本の新聞からは得られない、貴重な情報です。 濱野道博氏のプロフィール |
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1948年大阪府生まれ。京都大学卒業。 1977年~78年にモスクワ大学へ留学。対ソ連貿易専門商社に勤務の後、ロシア・CISビジネスコンサルティングに従事。 極東産業取締役社長を経て、2006年より2009年10月までキルギス日本センター所長を務める。 訳書に『ロシア建築 三つの旅』(東洋書店、ユーラシア・ブックレット61)などがある。 最新 その10 「キルギスの議会制民主主義 - 2010年4月政変から連立政権成立まで」 その2 その3 その4 その5 その6 その7 その8 その9 その10 その1 「無断転載禁止」 Sent: Thursday, April 08, 2010 7:39 AM Subject: 浜野 一昨日タラスでの野党集会が州政府の建物を一時占拠したのをきっかけに民衆が北部各地で街頭にでてバキエフ大統領の退陣を要求しました。 ビシケクでは昨日一日民衆と警察の衝突が続きましたが、夕方までに警察官も抵抗を止め、大統領と政府の入っているホワイトハウスは民衆によって占拠されました。 バキエフは昨夕20時ごろマナス空港から小型機で国外に脱出した模様です。行き先は未確認ですが、おそらくアルマティに向かったものと思われます。空港関係者もそのように証言していますが、カザフスタン政府はその事実を否定しています。キルギス・カザフ国境はカザフ側が閉鎖し、現在行き来できない状況です。 民衆と警察の衝突で約50名の死者と300名を超える負傷者もでました。2005年のチューリップ革命のときより多くの犠牲者がでました。これは大統領府を占拠しようと民衆が押し寄せたときに、大統領府からスナイパーが射撃された結果です。 バキエフ大統領が逃亡したあと、ダニヤル・ウセノフ首相は辞任を発表し、政権は実質的に野党側に移りました。北部各州ではほぼ野党が政権を奪取しましたが、南部の状況は不明です。全般に衝突もなく正常であると報道されています。バキエフは南部ジャララバード出身ですが、ジャララバードも野党が制圧したと言われています。南部も今野党勢力が地方政権を順次奪取するものと思います。 野党はいくつかのグループからなっていますが、今回の政変で「国民信任政府」を組閣し、首班には女性のローザ・オトゥンバーエワ(社会民主党代表)が就く見通しです。ビシケク市内は今も群集が暴徒化してスーパーなどで略奪を働いていますが、朝までには沈静化するものと思います。野党側も「国民防衛隊」を組織して警察不在の状況で治安を守ると約束しています。 今回の政変の直接のきっかけは年初に水道光熱費を大幅に値上げし、特に農村部の貧困層から大きな不満がでていました。政変はバキエフが「挑発」したとも、元バキエフ派の政治評論家も認めています。 キルギスの状況はここ一両日で沈静化すると思います。ロシアもアメリカもバキエフを支持しておらず、これまでバキエフに付いてきた一部のエリートもあっさりバキエフを見捨てました。それは根っからのネポティズム(親族、縁故者重用)に対する反感が根強かったことに起因していると思います。 政府高官は買官が当たり前、地方知事も1年交代で次から次へ代らせられて行政は停滞の一方でした。その中で昨秋バキエフの次男が政府の要職についたころから民衆の不満がくすぶり始めました。このマクシムという次男はビジネス乗っ取りやマネーロンダリングなどありとあらゆる不法行為で知られていました。ロシアは一時マクシムのロシアにある銀行口座を凍結しています。 また1年前に起きた「殺人」事件で大統領府の長官を解任されたばかりのサドィルクーロフが「自動車事故」で亡くなりましたが、解任の理由は大統領周辺の私腹肥やしに厳しい批判をしたためと言われていました。こういう事件が積み重なって今回の政変につながったと思います。 前大統領のアカーエフ氏の復活はないでしょう。 その2 「無断転載禁止」 Sent: Friday, April 09, 2010 10:32 AM Subject: キルギスの情勢(浜野) キルギスの情勢に関心をお持ちの方々に下記小生が把握した範囲での情報をお知らせします。状況の成り行きに関する判断は小生のもので、小生の責任において書いています。ご参考になれば幸いです。 国際的に暫定政権を支持しているのは今のところロシアのみで、暫定政権にとってはそれで十分です。アメリカ、中国は承認を急がないでしょう。暫定政権はキルギスの内務省(警察)と軍を掌握しており、政変は暫定政権の勝利で確定と考えます。 地方からでてきた狼藉者がまだビシケク市街で商店を襲っているようです。スーパー「ナロードヌィ」が狙いやすいのか、市内中心部から周辺部での商店略奪へと移っています。暫定政権の警備隊に略奪者に対して発砲するよう命令をだしていますから、漸次市内は落ち着くでしょう。 アメリカは様子見で暫定政権の承認を急いでいません。合法的に選出された大統領が実力で排除されたわけで、そういう政権奪取はアメリカの政治習慣に馴染まないところがあり、承認を急がないのが一つの理由。マナス空港の「米軍基地」の使用が今一時的にストップしていますが、オトゥンバーエワ暫定政権首相が国際協約は守る、「基地」は閉鎖しないと約束しているので安心はしているはずです。 どっちにしても超大国アメリカが「キルギス」ごときで右往左往などみっともないことはしないという矜持もあります。それに、これも重要な点ですが、キルギス暫定政権はバキエフ時代にアメリカがマナス空港の租借にこだわって、アメリカがキルギスの民主化グループの支援から後退したことを非難しています。アメリカ国務省としては、キルギスの政治状況と今回の政変を「見抜け」なかった現地米国大使や大使館スタッフに対する国務省内部の批判も考慮しなければならないでしょう。いずれ米国大使は召還されると思います。 中国は今回の政変を気持ち悪い思いでみていることでしょう。このような民衆の怒りはウルムチやラサで嫌と言うほど味わっているからです。新彊ウイグルやチベットで同じことが起こらないようにと、逆にそういう教訓のくみ出しをやっているものと思います。それに在留華人の保護も大変でしょうし。 バキエフ大統領は現在ジャララバード州スザク地区マルカイ村(ジャララバードから10-15kmくらいの生まれ故郷に、自分と「心中」するつもりの親族と側近だけに守られています。昨日、ロシアのラジオ局「エーホ・モスクヴィ」に対して自ら辞任しないとか、暫定政権を非難する声明をインターネットで送ったようですが、肉声ではないテキストのみです。 しかし、ロシアの中央アジアシンクタンクの専門家のみるところ、ここ数日で勝敗は決着するでしょう。南部も漸次暫定政権が掌握しつつあり、そのうち、ジャララバードも暫定政権が支配するでしょう。そうなると、国外に逃げるしかありません。チャンスを逃すとそれこそ捕縛されてしまいます。暫定政権は75名の犠牲者を出した責任者を徹底的に追及する、バキエフも例外ではないと言っています。 南部からの巻き返しはないでしょう。キルギスの南北分断はありません。バキエフ大統領自身は軍事的に巻き返しを図るほどの豪胆な人物とは小生は見ておりません。彼のネポティズム(親族、縁故者重用)で潤った少数のものはいますが、大半は「利益」の分け前に預かれず不満を持つものが身近に多数いたことが理解できなかったのでしょう。そのために、あっという間に政権を投げ出す羽目になってしまいました。 ロシアは昨日プラハで会ったメドベージェフとオバマがキルギスに関して共同声明を出すよう働きかけたのですが、アメリカが無視したので共同声明は出ずじまいでした。暫定政権の国庫はほとんど空だとオトゥンバーエワは言っており、ロシアから緊急に資金援助がない限り国政の維持は無理との状況です。ロシアは支援するでしょう。人口500万くらいの小国を支援するくらいの金はロシアにはあるでしょう。近く、そのためアタンバーエフ暫定政権副首相が訪露予定です。 3月中旬、キルギスから帰国する1週間ほど前にビシケクで、偶然オトゥンバーエワと会い、立ち話をしました。そのとき小生はキルギスの情勢は大統領の任期終了の2013年に向けて流動化するのではないかと私見を述べたのですが、彼女はもう流動化しているとはっきり言っておりました。バキエフ大統領が立法機関を無視してやりたい放題であることも指摘しておりました。1月の各種料金値上げ以降、地下のマグマの動きをよく把握していたのでしょう。 政変による犠牲者を悼む国民服喪が4月10日にキルギス全土で行われます。 その3 「無断転載禁止」 キルギスの状況をかいつまんでお知らせします。状況の成り行きに関する判断は小生のもので、小生の責任において書いています。ご参考になれば幸いです。 2010年4月7日キルギスタンの首都ビシケクの中心地にある大統領府の周辺にバキエフ政権の退陣を求めて民衆が集結し、解散させようとする警官隊と衝突を繰り返しましたが、夕刻までに群集の数は膨れ上がり勝敗は決しました。バキエフ大統領はその日の午後8時ごろビシケクから小型機で地方に逃れ、5年にわたるバキエフ政権のあっけない幕切れでした 臨時政権はロシアが早々と承認したのを始め、アメリカ、カザフスタンなどが事実上承認し、EUも早晩承認する見込みで国際的な認知を受けつつあります。隣国である中国およびウズベキスタンは注意深く情勢の推移をみており、承認を急がない模様。暫定政権はキルギス全土で内務省(警察)と軍を掌握しており、政変は暫定政権の勝利で確定と考えます。 中国は今回の政変を気持ち悪い思いでみていることでしょう。このような民衆の怒りはウルムチやラサで嫌と言うほど味わっているからです。新彊ウイグルやチベットで同じことが起こらないようにと、逆にそういう教訓のくみ出しをやっているものと思います。ちなみにキルギス人の反中国意識は歴史的なもので、今回ビシケク市内の中国産品スーパーは焼き討ちにあい灰燼に帰しました。 地方からでてきた狼藉者が、無法状態になったビシケク市内で4月8日の深夜まで略奪を働き、高級商店などを襲っていました。スーパー「ナロードヌィ」が狙いやすいのか、市内中心部だけでなく周辺部での商店も襲われました。暫定政権は警備隊に略奪者に対して発砲するよう命令をだし、現在市内は落ち着きを取り戻しています。 アメリカはアフガンにおける軍事行動を支援する重要な基地であるビシケクのマナス空港の使用を確保するためバキエフ政権に対し、その反民主主義的な統治に対して沈黙を守ったと臨時政権のオトゥンバーエワ首相が非難しています。しかし、10日には米国務省ヒラリー・クリントン長官がオトゥンバーエワに電話をかけ、米国はキルギスタンの民主化、経済発展、人権擁護を引き続き支援していくと約束、オトゥンバーエワ首相もマナス空港の使用を認める意向を伝えました。 バキエフ大統領は現在ジャララバード州の生まれ故郷にある自宅にこもって、近親者に守られています。報道機関を通じて、「辞任するつもりはない」ことを明らかにしていますが、地元ジャララバードでも支持者が離れつつあり、孤立を深めています。いずれ国外に亡命せざるを得なくなりますが、米国は受け入れを拒否、今のところカザフスタンくらいしか考えられませんが、米国訪問中のナザルバーエフ大統領が帰国後どういう判断するかは予断を許しません。 臨時政権は82名の死者と1600名の負傷者といい大きな犠牲者がでた責任はバキエフ側近にあるとしてバキエフ大統領の兄弟や息子たちの逮捕状を取り、行方を追っています。現行法では大統領には身体の不可侵権があるため臨時政権もバキエフ大統領だけは自宅周辺を包囲しているものの、逮捕にまでは踏み込んでいません。 