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『西南シルクロード紀行』 -第13章-


第13章 橋ものがたり
怒江へ

  雲南省の西北部はヒマラヤ山脈の東端に位置しており、チベットや四川省から始まる山脈が南北に延びている。タンタンリカ山、高黎貢山(こうれいこうさん)、怒山、雲嶺山の四つの山脈の間は深い渓谷になっていて、大河が三本並行して流れ出すのである。西から怒江,瀾滄江(らんそうこう)、金沙江という。成都を出発地点とする西南シルクロードは、最初に金沙江を渡り、次いで瀾滄江を越えた。12章の霽虹橋(せいこうばし)である。最後の難関、怒江を突破しなければならない。

3人の朝食は簡単だ。賓館の近くには必ず食べ物屋があり、人の群がっている店の味は間違いがない。

餃子と小籠包(シャオロンバオ)、合計で7.7元、約120円。麺類だと2元×3名=6元が普通なのである。


  11月15日(水)朝、6時半。「保山交通賓館」で目を覚ました。まだ暗い。昆明から600kmほど西へ走って来たことになる。7時10分頃、ようやく明るくなる。このあたりは標高が1650m、朝の空気は凛として、気が引き締まる。簡単に朝食をすませて、保山を出発した。道路はよく、車の走りは快適だ。それにしても山が深い。昆明から大理までの風景と似てはいるけれども、スケールがぜんぜん違うのだ。幾重にも重なった山の先にある怒江をめざして、飛ぶが如くゆく。


ロープ橋

  さて、怒江を語るとき「溜索」(りゅうさく)ぬきでは話が始まらないだろう。中国語では「リュウ・スオ」と発音するが滑って進むロープ、つまりロープ橋のことである。怒江の両側は険しい山脈が連なっていて、この大峡谷に降る雨はすべて怒江に流れ込む。渓谷は流れが急で、切り立った崖が多いため雨季には怒涛のように渦を巻き、増水し、一気に流れ下っていく。とても船や筏では渡れない。そこで登場するのが[溜索・ロープ橋]である。



チベットの例
  残念ながら撮影する機会に恵まれなかったので、やや古い資料ながら『鳥葬の国―秘境ヒマラヤ探検記』(川喜田二郎著、光文社カッパブックス、昭和35年)から引用したい。1958年に行われたネパール学術探検の報告である。

「村とお寺をつなぐ唯一の交通路。もし落ちたら命がない。小坊主たちは、じつに見事にわたる。ところが」

「私(川喜多)がやると、「ウハッ!」。あやうく命を落としそうになった。さすがにもうコリゴリだ」

 

 
村人たちは大川の向こうをハルケン、こちら側をツルケンと呼んでいるが、村には橋がないのである。「おりからモンスーン期で、大川には、まるで墨汁を流したような濁流が、ゴウゴウと流れていた」、「橋がないかわりに、一本の太綱がツルケンからハルケンへと張り渡してあった。ヤクの皮を細帯状に切り、これをよりあわせた太綱である」。川幅が広いので長くなり、中央部分でかなりたるむ。さらに必要な道具としては滑り木がある。「パイプを短く半分に切ったように、堅木をくりぬいたもので、厚さは一寸もあろう。これを太網にかぶせれば、滑りがよいわけだ。ガルボの外側には、平編みの細綱がさし通せるようになっている」。その綱を自分の胴にグルグル巻いて、勢いをつけて激流のほうに身を投げる。すると「川の真ん中以上向こうまでスルスルといっきょに走ってしまう」。それからの後半は自力で登らなければならないが、「もう腕が抜けそうな思いである」。


現在も残る怒江

  これは50年前のネパールでの体験報告だが、ロープ橋は21世紀の怒江にも残されている。現在では多くの橋が架けられているが、怒江の上流では今でもところどころに対岸へ渡るためのケーブルが張られている。ヤクの皮ではなく鉄製のケーブルに変わったけれども、基本的には同じ。往復できるように2本のケーブルが張られ、出発点を高くし、到着点を低くしている。そのほうが腕力に頼る部分を少なくできる工夫だろう。<落ちたら即刻、死>という作業が日常のなかでごく当たり前のように行なわれている。

