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定年後にはじめたマウンテンバイク旅行

(定年後のシルクロード自転車旅行)
(前田種雄、1936.5.6生まれ)

「定年後にはじめたマウンテンバイク旅行」(定年後のシルクロード自転車旅行)
                                                      (前田種雄、1936.5.6生まれ)
1.定年とマウンテンバイクの購入
 2000年3月、林英一さんと、JICA(国際協力事業団)の調査業務の関係で知り合いました。
電車の中で、林さんの趣味は自転車で、毎年シルクロードを600-700km走る、と聞きました。その後、7月のとても暑い日に林さんに電話したところ、
「シルクロード行きの訓練のため、100km自転車に乗って帰ってきたところです。」
とのことでした。

  当時、林さんは60歳で、水産関係の会社を定年退職したばかりでした。林さんには、定年後も夢や目標があります。しかし、そのころのわたしは、海外コンサルタント会社の業務が多忙で、定年後には漠然と、これまで行ったことのないNew Zealand、Scandinaviaや南極に旅行してみようと思っていました。定年後の自由時間、夢や目標を追って過ごす。しかも、砂漠の暑さの中を自転車で走り回る体力もある林さん。「うらやましい、自分も一緒に走ってみたいなあ」と、電話で聞きながら思いました。シルクロードを自転車で旅行する,魅力的だ。しかし、体力に自信がありません。自分にはとても走れそうにないと思いました。

  2000年9月末に退職し(64.5才)、それまで土日出勤などで働きづめであった環境から解放されました。林さんのように、定年後も元気で過ごしたい。早速、土日はジムで基礎体力をつけ、シルクロード行きを目標に、自分でどこまでやれるかを試してみることにしました。マウンテンバイク(MTB)と折り畳み自転車の違いや、MTBは簡単に車輪を外せることも知らない訳ですから、本屋での立ち読みや知人への質問で勉強しました。10月に神田の専門店でMTBを購入し、早速自宅の船橋までの約30kmをMTBに乗って帰ることにしました。若い店員が心配になったのか、ブレーキのかけ方や変速機の使い方を丁寧に教えてくれました。初めてのMTBはなかなか快適でした。道を間違え約4時間かかってしまいました。
 
2.New Zealand旅行(自転車とバスの一人旅)
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New Zealandへ出発
 その後、New Zealandに自転車旅行したことのある友人のことを想い出し、問い合わせてみました。すると、道路も良く宿泊施設なども整備されていて、自転車旅行にはとても良いところであると教えてくれました。早速自分の実力を試すために一人旅をすることを決めました。

  New Zealandの自転車旅行について詳細に記述した本を2冊見つけ、懸命に読みました。その上、著者にe-mailで問い合わせる等して、テント、寝袋、食事道具からGPS、地図、自転車用具(衣類・靴・工具・helmet,・bag,・lamp・air pump等)を揃えました。

  生来、凝り性で、用具の機能を十分検討して購入するため、かなり時間がかかりました。毎日のように神田・御徒町方面に出かけ、MTB販売店と山用品店を探し、用具を見て回りました。自転車の梱包は、購入した店がMTBを輸入したとき梱包で使用していた段ボール箱をもらい、後輪をつけたまま入れたので極めて簡単でした。

  国内走行距離300km程度の経験で、無謀かもしれませんが、2001年1月7日真夏のNew Zealandに向け出発しました。自転車走行環境はNew Zealandの方が日本より格段に良いので、楽しみながら走れば自分の実力を知る事にもなると考えて気楽に出発しました。また、自転車が駄目ならバス旅行に切り替えるつもりでした。
Lake Tekapo (New Zealand) Lake Pukakiのjunction (New Zealand)
Mt.Cook(New Zealand) Franz Josef Glacier (New Zealand)
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  ChristchurchのYMCAに3泊し、静かな公園でMTBのメンテナンスの本を読み、今後のルートを検討しました。日本出発前は装備・用具・資料の準備に忙しく、どんなルートを自転車で走るのか、十分に勉強できていなかったのです。現地で三つの候補の中で最も距離が短い国道1号線を行くことに決め、Mt. Cook Village目指して第1日目をスタートしました。