バキエフ大統領の5年間の統治をロシアのある報道機関が「半封建的」と形容しました。一族郎党に最良の官職を分け与え、生活苦にあえぐ国民には「改革」と称して高級官僚の首の挿げ替えを頻繁に行ってきましたが、どこか確かに封建的なところがあります。ネポティズム(親族一族郎党の重用)を維持するには国内リソースが限られていたため、分け前に預かれなかった側近も多くいて、彼らがあっさりバキエフを捨てた理由はそこにあります。 昨年7月再選されたバキエフ大統領は持病(腎臓病で透析中といわれている)を抱えており、憲法では2期までという大統領任期を終身制にするか、息子を後継者にするか揺れていましたが、昨秋とかく評判の芳しくない次男のマクシムを後継者含みで大統領直属の開発銀行総裁に据えました。 マクシムの素行の悪さは民衆の怨嗟の的で、今年1月からキルギスの携帯電話の通話は受電にも60ティン(約1.2円)の課金がかかるようになり、それはすべてマクシムの懐に入ったと言われています。現に、政変後この課金はすぐに廃止されました。一事が万事、大統領周辺の無法行為は国民の中で不満を高めていました。 南部出身のバキエフは北部出身のアカエフ前大統領を追放して2005年に政権の座に就きました。そのため、キルギスの南北の部族間の対立構図で今回の政変を見る向きもあるようですが、南部オシ、バトケン、ジャララバードは臨時政権側についており、こうした部族間の利害対立という見方は根拠が薄いように思います。 ロシアは先週末訪露した臨時政権のアタンバーエフ副首相をプーチン首相が迎え、キルギスに対する支援を約束しました。アタンバーエフはロシアが1億5千万ドルの無償資金供与をしてくれると帰国後発言していますが、ロシアはノーコメントです。しかしロシアの支援がないと臨時政権は苦境に陥ります。ロシアは支援するでしょう。 今回、大統領府をめぐる攻防に加わった多くの若者が地方出身者です。犠牲者の中にも地方から来た若者が多くいます。農村部では30%近い若者がまともな仕事がなく、都市部でも15%程度が日銭を稼いでその日暮らしの生活を追っています。こうした青年たちは政治、宗教、時に犯罪組織の影響を受けやすく社会の流動的要因になっています。今回、略奪に走った若者たちの背景にはキルギス社会の根深い貧困があります。 3月中旬、キルギスから帰国する1週間ほど前にビシケクで、偶然オトゥンバーエワと会い、立ち話をしました。そのとき小生はキルギスの情勢は大統領の任期終了の2013年に向けて流動化するのではないかと私見を述べたのですが、彼女はもう流動化しているとはっきり言っておりました。バキエフ大統領が立法機関を無視してやりたい放題であることも指摘しておりました。1月の各種料金値上げ以降、地下のマグマの動きをよく把握していたのでしょう。 その4 「無断転載禁止」 Sent: Friday, April 23, 2010 10:58 AM ビシケクの状況は徐々に落ち着いてきています。オトゥンバーエワ臨時政府首班は略奪と騒擾を起こすものに対して威嚇射撃をするように内務省と軍に命令しました。騒いでいるのはビシケク郊外の貧民地区に住む若者で、政変の原動力ともなりましたが、略奪などの無法行為も働いています。 5年前のアカーエフ大統領追放劇のときも同じように事変後貧民地区で騒擾が起き、当時政権を握ったバキエフやオトゥンバーエワたちが国有地の無償配分で何とか騒乱を収めたものです。今回も同じような要求を掲げて騒いでいます。民族間の土地争いという報道もありますが、それは正確ではありません。オトゥンバーエワは、前回(5年前)は事態収拾に3ヶ月かかったが、今回は早々に沈静化させるといっています。 農村の窮状とビシケク郊外のスラム街の形成は相互に関連しており、いずれ力だけでは解決できません。農村経済の底上げ、半失業状態の多数の若者に職を与える、若者の政治、社会組織を作る、人権擁護、民主主義擁護などが今後避けて通れない国民的課題です。特に、緊急にビシケク 郊外の貧民街(南米やタイ、マニラのそれらと形成の過程は似ている)の環境改善を行わねばいつまでも社会の流動要因となり、政権の足元を揺るがしかねません。 今騒いでいる若者たちはビシケク郊外に多民族が共生しているマーエフカ村の比較的豊かなトルコ人、ロシア人、クルド人などを狙っており、民族的偏見に影響されています。 バキエフは亡命先のベラルーシのルカシェンコ大統領に「鼓舞された」か、自分は辞任していないなどとインタビューで発言し、国際社会から一笑に付されています。バキエフ前大統領は何億ドルもの国家資金をドサクサにまぎれて国外に持ち出したことも判明しており、臨時政権は各国に口座凍結などの協力を呼びかけています。また、この件では米国も専門家を派遣して協力すると言っています。 一昨日の現地からの報道では、国内の民間銀行にあるバキエフの二人の息子と前国防大臣の名義の貸金庫から合計1億4500万ドルの現金が発見されたとのことです。こんな貧乏な国で、国民が10日間食っていける公金が個人名で秘蔵されていたのです。バキエフ政権の非道徳性は明らかです。 それに昨日ショッキングなニュースがありました。1年前の3月13日、退任したばかりの当時のサドゥルクーロフ大統領府長官がビシケク郊外の国道で自動車事故のために亡くなりました。事故の経緯には不審な点が多く、前長官の家族や事故の相手方の弁護士なども徹底的な捜査を要求したのですが、うやむやのまま第一審で結審し、相手方の車を運転していた男が懲役12年(執行猶予付き)の判決を食らいました。この男がさる4月18日何者かによって刃物で殺害されました。犯人は捕まっていません。 もともと、長官殺害は自動車事故を装ったバキエフによる暗殺と、当時から一部では言われていました。長官が辞任した直接の理由は、バキエフ一家の無法行為に手が付けられなくなったからで、それは長官の周辺にも伝わっていました。この長官はカザフスタンのナザルバーエフ大統領の遠縁にもあたり、次回の大統領選に出馬する可能性もあったといわれています。 長官の政治的暗殺が暴露されることを恐れた者が、刑に服していた「身替わり」の口を封じたということでしょう。これもバキエフ政権の謀略性の現れです。 南部ではジャララバードの情勢がどうなっているのか、ここ一両日現地からの報道がありません。臨時政権は力で制圧する考えはなく、またそれも困難でしょう。現地バキエフ派の自滅を待っているところです。 昨日はバキエフの兄貴アフメット・バキエフが臨時政権に誘拐されて姿を消したなどの流言を、バキエフの地元の親族が流しています。おそらく身の危険を感じて逃亡したのでしょう。このアフメットは大統領の権力を笠にきてジャララバードの「帝王」と陰口を叩かれた男です。ジャララバードの住民、特に多数派のウズベク人たちから嫌われています。 憲法改正案の是非を問う国民投票が6月27日(日)、それに基づく国会選挙が10月10日(日)に実施すると臨時政権から発表がありました。大統領選がいつになるのか未定ですが、大統領は新憲法のもとでは象徴的な存在になる見込みで大統領選は政治的な意義が低いと見られています。 国内ではバキエフ派の人物で要職を占めていたものたちが順次放逐されつつあります。 |
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その5 「無断転載禁止」 Sent: Sunday, April 25, 2010 8:01 AM ウズベクもキルギスにガソリンなどの人道支援を行うと発表しました。 アメリカ下院公聴会で「米国がマナス基地の維持のためにバキエフ政権に必要以上の肩入れをしたのではないか」との議員の質問に対して、招へいされた専門家たちがそれを肯定する証言をしています。 特にマナス基地に発着する米軍航空機の燃料代として、バキエフ親族が経営する会社に10億ドルもの代金を払っていたことが暴露されました。これは米国公民が海外で汚職行為に関わることを禁止した米国法に抵触するもので、国務省は窮地に追い込まれそうです。いずれ今の在キルギス米国大使は召還されるでしょう。 4月26日には6月27日の国民投票にかけられる改正憲法案が公表されます。 ベラルーシに逃れたバキエフ前大統領は内外記者団を前にした記者会見で「自分はまだキルギスの大統領である」と主張していますが、4月16日にカザフスタンで大統領辞任を文書で公表しており、国際世論は最近のバキエフ前大統領の発言を信用していません。24日にはお膝元のベラルーシ駐在のキルギス大使がバキエフ前大統領に対し叛旗を翻し、バキエフ氏の面目を大いにつぶすことになりました。 |
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その6 2010年6月12日。 |
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キルギス南部でウズベク人とキルギス人の衝突が発生し37名が死亡し、523人が負傷しました。 1990年にも同じような衝突で数百人が亡くなっています。その教訓もあってオシ市のキルギスとウズベクの双方の住民は自制してきました。今回の事件は誰かが挑発した可能性が強いと言われています。 6月27日の憲法国民投票の妨害が目的でしょうが、ちょうど木曜、金曜と隣のタシケントで開催されている上海協力機構第10回首脳会議の真っ最中にその日程と合わせるように勃発し、キルギスの情勢不安を関係国に強く印象付ける結果となりました。 去る5月19日には同じ南部のジャララバードでもウズベク人とキルギス人の衝突があり3人が亡くなっています。オシもジャララバードもウズベク人の人口がキルギス人を上回っていますが、これまでウズベク人の政治的権利が守られてこなかったことにウズベク人がずっと不満を持ってきました。 土地や水資源の分配や、取引上のトラブルがあるといつでも火がつく引火性燃料を抱えているようなものです。バキエフ前政権はウズベク人の要求をことあるごとに力で押さえつけました。 今回の衝突の直接の原因は判明していません。表向き政治的な要求も掲げていませんし、トラブルの原因がはっきりしていません。単なる若者の喧嘩から始まり、投石を始め、そのうち大人も加わってナイフや銃などを持ち出し最悪の事態となりました。 キルギス政府は明言していませんが、5月19日のジャララバードでの衝突も今回のオシ市での衝突も外部からの挑発があったと匂わせています。 今回オシ市での騒乱は単なる住民の喧嘩にしては規模が大きく全市的にキレイに統制されていて、誰かがどこかで指示を出しながら起こしたという印象が強いと暫定政権は発表しています。 現地専門家の意見ではバキエフ派にはもはやこのような騒乱を起こす影響力がありません。キルギスに議会制民主主義が成立することに懸念をもつ勢力がどこかにいるということでしょうか。 ウズベキスタンさらにはカザフスタンはキルギスに対してCIS集団安全保障条約機構のPKOを派遣して秩序維持に直接乗り込むことを何度か提案しています。 この二つの大国は隣国の政治不安を早期に解決するため政治制度として超大統領制が復活することに関心を持っています。(もちろんバキエフの復権とは関係ありません) しかし、上海条約機構の今回の首脳会議でロシアのメドベージェフ大統領はPKOのキルギスへの派遣に反対しました。 オシ市には戒厳令がしかれ夜間外出禁止になっています。1週間ほどで市内の状況は落ち着くものと見られています。 |
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その7 2010年6月22日。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
「無断転載禁止」 |