一本のロープを<橋>とは呼ばないだろうが、橋の歴史を見ると一本の綱から2本となり、それが3本になって、原始的な吊り橋へと進化するのである。ここで吊り橋の定義を見る。「下部に橋脚がなく、両岸から張り渡したケーブルで橋床をつり下げた形の橋」(『大辞泉』小学館)。ついでに世界で最初の吊り橋の記録を調べてみた。『法顕伝・宋雲行紀』(長澤和俊訳注 平凡社・東洋文庫)にある。法顕(ほっけん)が長安からインドへ向けて仏典探しの旅に出る(399年)のだが、シルクロードを通り、パミールへ抜け、インダス川に架けられた吊り橋を渡っている。その旅行記を見てみよう。

 

吊り橋最古の記録

「山なみに従って西南方に15日進んだ。その道は険阻で断崖絶壁ばかり、その山は石ばかりで壁の如く千仭(せんじん)の谷をなし、見下ろすと目がくらむほどで、進もうと思っても足をふむ処もない。眼下に川が流れ、インダス川<新頭河>という。ここには昔の人が石を刻んで道を作り、傍梯を作ってある。およそ渡ること七百箇所、傍梯(はしご)を渡り、吊橋を踏んで河を渡った。河の両岸の距離は80歩たらずである。この辺りはまさに九訳の絶する処であり、漢の張騫や甘英(かんえい)もみな至らなかったところである。」


「石に穴を穿って横木をさしこみ、断崖を渡れるようにした」傍梯(はしご)。(『法顕伝』平凡社・東洋文庫より)


5世紀の旅行記に「吊橋」と言う文字はない。訳者が分かりやすくしたものである。また、傍梯(ぼうてい)には「石に穴を穿って横木をさしこみ、断崖を渡れるようにした」の注があるが絵がないと理解し難いため、敢えて古い白黒写真を拝借した。それを補充するかたちで、今年の10月に撮影した蜀の古桟道を紹介したい。四川省広元市の市街北方45km、古桟道はすでに廃れ、現存するのは明月峡の絶壁にある穴だけ。いにしえの西南地域における重要なルートで、『史記』に「桟道千里、蜀漢に通ず」とあり、かつて秦が蜀を滅ぼすために開通した。唐の詩人・李白が桟道の険しさを『蜀道難』で次のように詠っている。 

ああ、危ういかな、高いかな!

蜀道の難(かた)きこと、青天に上るより難し

余談だが、第8章「懸棺 はるかな旅」の断崖絶壁に穿った穴を想起していただきたい。懸棺は<棺を置く>、そして桟道は<板を並べ、道として歩く>。目的・結果は違うのだが方法論としては全く同じである。


明月峡の古桟道跡。穴は400個以上あり、上は屋根、中段は橋げた、下は橋げたの下支え用に穿った。 明月峡の南部分に古桟道を140mほど再現したもの。『史書』によれば、紀元前316年にはあったという。


怒江大橋

いよいよ怒江が見えて来て、車は下り坂にさしかかる。10時55分、到着。2時間30分、小さな休憩を除けば、ほとんどノンストップで走り続けたことになる。車が止まったのは大きな橋の手前で、果物を売る店が並んでいた。まるで南国のよう、急に気温が上昇したように感じられた。



恵人橋は遺跡のみ

<怒江に架かる橋/地図>
(ただし恵人橋は遺跡です)


  ここで地図を見ていただこう。私たちは保山を発ち、高速道路を走り、国道320号のルートを通って怒江大橋の前にいる。これが現在、昆明からミャンマーに至る幹線道路だ。保山から騰衝へ行く西南シルクロードの古道は怒江のどこを渡ったのだろう? 昆明を出発するとき<行けばなんとかなるだろう>と軽く考えていたのである。



怒江大橋の次は恵通橋

とにかく念頭にあったのが恵通橋である。11章で述べた「援蒋ルート=滇緬公路」と怒江の交わるところ、そこは「古道さがし」と同時にどうしても撮影しなければならない<雲南戦線玉砕の地>であった。