  積んだ荷物は約20kg、日本での準備不足で荷台がタイヤに当たるという問題が発生し、その対策に苦労しましが、第一日目の目標であるGeraldineに到着できました。走行距離はなんと137km。自分でも驚くと同時に自信がつきました。

  その後は強風で難儀したこともありましたが、Tekapo, Pukaki湖、Mt. Cookを見ながらのすばらしい景色の中を無事最初の目的地Mt. Cook Villageに到着しました。その後、雨の中を走行したため50年振りに座骨神経痛が再発し、一人旅のつらさをイヤというほど味わいました。幸い神経痛が3日ほどで快復したためバス旅行に切り替え、37日間の旅行を楽しみました。自転車走行は700kmでした。Working Holiday を楽しんでいる多くの一人旅の若者と話ができたことも新しい経験でした。

  もう一つ良い経験をしたのが自炊です。家庭があり、日本の都会育ちですから、お金さえあればいつでもどこでも食事に困ることはありませんでした。ところがNew Zealandでは店がそんなにたくさんはないのです。開店時間は短く、休日は閉店です。結局食事をするためには自炊しかなく、初めて調理をやりました。良い経験になりました。


3.シルクロード自転車旅行(ツール・ド・シルクロード)

Issyk-Kul Lake(Kyrgyz) 天山山脈
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 New Zealand旅行でシルクロードにも行けそうだな、という自信がつきました。訓練を兼ねて6月には北海道の自転車一人旅を楽しもうと思い地図を購入し、niftyのforumで情報を収集していたところ、急に親友の代役で海外業務を頼まれMexico Cityに42日間出張しました。土日は電話帳2冊を背負って公園のjogging courseで速歩を行い体力の維持に努めました(標高2,200mの高地training)。

  7月14日に帰国しました。シルクロードへの出発の8月1日が迫っています。業務報告書を19日深夜に完成し、20-22日に猛暑のなか走行訓練(計190km)を行いました。2日目はとても疲れましたが、ビールを飲んで十分睡眠をとったためか3日目は快調でした。この間二人の友人宅に立ち寄ったところ、「この暑い中を自転車に乗るなんて!」とあきれられました。これで冒頭に書いた林さんの実力に少しは近づいたかなと思い、シルクロードを走る自信がわいてきました。

  走る自信はついたものの、自転車の梱包が大変でした。これはツール・ド・シルクロード固有の作業です。飛行機に1台の自転車を乗せるなら丁寧に扱ってくれます。それが30台にもなると扱う人にとっては大変な作業です。また、飛行機の中の収容場所も大きくなります。30台も自転車を乗せるのはツール・ド・シルクロードくらいでしょうから、慎重な梱包が必要になります。現地に着いて自転車が壊れていたら自分も困り、隊の皆さんにも迷惑をかけるので、梱包は凝りました。

Uzbekistan Uzbekistan
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 8月1日成田を出発しUzbekistanのTashkentに到着。長澤法隆隊長の下、そこから走行を開始し、Samarkandを経て最終目的地のBukharaまで600km(走行日8日間)でした。コースは上りがほとんどなく、初心者の私にも極めて易しいものでした。そのため、疲労感もなく無事完走できました。ただし、お腹の具合が悪いときは身体に力が入らず、加速力が大幅に低下しました。また、間欠的に起こる腹の痛みや、道路の凸凹による走行時のお尻の不安がイヤなものでした。完走するための条件は「体力」と「お腹の調子」といえるでしょう。

  現地での集団走行は、隊の安全のためパトカーが先導し、交通規制が行われ極めて保護された状態で行われました。それにもかかわらず、集団走行は個人走行と比べてとても気を遣うものだということを実感しました。

4.Uzbekistanの現地体験
一人旅と集団走行
 一人旅では、まず現地で最新の地図を入手します。また、一人旅は「移動と衣食住」を自分の責任で考えながら行動します。ましてやNew Zealand は南半球のはるか彼方で、緊急時の対応が大変です。当然毎日の衣食住の確保に対する行動や用具・装備品に対する管理にとても慎重になりました。