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「その6」をやや修正した点もありますが、この間の各国の動きがはっきりと見えてきた時点でのレポートとしてください。 報道機関は今回の衝突を「キルギスの少数民族ウズベク人と多数派のキルギス人との対立」と解説しています。 しかし、オシ市とジャララバード市ではウズベク系住民がキルギス系住民の数を上回っており、多数派が少数派に暴力を振るっているという状況ではありません。犠牲者は双方にでています。キルギスのウズベク人は70万人おり、そのほとんどがオシ州とジャララバード州に住んでいます。 現地からの報道ではタジク人武装グループがキルギス人、ウズベク人に無差別に発砲したことが発端になったという情報があり、暫定政権の現地戒厳司令長官もその事実を確認しています。 これから国際調査団が解明することになるでしょうが、1990年代タジキスタン内戦の結果、和解した双方から受け入れられずにいまだにキルギスに難民として住むタジク系住民のうち犯罪集団に関係した者達と見られています。 また、キルギスの軍服や警察官の制服を着た身元不詳のグループがウズベク人に発砲したという情報もあります。いずれにしても単純な民族抗争では説明できないことがいくつも起きており、両民族の衝突と混乱を狙った挑発行為が最初にあったという点で暫定政権も国際機関も一致しています。 オシ市では990年にもキルギス人とウズベク人との衝突があり、そのときは600名もの犠牲者がでました。今回の犠牲者の数は最終的にはそれをはるかに超えるといわれています。 暫定政府の保健省が掌握している数字は21日06:00(現地時間)の時点で208名死亡、約2000人が負傷です。しかし、これは病院や診療センターなど医療機関に連れてこられたり、通報があったケースを集計したもので、治療を受けずに亡くなった場合などはこの数に入っていません。キルギス南部の習慣で、亡くなった日に埋葬することになっていますので正確な死者の数は相当時間がたたないと判明しません。死者は2000名を超えるものと各種報道機関が報じていますが、推測の域をでません。 1990年の事件ではウズベク系住民とキルギス系住民の間で土地や水資源の分配といった具体的な経済問題をめぐる対立がありましたが、今回は何が衝突の直接の原因であったのか判明していません。 事件前1か月ほどからオシ市内で、ウズベク系の若者とキルギス系の若者の路上の乱闘が頻発していたが、地元警察はそれらを放置し、ビシケクにも報告していなかったとのことです。 オシやジャララバードの警察は秩序維持の機能を全く果たしていません。オシ、ジャララバードの警察、検察当局は暫定政権に対して一貫して非協力的な態度を示しています。現地の警察官は騒動の一方の当事者であるキルギス人たちの親族であったり知人であったりして、警察官の投入は衝突の火に油を注ぐことになりかねないため暫定政権は地元警察官を当てにせず、軍を投入しています。 各種情報を総合すると、10日の夜、オシ市内の5箇所で銃の乱射事件があり、あっという間に両民族の男達が殺しあう流血の惨事になりました。ちょうど6月10日、11日にオシと目と鼻の先のタシケントで上海協力機構第10回首脳会議が開催され、メドベージェフや胡錦濤など大国の指導者も集まっている最中の出来事で、キルギスの情勢不安を関係各国の首脳に強く印象付けました。偶然とは言い切れません。 一体誰が起こした騒乱なのか、今のところ推測の域をでませんが、 1)バキエフ一族が起こした、 2)現地犯罪組織の対立が火付けになった、 3)外国からの挑発、といったシナリオが語られています。 それにしても、多くの男性がナイフや銃を持ち出して殺人行為に走る狂気にとらわれるところに今のキルギス社会の病根があります。キルギスでは人口の半分以上が25歳以下の若者という人口爆発が起きています。 多くの若い男性が定職をもたず農村や都会でぶらぶらして貧しい生活を送っています。金をもらって政治集会に動員されたり、宗教的扇動に容易く影響されたり、ときには犯罪組織に組み込まれたりしています。 4月政変の後のビシケク市内で発生したすさまじい略奪行為はこうした若者の状況をよく現しています。何かを壊さなければすまないすさんだ心情が集団ヒステリーになって、今回相対的に豊かなウズベク人への暴力に転化したものと考えます。政変といい、民族衝突といい、暴力が残した大きな傷跡はキルギス社会に深く残るでしょう。 オシ、ジャララバードではキルギス軍が検問を実施して武器を携帯する者を拘束しており、治安は徐々に平静に戻りつつあります。しかし、この地域はウズベク人の人口が多いため軍だけでは秩序維持に人がたりません。 数十万人のウズベク人に対しキルギス正規軍は全部合わせても2万5千人しかいません。そのため予備役の招集が始まりました。事件の余韻がまだ残っており、ウズベキスタンに逃げたウズベク系住民やキルギス国内難民の総数は40万人にも達します。また、南部に警備要員を投入したためビシケクの警備が手薄になっています。 仮に6月27日の憲法改正国民投票を先送りせざるを得なくなると、暫定政権にとっては大きな敗北です。国民投票を平穏に実施するためにはPKOを受け入れることが望ましいのは言うまでもありません。 PKO派遣の要請先としてCIS集団安全保障条約機構はキルギスも参加メンバーで、もっとも筋が通っていますが、条約には参加国内部での騒乱に対応したPKOの規定がありません。また全会一致を原則としており、バキエフ前大統領を受け入れたベラルーシ一カ国がキルギスへのPKOの派遣に反対しています。ベラルーシは対露外交の一環としてキルギスカードを使っていることは明らかです。 結局、オトゥンバーエワはロシアに単独PKOの派遣を要請しましたが、メドベージェフ大統領は断りました。 4月政変の後間髪をいれず暫定政権支持を表明したロシアとしては意外な反応でした。ロシアとしては、PKO派遣を要請する暫定政権の法的正当性が完全にクリアされたわけではないこと、ロシアと国境を接しておらず、在留ロシア人保護の名分がたたないこと、ロシア軍にPKOの訓練を受けた部隊が少ないことなど、理由が色々あります。 しかし、本心はウクライナ、グルジア、キルギスと続いたアメリカ主導のカラー革命を受け継ぐキルギス暫定政権の政治理念と今回の憲法改正案に対してロシアが不同意であることを意思表示したものです。オトゥンバーエワは派遣要請を取り下げざるを得なくなりました。 キルギス国民はアカーエフ、バキエフの2人の大統領に大きな失望を味わさせられました。議会制民主主義制度への移行は2005年のチューリップ革命の積み残し課題です。 しかし、キルギス自身を除けばキルギスの議会制民主主義への移行を歓迎している国はアメリカ、EUなどわずかです。中央アジアはどこも超大統領制です。隣国のカザフスタン、ウズベキスタンはわき腹のようなところにある小国キルギスで暫定政権が議会制民主主義を標榜していることを危うい思いで見つめています。 カザフスタンはかなり強硬です。ナザルバーエフ大統領はこの機にキルギスに対するカザフスタンの影響力、より一般的にいえば中央アジアにおけるカザフスタンの権威を決定的なものにしようと意欲的です。カザフスタンの大統領顧問が事件直後キルギス暫定政権に対して「ここ2週間で事態が沈静化できないようであれば」主権国家としての資格喪失であると警告しています。カザフスタンはOSCEの議長国としてキルギスの政治情勢にオーバーコミットメント気味です。 一方ウズベキスタンは衝突の当事者がウズベク系住民であるということもあって、より複雑な立場にあります。衝突を避けて10万人ものウズベク系キルギス人がウズベキスタンに難民として流入しました。カリモフ大統領は騒乱が火薬庫フェルガナ盆地に飛び火することを強く警戒しています。 ウズベキスタンは国境を開いたり、閉じたり、方針が一貫していません。キルギス暫定政権に対して強い疑念を持ち、キルギスとの国境を長らく閉鎖したためオシやジャララバードからの中国産品の流入が止っています。そのため、国境貿易に従事するキルギス人、ウズベク人が生活に困窮しています。ウズベキスタンからオシ、ジャララバードへの天然ガス供給も止っています。キルギス情勢に対するウズベキスタン政府の次の策が何であるか、オシ、ジャララバードの治安回復にとって重要な要因です。 アメリカは4月政変を契機に対キルギス政策を活発に展開しています。バキエフ前政権時代にはマナス空港の基地使用を確保するためにその無法行為に目をつぶっていたという批判を受け、4月政変以降は積極的に暫定政権を支援しています。 アメリカはウクライナでユーシェンコ政権が瓦解したことを受けて、仮にキルギスで暫定政権が倒れるとか、国民投票が実施不可能という事態だけは避けたいと人道支援物資や無償資金の供与など懸命の支援を行っています。OSCEの枠組みでPKO派遣の用意があるとまでクリントン国務長官は発言しています。仮に、キルギスの暫定政権が躓くとグルジアのサーカシビリ政権の命運にまで暗雲がかかると見ていることは事実です。 アメリカの積極的なキルギス支援を横目にロシアは新キルギスにおけるロシアの地歩が従来どおり確保されることに強い関心を持っています。昨年秋ロシアがキルギスに提案し、バキエフ政権に無視されたままだったキルギス南部にロシア軍の基地設置を改めて提案しています。麻薬ルート壊滅のための作戦基地との触れ込みでロシア麻薬対策庁のイワノフ長官の提案という低い官位の要請でやや様子見という雰囲気もあります。 このようにキルギスは大国とCIS諸国の間でパワーゲームの場となりつつあります。キルギスがどのような政治制度を選択するか、キルギスだけの問題ではなくなっています。 こんな騒乱のなか13日日曜日の夜バキエフの次男で3億ドルの公金横領で暫定政権から国際手配されているマクシム・バキエフがイギリスの空港に到着し、即イギリスの官憲に拘束されました。まるで捕まるためにイギリスへ入国したかのようですが、一説によれば国際手配を逃れる唯一の方法がイギリスの法廷で争って、イギリスでの滞在を勝ち取ることなのだそうです。 ロシアの政商ボリス・ベレゾフスキーもそうやってロシア政府の追及を逃れロンドンで生活しています。チェチェン武装勢力のスポークスマンであるザカーエフもやはりロシアの送還要求をイギリス政府が拒んだため、ロンドンを拠点にチェチェン支援の活動をしています。 暫定政権はイギリス政府にマクシムの罪状を証明する書類を提出し、キルギスへの送還を要求しますが、識者によれば仮にイギリス政府がそれを受けてマクシムをキルギスに送還する決定をしたとしても、送還命令がでるまでに少なくとも3年はかかるといいます。またマクシムが多額の報酬を払って雇ったイギリスの弁護士はマクシムの身柄がキルギスに渡されないよう精一杯働くでしょう。 「6月27日国民投票は実施されるか」 40万人もの難民を出したため、南部では居住地で投票できない国民が多数でます。オシの住宅は70%焼失したという報道もありますが、後で70%という数字をオシ市長は撤回しました。オシ、ジャララバードが旧状に復するには少なくとも1年以上はかかります。 それまで国民投票を待つわけには行きません。国民投票の先送りは新たな策動と挑発の機会を与えます。オトゥンバーエワは予定通り27日の国民投票の実施を表明し、準備を進めています。ウズベキスタンへ脱出したウズベク難民も徐々に帰還し始めています。オシ、ジャララバード市内ではかなり混乱が予想されますが、その他の地域では概ね問題なく実施されるものと思われます。 「6月10-11日の民族間衝突を組織した者は誰か」 5月中旬、マクシムが彼の伯父であるジャヌィッシ・バキエフ(政変時大統領府警護長官)と電話で暫定政権打倒の打ち合わせをしている延々35分の会話が盗聴され、YouTubeに公表されました。 誰が盗聴したのかいまだに不明ですが、電話の当事者がこの両名であることはほぼ間違いありません。 電話ではマクシムは暫定政権打倒のために自分が金をだすので武装したならず者を500人雇い入れ、100人一組で5箇所で騒乱を起こすことを伯父に執拗に提案しており、今回の事件の展開と良く似たシナリオです。父のバキエフ前大統領が今回の民族間衝突に自分が関係していることを否定して、オシのカジノで犯罪組織グループ同士の銃撃戦があり、そこから今回の民族衝突が始まったと意外に詳しい解説を早い時期にしているのも不自然さが目立ちます。バキエフ親族による挑発、タジク系武装勢力2000名の傭兵を投入して火付けを行ったというシナリオが今のところ有力になりつつあります。 浜野道博 |