怒江大橋は全長416mの近代的吊り橋であり、中国が東南アジアとの通商を目指すシンボルだ。ミャンマー(ラオス、タイ方面)と雲南省を結ぶ大動脈の要である。1994年11月に竣工。しかし交通量の増加が著しく2003年に再調査。全面通行止めにした補修作業の末、2004年完成した。怒江の東岸、西岸にそれぞれ果物を売る店や食べ物店が並び、まるで観光スポット。怒江上流のロープ橋の対極にある吊り橋である。


怒江も中流になると川幅は広くなり、流れもゆるやかに。乾期なので中州ができる。 正式名称は「三達地怒江大橋」。東南アジアとの間でモノ・ヒト・カネを運ぶ大道脈のひとつとして活躍している。

墨絵を見るような穏やかな怒江。ミャンマーに入ってサルウイン河になる。

このあたりに大型観光バスが立ち寄る名所旧跡はない。売り手はすれていないので、量は多く値段も安い。

東と西、どちらが売れるだろうか? 彼女たちにとっては大問題なのだ。移動する売り子たち。


  怒江を越えて南下、約100kmほど下流にある恵通橋をめざす。近道は山の中を通る、右も左もバナナ畑である。収穫の時期なのだろう、青いバナナを運搬する農家の車とすれ違う。山の中腹の見晴らしの良いところに出ると左側に怒江が見え始めた。


怒江大橋から恵通橋へは100km、近道を走る。橋のたもとでバナナの安いのに驚いたが、納得。



恵通橋小史

滇緬公路(とりわけ恵通橋)を舞台とする日本軍と蒋介石総統の率いる国民党軍の戦闘について簡単に述べたい。昭和17年(1942)、日本軍はビルマ(現在のミャンマー)へ侵入、同時に隣接する雲南省にも軍を進めた。国民党軍は自ら恵通橋を爆破して、それ以上の侵攻を阻止する。日本軍としては滇緬公路を遮断することが当面の目的であったので、橋の西岸に当たる峰々を要塞化した。こうして東岸には中国遠征軍、西岸には日本軍守備隊が激しい怒江の流れを挟んで対峙したのである。


手前が鋼索吊り橋の恵通橋で現在使われていない。その向こう、箱型アーチの紅旗橋は全長116mである。

「怒江の両岸は断崖絶壁」と言う表現が決して大げさではない。橋の手前50mのあたりで撮影。


  手前に赤茶けた鉄橋が架かり、その向こうにアーチ橋が見える場所で私たちは車を止めた。そこから撮影をしつつ、10分間ほど川沿いの道を歩いた。私たちがいるのは西岸である。手前の鉄橋は復旧(1944年)した恵通橋、トラックが走っているのは紅旗橋(1974年完成)。

恵通橋はミャンマー在住の華僑が出資して創建(1935年)。国民党による爆破(1942年)、そして再建(1944年)。

今は使われていない。雲南省では大きい吊り橋だが、車で渡るときは重さ制限、速度制限がある。


この川を東から西へ、中国軍が渡るのは自らの手で橋を爆破した2年後のこと。3ヶ月前からナイロンの浮ブクロを装備した米式帆船で工兵部隊4000人を訓練、すべて強力なアメリカの指導と援助による。それまでは、渡河と言えばイカダしか考えられなかったという。昭和19年(1944)5月11日夕刻、渡河開始。それが日本軍守備隊全滅の始まりだった。

<戦闘と全滅>については次回(14章)にゆずり、私たちの旅と橋にまつわる話を続ける。雲南省は吊り橋に関する博物館ではないか、と思える。いま、目の前にある恵通橋は復旧工事で完成(1944年)させたもの。「記念碑」として残したのであり、間違って渡らないように鉄板をはずしてある。写真をよく見ていただきたい、この吊り橋は重量のある車を何台も走らせるほど頑丈にはできていないのだ。怒江大橋は例外的な大きさであり、雲南省においてはこれが普通なのである。雲南の吊り橋はじつに趣がある。



雲南省の吊り橋

大きな地図『雲南省地図』を広げて見た。紅旗橋の名が見え、騰龍橋がある。ともに雲南省では大きな橋であり、騰衝と龍陵の間を流れる龍川江の上に架かっているのが騰龍橋。この橋の制限速度は時速5km、人は降りて運転手のみでゆっくり渡らなければならないのである。私も橋の手前で車を降り、歩いて渡った。

