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『トルコ紀行
                                                                 
竹山 文士

第4章 病の回復から帰国へ


15.事態の判明  

 昨日ツアーの途中で、眼の痛みについてにわかに思い出したことがあった。3年ほど前、やはり秋から冬に向かう季節に、これと同じ症状で病院にかかったことがあった。角膜の部分的剥離。その時の医者の言によれば、剥離した部分が目蓋でこすられ「七転八倒するくらい痛いはず」「痛みもさることながら、剥離した部分から細菌が入るのが怖い」のだった。そのときも十分痛い思いをし、治療にも時間がかかったのに、すっかり忘れていた。そういえば一度やると再発しやすいとも言われていた。

 思えば、トルコに来るとき、乾燥した飛行機の中で長時間映画を観ている。12時間の飛行中、何度か目もこすったろう。その時すでに剥離の原因は作られていた。この病気は乾燥に敏感に反応する。一昨日、急に痛みを感じたのは、港からホテルに帰ってきて、暖房で乾燥したホテルの部屋に入った瞬間だった。あのとき「ベリッとやった」(国立駅前、H眼科の女先生はこう表現する)に違いない。やっと事態がつかめた。しかし事態はつかめたが、痛みが取れるわけではない。どうしよう、どうしょうと思いながら12月10日の朝があけた。

 この時点での判断は、なんとか痛みを我慢して帰国にこぎ着け、その後に病院にかかろうというものであった。所在もシステムも不明なこの地の病院にかかることはとても難しい。第一言葉が分らない。それにしても帰国まで4日もある。どうしょう。

 この日は元気であれば、もう一つの近隣の遺跡、ベルガモにバスを使って出かけるはずであった.しかしこんな状態ではそれはとても無理な話に思えた。しょうがない。街を散歩して気を紛らせよう。僕はホテルのレストランの朝食を終えると、「愛の小径」という名の椰子の木の建ち並ぶ通りに向かった。その通りの先にはガイドブックによれば、「遊園地や池、動植物園のある」キュルテユル公園がある。この公園でなら痛みを癒せるだろう。

 ところが、「愛の小径」を歩きながらふと眼をあげると、そこには大きな5階建の建物がある。この雰囲気、この匂い、・・・これは病院ではないか。直感は当たっていた。ガイドブックの地図には確かに「病院」とある。病院を身近かに感じると、病院にかかるべきではないかという思いが頭をもたげる。これから4日間も我慢できるはずがない、第一これからの旅が楽しくないではないか。僕は決意し、海外旅行保険証を取りにホテルへ戻ることにした。

 保険証やパスポートはホテルのセーフティボックスに預けてあった。フロントに行き事情を話すと、フロント氏はいきなり玄関の外を指し、「あれ、あれが眼科の専門病院です」という。見ると、確かに玄関の斜め前に目玉をかたどった看板のモダンな建物が見える。こんなに近くに眼科があったとはと驚く。ちなみに「愛の小径」の近くの病院は小児科病院だった。フロント氏に、診察は受けたいが言葉が分らないと言うと、近くにいた従業員を呼び、この人を病院に連れて行けと指示を出してくれた。この従業員にはその後もすっかり世話になったが名前を聞きそびれた。写真でみたローマ帝国のユリウス・カエサルの像のように渋めの若者だったので、カエサル君と呼ぶ。


16.エルデルム先生 

 カエサル君と病院の玄関を入る。待合室や受付の人々の好奇の目が一斉に僕に注がれる。多分、僕はこの病院始って以来最初の日本人患者なのであろう。病院の名前は、Ozel Bati Goz。トルコ語の辞書を使ってそのまま訳すと、「専門・西洋・眼科」。

 カエサル君は受付に近寄り、何ごとか女性職員に話す。所々に「日本人」とか「英語」とかのトルコ語が混じるがそれ以上は分らない。職員がうなずくと、カエサル君はさっさと帰ってしまう。最後までついていてくれるのかと思ったが、さにあらず。急に不安になる。その不安を解消するかのように、受付カウンターの女性職員たちが僕に微笑みかけ、ソファに座るよう促す。しばらく待たされたのち、2階に案内され、視力や眼圧の検査を受ける。看護師は簡単な英語で指示を出す。目の痛みを訴えると、自分はナースだから、ドクターに話すようにという。またしばらく待たされる。内部を観察すると、いくつかの診察室があり、複数の医者が常勤していることが分かる。かなりしっかりした病院との印象。30分ほどして奥の診察室に招きいれられた。この病院の院長、ドクターかつプロフェッサーのエロル・エルデルム氏。髪に白い物の混じる長身で優しげな先生であった。