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その8 2010年9月25日 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
「無断転載禁止」 |
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キルギスタンの国会議員選挙情勢 10月10日投票にむけて29政党がしのぎを削っている。 今回の選挙は2007年10月の国民投票で改定された選挙法に従って実施される。いくつか特徴点をあげると、 1)議席数は120。(前回は90であった) 2)政党リストに基づく投票で個人記名式ではない。有権者は投票用紙にある支持政党に印をつけて投票する。 3)中央選管に登録した29政党は各党120名の候補者リストを提出している。 4)得票数によりリスト上位より議席が与えられる 5)選挙法により120名のうち3割は女性、若者、少数民族の代表を含めねばならないが、必ずしも上位に名前が上がっているとは限らない。 6)前回同様、全投票数の5%を下回る得票数の政党は議席を獲得できない「足きり」規定が生きている。そのほか前回「アタ・メケン」が苦杯を舐めた0.5%条項も生きている。すなわち投票地区のどこか1箇所でも全投票数の0.5%を下回ると全得票が死票となってしまう。全国的に支持者にばらつきの大きい地域政党はこれで振り落とされる可能性もある。 7)不正選挙のネックであった同一人物の複数回投票を排除するため今回は投票済みの有権者には指に染料で印をつけることになっている。 インターネットサイトのAkipressやロシアの調査機関が議席獲得予想を報じているが、予想結果はばらばらで正直今の時点で確度の高い予想は期待できない。 特に、ロシアの調査機関が聞き取り調査を行った南部では多数の有権者が回答を拒否するケースがあり、複雑な南部の政治情勢をうかがわせる。 現時点ではテケバーエフの「アタ・メケン」、サリエフの「アク・シュムカル」、アタンバーエフの社会民主党、クーロフの「アル・ナムィス」、南部を中心とした旧バキーエフ派の「アタ・ジュルト」など8政党ほどが議席を獲得する可能性がある。前回議席を獲得したキルギス共産党は1%前後で低迷している。 選挙結果によってキルギス国内の各政治潮流や地域が万遍なく議席を獲得することになれば国内情勢は幾分落ち着きを見せると期待されているが予断は許されない。 このままの情勢であればどの政党も単独過半数を獲得できないのは確実視され連合政権の可能性が高まっている。テケバーエフの国会議長、アタンバーエフの首相といった人事予測も気の早い筋からでている。現在の移行政府の任期は11月1日までか、12月1日までかで国会での組閣の動向によって決まる。 投票日が近づくにつれて立候補者の反ロ的発言にロシアが過敏に反応している。 ロシアは親露派政治家であるフェリックス・クーロフを全面的に支持しており、今週訪露したクーロフをプーチン首相、メドベージェフ大統領、ナルィシキン大統領府長官が引見したり、プーチン与党の「統一ロシア」がクーロフの政党「アル・ナムィス」との提携を発表したり、在キルギスロシア大使館が選挙での論戦にコメントするなど異常な「介入」である。 メドベージェフ大統領はクーロフの党が勝利すればキルギスは再度憲法を改正して超(スーパー)大統領制に戻る、などと発言しており、キルギスの内政に対する干渉になりふり構わず、ロシアがここまでCIS国家の内政に関与するのは異例である。 クーロフは「シロビキ(治安機関関係者)」として不正とは無縁のイメージがあり、国民的な人気の高い政治家として今回の選挙戦でどこまで得票を伸ばすか注目されているが、バキーエフとのタンデム政権で政治的意義のある働きができなかったことがダメージになってかつてほどの信頼感はない。4月政変にも距離をおいており、今回の選挙ではバキーエフの茶坊主といわれたジャパーロフ元財務大臣と組んでいるのもイメージダウンにつながっている。 ロシアはこの時期になってキルギスの有権者に対する利益誘導なのだろうが、キルギスにあるロシア軍基地施設の使用料の値上げについてキルギス側と交渉すると発表した。 ロシアはキルギス国内4箇所にロシア軍専用の軍事施設を有しているが、使用料をこれまで払ってきたのはそのうち1箇所(ロシア海軍通信施設)だけで年間1億5千万ソム(約3億円 ちなみに米軍マナス基地の年間使用料は6000万ドル)にとどまっている。キルギス政府はこの機会に4箇所の使用料についてまとめて再交渉を行い、すべてロシア製武器での現物支払いを要求している。ロシア側も基本的に応じる考えで、その見返りに借用期間を49年にするなどの要求を提示した。このほか、オシの近辺にロシア軍の基地を新設する交渉も続けられている。 キルギスの財政は政変にもかかわらず税収が昨年よりも伸びるという「奇跡」が起きている。 政変の結果、財務、税務関係公務員の汚職が影を潜め、いわゆるシャドーエコノミーが表に出てきた結果で経済のファンダメンタルが改善されたわけではない。 税収が伸びても今年度の財政赤字は約260億円に上ると予想されており、2011年には400億円にもなるとの予測がある。国際機関がいかに貸し込んでも追いつかない額で国庫のデフォルトの危機も一部ではささやかれている。 今秋の作物の収穫は政変の影響で昨年より14%減が予想されている。ロシアも旱魃で小麦の輸出を停止したくらいでキルギスに食料支援ができるのはアメリカしかない。オトゥンバーエワ大統領は9月10日クリントン国務長官に今年12月1日までの供与分として小麦5万トン、米2万トンの緊急援助を要請した。 南部の民族衝突の原因調査が行き詰っている。 国内調査委員会は7月に発足して9月7日までに報告書を出すはずであったが、委員長が選挙にでるという理由で作業が中断している。選挙前に調査結果が発表されると選挙そのものに大きな影響を与えるとの懸念で先送りされていると見るのが妥当である。 いまだに事件の概要が判明しない。一体どれくらいの犠牲者がでて、キルギス人とウズベク人の割合がどれくらいなのかも公表されていない。ウズベク人殺害に地元警察が関わっていることは明らかで、警察官を擁護しようとするキルギス系住民とオシ市長ムルザクマートフなどの抵抗で真相解明が妨害されている。 こうしたなか、9月16日ウズベク系人権活動家のアジムジャン・アスカーロフがジャララバードでの衝突に関わったとして終身刑の判決がでた。キルギス系住民の関与についてまだどのような判決も出ていない状況でウズベク系住民に対する訴訟が結審したのはかなり政治的な影響がある。 これは南部の政治潮流の意向をくんだ検察と裁判所の連携プレーであると思われる。国際的な人権擁護団体ヒューマン・ライツ・ウォッチは今回の訴訟指揮に問題ありとして不当判決を訴えている。オトゥンバーエワの発言では今回の民族衝突に関わって立件されるのは3500から4000件に上るであろうという。その筆頭にウズベク人が裁かれたわけで南部の政治エリートの動きはあなどれない。 タジキスタンの情勢がきな臭くなっている。 8月22日首都ドゥシャンベの拘置所にとらわれていた囚人が監視を殺害して多数脱走するという事件があった。 いずれもクーデターを計画していたという容疑で拘束されていた容疑者たちだが、タジキスタン東部のゴルノ・バダフシャン地域へ逃亡した。この地域は反政府勢力の拠点でこれまでも何度か反政府騒動がおきて制圧されていたが、ドゥシャンベ政府の情報統制によって実態は不明のままであった。逃亡したグループを追った政府軍が待ち伏せににあい兵士30名近くが死亡するという大きな損害が出た。 ゴルノ・バダフシャンはタジキスタンの面積の4割を占める広大な地域であるが、ほとんどがパミール高原の峻険な地域で、ここにはタジク人とは別の東イラン系住民であるバダフシャン人が約20万(タジキスタンの約3%)に住んでおり、タジク語とは別のパミール諸語を話す。 これまでドゥシャンベ中央政府との衝突が何度もあり、どこまでタジキスタン政府の実効支配が及んでいるか不明である。アフガンからの麻薬の流入もあり、タジキスタンからの分離独立の動きも根強い。アフガン―タジク―キルギス南部という不安定の連鎖の一部が揺れているわけで注視が必要である。 |
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浜野道博 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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その9 2010年10月18日 「無断転載禁止」 |
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これからが正念場の民主主義 キルギス国会議員選挙の結果について |
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キルギス日本センター前所長 日本キルギス交流協会理事 浜野道博 |
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1.選挙戦とその結果 |
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2.選挙結果の背景にあるもの | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
3.これから起きること | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1.選挙戦とその結果 10 月 10 日に投票が行われたキルギス国会議員選挙は即日開票の結果、旧バキーエフ政権下で要職にあった南部の政治家が中心になって結成したアタ・ジュルト(祖国)党が第一党になり、意外な結果に国際世論や報道機関の関心が集まっている。 今回の選挙は 4 月政変の後実施された 6 月 27 日の国民投票に次ぐ重要な政治的意義をもつ事件で、オトゥンバーエワ政権は民主化プロセスの一環として透明で公正な選挙の実施を国民に約束していた。 選挙は 1 ヶ月前の 9 月 10 日に公示されたが実質的な選挙戦は数ヶ月前から始まっていた。アカーエフ政権やましてバキーエフ政権で行われた行政を使った大々的な投票強制、買収などの露骨な選挙違反がなく、その意味で今回の選挙ではどの党も公平な条件下で戦ったと言ってよい。 たしかにバキーエフ政権時代の選挙管理委員会の関係者は 4 月政変後姿を消したため、各地の投票所や地区選管では、投票、開票、集計などの作業で慣れない選管委員が多く一部で混乱したことは事実であるが、票数を偽造するといった過去に見られた不正行為はなかった。投票は平穏に実施され、その意味で今回キルギスの歴史で初めて民意が正しく反映された選挙が実施されたことは大きな成果であった。 しかしこの目的のために多大の犠牲を払って政権奪取を敢行した暫定政権派が多数を取れなかったのは何故なのであろうか。 今回の選挙は 2007 年旧バキーエフ政権下で改定された選挙法にしたがって行われた。有権者は中央選管に登録された 29 政党の中から一つ選び、各政党の得票数にしたがって 120 議席を分け合うが、国会で議席を得るには「有権者数」の 5%以上の得票を獲得しなければならないという「足きり」規定がある。 そのため 5%に 1 票でも足りないと全て死票になってしまう。有権者の5%であるから投票率が下がるとそのハードルは大変高くなる。今回の投票率は 55.9%であったため、投票総数に比した得票率で言えば 9%以上の票を獲得した政党のみで 120議席を分配することになった。 その内訳は次の通りである。なお今回の投票率は 6月 27 日の国民投票が 70%であったのに対し 56%にとどまった。その事情については後述する。