  集団走行ではこれらの問題を心配する必要がなく、ただただ走行に専念することができました。今回の集団走行の安全体制を構築して頂いた方々に感謝します。
Samarkand(Uzbekistan) Bukhara(Uzbekistan)
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交流
  シルクロードでも元気な日本の20代の一人旅の若者3人(女2人、男1人)に会いました。安い宿に泊まり(良いところで3-4$、かなりきれいだそうです)、またはホームステイをして、バスを使い(1$も出せばTashkentからSamarkandに行ける)、2か月も旅行しているそうです。そのうちの一人は自転車が趣味で「まさか65才のおじいさんが自転車で旅をしているとは思いもよらなかった」とのことでした。

 ホームステイをしていた女性はデジカメ写真でステイの状況を見せてくれました。一人旅のためか、さすがに現地の生活情報に詳しく、うらやましかった。ソ連邦崩壊等の状況の変化があったとはいえ、最近の若者は頼もしくその行動のたくましさと時代の変化(自分の学生時代は海外旅行等はとてもできない)にまたまたうらやましくなりました。

 ヘルメットをかぶって町の中を歩いたのですが、現地の人は、我々が自転車旅行をしている、というだけでとても親近感を持ってくれたようです(勿論、ヘルメットに対する物珍しさもあるでしょうが)。自転車旅行をする人は日本より遙かに好感を持って見られているようです。うれしいですね。


戦争の事
 第2次世界大戦で、Uzbekistanに抑留された日本の方々が建設に参加したナヴォイ劇場(大地震でも崩壊せず)、白い墓石が整然と配置され周囲が整備されている日本人墓地、および抑留された日本人を世話したUzbekistanの人が自宅に展示している「1940年代ウズベキスタンにおいて抑留した日本人の記念展示」(抑留当時の写真、抑留された人が現地の人のために製作した木製ゆりかご、日本からの墓参団の写真等)を訪れたのが8月17日で、終戦の日と同じように快晴で暑い日でした。

  SamarkandではKoreaの人にお世話になりました。息子さん2人と共に食事をした時に、彼はUzbekistan生まれであることを知りました。その理由は、日本による強制労働・スターリンの移住政策と推定されます(通訳または本人の配慮のため、通訳の表現が簡単でかつ曖昧でした)。

  彼は現在3人の妻とたくさんの子供を持ち、Korean Restaurant(100席)の開店準備をしておりました。しかし、母国語は全く話せませんでした。戦争のため、異国で不安な日々を過ごさざるを得なかった日本およびKoreaの人々のことを思うと、とてもつらいものがあります。また、今後の自分の行動に対して責任を感じました。

Samarkand(Uzbekistan) Samarkand(Uzbekistan)
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環境問題
ツアー中に使用したmineral waterの容器PET bottleはその後どうなるのか気になりました。期間を走行日8日間と限定し、一人3本/日消費したとして約1,000本(スタッフを含む)になります。あれは回収されるのか(回収してもどのように再利用されるのか)、他の用途で再利用されるのか、廃棄されるのか。

  現地ではコーラが1本12円ですから、日本と比べ、容器のコストは中味のコストより相対的にかなり高いと思います。従って、ガラスビン回収はかなり厳密な様です(ホテルでビールを購入したら「必ずビンを返してください」といわれました)。帰国後調べたところPET bottleは立派に再利用されているようです。


カラオケ
 最後にカラオケ。あちらのカラオケは、日本の昔風でいえば縁日(エンニチ)で、屋台に並んでテレビ一台、椅子一つとマイクがあるだけです。Bukharaの最後の夜、ビールを飲みに出かけ、カラオケの歌詞集を見たら英語の歌がありました。その中に唯一小生が歌える"MY WAY"を見つけたので、シルクROADの一生の想い出として、早速観衆?をバックに"Yes it was My Way"と歌いました(約60円)。
Uzbekistan Uzbekistan
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5.海外一人旅(飛行機、バス、列車等)と自炊
Preikestolen(Norway) 北欧最北端Nordkapp(Norway)
Tromso(Norway) INTERCITYの自転車置き場(Finland)
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  2002年にはScandinavia(含むIceland) 51日間、2003年にはAustralia 31日間のいずれも一人旅(飛行機、バス、列車等)を楽しみました。Iceland、Norway の自然は素晴らしいものでした。