 「どうしました?」明るく英語で呼びかけられる。しばらく左眼を点検し、「乾いたところで眼をこすったでしょう」と言われる。長時間の飛行機で眼を酷使した旨を告げるとうんうんと頷き、さらに検査液を眼につけて精密に点検する。「やっぱりそうだ。なんとかがなんとかしている」と頷く。「なんとか」のところは医学専門用語で意味不明だが、多分「角膜」と「剥離」が当てはまるのだろうと、こちらも頷く。その後、薬の投与。先生は「バクテリアの感染が怖いので、別の検査液を投入し、一両日おいてもう一度検査したい」というが、明日はこの地を離れるので無理の旨を伝える。「わかった。じゃあ日本に帰ったら必ず病院に行くように」と言い、帰国までの2種類の薬の投与の頻度をメモにしてくれる。そして何度も、必ず病院に行くんだよ、と念をおす。その優しさはさながら父親のそれのようだった。先生に癒されたのか、その後左目は急速に痛みが薄れ、僕自身も元気を回復していった。

17.携帯電話を見直す
 
 診察が終われば、当然支払いということになる。英語の分からない会計係の女性とトルコ語の分からない日本人患者はどうコミュニケーションをとるか。携帯電話である。どこかに英語のできる人がいて、会計の女性はその人に携帯で用件を伝える。今度はその人が僕に英語で説明してくれる。そしてその逆も試みられる。会計女性と日本人患者の間をひんぱんに携帯電話が行き交う。その結果、診察料や薬局までの行き方が判明する。日本にいるときはゲーム機と並べて携帯電話を亡国の機器と非難していたが、しばし反省する。いや便利なものだ。病院の診察料は120トルコリラだった。約11000円。この病院では海外旅行保険はきかなかった。帰国後に保険会社に請求することになる。

 ホテルに戻るとカエサル君が近寄ってきて「大丈夫か」と声をかけてくれた。元気になると現金なものである。明日はイスタンブールへ戻る。せっかく来たこの街を少しでも歩いてみたいと思う。ホテルのレストランでスパゲティミラネーゼにチャイの昼食を終えると、バザールの位置をカエサル君に教えてもらって出かけた。

 歩いて15分程でバザールに辿り着いた。地元の買い物客や観光客で大変な賑わいだが、イスタンブールのそれに比べると牧歌的な雰囲気が漂っている。奥まったところに貴金属を中心とする市場があった。家人から「何もいらないからブレスレットを買ってきて」と言われている。妙なロジックだが、言わんとするところは分かる。めぼしい品を見つけ、店員と値下げ交渉をする。この交渉は実に楽しい。相手がどんなに懇願しようが、悲しげな顔をしようが同情してはいけない。こちらがいかに冷酷無比な要求をしても所詮相手の方がプロなのだ。丁々発止の交渉の果て、一品を購入。


 その後、トルコに紀元前から伝わる魔除けの飾り、ナザール・ボンジュウや各地の名産の刺繍の布を見て歩く。ナザール・ボンジュウとは主に青いガラスの上に眼が描いてあり、この眼が眼力で嫉妬や憎しみなどあらゆる邪視を跳ね返すといわれている。こちらの人はこれを身につけたり、玄関に飾ったりしている。歩いていると旅の楽しさが戻ってきた。やはり思い切って病院に行ってよかった。


 この日の夜は「愛の小径」にあるチャイニーズレストランで食事をした。Iさんを偲びながら一人、酒を飲む。帰国したら仏前に参ろうと思う。


18.イスタンブールへ戻る

 飛行機の窓の下にマルマラ海が広がっていた。もうしばらくでイスタンブールに着く。

 イズミールの4日間は大変だった。大変だったが、得難い経験だった。そして極めて単純だが、僕にとってまことに大切なことを学んだ。「前へ」ということである。僕は今日の午前中のあれこれを反芻する。

 12月11日。正午のフライトなので、10時にはホテルを出なければならなかった。だが、その前にやることがあった。昨日の病院で帰国後保険会社に提出する診断書をもらわねばならないのだ。昨日、診察を待ちながら保険証の小冊子に診断書の書式を探したが見つからなかった。さらに「診断書」という英単語も思い浮かばなかった。そのときは、保険会社には緊急の事態でもらえなかった、と言い逃れをしようと決め、そのまま帰ってきた。しかし、受け取るには寛容で、出すには冷酷な保険会社が診断書なしで治療費を払ってくれるはずがない、と昨夜考えた。診断書をもらってこようと決意した。トルコ語で「診断書」の意の「Saglik raporu(サールック・ラポル)」という語をメモにしておく。