(得票率 1 は有権者数に対する比率、得票率 2 は総投票数に対する比率。議席数で括弧の数字は仮に全キルギスタン党が 5.01%を獲得したことが確認された場合の議席配分数。) 結局上位 5 党が 5%のハードルを越え、120 議席を分け合うことになり、全キルギスタン党が涙を呑むことになった。 この党は旧バキーエフ政権で国務長官を長く務めたアダハン・マドマーロフが党首で南部オシに近隣するウズゲン市を地盤としているが北部を地盤とする政治家とも合同して南北満遍なく集票できると見られていた。 0.16%といえばわずか 4,840 票である。そのためコンピューター集計ではなく手作業での集計作業のやり直しを求めていて、他の 5 党も支持している。しかし、中央選管委員長は重大な選挙違反がない以上集計作業のやり直しは行わないと公言している。仮に再集計の結果、全キルギスタン党が 5%をクリアすると議席の配分が変わり、組閣の行方に深刻な影響を及ぼす。 暫定政権を支えてきた政党は下線を引いたキルギスタン社会民主党とアタ・メケン党である。この 2 党では 44 議席しかなく、過半数の 61 議席にはるかに及ばない。 暫定政権のメンバー(財務担当)であったサリエフが率いるアク・シュムカル党は得票数 78,952 票 得票率 1 では 2.63%で 7 位につけたが議席獲得には及ばなかった。 また暫定政権で検察担当であったベクナザーロフの BEK 党は得票数 32,520 票、得票率 1 では 1.08%で 11 位であった。 事前の下馬評では暫定政権与党のアタ・メケン、社会民主党、アク・シュムカルの3 党で議会内多数派を形成するとの予想が大勢であったため、今回の結果を意外とする声が多い。特に暫定政権を支持してきた有権者から失望の声が聞かれる。 もっとも第一党になったアタ・ジュルト党といえども得票数・率共に他の政党に勝っているが、いずれも僅差であって単独での組閣は不可能である。 さらにどの政党と組んでも 2 党連立では 61 議席に及ばず、 党以上の連立政権しかありえないと3いう微妙な状況が生まれている。 オトゥンバーエワ大統領は今回の選挙結果にもっとも失望している一人であることは間違いない。キルギス憲法によればオトゥンバーエワ大統領は議席数に関係なく議会内の任意の政党に組閣を命ずることができる。 当該政党が組閣に失敗すれば、大統領は別の政党に組閣を命ずることができる。大統領はこのように 2 度自らのイニシャチブで組閣を委任することができるが、いずれも失敗した場合、議会みずから多数派工作を行い組閣する権利を得る。 しかし、議会自身も組閣に失敗した場合。大統領は議会を解散する権利を有する。オトゥンバーエワ大統領がどのような決断を下すかまだ明らかではないが、連立の組み合わせ如何では第一党アタ・ジュルトさえ政権から排除される可能性もある。オトゥンバーエワ大統領もそのために策を練っているはずである。したがい今のところ、誰が勝者になるのか、その勝利の内実がどうなのか語るのはいささか時期尚早である。 2.選挙結果の背景にあるもの 多くの関係者が今回の結果に失望していると書いたが、それは 4 月政変をどう受けとめるかに深く関わっている。 バキーエフ政権の底知れない不法行為と反国民的政治に民衆の怒りが爆発し、4月政変が勃発した。しかし、それは少数の政治エリートが組織したクーデターと言うに等しく、多数の国民が参加する民主化運動と呼ぶには程遠い。ウクライナやグルジアで見られた民衆の晴れ晴れとした顔が 4 月政変のビシケクにはなかったのは象徴的である。(この問題は近刊の 4 月政変をめぐる拙著で詳述する予定である) 2010 年 4 月バキーエフを追放した暫定政権指導部の顔ぶれは、2005 年にアカーエフを追放した「チューリップ革命」の首謀者たちであった。それがゆえに 4 月政変を未完の「チューリップ革命」の継続と見なす主張が強い。 そして暫定政権の主要メンバーの政治的信条は欧米の民主主義であり、彼らの政治ビジョンは民衆の自発的な参加による民主主義制度の発展である。ここから 4 月政変の政治的意義を民主化革命とみる専門家もいる。 しかし政治家がこうありたいと願うビジョンと実際に起きた事件の本質とは切り離して考える必要がある。4 月政変の証言者はそれがバキーエフ政治に対する民衆の怒りに乗じた一部政治エリートによる政権奪取であって、これら政治エリートが唱導するキルギスにおける政治制度の民主化はいま だに一般民衆の要求として深い根を下ろしているとは言いがたい。 今回の選挙結果は、むしろ地域を軸とした利益集団「族閥」間の激しい戦いが反映しているとみると分かりやすい。 キルギスは今日地域を軸にした族閥による社会経済の支配が進行している。族閥の長はほぼ例外なく政党の党首の顔も持っている。オトゥンバーエワなど族閥の背景のないソ連時代からの政治エリートは少数派である。多くの族閥は地域経済を支配するだけでなくしばしば犯罪組織と結びつき強力な地盤を築きつつある。 族閥を語るキーワードは血縁、地域、ビジネス、犯罪、民族である。それぞれの族閥にはこれらの要素が濃淡を違えども入り混じっている。 アタ・ジュルト党は南部オシとジャララバードを中心としたキルギス人政治エリートの集団である。バキーエフが追放された後、バキーエフ政権下で要職にあった者たちが自らの存在をかけて今回の国会議員選挙のためにあわただしく結成した政党である。その意味で単独党首が支配する他の族閥とはすこし異質で、いずれ党内派閥を切り口に分裂すると私は見ている。 この党のメンバーの一部はバキーエフ一族が支配していた南部の麻薬ビジネスを引継いでそれを主要な資金源としている。アタ・ジュルト党の立候補者リスト 14 番目のマラト・スルターノフが実質的なリーダーであるとの意見もある。今回の選挙では 6 月に発生した民族衝突に直接関わったキルギス人警官やその関係者が訴追を恐れアタ・ジュルトの庇護を求めて支持者を結集した。 すでに、第一党になった瞬間、民族衝突で刑事訴追をまぬかれないキルギス人の一部が南部で活動する人権擁護団体の事務所に押しかけて活動を妨害していることが報道されている。アタ・ジュルトはそうした汚れた手を持つキルギス人のほかに、南部の有権者の漠然とした暫定政権に対する不安感をすくい上げて、南部を中心に効率よく集票した。今回中央選管に登録した 29 政党を支持基盤を地域別に分けるとアタ・ジュルト党と全キルギスタン党の 2 党のみが南部を主な地盤にしており、その他 27 政党はほぼ北部を地盤にしている。 27 政党が北部その他の地域の票を食い合いした合間を縫ってアタ・ジュルトが第一党に躍り出たと私はみている。南部にも支持者が多いアタ・メケン党の票を一部取り込んだことも支持を伸ばした理由の一つである。ロシアとの関係重視を打ち出したのも有権者を安心させた。 アタ・ジュルト党の選挙資金の一部はバキーエフ親族からでているという風評もあるが確認されていない。政党リスト 5 番目のナリマン・チュレーエフ前ビシケク市長はバキーエフ次男マクシムの「ポン友」としてよく知られている。4 月政変でカザフスタンに逃亡していたが、キルギス政界での復帰を早くから図っていた。9月帰国時マナス空港で拘束される事態もあったが、これと言った犯罪歴がないため釈放され、国会議員になって不可侵権を得ることになった。バキーエフ一族が送り込んだ「トロイの馬」とも呼ばれているが、バキーエフの復活はありえない。バキーエフが取り込んだ利権はすでにこの党内で分配済みであって、バキーエフに返すなど誰も考えていないし、バキーエフの「名誉」回復など誰も関心を持っていない。 あまつさえ指導者の一人タシーエフはバキーエフの訴追を徹底的に行うと公言している。アタ・ジュルト党は一枚岩ではない。今後どのように変貌していくのか南部の社会情勢と照らし合わせながら見ていく必要がある。 キルギスタン社会民主党は今回選挙戦を戦った政党の中では歴史が最も古いもの一つで 1990 年の前半に結成されている。オトゥンバーエワ大統領も 2007 年から2010 年まで社会民主党国会議員団団長を務めている。党首のアタンバーエフはビシケク市内に大きな機械加工工場を持つビジネスマンで野党集会はいつもその工場の敷地内で行われ、そこから市の中心に向けてデモ行進をするのが通例となっていた。4 月政変でもこの「フォーラム」工場のすぐ外から衝突が始まった。社会民主主義を党名に掲げているが、イデオロギーとは無縁のアタンバーエフ個人党である。 アタンバーエフのビジネスが豊富な資金源となってこれまでアタ・メケンとともに反バキーエフ運動の中心にあった。ビシケクを中心としたチュイ州を主な支持基盤にしている。表向きの主張とは別に強い親露的傾向が特徴である。ちなみに今回の選挙では政党リスト 4 番目のカラムシキナ暫定政権教育大臣代行が職権を使い教員を選挙活動に動員していたことが明らかになり強い批判を受けている。 政党リスト2 番目のイスマイル・イサーコフ暫定政権前国防大臣代行は誠実な人柄で支持者が多く、4 月政変の際、バキーエフによって投獄されていた牢屋から解放され軍の把握に努力した。社会民主党はアタンバーエフの個性もあって多くの政治家を結集して、第二党を確保した。連立の組み合わせによってはアタンバーエフが首相になる可能性もある。アタ・メケンが後退した今、オトゥンバーエワ大統領は社会民主党に組閣を要請する可能性が高い。 アル・ナミス(尊厳)党は親露派政治家フェリックス・クーロフがロシアの支援を受けて結成した政党。クーロフ自身はソ連時代から一貫して内務官僚として知られ、アカーエフ時代には副大統領にもなっている。治安機関の代表として国民から信頼されてきたが、バキーエフ政権時代 1 年 5 ヶ月首相を務めた時期にバキーエフを統制することができず国民の信頼を失った。 今回の選挙ではバキーエフ政権下で汚職にかけては知らない者はいない有名なアキルベク・ジャパーロフ元財務大臣を政党リスト 2 番につけて有権者の顰蹙を買った。しかし、選挙終盤になって強力なロシアの支持宣伝が功を奏し支持拡大に成功した。 ビシケク市内には若作りのクーロフが戦闘服姿で街頭宣伝ボードに大きく描かれていた。政治家クーロフの力量の源は「親露」に尽きる。キルギス全土で軍や警察関係者の支持が頼りである。今回の得票はロシアの強力な支援の賜物であるが、ロシアはおそらくこの程度の得票数に満足していないものと思う。 クーロフはロシアの意向に沿っていずれキルギスの政治制度を議会制民主主義から超(スーパー)大統領制に戻すと公約しているが、議会制民主主義制度に移行したキルギスの複雑な政治環境でどこまで公約を果たしうるのか未知数である。 