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『シルクロード自転車旅行1995』遠征報告
(ツール・ド・シルクロード20年計画:第3次遠征)

中国の張液から敦煌まで650キロメートル

写真・文/長澤法隆
(
遠征報告は、『旅行読売』1996年2月号に掲載された文章に加筆しています。)

(ツール・ド・シルクロード20年計画)
注記:『ツール・ド・シルクロード20年計画』は、
長澤法隆が地球と話す会の事務局長を務めていた1993年から2001年までは、長澤法隆が隊長として実施しています。2002年からは『シルクロード雑学大学(歴史探検隊)』にて、『ツール・ド・シルクロード20年計画』を継続しています。

【タイトル】
シルクロード自転車旅行 中国の張液から敦煌まで650キロメートル
『ツール・ド・シルクロード20年計画』第3次遠征


【リード】
「人生80年時代」と言われている今日だ。
60歳に定年を迎えたとして、仕事を離れた後に、自由な時間を20年楽しめる。
シルクロードを自転車で楽しもうという45人が、熱砂、熱風、雨と、多彩な自然に恵まれた8日間を、自らの脚力で旅した。


【本文】

20年で1万5000キロメートルを自転車走破

 「シルクロード雑学大学」代表の長澤法隆は、1993年より「ツール・ド・シルクロード20年計画」と銘打った自転車旅行を、仲間たちと一緒に行っている。ライフワークとしてシルクロードに取り組みながら、極力文明の力に頼らない旅を実践する中で人間と地球の共生を摸索し、自らの来し方行く末や社会を問い直したいと願ってもいる。

 雄大な計画は、中国の西安からイタリアのローマまで続くシルクロード15000キロメートルを20分割。毎年夏休みを利用して500キロメートルからから1000キロメートルを自転車で旅し、20年後に完全走破することをめざしている。そして、現代シルクロードを見聞し、記録したい。チームとしての完全走破をめざしており、20年続けるのも、1回だけ参加するのもよし。これで仕事を続けながら夢を実現できる。

 「ツール・ド・シルクロード20年計画」は、1993年、西安から蘭州までの約900キロメートルを17名で走破しスタートした、続く1994年の第2次遠征では、蘭州から張液までの約500キロメートルを36名で走破。そして、1995年の第3次遠征では、張液から敦惶までの約650キロメートルに45名(男性31名、女性14名)が挑んだ。15歳の高校生から70歳まで、平均年齢48歳の中年探検隊である。


写真をclickすると説明文付きの拡大写真が見られます。


初心者に、自転車の選び方から教えて「旅行の準備」

 2月のはじめ、参加を希望する人を対象として、東京都内で説明会を開催した。前年の自転車旅行に続いて2回目の参加というメンバーが15名ほどいた。だが、説明会に集まった70名ほどの多くの人が、マウンテンバイクなどのスポーツタイプの自転車に乗るのは初めてであった。自転車旅行の説明の後、「どんな自転車を買ったらいいのですか」というような、初心者からの質問が続いていた。

チューブやタイヤなどを共有できるように、マウンテンバイクを主としていること。道路は、ほとんど舗装されているので、タイヤはゴツゴツしていない方がいい。転倒してもダメージが少ないようにと考え、ヘルメットと専用のグローブ(手袋)の着用を義務付けていること。サイクルパンツを利用することで、お尻の痛みは軽減できることなどを話してみた。また、自宅の近くにあり、マウンテンバイクなどのスポーツタイプの自転車を扱っているお店で自転車を購入することを勧めた。

 そして、半年前から毎月1回、自転車旅行のために集まって準備を行った。総務、記録、衛生、整備といったチームでのミーティングも行い、参加者全員が何らかの役割を担って、助け合いながらシルクロード旅行を楽しめるように努めた。

専門家や研究者を招いて、自転車旅行のノウハウ、シルクロードの歴史なども学んだ。

 6月の土日を利用して合宿も1回行った。自転車のパンク修理、集団走行のトレーニング、電車やバスに自転車を運ぶ際の輪行(自転車のタイヤを外して、専用の袋に入れて持ち運ぶこと)の練習などに、この合宿で取り組んだ。

 「1回の旅行には、3回の楽しみがある。1回目は準備、2回目は旅行そのもの、3回目は終わってから写真やメモなどの記録の整理」といわれている。こうして、シルクロード自転車旅行の「準備」を楽しみながら、出発の日を待った。


自転車旅行の初心者も初日90キロメートルを完走

 北京へ向けて成田を出発したのは、7291530分。翌日、飛行機で蘭州へ、さらに空港からバスで移動して永登という小さな町のホテルに到着したのは、23時に近かった。

 3日目は、小雨の降りしきる中を永登から7時間バスに揺られ、ようやく自転車旅行のスタート地点となる張液のホテルに到着した。幸い、張液の街は快晴で迎えてくれた。

 さて、4目目の81目は、午前中に自転車を組み立てて、午後からは観光にでかけた。道路一本隔てたホテルの裏手にある大仏寺を見学した。この寺には、13世紀にこの街を訪れて、1年間滞在したマルコ・ポーロの『東方見聞録』に記述のある長さ34.5メートルもある巨大な涅槃仏がある。

 マルコ・ポーロの潜在した約700年前にはこのオアシスが栄え、多くの仏教徒の訪問を受けたことを、仏像の大きさが今に伝えている。

 奥の建物には、7世紀に仏典を求めてインドヘ巡礼に出た玄奘三蔵が旅の途中で見聞した数々のオアシスを記録した『大唐西域記』の巻物も陳列されていた。旅先の風土や街に暮らす人々を知るには、脚力による旅が最も優れていることを証明する記録である。自からの脚力でシルクロードを巡ろうという旅人にとって見逃すことはできない。