  いずれも日本でInternetで交通機関・時刻表を調べて余裕を持ったスケジュールを作成し、全ての宿(Youth Hostel)を日本でInternetで予約し、現地では一切予定を変更せず、旅行を楽しみました。

Perth(Australia) Launceston(Tasmania、Australia)
Rottnest Island(Australia) AdelaideにあるAyrton Sennaの手形
(Australia)
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6.その後の自転車旅行
瀬田の唐橋から オロロンライン(北海道)
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 New Zealandやシルクロードの自転車旅行で自信をつけ、2003年には琵琶湖一周177km(11時間45分)、2004年6-7月には北海道の釧路→根室→知床→網走→サロマ湖→稚内→日本海オロロンライン→留萌→美瑛・富良野の1,300km(一人旅)、2005年6-7月には稚内→日本海オロロンライン→留萌→小樽→積丹→瀬棚→松前→函館→室蘭→苫小牧→新冠→襟裳岬→釧路の1,700km(後半は一人旅)を自転車で走行しました。

  この時期,北海道は天候が良く観光客も少ないためYouth Hostel、ライダーハウスは空いており、飛行機の超割・特割期間を狙って行けば羽田往復で27,000円程度で、定年後の我々にとって極めて好都合でした。
美瑛のライダーハウス(北海道) トンネル(北海道)
トンネル入り口(北海道) 優良図書を紹介する土居さん
(黄金道路にて)
ファーム富田(北海道) ファーム富田(北海道)
サロマ湖から雄武へ(北海道) 北海道から帰宅
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7.「天山山脈ペダル越え」に参加 2006年7-8月
 
「チャレンジ天山山脈ペダル越え」標高3752mのトルガルト峠を越えて、シルクロードの伝説が眠るイシククル湖を一周(ツール・ド・シルクロード20年計画:第14次遠征)


感想要旨
・キルギスの自然は素晴らしい。これだけ自然に恵まれた国は世界でも少ないであろう。

・一般的に、旅行するときは目的地/ポイント(観光地・遺跡・遺産・自然等)を定め、そこに行くことを目的にすることが多い。しかし、今回のキルギスでは ポイントではなく、道そのものが良かった。雪山、草原、川、湖、牧畜、景色の変化、そこに住む人々と動物たちとの生活等、が良かった。自然の素晴らしさを堪能できた。これこそ本来の旅だと感じた。その旅を自転車で走行したことがさらに良く、忘れがたい楽しい想い出になった。



「天山山脈ペダル越え」に参加して

1)トルガルト峠とは?

 最初にこの企画を聞いた時、トルガルト峠は難所で、「地球と話す会」は1999(洪水),2000(通関)年といずれも計画通り走行できなかったため、再チャレンジすると云うことぐらいの知識しか無かった。トルガルト峠がどこにあり、どんなところでどんな問題があるのかは全く知らなかった。

 会として3回目の挑戦をするくらいのところだから参加する価値は十分あるだろうと思い自分なりに調査を始めた。

 インターネットで紀行文を読み写真を見てすぐに絶対行こうと決意した。

 しかし、いくつもの障害があることもすぐに分かった。即ち、トルガルト峠は中国の2級の国境管理地であるため、書類さえ整っていれば事務的に通過できる 1級の国境越えとは異なること、土日閉鎖、平日も昼間のみオープン、突然閉鎖される、外国人の通過に障害がある等である。

 また、気象も激変し、真夏に大雪で閉鎖されたこともある。世界的な旅行案内書LONELY PLANET “Central Asia”2004年版はトルガルト峠に3.5ページを割きインターネットでも話題になっている。そして「最後に一言:トルガルト峠を越えようと決意したなら、強い意志を持ってしぶとく、想定できないことを想定し、通過するまで通過できることを期待するな。」と書いてある。