騰龍橋。右は「制限時速5km」、左は「同時に双方からの通行禁止」。これが雲南では常識なのである。

まず向こうから乗用車が渡る。大型バスは待機して、乗客全員が下車しなければならない。

「騰衝~龍陵~端麗」の定期バス。端麗は滇緬公路の最西、中国とミャンマーとの国境の町である。 乗客だけでなくバスの車掌さんも歩く。藁を背負った騾馬も慣れたものでゆっくり渡る。

山岳地帯での農作業に騾馬は欠かせない。落石、雨による土石流は日常茶飯事で道路が寸断されるから。

坊さんが来る。そして河の向こう岸にバスが到着した。屋根にたくさんの荷物を積んでいる。

さすがに荷物は積んだまま。このバスが渡りきれば片道通行の順番が入れ替わることになる。

ようやくこちら側から車がゆく。もちろん私はカメラを抱えて歩く。待ち時間は約10分だった。

商魂たくましい。10分間のチャンスも逃さない。この時期はかんきつ類がさかりである。



1ランク下の吊り橋。車は渡れそうにない。雲南省の最南端を流れる元江(下流では紅河)に架かる吊り橋である。歩いて渡っても中央部分では揺れが激しい。


車よりも騾馬のほうが実用的なのである。この吊り橋なら騾馬の背にバナナを積んで集荷所へ渡れる。


西南シルクロードはどこで怒江を渡るか

ここで西南シルクロードに話を戻そう。私たちが昆明を出発した時点で西南シルクロードが怒江と交差するのはどこなのか、手元にある資料では特定できなかった。保山は後漢時代、永昌郡の中心地であり、流通の拠点であった。さらに騰衝も「蜀~インド道」の重要拠点であることは明白である。怒江を渡り高黎貢山を越えるのはどのルートか?

<騰衝>という地名について述べたい。日本語読みでは<とうしょう>となる。昔は騰越(とうえつ)と呼んでいた。しかし蒋介石国民党の時代に騰衝と改名し、1942年にやって来た日本軍は馴染みのある文字「越」を好んだのだろう古名の騰越を採用した。戦後、中国共産党は衝(チョン)と同じ発音をする冲に代えたので、現在中国の正式な地名としては騰冲であるが、『地球の歩き方』なども騰衝(とうしょう)にしているので、これで通したい。

11月16日、騰衝市内で保山市旅行局編『保山旅行指南』(雲南大学出版社 2005年)と騰衝県文学芸術連合会・旅行局編著『騰衝県旅行ガイド』(雲南美術出版社 2006年)の2冊を入手した。<保山~騰衝>を結ぶ何本かの古道が記述されていて、そのひとつが「恵人橋」、さらに怒江上流にかかる「双虹橋」が西南シルクロードのルートである、と書いてあった。
双虹橋は遠く、道路事情も良く分からない。3人で相談のうえ今回は断念し、恵人橋を取材することにした。



恵人橋

恵人橋を渡るのは「大蒿坪(おおこうへい)古道」という。地形的に怒江を比較的たやすく渡れる場所として恵人橋のあたりが考えられる。カーブしていて流れが緩やかになっている。その昔は渡し船だったかもしれない。利用度が高まるにつれ吊り橋に進化する。史料によればこの古道は唐代に開拓され、明清時代に最も栄えた。怒江を渡り、高黎貢山を越えて騰衝に至る。保山から恵人橋まで70km、橋から騰衝までがほぼ100km。毎日のように千匹の騾馬が鬱蒼と茂る原始林や雲と霧のなかを行き来した。隊商の鳴らす鈴の音と荷駄隊の親方の怒鳴り声がいつも聞かれたと言う。

この古道はまた軍事上の重要な役割も果たした。ところどころに烽火台(のろしだい)が設けられた。500年前には、明の十万を越える大軍が通った。そして300年余り前、明朝最後の皇帝永暦帝が清朝の追っ手を逃れ、ビルマへ敗走したのもこのルートである。さらに大旅行家・徐霞客(12章参照)が古道を往復している。1640年4~5月のことなので恵人橋(創建1839年)はまだない。