 朝食のとき、眼はよくなったかと近づいてきたカエサル君に診断書のことを話すと、それはもらうべきだ、また自分が一緒に行ってやるという。9時に病院が始まるとすぐに受付に行った。カエサル君がひとしきり演説をする。どうやらこの日本人はお昼の飛行機に乗るので急いでくれと言っているらしい。しばらく待つと診察室に通された。エルデルム先生が変わらぬ笑顔で出迎えてくれる。どれどれと左眼を検眼する。うん、大分良くなった。薬を定期的に点けるのを忘れないようにね、といいながら英文の診断書をさらさらと書いてくれた。ホテルに戻ったのは10時丁度。別れ際、カエサル君にお世話になったお礼を言う。「気をつけて、また来てくれ」と、カエサル君。それが出発までの出来事だった。

 僕はこの9月で32年勤めた会社を辞めた。愛着のある会社だったが、利益優先主義の外資株主と追従する同僚に嫌気がさした。まだ引退できる歳ではないので、次のステップに進まなければならないのだが、ようやく巡りきた休息の時間が心地よく、ものごとを決断するのを先延ばしにする習性が身につきつつあった。それがこの旅のハプニングである。前に進まなければ、何ごとも始まらない。決意しなければ何ごとも解決しない。そんな単純なことを学んだ男は、殊勝に座席で身を引き締める。飛行機は降下を開始した。


19.海の都

 空港から地下鉄とトラムを乗り継いで、ホテルのある旧市街の中心地、スルタン・アフメットの駅へ向かう。たったの4日間離れていただけなのに、旧市街に近づくにつれて懐かしさがこみ上げてくる。相変わらずの雑踏、くすんだ街並み、親しげな人々の顔。

 最後の2泊は、ホテル・アルカディアである。東京の代理店を通じて、一泊朝食付き11000円。ガイドブック、『ロンリープラネット』によれば、このホテルの上層階からの眺望は本当に素晴らしいとのこと。眺めのいい部屋にしてくれと頼み、チェックイン。


 窓のカーテンを開けると、そこには素晴らしい眺めが広がった。右手にブルーモスク、左手にアヤソフィア、背後にマルマラ海をはさんでアジア側市街、アヤソフィアのさらに左手には金角湾が望まれる。荷物を解くのも忘れ、しばらくこの光景に見入る。

 1453年、スルタン・メフメット2世はビザンチンとの54日間の攻防戦の末、コンスタンチノープルを陥落させる。このときメフメット2世は21歳の若さであった。こうして海を望む丘の上に立つブルーモスクやアヤソフィアを眺めていると、ふと一つの疑問が湧いてくる。なぜ海なのか。

 もともとトルコは中央アジアに興った民族である。オスマン朝も最初は小アジアのブルサ、次いでバルカンのエディルネに都を定める。いずれも海から遠い内陸部である。メフメット2世にしても12歳で最初にスルタンに即位したのはエディルネの地であった。それがなぜ、エーゲ海、さらには地中海をつなぐマルマラ海を見下ろすコンスタンチノープルに魅かれていったのか。しかもメフメット2世は、やがてこの地を国際都市として再建していく。再生なったこの都市の住民のうち、イスラム教ではない「異教徒」の住民は4割も占めたという。「征服王」の異名をとる彼の版図拡大の意欲を支えたのが、単なる宗教的情熱であったなら、この動きは理解できない。

 彼は遠い未知の世界に限りない憧憬の念を持っていたのだろうか。世界に開かれた窓としての港、文明を伝播させる回廊としての海、この地を都と定めた青年メフメットの心境を思うと、さまざまに想像がふくらむ。

 この夜は、初日に行ったレストランでキレミットケバブをテイクアウトにしてもらった。男のスタッフたちが僕の顔を覚えていてくれて、「どうしてた」と声をかけてくれる。にこやかな初老の主人は僕の肩をトントンと叩いてケバブとパンの入った包みを渡してくれた。ライトアップされたブルーモスクを見下ろしながら夕食。エフェスの日々を思い返して無事イスタンブールに戻れたことを祝い、乾杯。この旅も残りあと二日。