 トルガルト峠を越えると云う自分の夢を実現させるために自分として何をすべきかを考えた。

 結論は調査とtrainingである。


2)出発前調査

 調査はまず地図から入った。ところが最新であるはずのMicrosoftのENCARTAを見ると、我々が想定しているトルガルト峠からナリンへの道がない。かなり大回りをしないとナリンに行けない。

 そこでキルギス大使館に行き簡単な地図をコピーさせてもらい、さらにキルギスに出張している人がいる可能性がある会社を探し出し、友人を通じて出張者に 帰国時に地図を買ってきてもらった。我々が想定していたトルガルト峠からナリンへの道は主要道路として存在していた。

 この地図を基礎に地図ソフトKASHMIRカシミール3Dでスペースシャトル地形データ(SRTM)を使って行程の高低図等を作成した。また、トルガルト峠越えに経験の深いキルギスの旅行社Celestial Mountainsからの情報を得て、トルガルト走行経験2回の長澤代表のご判断を仰ぎながら走行スケジュールを作成した。何回もスケジュールを修正し、行程間の距離を調べたので、現地走行の時は全てが頭に入っており走行が楽しかった。

 調査と現実で一番異なっていたのは道路の状態であった。


 調査ではAt-Bashyの手前からほとんどが舗装道路になるはずであった。ところが現実は舗装道路でも表面に砂・砂利・石があったり、表面のアスファ ルトが無くなり埋め込まれた砂利・石が表面に凸凹に出ている道路が極めて多かった。また、大きな峠の前後は完全に砂利道のままのところが多かった。

 私の自転車は幸い前後共にSuspension付きのため、手・お尻への衝撃が少なく助かった。砂利の大きさは大きく分けてcm、mm、0.1mm単位のものがあり、最も怖かったのは0.1mm単位のパウダー状のもので滑り、車輪がすぐに取られた。


3)出発前training

 次はtrainingである。上記の調査で高度の高いところでのアップダウンがかなりあることが分かったので国内でのtraining計画を作成した。 5月下旬に白馬町・穂高町・蓼科に自転車旅行し、標高1000m程度に向かって上り、さらに6月下旬北海道の知床・摩周・阿寒などで峠を集中的に約 1000km走行した。知床峠も3回上った。

 これまで上りは苦手であり、海・川・湖の岸に沿った走行を主体にしていたが、これで上りの走行にも自信がついた。7月下旬はtrainingの仕上げとして富士山・乗鞍で高地走行を計画したが、天候が悪く実現できなかった。


4)出発準備

 7月下旬に出発準備を開始した。自転車の整備、部品・用具の準備・補修、カメラ・ビデオの準備、トルガルト峠での防寒対策、地図・高低図・走行計画の作成、そして最後は自転車の梱包である。

 中国の空港での自転車の扱いの悪さは定評がある。もし、破損すれば現地での修理は極めて難しいだろう。そうなれば走行断念である。大げさに云えば1年前から準備しているのであるから走行断念は絶対に避けたかった。梱包は木材やPETボトルを使ってderailleurの保護を徹底的に行った。また、プラスチッ クの段ボールでスポークを保護し、金属と金属の接触を防いだ。

5)出発

 2006年7月30日予定通り成田を出発し、北京に一泊し、翌日ウルムチ経由でカシュガルに到着した。北京空港では自転車5台を横積みされたので、カシュガルでの組立時にはかなり不安があったが、幸い全員の自転車が無事でホッとした。

6)現地走行開始

 8月2日いよいよトルガルト峠まで約100kmのところにあるトパまで約60kmを自転車で走行した。日本では見られない広大な緑のない景色、ポプラ並木の道、川の周辺の緑と放牧風景等素晴らしい景色であった。無事、トパに到着した。

7)トルガルト峠越え


 8月3日、いよいよトルガルト峠越えである。

 トパの検問所を無事通過できるか、またトルガルト峠の天候はどうか、無事峠を越えられるのかが最大の関心事であった。トパの検問所の通過ではこれまで、 中国の地図に台湾が書いてない、靖国の文字がある本を持っていた、ガイドとの民族問題で通過を嫌がらせさせられた等の問題を聞いていた。

