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『西南シルクロード紀行』 -第6章
                                                                 


第6章 五尺道の歴史を探る

公安

 タクシーで塩津の町まで帰った。河(横江)に沿って左側を国道が通り、橋を渡ると賑やかな街に入る。河の右側が中心街なのだ。橋を渡ってすぐに私たちの宿泊するホテル「鴻達賓館」がある。シャワーを浴び、夕食をすませ、部屋で荷物の整理をしているとドアを叩く音がする。それは公安警察だった。こんな辺鄙な田舎町に外国人が2名、何の目的で来たのか? どこへ向かう予定か? 

 私もかなりの回数中国国内を旅行し、招待所や小さな旅館に宿泊しているが、公安に調べられるのは初めてだ。若い男と女の2人組の警察官から、いくつかの質問を受けた。きつい尋問ということではなく、ホテルからの通報で一応調べないといけないのでといった調子だった。


山が厳しく迫り、河沿いに上に伸びざるを得ないビル群。塩津は「新華書店」もある大きな町だ。マルコポーロは船で下った。 塩津の道路は狭いのでバスは大変。小さな三輪タクシーが重宝がられている。ホテルから街のはずれにある駅まで5元(約75円)。

 今でこそ小さな田舎町になってしまったが、塩津は交通の要衝として栄え、歴史的にも古い記録がのこされている。本日(2006年5月22日)私たちが辿った塩津~豆沙~塩津の道のりに限定して、探ってみたい。


マルコポーロ

 外国人といえば、マルコポーロがこの道を歩いている。成都から西南シルクロードの「霊関道」を通って大理へ抜け、ミャンマーへ行き、戻って今の昆明へ。

 昆明から五尺道に入った。元の時代だから1290年のころである。『東方見聞禄』(愛宕松男訳註・平凡社ライブラリー)上の第142項を見てみよう。

 142 トロマン地方
 住民は死者を火葬に付す習慣である。その際骨は焼けきれないで残るから、拾い集めて小箱に納め高山の大洞穴に持って行って、人間でも獣類でもこれに手の届かないよう巧みに釣り下げておくのである。

 そして訳者注として、「トロマンは雲南省の北部でも特に四川省叙州(現在の宜賓市)に近く居住し、塩井駅(現在の塩津)の一帯もその住地区であった」とある。

懸棺  

 三輪タクシーの運転手・洪さんが「これは懸棺(けんかん)の跡です」と説明してくれた。懸棺については第8章で詳しく述べるが、一言で言えば<崖を利用したお墓>のこと。ここでは、豆沙関の断崖絶壁と四川省南部のそれを見比べていただく。


河を隔てた対岸の岩壁にいくつか懸棺の跡が見える。何気なく眺めたのでは分からない。私も洪さんに指摘されて、望遠レンズを用意。 300ミリが捉えた懸棺。考古学者の調査の結果、「塩津豆沙関付近の岸壁の遺跡は、四川南部の懸棺葬と同一タイプである」と判明した。(画像clickで拡大画像)
四川省珙県(きょうけん)洛表(らくひょう)では見事な懸棺を数多く見ることができる。既に棺が落下してしまったのも。高さ約40m。(画像clickで拡大画像) 縦に規則正しく懸けられた棺は比較的めずらしい。雨、風が凌ぎやすい凹部分を巧みに利用したものと考えられる。高さは約20m。(画像clickで拡大画像)

鳥居龍蔵

 マルコポーロの足跡について触れた記述がある。

 1902年から03年にかけて、鳥居龍蔵博士が行った実地踏査記録『中国の少数民族地帯をゆく』(朝日選書)を見る。

 「(昆明から)四川省に行くには二方面の路がある。一つは寧遠路を経て成都に出るもの、一つは曲清・東川・照通を経て叙州に出て、岷江をさかのぼって成都に入るものこれである。