20.イスタンブール最後の日
 
 12月12日。今日は、もう一度行きたいところ、行き残したところを歩いてみようと思う。ホテル最上階のレストランで十分な朝食をとり、街に足を踏み出す。もうすっかり体がこの地に馴染んでいるのが分かる。まるで自分の街のように足が軽い。まずブルーモスク。入るのは初日に続き2回目だ。手順は分かっているのでゆとりをもって内部を鑑賞する。青を基調にしたイズニックタイルが内壁全面を覆い尽くしている。しかしよく見るとその草木や花を主とする模様は、微妙にそのデザインを変えながら柱を下から上に、壁を右から左に展開し、あるところは回転し、あるところは飛翔している。そして大きく左右対称にまとまっている。そしてそれらの連続した動きをやわらかく押しとどめるように丸いドームが天を覆っている。


 広いフロアには額を床に押しつけるように祈りを捧げる人々がいる。一日に5回の祈りの時間には入場ができないが、こうしてそれ以外の時間にも祈りにくる人々がいるのだ。僕はトルコの人々の祈りの内容については何も知らない。しかし祈ることの大切さはよく分かる。彼らの邪魔にならないように、そっと出口に向かう。

 次に、国立考古学博物館に向かった。トプカプ宮殿のすぐ下にあるこの博物館はその展示物の素晴らしさに比して訪れる人が少ない。この博物館で一番有名なのは「アレキサンダー大王の石棺」。紀元前300年頃の制作で、現レバノン領、シドンの王墓から発掘された。側面のレリーフがすごい。マケドニアとペルシャの戦闘場面の描写。まるで眼前に馬が疾走し、砂塵が舞い、叫び声が聞こえてくるようだ。人間の手になるものとしては最高水準のものではないかと思う。そのほか、紀元前後の古代王国の傑作群が多数展示してあり、いまさらのようにこの地の文明と時間の深さに驚く。


 この日の昼食はガラタ橋の岸壁で売っているサバサンド。鉄板で焼いたサバの切り身を、タマネギの微塵切りと一緒にパンに挟んで小さな椅子に座って食べる。好みで塩やレモンをふりかける。うまい。みんな嬉しそうに食べている。女子中学生の連れも恥ずかしそうにやってきてしゃがみこむ。そして嬉しそうに食べている。

 このあとは夕方までタイルや絵皿を見て歩いた。有名なアーティストのタイルは数十万円もする。買っていくのは日本人、アメリカ人、それにロシア人という。ヨーロッパ人は買わない。ブルーモスクの色調を再現したイズニックタイルに心魅かれる。こちらは買えない値段ではない。明日決めようと思う。

 夕食はまたキレミットケバブ。今日が最後の夜だとレストランの主人に言うと、肩をトントンと叩いてくれた。


21.帰国
 
 12月13日、朝。最後のアザーンの音声で眼が覚める。ベッドのなかでこの10日間のことを思い返す。そしてこの地のことを思う。

 トルコは東西文明の接点にあると言われる。しかしそれは違うと思う。トルコはそれ自体で独自であり、かつ多様であった。この地には数千年を遡る文明の蓄積があり、そして異なるいくつもの時間が流れている。それに較べるとヨーロッパや日本の文明はたかだかこの千年。かの米国に至ってはわずか数百年、比較にならないではないか。この地が世界の中心で、東西はその辺境といっても過言ではない。しかしそれも間違いなのだろう。中心とは個々の人々の精神に位置する。世界の人々の数だけ中心が存在する。

 朝食を済ませ、パッキングを済ませたあとのチェックアウトまでの時間を、この旅の思い出のメモ取りに当てる。色々な人に出会った。この文には登場していない人も多い。旅を思い出深いものにしてくれ、無事終えることができたのはこれらの人たちのお陰だ。これから僕は塩野七生の著作を読むとき、オスマントルコの記述の中にはこれらの人々の顔を思い浮かべるだろう。そして、ブルーモスクのイズニックタイルを買うのはやめようとも思う。あれはこの国の人々の祈りとともにあるのが相応しい。

 帰国の飛行機は18時発。トラムと地下鉄を乗り継いで午後4時には空港に着いた。成田行きのゲート前にはトルコ各地のツアーを終えた人たちが三々五々集まってきていた。中高年の人たちが多い。旅を通じて仲良くなった人々の声が聞こえてくる。「楽あれば苦ありの旅でしたね。でも楽しかったですねぇ」この人たちにはどんな旅の楽と苦があったのだろう。そしてこれからどんな楽と苦があるのだろう。

 アナウンスがトルコ航空50便、成田行きの搭乗開始を告げる。



 追記:文中の写真のうち、「娼館の広告」はHP『巨大遺跡へ行こう』、「アレキサンダー大王の石棺」はHP『波瀾万丈旅日記』から転載させていただきました。



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