 出発日の深夜、突然トパの開門時間が1時間遅らされ11時になるとの情報が入った。不安を抱えてバスに乗りトパの検問所(中国語ではトルガト検問所が正しい表記)に到着。検問を待つ人もわずか数十人なのに事務処理の効率が極めて悪い。幸い荷物は一切調べられなかったが、それでも2時間かかった。そして我々のバスに発車間際に乗り込んできた係官が、「国境までノンストップで行くこと、撮影禁止」を通告した。国境に着くまでに部落はあるが外国人は立ち入り禁止らしい。

 無事国境に到着。風もなく天気も良く防寒対策も不要。キルギス側の迎えの車も来ていた。自転車と荷物を国境のゲート?(牧場の柵程度のもの)を越えキルギス側に運んだ。あまりにもあっけなく国境越えができ、やや気が抜けた感じであった。


7)キルギス走行

 キルギスの車には通訳兼ガイドのジャニベック、運転手ビクトル、コックのニーナさんが乗っていた。ジャニベック君は好青年で日本語はとても自然で上手。その上、MTBを持ってきており我々を自転車で先導してくれた。

 早速走行開始。砂利道を下る。日本では砂利道等走行したことがない。ましてや下りの砂利道を何kmも走行する等と云う経験はない。最初は、景色を見る余裕などなく地面ばかりを見て走行した。7km走行してキルギスの検問所に到着。昼休みだから待てという。車に用意されていた弁当を食べる。

 検問所を無事通過し、砂利道ながら左に天山の雪山、右に標高3500mにあるChatyr-Kul湖を見ながらの走行を楽しむ。時たま来る大型トレーラーに追い越されるときの砂埃には一瞬視界がゼロになるなど悩まされた。

 一時小雨も降り心配したが、無事峠から62km走行し、キルギス時間で20時17分にキルギスのチェックポイントに到着し、この日の走行を終了した。周囲はかなり暗くなっており、ランプを点けて走行した隊員もいた。時間的にギリギリの到着であった。

 キルギスのチェックポイントを無事通過した。これで心配していた国境通過というやっかいな問題は全てクリアーされた。ここから車に乗り22時10分に Tash-RabatのYurt(パオやゲルの様なフェルト張りのテント)の宿に到着。夕食後就眠。トイレが外の遠くにあるのには閉口した。

 8月4日からはキルギス内の素晴らしい景色を見ながらの走行を堪能した。すばらしさは私の文章表現能力では表現できないので写真(ホームページにも掲載)をご覧下さい。

 通訳兼ガイド、運転手、コックの皆さんはやさしい人達であった。こんな仲間と走行できたのは本当に幸せである。木陰でニーナさんが手際よく作る昼食はとてもおいしく楽しい想い出である。

 また、Guest Houseやホテルではなく、ほとんどをhomestayしたのが良かった。Homestayを行う家庭は比較的裕福な家庭であろうが、部屋は広く、立派な庭があり花がたくさん咲き、果実もなっている。欧州の人達も庭を楽しんでいた。キルギスで生活している実感が味わえて良かった。


8)キルギス自転車旅行のすばらしさ

 シルクロード自転車旅行(ツール・ド・シルクロード20年計画)に参加したのは2度目である。今回の走行と私が初めて参加した2001年の走行(ウズベキスタンのタシケント、サマルカンド、ブハラ)を比較し感想を述べたい。

・帰国後に想い出されるのは、今回は自転車走行中に見た素晴らしい景色、現地の人達との接触である。それに対して、前回はサマルカンドやブハラの素晴らしい遺跡・建物である。

・走行中の景色はそのすばらしさにおいてキルギスが圧倒的に良い。

・今回のコースは、毎日のコースがアップダウンに富み、素晴らしい景色と、景色の変化を十分楽しめるものであった。隊員が少ないのも良かった。自転車旅行の楽しさを味わうことのできる最適なコースを最適な人数で走行したと思う。