共和(国)党はバキーエフ政権で一時副首相を務めた経験をもつ富豪ババーノフの個人政党である。ババーノフはロシアやカザフスタンからキルギスへガソリンなど石油製品を輸入するビジネスで巨万の富を築いた。今回の選挙ではロシアとの緊密な関係発展を訴え、ロシアからも支持されている。アカーエフ、バキーエフ両政権下で生き延びたしたたかな商売人でもある。タラス州出身。北部の有権者の間で社会民主党のアタンバーエフ党首やアタ・メケンのテケバーエフ党首に対する不満票を集めて第 4 党の地位を得た。暫定政権とも南部の政治エリートとも距離をおく中間派で、後で見るように今回の選挙結果でどのような連立組み合わせになってもキャスティングボートを握る立場にある。 アタ・メケン党はアカーエフ政権下でもバキーエフ政権下でも野党の中心として闘ってきた輝かしい歴史を誇る政党である。党首のテケバーエフは国会議員、国会議長の経験もある老練な政治家で学校の元教師である。政治的には社会主義を信奉し、アタ・メケンは社会主義政党とも言われている。今回議席を得る 5 党の中で唯一親西欧路線を明確にし、ロシアから「にらまれた」。 今回の選挙戦では優勢を予想されながら、終盤ロシアのメディアによって総攻撃をうけ、有権者を引き止めることができなかった。 このように現在キルギスの有権者の投票行動を決める主な要因は血縁、地縁、それからロシアであって、民主化ファクターではない。今回アタ・メケンを除く他の政党はクレムリン詣でを行い、ロシアとの緊密な関係を有権者にアピールした。 ロシアへの出稼ぎが 100 万人近くいるといわれるキルギスである。ロシアとの関係悪化を恐れる国民が多数いる。ロシアはそれを利用して一歩超えれば内政干渉というぎりぎりのところでキャンペーンを張り、反露的言辞に対し神経質な抗議を繰り返し、特定の政治潮流の支援を行った。今回の選挙で勝者が誰か語るのは時期尚早としてもロシアは少なくとも「勝ち組に入る」であろう。 6 月 27 日の国民投票では投票率が 70%を超えたのに今回は 56%弱であった。しかしキルギス人がノンポリになったわけではない。前回国民投票では居住地でなくても身分証明書を提示すれば国内どこでも投票できた。日本に例えていえば、東京都内に居住していても投票日に札幌で免許証を見せれば投票できた。 しかし今回の選挙では、有権者は居住地の選管で有権者登録をしている証明書を取得し、その証明書を持って出先の投票所に行って初めて投票ができた。このため多数の国内移民がそのような証明書の取得ができず、投票できなかった。今後、関連の数字を精査する必要があるが、56%の投票率でも実際に投票可能な有権者の 80%を越える者が投票所に行っている者と推測する。 またロシアやカザフスタンに出稼ぎにでているキルギス国民の参政権が守られていないことも深刻である。在外有権者名簿では 76,557 名がリストアップされているが、実際はその 10 倍が海外にいて投票する権利を奪われているものと推測する。 推定値で恐縮だが、総有権者数は 360 万人、そのうち海外出稼ぎ者が 80~90 万人、国内移民(居住地を変更したまま登録替えをしていない者など)が 30 万人ほどいるのではないかと思う。有権者台帳が整備されていないため 10 月 10 日時点で台帳に記載されている 283 万人のほか当日身分証明書で投票した者が 17 万人ほどいた。 このように、有権者の総数が投票日当日になっても正確に把握できないため、「有権者総数」 5%が一体何票なのか投票が終わるまで確定できなかった。もっとも、この当日身分証明書をもって投票に来た有権者の数を水増ししたりいった事実はないと考える。 5%のハードルを越えられなかった「全キルギスタン」党が投票用紙の再集計を求めているのだが、再計算してもこの党が 5%のハードルを越える追加票を「見つけ出す」ことは難しいと思う。 投票所での開票結果は監視員として配置された各政党代表がその投票所の選管委員長からコピーを入手しており、中央選管の手を煩わせぬとも自分で再集計ができる。また、仮に再集計を中央選管がやることになった場合、再集計は国際監視団の居ない中で行うことになり、不正チェックの保証がない。 こういう環境で仮に異なった計算結果が出た場合、選挙そのものの権威を大きく傷つけることになり、選挙や政治に対する信頼醸成に損害を与え、キルギスの政治プロセスにとって好ましくないことは言うまでもない。そうでなくても、今回の選挙に対する信頼をおとしめようとする勢力が未だにいることも事実で、今回オシで 2500 枚の投票用紙が紛失した事件があった。投票率が下がると、日本の経験でもそうだが、固い地縁、血縁の強い有権者グループの票が帰趨を制することになる。 4 月政変を主導した勢力も今回のような開放的な選挙を闘うのは初めての経験であった。族閥のしがらみを越えて幅広い有権者の支持を獲得する粘り強い活動を行うノウハウもまだない。ロシアのメディア攻勢の前に弱体をさらした。 しかしアタ・メケンの不振、アク・シュムカルと BEK の惨敗は必ずしもロシアのメディアによるキャンペーンだけが原因とも言い切れない。特にベクナザーロフとサリエフの 2 名は 4 月政変以降暫定政権内で旧バキーエフ一族の資産没収を担当し、政府の海外送金などにも関わり不正行為の疑いをかけられていたことを有権者は忘れていなかった。キルギスの有権者は自由な選挙の洗礼を受けより賢明になりつつあることにも注目する必要がある。 選挙プロセスには細かな瑕疵はあったにせよ、正しく民意を反映する場をひとしく国民が得たことはキルギスの民主主義の発展にとって大きな財産になるはずである。中央アジアのどこの国でこれだけ自由に考え、自らの判断で支持政党を選ぶことができるであろうか。 3.これから起きること 組閣をどのような政党の組み合わせで行うか、いまはオトゥンバーエワを始め各党が秘策を練っているはずだが、ありうるケースとして次の 3 つが考えられる。・・・ 75 議席 アタ・ジュルト、アル・ナミス、共和党(親露の最右翼、超大統領制への後戻り主張) 72 議席 アル・ナミス、共和党、社会民主党(アタ・ジュルトとアタ・メケンの左右両極端の排除) 67 議席社会民主党、アタ・メケン、共和党(最左翼) どの組み合わせでも共和党が入り、いわばキャスティングボートを握ることになる。仮に親露だけで結集するとすればアタ・メケンを外した他の 4 党で大連立を組むこともありうる。 アタ・ジュルトはすでに議会制民主主義制度を超(スーパー)大統領制に戻すことを明言し、アル・ナミスや共和党を念頭に置いて連立への秋波を送っている。 このほか、上述の通り仮に全キルギスタン党が議席配分にあずかることになれば間違いなく、下記の組み合わせになるであろう。 61 議席 アタ・ジュルト、アル・ナミス、全キルギスタン(親露の最右翼、超大統領制への後戻り、権威主義的政治の復活) どのような組み合わせになっても与党は国会運営で厳しい対応を強いられることは間違いない。ロシアが狙っている超大統領制の復活は各派の思惑がぶつかってロシアが考えるほど簡単には行かないだろうし、キルギスの国民がそれをあっさり許すかどうか、そこがまさしく 4 月政変を敢行した政治勢力の力量が問われるところである。 いずれにしてもキルギスの議会制民主主義は超大統領制への後退との闘いというのっけからその存在理由が問われる正念場に立たされることになった。オトゥンバーエワ一人を孤立させてはいけない。アメリカはロシアの攻勢に改めて身を引き締めたに違いない。そしてマナス基地の閉鎖を回避するためのあらゆる手を打つであろう。今回の選挙結果に見られるキルギスの有権者の意識を分析し、民主主義制度の意義を喧伝する親米 NPO の支援を強化するであろう。 連立の組み合わせはキルギス南部の情勢の展開に重大な影響を及ぼす。南部の政治エリートたちはオトゥンバーエワ政権の指示をあからさまに無視する分離主義的な行動すら恥じていない。南部の情勢を安定させるためにはどのような連立が望ましいのか、この視点からもキルギスの組閣工作を見ていく必要がある。 以上 |
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その10 2011年4月22日 「無断転載禁止」 |
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22年度IIST・中央ユーラシア調査会 公開シンポジウム 2011年1月31日 |
『中央アジアの民主化の現実と経済協力・資源開発問題』 引用元: 「財団法人 貿易研修センターIIST・中央ユーラシア調査会報告集 Vol.10(平成23年3月)より」 報告 「キルギスの議会制民主主義 - 2010年4月政変から連立政権成立まで」 浜野 道博/はまの みちひろ キルギス日本人材開発センター 前所長 日本キルギス交流協会 理事 はじめに 昨年一年間キルギスでは大きな事件が相次いだ。4月7日にバキーエフ政権が倒れ、ローザ・オトゥンバーエワを首班とする暫定政権が成立した。その2ヵ月後に南部のオシで、一説には2000人という多数の犠牲者がでる民族衝突があった。 10月には新しい憲法に基づき議会制民主主義を実現する上で重要な国会議員選挙が行われた。しかし議会制民主主義を推進し、民主主義を発展させるために政権を奪取した暫定政権派が過半数をとれず、逆に旧バキーエフ派の要人たちが作った政党が第一党になった。キルギスで起きていることは、個々の出来事だけみているとなかなか脈略がつかめないというのが正直なところだ。 4月の政変から今日までのキルギスの政情を整理し、その背景、政治制度の現状ならびに今後の展望について述べたい。 キルギスの政変とその背景 今からちょうど1年前の2010年1月末のキルギスと今日のキルギスを比べて、この1年で変化したことを三つ挙げたい。 まず、政治制度が変わった。強力な大統領制がなくなり、いわゆる議会制民主主義が導入されている。この議会制民主主義のメカニズムは、連立政権が樹立してすでに動き始め、隣国のウズベキスタンやカザフスタンの政治プロセスとは明らかに違う形で国の統治が行われている。 二つ目は、ロシアの直接的な介入、影響力の行使が非常に強くなっていることで、これは極めて重要なポイントであると思う。 三つ目も無視できないポイントで、キルギス南部の問題が表面化したことは1年前と大きな違いである。オシやジャララバードなど民族衝突が起こったキルギスの南部は、これまでも何十年にもわたってキルギスのいわば「獅子身中の虫」であったが、昨年6月の民族衝突を契機にキルギス情勢の不安定要因として表面に浮かび上がってきており、今日もなおキルギスの政局をみる上で無視できない地域となっている。 議会制民主主義への移行 ひとつひとつ事件を追いながら、キルギスが移行した議会制民主主義とはいったい何なのか、この議会制民主主義は生き延びるのかをお話したい。 まず、4月7日に政変が起きた。このときバキーエフ大統領はまさか負けると思っていなかった。ところが何万人もの群集が大統領府に押し寄せ、彼は命からがらジャララバードに逃げた。その日の晩にオトゥンバーエワを首班とする暫定政権が発足した。 そのわずか2日後の9日には、やはり暫定政権を担う野党勢力の指導者であるテケバエフが、キルギスは議会制民主主義に移行し、そのための国民投票を行うと公表した。 早々と公表したということは暫定政権の中で既に合意ができていたということで、議会制民主主義への移行は暫定政権に結集した野党勢力の政治信条として既に6年も7年も前から掲げられていたものである。 CIS諸国では強力な大統領制の国が多い中で、カラー革命がウクライナやグルジア、キルギスで起きた。