 後者はマルコポーロのとった路であって、旅行には最も安全であるが、前者はこれに反してはなはだ危険のおそれがある」。けれども敢えて鳥居は危険な「霊関道」を選択した。

『雲南四川踏査記』  

 日本人として始めて五尺道を走破し、記録に残したのが米内山康夫である。1910年のこと。『雲南四川踏査記』(改造社 1940年)を見てみよう。分かりやすく地名は現在風に書き換えた。<攀じるが如く登って行く。その路の登り尽くしたところに関門があった。それが豆沙関だ。昔の関所の跡だ。上には岩峰そそり立ち下は断崖千尺の渓谷。その石造の関門に苔蒸し草茂って古色蒼然として詩の如く美しかった。豆沙関の旧跡から1キロばかり行ったところに豆沙関の街があった>。

雲南四川踏査記』にある100年前の豆沙関。
昆明から宜賓まで1510キロの行程のなかで最も印象深いところのスケッチだ。

 米内山一行はこの街に泊まり、翌朝6時に出発する。そして、約30キロを歩いて午後5時に塩津に到着。10時間近くかかっている。それに比べて私たちは三輪タクシーで豆沙村を出発、15分ほど下って国道へ。そこで待機していたタクシーに乗り継いで45分、塩津到着。スタート地点とゴール地点は同じだが、100年前の道はぜんぜん違うのである。

 <豆沙関。街を出づれば直に急坂なり。河畔に下り、横江を離れて峠を越え塩津に到りて再び横江河畔に出づ。道路は全く不規則なる山道なり。>
 <塩津は横江の右岸に位する大宿駅なり。市街の繁華殆ど東川、昭通を凌ぐ。>

 1910年、当時の旅行は危険を伴う。鳥居龍造が言うように「最も安全な」ルートである五尺道でさえ、米内山一行には護送が2名付いている。武装した兵隊か警察官であったろう。
      

五尺道成立の記録

 ところで、五尺道成立に関する記録はあるのだろうか? 2000年以上も前の記録となると、われわれはすべて司馬遷に頼らざるを得ない。五尺道に関しても『史記』西南夷列伝 第五十六を見る。
「秦の時代、常頞(じょうあん)は幅五尺の道路をほぼ開通し、これらの諸国にだいたい秦の官吏を置いたが、十年あまりで秦は滅亡した。」成都から夜郎国(現在の貴州省)、滇国(現在の昆明)まで道は通じたと考えられる(第4章の『西南夷地図』参照)。これをうけて、現在最も信頼の置ける歴史地図(中国社会科学院編『中国歴史地図集』Ⅰ)にも五尺道の記載がある。

再び張騫の報告


 秦の滅亡後、管理が疎かになると官道としての機能は途絶える。そして漢帝国が成立する。

 ふたたび『史記』を見る。

 「西南夷への交通路を開くために、数年にわたって守備兵を送り食料を補給したが、道路は開通しなかった。士卒は疲労と飢餓のうえに湿気が重なったため、きわめて多くの死者をだした。そのうえ、西南夷もたびたび反乱を起こし、軍隊をだし攻撃をかけてきた。」

 武帝は効率の悪さに一度諦めかける。ところがそこへ張騫の報告(第4章参照)である。成都~インドの間の道路を開通すれば、「交通は便利で近く、利益があっても害はありません」。

漢の制圧
 
 張騫の提案を受け入れて、武帝は本格的に「西南夷の経営」に乗り出すこととなる。軍隊を大量動員し制圧する。そして、直轄支配するために幹線道路を整備し、一定間隔に駅亭を設置するのである。

 2000年の時が流れ、西南シルクロード(五尺道、霊関道など)上に漢代遺跡(主に墓)が発掘されている。

 特に霊関道(金沙江中流地域)の漢墓が集中する地区では、墓と墓の距離がほぼ15キロだという。まさに漢王朝の「駅馬は三十里に一置す」制度が考古学的に証明されたわけだ。

 なお五尺道のルートは石門道、朱提道と呼ばれた時代もあるが、分かりやすさを第一とし、「五尺道」で統一した。


 


 

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