・素晴らしい遺跡・建物を見るだけなら観光バスでの旅行で十分可能である。今回は観光バスでは行くのが極めて難しいTash-Rabatやトルガルト峠に自転車で行くことができた。これもとても良かった。

・走行した隊員の数は今回は5人。前回は約30人と多人数のため現地警察の管理の下の集団走行であった。今回は5人で、交通量も少なく、比較的自由な走行ができ、走行中に素晴らしい景色を堪能できた。前回は警察の管理の下に走行するため一団で走行しなければならなかった。特に集団走行初めての私にとって前後左右に気を使いながら走行しなければならないのは極めて苦痛であった。景色を見る余裕が少なく、また、写真を撮りたいところで止まることもできなかった。 30人の集団走行は明らかに多すぎた。サマルカンド・ブハラは感動的であったが走行は退屈であった。そもそも、国内でもやったことがないような集団走行を国外で何日もやることに無理があるだろう。

・2006年にキルギス自転車旅行「天山山脈ペダル越え」に参加し、キルギス自転車旅行の魅力にとりつかれ、2007〜2009年、2011、2012年はいずれもキルギス自転車旅行を行った。2010年はTasmaniaの自転車旅行を行った。
いずれも大人数の旅を避け、5人程度の少人数での自転車旅行である。殆どの旅行を自分で調査・企画し、現地の旅行社とmailで交渉して実施した。調査・企画・交渉は結構大変であった。その旅行の様子はホームページにも掲載してあるが、いずれまとめて分かりやすくしたい。
2010年は住んでいる自治会関係の仕事が多忙でキルギス旅行を諦めたが、政変があり、行けない年でもあった。


 最後にtraining、健康管理、安全管理について述べておきたい。

 調査の段階から今回のコースの素晴らしさが分かっていたので、身体の調子を絶対に崩すまいとtraining、健康管理、安全管理に十分注意した。

 出発6か月前から、破傷風(1)、狂犬病(3)、B型肝炎(3)の予防注射計7本を行った。病気になれば遠征はできなくなるだろう。費用約6万円は高いが保険代である。高山病予防薬ダイアモックスも持参し、服用した。

 現地走行で得たものはアップダウンに自信をつけたことと砂利道の走行に少しは慣れたことである。国内でも砂利道を恐れずに走ってみようと思う。

 帰国後に、今回の走行の記録(地図・高度・GPSデータ等)を詳細にまとめた。地図は現地で購入したキリル文字の正確なものを使用した。特に道路が正確に書いてあるのでとても助かった。今後キルギスに旅される方々の参考資料としてご活用頂ければ幸いである。



 8.最近の活動(自転車関係)
 ・自転車走行におけるGPSの重要性に気づき、2009年に我々世代の人達にも少しでも分かりやすいようなGPS使用方法のホームページを立ち上げた。特に海外の無料地図をいかに取り入れるかとパソコンでのGPS関係ソフトの使い方をまとめた。結構膨大なホームページになった。ここまで親切に書いてあるホームページも珍しいと自負している。
  この経験はキルギス自転車旅行、Tasmania自転車旅行でとても役にたった。

 ・2011年には自治会の組合問題もほぼ片付き(下記参照)女房を連れてUzbekistan、kyrgyzstanの旅行をした。この間約1週間、女房をkyrgyzstanのIssyk-Kul湖畔のTamgaにおいて長澤さん達とBedel峠を目指して自転車旅行をした。

・2012年は4月20日から6月1日まで自転車関係で知り合った友人と43日間のUzbekistan、kyrgyzstanの旅を行った。後半は長澤さん達と合流しIssyk-Kul湖一周の自転車走行を行った。この旅の間に小生は76歳の、友人は71 歳の誕生日を迎えた。
 


9.最近の生活
   マウンテンバイクから始まった一人旅で身につけた調理、それを活かした主夫業(3食調理)、それと趣味で始めた日曜大工、会社時代に身につけたパソコン知識に基づく友人等からの相談・修理・組立等、多忙な毎日を過ごしています。
自転車のtrainingは、長期旅行の前に国交省の大規模自転車道「印旛沼自転車道」を走行しています。