手前が元の東風橋(創建1947年)で全長148m。100m南に現在の東風橋ができたのは1988年である。


 
 恵人橋は東風橋の2km上流にあるという。私たちは騰衝からの帰路、怒江大橋を渡り東風橋をめざした。道街に入り怒江に架かった東風橋を渡り、右折して川沿いに走る。小さな目印「老橋」で止まった。


これが「保山市重点文物」に指定された恵人橋の道標。右がわに細い道が続く。見逃してしまいそう。


恵人橋遺跡

  恵人橋は完全な廃墟となっていた。「20年前から橋は使わなくなった」と村人たちは話してくれたが、橋に至る道は畑となっていて雑草の中に「楼門」が埋もれていた。西の岸(こちら側)、河原の中ほど、それに向こう岸、三つの橋脚が残されているだけである。私たちは河原に降りた。ここは大昔から「老渡口」と呼ばれる渡し場で、古代から近代に至る長いあいだ重要な役割を果たして来たところである。

怒江の西岸側に残された遺跡・楼門。清の道光10年(1830)着工、1839年に落成した。橋の長さ140m。

右が西岸に立つ橋脚跡、左が中間に立つ橋脚跡、真ん中に見えるのが向こう岸に立つ橋脚跡。

向こう側の崖に「恵人橋」の大文字が見える。橋は「永騰大道」と呼ばれた。永昌(保山)と騰衝である。

中間の橋脚跡。楊さんと比べるといかに大きいかが分かる。怒江は少しカーブして流れている。

向こう岸の橋脚跡。カメラのバッテリーが切れてしまい、この写真は佐藤宏孝氏撮影である。


  恵人橋も恵通橋と同じ運命をたどる。日本軍は1942年5月に侵攻するのだが、陥落寸前に騰龍地区の監督が騾馬70頭にアヘン、玉石、象牙を積み昆明へ逃れる。恵人橋通過後、日本軍の追撃をおそれて橋を爆破したのだ。以上のことは帰国後に知ることになる。


怒江の河原で拾い、家に持ち帰った石。ところどころ光り、手にずっしりと重い<怒れる石>だ。


  
怒江の河原には大きな石がごろごろ転がっていた。乾期なので水量はさほど多くない。峻険な峡谷を語る言葉として、怒江は「水は怒れる石、山は飛ぶ峰」とよく言われる。奔流は怒り狂ったように石をも流す、峰が飛ぶように早い。私は撮影の合間に、怒江の石を拾いあげた。



怒江の魚

車に乗り、東風橋を渡り終えたところで検査を受けた。Sさんから事前に聞かされていたので驚かなかったが、ミャンマーからの麻薬密輸を監視する検問所である。私たちは簡単な尋問ですんだが、身分証明書(パスポート)の提示や身体検査ということもあるらしい。運転手の楊さんがすぐ近くにあったレストランの看板を指差して「記念に食べてみませんか」と言った。「活魚」と言う文字が飛び込んできた。雲南省出身の彼でさえ、怒江の魚を食べたことがないという。ためらうことなく「金和酒楼」に飛び込んだ。

午後3時、11月中旬というのに暑い。店には私たちのほかに客がいない。怒江の魚が店の名物料理で、味付けはタイ風。大きさによって単価は違うが、1㎏100元。このあたりでは高級魚である。空腹だったし、のどの渇きもあって冷たいビールは実に美味い、しかし魚の味はそれほどでもなかった。


怒江で捕った魚、メモには「江白条」とある。大きいほうがキロ100元だろうか。(撮影佐藤宏孝)

鍋物になった怒江の魚。淡白な味付けで印象が薄い。味噌仕立てなら美味しいかもしれない。(撮影佐藤宏孝)



怒江の橋

最後に、怒江に架かる主な橋を北(上流)から南へ整理してみた。

双虹橋   1789年完成(清代・乾龍54年) 現存

恵人橋   1839年完成(清代・道光19年) 橋脚のみ残る

東風橋   1947年完成(当初は継成橋)   不使用

新東風橋  1988年完成(通称、東風橋)   検閲あり

怒江大橋  1994年完成(2004年補修)   長さ416.44m

恵通橋   1935年完成(爆破の後,再建)  不使用

紅旗橋   1974年完成(アーチ橋)     検閲あり 



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