しかしキルギスは議会制民主主義への移行を目標としたところが他と一味違っている。チューリップ革命はいったん挫折するが、独裁的な大統領を民主的な大統領に変えるのではなく、大統領制度そのものに手を入れて議会制民主主義に移行する方向にいく。これがキルギスの異色なところである。 キルギスには昔からアクサカール(長老合議制)という制度もあるように、議会制民主主義へのこだわりの理由としてはいろいろ挙げられると思うが、私はアカーエフ大統領の15年の治世の持つ意義が大きいと考えている。 アカーエフは1990年に有名な作家のチンギス・アイトマートフから推挙されて、サハロフ博士の思想的な同調者、民主主義者としてキルギスの初代大統領に選出された。大統領であった15年の間に彼は、キルギスは中央アジアにおける「民主主義の島」であるとずっと唱えていた。それがどこまで事実であったかは別の議論に譲るが、少なくとも追放される直前まで、例えば、反対派に銃を向けてはならないと命令して民主主義者としての矜持を守ろうとした。たしかにアカーエフは強権的な大統領だとされて国を追われたが、彼の歴史的役割には強権的大統領として切り捨てられないものがある。 アカーエフが追い詰められたときに、キルギスは大統領制度から議会制民主主義に移行したほうがよいのではないかと彼自身が言ったという事実もある。つまり、キルギスの議会制民主主義への移行にはアカーエフ時代に始まった経緯があり、国内でコンセンサスが形成されてきたことが背景にある。 キルギスというのは遊牧社会であり、今まで過去何千年もの間、強力な指導者が民族全体を統一した時代は極めて稀で、民族の大事を決するときはその都度40いくつかの部族からアクサカール(白い顎鬚)と呼ばれる長老たちが集まり合議制に拠ってきた。アカーエフは1990年に大統領になったときに、キルギスという国のアイデンティティは何かということに非常に強い問題意識をもち、口承文学のマナス英雄譚に依拠して、キルギスの民族的伝統への回帰を訴えた。アクサカール(長老合議制)の歴史的伝統をもつキルギスには、強権化した大統領制度ではなく議会制民主主義の方が適合しているとオトゥンバーエワも言う。キルギスにおける議会制民主主義への移行はさほど唐突なことではないということを申し上げたい。 キルギス政変とロシアとの関係 しかしこの議会制民主主義に対してロシアが非常に強い危機感を持った。振り返ってみると面白いことがある。4月7日に政変がおきて、翌8日の早朝にプーチンがモスクワからオトゥンバーエワに電話して、ロシアは暫定政権を支持すると伝えている。ロシアの外交権はメドベージェフ大統領にあるはずだが、初めの2週間位は対キルギス外交をプーチンが全て差配した。 当時、キルギスの国庫にはわずか1600万ユーロしかなく、春先にも拘らずトラクターの燃料がない、春播きの籾もないという非常に困った状況であった。ロシアは、ロシア的なテンポでは考えられない速いスピード、約1週間で、クドゥリン財務相が一千万ドルをキルギスに送金している。このように政変当初ロシアはキルギスの暫定政権に対し強力に梃入れしたが、4月下旬、キルギスの憲法改定草案が発表される頃になると、プーチンが後景に退きメドベージェフ大統領がでてきて、キルギスの議会制民主主義は機能しないと言いだした。 ロシアは議会制民主主義を承認しない、容認しないという立場である。メドベージェフはこの年の10月まで延々とこの主張を繰り返す。6月にキルギス南部で民族衝突があり、手がつけられなくなったときに、ロシアは暫定政権が要請した単独のPKOの派遣を断った。条件として、議会制民主主義の移行を取りやめれば兵を送ってもよいと露骨なことを言ったという証言もある。 世界各国200以上の国があるが、多数派は大統領制度であり、日本のような議院内閣制は少数派である。大統領制度としてはアメリカが一番典型的な例だと思うが、大統領制度と議院内閣制の間には大統領と首相が行政権を分けるという半大統領制度というのもある。例えば、フランスのような形は半大統領制度と言え、その他に多くのバリエーションがある。 キルギスはどのような地位にあるかというと、これまでの強権的な大統領から、いろいろな権限を剥ぎ取り、剥ぎ取った結果出来上がったのがキルギスの議会制民主義と理解していただければよい。いままで大統領に集中していた権限が議会に移され、大統領の手元に残るのは、軍司令官、国防大臣、国家保安局、検事総長などの実力機関の長を任命するといったいくつかの権限に限定されている。法案の拒否権もあるが、3週間ほど前のオトゥンバーエワのインタビューを聞いていると、予算関連法案の拒否権はないらしい。憲法をみると大統領の権限が極めて限定されている。半大統領制ではあるが、かなり議会に軸足が移ったものであるといえる。そうは言っても決して象徴的な大統領ではない。一部日本のメディアがキルギスの議会制民主主義のことを議院内閣制と呼んでいるが、これは正しくない。 こういう議会制民主主義が、キルギスで動き始め、現在およそ一月半である。各派の合意で最初の100日くらい様子をみてみようという状況であるが、その間いろいろな火花が飛んでいる。あとで少しご紹介する。 6月27日に憲法改正のための国民投票が行われ、投票率70%、支持率90%であった。新しい憲法が採択されて議会制民主主義になるということで、ロシアの危機感がますます強まった。もし10月の国会議員選挙で議席の過半数を暫定政権派政党がとると、いよいよキルギスはロシアの手から離れていくのではないかという危機感を非常に強くもったと思う。 重要なポイントであるが、キルギス大統領には外交権があり、マナス米軍基地を撤去あるいは存続させる権限は大統領にある。その大統領職をオトゥンバーエワが遂行しているが、それに合わせて議会の過半数が暫定政権によって占められると、ロシアがキルギスにおよぼす影響は非常に限定されることになる。そのためロシアとしては国会議員選挙に絶対負けるわけにいかなかった。他国の選挙に負けるわけにいかないというのもおかしな話であるが、結局、ロシアは10月10日の国会議員選挙投票日に至るまでにキルギスの選挙戦に非常に強い磁場をかける。自国のメディアを総動員して反ロシアであればキルギスは生きていけないという宣伝をキルギスの国内で行った。ビシケクやオシなどの大きな都市では、ロシアの民放、国営放送を地上波で見ることができる。これらメディアをつかって、ロシアの存在を有権者に訴えた。 その結果、ふたを開けてみると事前の予想に反して暫定政権派(キルギスタン社会民主党およびアタ・メケン党)が2党合わせても120議席の過半数にはるかに遠い44議席しか取れなかった。親露を標ぼうした政党が国会内で多数を占めることになった。さらに旧バキーエフ派の要人たちが作ったアタ・ジュルト党が第一党になった。しかし、議席を得た5党の各議席数では議会の過半数をとるには2党の連立でも無理、3党でようやく過半数であり、より重要なことであるが憲法の改正のための議会の3分の2以上をとるには4党の賛成がないとできないという、ある意味で民主主義の真価が問われる結果に終わった。しかし、国会に旧バキーエフ派の政党が第一党で議席を得たことは、今まで暫定政権を支持してきた国際世論を非常に狼狽させた。 キルギスの民族衝突問題 このような結果を導いた原因の一つは6月10日にキルギス南部で起きた民族衝突にあろうと私は思う。この民族衝突の原因を少し歴史的に振り返ってみたい。オシやジャララバードのある現在のフェルガナ盆地の山麓部にはウズベク人が多数住んでいたが、1925年にこのウズベク人の土地はキルギス領に編入された。その時から今日までオシ、ジャララバードを中心にキルギス人とウズベク人の水や土地を巡る争いが絶えず起きている。ソ連時代われわれ外国人はこの地域に足を踏み入れることもできないし、モスクワから遠く離れたこの地域に関する情報が漏れてくることもなかったが、ペレストロイカの末期1990年5月におきたオシでのウズベク人とキルギス人の衝突は世界に知れ渡った。 このときもウズベク人が1000人以上殺されている。衝突の原因は、それまで遊牧生活を送っていたキルギス人が平地に下りて定住しようとしても適当な土地がない。そのためウズベク人から土地を奪わざるを得ないという事情がある。そう単純に言い切ると、キルギス人から石を投げられるかもしれないが、やはり基本的に押さえておかねばならない構図である。このような南部の民族的な反目の根源は、やはりウズベク人が多数住んでいた地域のキルギス領への組み込みから始まっている。その意味でグルジアのアプハジア問題とも共通したところがある。 6月10日に民族衝突が燃え上がって多くの犠牲者が出たとき、ビシケクの暫定政権はこの地域を十分掌握できていなかった。今回の衝突は水や土地を巡っての具体的な争いの種がない、だれかが挑発した衝突であったことは事実だと思う。結局、衝突は第三国の介入のないまま10日ほどで収まった。しかし、民族衝突を契機に暫定政権の南部に対する実効的支配が揺らいでいることが白日のもとになってしまった。 事態を一層複雑にしているのは、南部における旧バキーエフ派を中心とした政治家たちがウズベク人の殺害に加わったキルギス人たちを囲いこみ、民族衝突を政治的な資産にして、この地域のキルギス系住民の間で強力な支持基盤を維持しているということである。彼らは民族衝突の原因解明作業を妨害し、この地域における民族融和のプロセスに水をさしている。 キルギス南部の情勢は民族対立とここを通過するアフガン麻薬をめぐる利権争いが絡み合い、キルギス安定化の阻害要因となっている。 キルギスの政治情勢 12月に成立したキルギスの連立政権は、各党派の思惑が絡み合って、死に物狂いで闘った当事者同士が手を組むという呉越同舟の組み合わせになった。各党の政治的立場は親露か親欧米か、旧バキーエフ派か反バキーエフ派かで一応4グループに分けることができ、その対角線上にある旧バキーエフ派のアタ・ジュルト党とオトゥンバーエワ大統領の激しい対立が火花を散らしている。現在キルギスの政局はひたすら今年11月の大統領選挙に向けて動いている。ロシアはウクライナのように親露派大統領を据えたい。一方アメリカはマナス米軍基地を死守するために暫定政権派への梃入れを強めている。 とはいえ一言お断り申し上げておくが、キルギスの政治家は親欧米であっても反ロシアではない、親ロシアであっても反欧米ではない。キルギスはアカーエフ時代から八方美人外交と言われてきた。ロシアだけでは生きていけない、欧米だけでは生きてはいけないというのがすべての政治勢力の共通認識である。 (以上、報告) 質疑応答 (I) 報告では時間がなくてお話できなかったことを3点ほど述べたいと思う。まずキルギスにおけるアメリカの存在、それからロシアがキルギスで何をしようとしているのか。また今袴田先生がおっしゃったように民主主義と呼んでいいのかどうかはともかく、制度として導入された議会制民主主義が生き残るかについてもご紹介したいと思う。 まずアメリカがキルギスで何をしているかというと、先ほど田中先生がご紹介されたように、マナス民間空港を事実上、軍事基地として使い、巨大な空中給油機を駐機させている。数字をみて驚いたが、マナスの米軍基地に供給される燃料が月に1200万ガロン(4万5千キロリットル)もある。アフガニスタンで航空機燃料の確保が難しい分キルギスでロシア、カザフスタンから調達し、空中給油機でアフガニスタンまでもっていき戦争をやっている。大変な役割をマナスの米軍基地は担っており、アメリカは絶対これを死守しなければならない。マナスがなくなるとアフガニスタン戦争の趨勢に大きな影響を及ぼす。 この基地ありきというアメリカの姿勢は変わらないと思う。