 北欧では退職して年金で海外旅行とはおまえはリッチだなと何人かの北欧の人に云われました。皆さんも、遊んでばかりで優雅な生活をしているなあと思っているのではないでしょうか。しかし、3食全てを作り(買い物、調理、皿洗い)、出来るだけ出費を少なくするため、雨戸26枚を裏表塗装したり、汚れた部屋の壁をエコカラットタイル張りにしたり、日暮里でやや傷のある安いカーテン生地を買ってきてミシンで縫い、家の中のカーテン(レースと遮光)を全て取り替えるなど苦労しています。シルクロード雑学大学(歴史探検隊)ホームページ作りも担当しています。妻は障害者の生活自立のための支援活動を行っており極めて多忙です。

 2008年から自治会の汚水組合問題が発生し、その解決に取り組むことになった。特に2010年春から2011年春までが超多忙であった。理系の小生にとっては全く未経験の分野であった。組合員200人以上、共有権問題があり、ゼロから勉強してやっと解決した。今から思うとよくやったと思う。
 ここではパソコンを使えることが大いに役に立った。200人以上を相手にし、200人以上の様々なデータを処理する仕事ではExcelを使いこなせないと仕事の効率が極めて悪くなる。幸いExcelをかなり使えたので迅速に作業を進めることができた。

 早くこの問題を解決し、遊びたいために真夏は早く寝て、朝暗いうちに起きてパソコンに向かい資料作成を行った。そのおかげで東日本大震災の2週間前に汚水処理施設を取り壊し市下水道に接続することができた。取り壊しがもう少し遅れれば、震災による処理施設の損傷、計画停電等により処理施設の稼働が出来ないなどの大問題が発生していたはずである。本当についていた。
 両目の白内障の手術を3月4日と7日に行った。震災は11日であった。これも運が良かった。世の中明るくなり、度なしメガネで不自由なく生活している。

 組合問題解決で自治会の中に知人が多くなったので老人クラブを立ち上げ会長として主として事務関係(市や自治会との関係)を担当している。



   ここで簡単にこれまでの人生を振り返ってみたい。1959年に給料トップクラスの会社に就職したが、月給12,800円、4月25日にもらった給料は5,500円(実質働いた4月1-15日分)。そこから食費、寮費などを差し引かれると5月25日までとても生活出来ない。親には云えず姉に借金した。有給休暇は最初は4日/年で次の年は6日、以降毎年1日増。登山・スキーに行くのが本当に楽しみだった。

 その後仕事が多忙で休みは取れず、土日にも自主的に出勤することが多かった。退職時に取得出来なかった数百日の有給休暇を52万円で会社に買い取ってもらった。幸い我々の時代は右肩上がりの時代であった。小生自身も工場・本社企画・研究・海外コンサルタント・技術輸出・医療品生産・事業管理・JICAの開発調査等多くの職務を経験した。会社が多くの分野の業務を経験させてくれたおかげで、自分に適した業務分野、自分の隠れた能力を見つけることが出来た。会社に感謝している。会社にも十分貢献したと思っている。右肩上がりの良い時代だったおかげかも知れない。


 先日、家の中の整理をしていたところ娘の小学校時代の日記が出てきた。運動会の日の日記に「今日もお父さんは会社に行って運動会には来なかった」と書いてあり、そこに先生が赤ペンで「お父さんは日曜も会社に行くの」と書いてあった。家族にも迷惑をかけたし、何回もの転勤で犠牲にもなってもらった。感謝します。

  現在、子供3人、孫8人で幸い皆健康である。学生時代からの親友が退職後認知症になり、その後亡くなってしまった。彼も会社時代は本当に多忙だった。やっとこれから第二の人生を楽しめるという時に何も楽しまずに本当に残念である。私はこれから、彼に「おまえ元気なのに何たる生き方をしているんだ!」と云われないように、高齢者であるが故に達成すれば価値がある目標を定め、彼の分も含め人生を真面目に楽しく生きようと思う。


                                     
                                   
おわり


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