かつてブッシュ政権の時に、ブッシュ、アカーエフの合意でマナスの米軍基地が設置されたが、ブッシュ政権から、AWACSという早期警戒管制機を配置したいという変化球がアカーエフ政権に投げられたことがあった。これはアフガン戦争とはなにも関係がない。この哨戒機を配置すると、ここから中国やシベリアの軍事情報がすべて集められるのである。アカーエフはもちろんその都度拒否した。ロシアはそれを非常に良く覚えている。この米軍基地を残すと、中央アジア地域、中央ユーラシアの軍事的な喉元をアメリカに押さえられる。そういうこともあってロシアは、一刻も早くこの米軍基地を排除したい、ということが背景にある。 ロシアは、10月のキルギス国会議員選挙で親ロ派政党4党が120議席のうち102議席とったので、キルギスの政局のコントロールにあわてなくてもよいという状況になった。最近、メドベージェフ大統領もキルギスの議会制民主主義は、などと言わなくなくなった。当面、先ほども話したように11月の大統領選挙でロシアにとって聞き分けのいい大統領を据え、それからゆっくりキルギスの政治制度を考える。アメリカの米軍基地に対する対応も、少しずつ詰め将棋のように詰めていく状況だと私は思う。 現在キルギスの内閣は呉越同舟内閣であるが、これをロシアが今つぶす理由はなにもない。中にいる人も外にいる人も、割と今の状況で安堵感を感じ居心地の良い状況が続いているわけで、おそらく今年の秋くらいまで、例えば、議会制民主主義だから喧嘩別れして解散、選挙だということは起こらないと思う。これが制度そのものの安泰につながるかどうかはわからないが、制度というのはいったん導入されると硬直性がある。 これを取り替えるためには、先ほどご紹介したように、例えば憲法改正のためには80議席が必要である。今の120議席のうち80議席以上の支持を集めて、大統領制に戻すことは大変難しいと思う。きれいに120の議席が5つの党でほぼ20数議席平均に分けられているのは、キルギスの今の族閥社会の色分けがそのまま反映しているようなものである。参加している政党は、どの党もとりあえずは、先ほど申し上げたように居心地が良いので、少し様子を見ながらキルギスの政治情勢は展開していくのではないかと思う。 だれも国会を解散したくない。今仮に、そういうことはないと思うが、キルギスの国会を解散したら、暫定政権派が議席を増やすと思う。昨年10月に行われた選挙で5党の総得票数が100万票であったが、投票総数は160万票なので60万票は死票である。死票の大半が北部の票で、暫定政権派が選挙戦を進めるうえで疎漏があった結果だと思う。もう一度、選挙があるとすれば、当然オトゥンバーエワを中心とする暫定政権派は今度は心してとりかかる。暫定政権派が議席を伸ばす可能性もある。今はそういう展望も含めて、当面今年半年間くらい、あるいは秋まで、キルギスの国会が解散される、あるいは大統領制に戻るという大きな動きはないと思う。むしろ南部の民族衝突の後始末、麻薬密売ルートの摘発といった問題をオトゥンバーエワが旧バキーエフ派を追い詰める材料としてどこまで攻めていけるかにかかっている。 昨年7月にオトゥンバーエワの指示で設立された民族衝突の原因調査を行う国内委員会の報告書が、今年1月19日に大統領に提出された。2千人以上が亡くなったといわれる民族衝突にも拘らず、報告書は20ページしかない。これでは亡くなった方々への冒とくに他ならない。国内委員会の委員たちは早く手仕舞いしてこの問題と縁切りしたかったに違いない。真正面からキルギス南部の、キルギス人とウズベク人の民族的な反目、対立を解消するための道筋をつけるといったような国家的作業は放棄されて細々とNPOがやっている。これでは民族融和の道のりは大変遠い。 先ほど申し上げたように旧バキーエフ派の政治家が自分たちの政治資産として民族対立をよりどころに南部で政治的な基盤を築いていることもあるので、これから半年くらい、オトゥンバーエワはOSCEや国際機関を使って旧バキーエフ派を追い詰める手を打っていくと思う。彼らアタ・ジュルト党の一部は、アフガン麻薬のビジネスにかかわって大きな利益を得ている。この「利権」は以前バキーエフ一族が押さえていたが、バキーエフがいなくなった後、アタ・ジュルトの中で再分配が行われた。それを追い詰めていく作業もある。これにアフガン麻薬の被害者ロシアが非常に関心をもっているが、ロシアはアタ・ジュルトの地盤に今手を突っ込むことが政治的な判断として正しいことかどうか迷っている。南部の情勢は民族対立と麻薬ビジネス根絶を軸に動いていく。 (II) カリーモフ政権の民族問題に対する態度はいろいろ語られるが、特に国境の外にいるウズベク人の人権や権利擁護に対しては、一言で言うと無関心である。カザフスタンに住むウズベク人、キルギスに住むウズベク人に関しては、それぞれの国の事柄であると、表向きそれでずっと通してきた。だから今回もキルギスで同胞が殺戮されている状況が生じたにも関わらずウズベキスタン軍は動かなかった。ロシアなら例えば、南オセチア問題にあるように、ロシア人でなくてもロシアのパスポートをもっていればロシア軍がぱっと押し寄せてくるが、今回の民族衝突ではそういう状況は全くなかった。ウズベク側が自制をした。国境の外にいるウズベク人の生命と財産の保証には関与しないという、カリーモフ政権の基本的な立場があったと思う。結果としてウズベキスタンとキルギスの国と国との戦争にならなかったということに、オトゥンバーエワはカリーモフに何度も何度も感謝をしている。カリーモフ大統領がウズベク軍を出さなくてよかったと私も思う。 今ご質問があった二点目の民族融和に関して申し上げると、チューリップ革命のときになぜ民族対立が起こらず2010年のときに起きたかというと、やはりアカーエフ時代の民族政策とバキーエフ時代の民族政策がはっきり違うということが挙げられる。アカーエフ時代はウズベク人の国全体の人口に対する比に応じて国会議員の数の割り当てや地方政府の役人割り当てについて割と気を使っていた。バキーエフは、それを全部とりあげてしまい、ウズベク人、特にオシやジャララバードに住んでいるウズベク人は自分たちの政治的な権利が侵害されているという非常に強い被害者意識をもって5年間生きてきたことが大きな理由ではないか。 4月7日に政変が起きて、バキーエフが追放された後、まもなく、オシとジャララバラード、特にジャララバードで、1990年代からの要求であるキルギスの中にウズベク人自治区を作るという政治的な要求を掲げて、ウズベク人政治家が地元の民放などで主張を流すということがあり、それを見たキルギス人が非常に反感を持った。それを指して、今回の民族衝突のきっかけを作ったのはウズベク人だという調査委員会の結論がでている。私は、その結論は正しくないと思っているが、少なくとも、アカーエフ時代とバキーエフ時代の根本的な違いはそこにあったのではないか。今後ウズベク人の権利、政治的な権利を含めてどう守っていくかが大切な政治的課題である。ただ今のキルギス南部の状況ではそこまで手が届いていない。南部の政治エリート、つまり旧バキーエフ派がウズベク人虐殺にかかわったキルギス人を囲い込んで、衝突の原因究明や今後の民族融和の問題について対話すら成り立たないような状況がまだ続いている。 (III) オシ、ジャララバードには約60万人のウズベク人がコンパクトに住んでいる。散り散りばらばらではなく、オシ市内、ジャララバード市内の、マハッレー・イスラミーヤという信徒団体、町内会のような形でコンパクトに住んでいる。そこに住んでいるウズベク人は、本国のウズベク政府に、自分たちが非常に自由主義的なウズベク人であり歓迎されざる人たちだと思われている、と認識している。キルギスに住んでいるウズベク人は、非常に複雑な気持ちがある。隣に自分たちの歴史的な祖国であるウズベキスタンがあるが、本当にその国が守ってくれるのか確信がなく、キルギスの中で自分たち自身で生命と財産を守っていかなくてはならないと思っている。 それが20年来の自治区創設の運動につながっていく。アカーエフ時代にはそういった自治区創設の要求に応えるという形ではないが、ウズベク人は少なくともキルギスの中の一番大きな少数民族であるので、彼らの政治的な権利、人権を守ることをアカーエフ政権は支持した。そういう方向でウズベク人としてはキルギスの中で生きていかざるを得ない。そして、田中氏からご紹介があったように、中国からはいってくる物産や、オシ、ジャララバードにおけるサービス商業を押さえながら生活していかざるを得ないという覚悟でこれから生きていくと思う。 民族衝突がおきて一月くらい経った後、現地に入ったキルギス人の知人から聞いたが、ウズベク人が非常におとなしくなったと言っていた。今まで、ジャララバードに行っても、ウズベク人はキルギス人に対してウズベク語で話しかけてきた。ウズベク語とキルギス語では、話していることの半分くらいはわかる。今回行ってみたら、全員きれいなキルギス語で応対してくる。それはやはり、そこに住んでいるウズベク人が、今回の民族衝突で、自分たちの生命、財産に対する危機感をかなり持った。それをこれからどうするかというのは大変難しい質問で私は答えられないが、オトゥンバーエワ政権がやはり正しい道筋を示して、キルギスの中にいる少数民族の権利を守っていくしかないと思う。またはそこに住んでいるウズベク人もそれに期待していると私は思う。 (IV) キルギスは小さな国で、人口550万で日本の25分の1、経済規模は日本の400分の1なので、おっしゃるとおり、なぜそういう国に入れ込んでいるのと聞かれたときに、山がきれいだから、人情があるから、だけでは納得する人はいない。そうではなくて、日本とキルギスの関係強化が日本の外交にどういう意義があるのか、またこの国が中央アジアの中で占めている位置をキチンと押さえなければならない。 日本の外務省は「中央アジア+日本」対話プログラムを行っていて、定期的に中央アジア5カ国の外務大臣と日本の外務大臣が東京とそれぞれの国の首都で会い、日本と中央アジアとの交流発展、また中央アジアにおける地域内協力の発展を図るために会議を行っている。2006年7月だったと思うが、川口順子外相のときこのプログラムの具体化として行動計画が発表された。私はビシケクに在職中で、夕方家に帰ってテレビをつけると、たまたまロシアの外務次官がこれに関連して「中央アジア+日本」対話プログラムに対するコメントをしていた。そのなかでロシアの外務次官は、「きわめて不愉快だ、なぜ日本が中央アジアにわざわざくるのか」そういうニュアンスのことを言っていた。「日本が中央アジアでできることは何もない」とも言っていた。ロシアにとって中央アジアは自国の権益内だと思っているので、そこに日本やアメリカが入ってくるのは、第三者が手を突っ込んでくる、大変不愉快であるということらしい。 私がそのとき思ったのは、もちろん日本と中央アジア、日本とキルギスの両国間関係を発展させることは両国民の利益にとって大きな利益があると思うが、大きく見て、中央アジアにおける日本の外交は日露交渉、対露外交の一環だということである。日本が中央アジア、キルギスとでもよいが良い関係を築いてこの地域で日本のプレゼンスを強めることは、対露外交をすすめるうえで日本にとって大きな利益がある。 もう一つの視点は、キルギスは小さな国であるが、中央アジア地域では水資源、水力資源という点でウズベキスタン、カザフスタンに対して大きな影響力をもっている国である。中央アジアの水資源の問題、水力発電の問題に関して日本がキルギスタンと協力してこの地域全体の環境問題、電力エネルギーの問題に関して協力をしていくことは、この地域の安全保障、経済発展に対して大きく貢献するのではないか。キルギスが小さい国ということに惑わされてはいけないと思う。 質疑応答 了 |