 日本を出発して5日目、82日は期待に胸をふくらませてきた旅の始まりだ。初日の走行距離は90キロメートルを予定。遠征に参加するためにマウンテンバイクを購入した初心者には、ちょっとハードな距離である。

 リーダー役のメンバーは、疲れを訴える人が多い場合には、80キロメートル地点で走行を終えることも打ち合わせた上で、午前8時過ぎにスタートした。

 標高1500メートルながらも、信号機もなければアッブダウンもない。交差点もないので子供や車の飛び出しもない。右も左も地平線。前方を眺め、遥かな地平線に吸い込まれるように延びる道路をひたすら追いかけた。抜けるような青空と遥かに続く砂漠の中の走行は、爽快だ。

 午後になると気温は40度を超えるものの、湿度は30パーセントにも満たない。一生懸命にペダルを踏んでいるつもりでも汗は流れない。熱砂と熱風の中を喘ぎながら走行するものと覚悟していただけに、ちょっと物足りなさを感じるほど楽なのだ。

 予定通り90キロメートルを進んだ。高台という小さなオアシスの招侍所に到着したのは午後4時であった。

 初日、集団走行に慣れないこともあり、何回か接触事故もあったが、幸いにも大事に至らなかった。パンクは2件。ブレーキ調整の不良も1台あり、到着後すぐに整備を担当するグループのメンバーが補修した。

 ところで招侍所とは、本来は中国人の旅行者向けの宿泊施設である。部屋にはベッドと机があるだけで、バスとトイレは共同。しかも、各フロアのカウンターにいる女性が部屋の鍵の開け締めを行うシステムになっている。レストランも併設され機能的にはホテルと同じだ。


退屈な風景に先人の偉大さを再認識

 2目目、3日目の走行は、左手の遥か彼方に雪化粧をした祁連山脈の山並みを見ながら、追い風に恵まれて順調に距離を稼いだ。

 右手には、小石と砂の混じったゴビ砂漠がどこまでも続いている。樹木や建物といったアクセントもなく、風景は実に単調である。

 シルクロードと言えば聞こえはいいが、こんな単調な風景の中を歩いて旅した先人の冒険心にひたすら感心する。シルクロードの歴史は紛争と民族の興亡の歴史でもあるが、この厳しい自然や地理的な環境は1000年以上前から変わっていないだろう。シルクロードの旅人が、旅に託した『目的』の偉大さに感服する。自らの脚力に頼るシルクロードの旅は、今日でも体力だけでてきるものではない。確かな『目的』を携える必要があるように思われる。

 走行3日目の84日は。「いよいよ明日は休養日」ということもあり、先を急ぎがちとなった。走り始めて1時間ほど後、3台の自転車による接触事故が発生してしまった。仕事と同様、開始して1時間後と終了間際は事故の確率が高い。慣れと油断は自転車の旅でも禁物なのだ。

 ところで、2列に並んで走行を始めるのだが、45名の体力も自転車ツーリングの経験も異なるために、走っているうちに徐々に遅れる人も出る。そんな時には体力のある人が伴走し、励ましながら30分に1回設けられる休憩時間まで助けてくれる。

 遅れる人は決まっている。伴走する人は10代・20代の若い男性と、これも決まっている。その結果、若い女性が遅れた時には伴走がつくものの、年配の男性が遅れても、若い男性は先に行ってしまうこともある。

 となるとフォローするのは中年男性の役割。その辺の人間観察も、脚力で旅することの面白さとなる。

 こうして到着した酒泉の街の中心には、石造りの鐘楼があった。

 東西南北にそれぞれ通じる通路がトンネルとなり、鐘楼の中央部分でクロスしている。トンネルのそれぞれの出□上部には『東迎華獄』『西達伊吾』『南望祁連』『北通沙漠』と各四文字が掲げられている。鐘楼に登ればその文字のとおり、酒泉は、南にある険しい祁連山脈と北の荒涼たるバタンチリン砂漠に扶まれ、東を見れば中華の山並みを越えてきたことが分かる。また、西へ通じる道が伊吾(現在のハミ)へと一直線に延びていることも一目瞭然だ。西暦346年に建てられた鐘楼に刻まれた文字は、方角を正確に伝える道標となり、1600年以上も変わらぬ自然の厳しさ、旅人に伝えているようでもある。


上り坂が続く一日も風の助けで快適

 休養日後の86日は、標高1500メートルの酒泉から標高2000メートル以上もある玉門東までの54キロメートルを予定している。

 「今日は一日中、上りっぱなしだから、きついのを覚悟してください」と、おじさんもおばさんも意を決してスタート。ところが、東からの追い風に背中を押されて最高のツーリングとなった。予定の距離は半日で終了することができた。午後からは、のんびりと休養をとることになった。

 恵まれた走行の途中、嘉峪関からさらに西へと延びる万里の長城と交差した。秦の姶皇帝は、秦、趙、燕の三国を統一した際に、それぞれの国が遊牧民族である匈奴の侵入を防ぐために築いた城壁を結び、万里の長城とした。しかし、通りすぎた城壁は新しく明の時代のものだ。2000年以上の風雪に耐えた古い城壁は、遥かに北に位置するという。

 それでも、やはり漢族の支配の及ばない異境の地であつた。「思えば遠くへ来たもんだ」という心境になった。

 87日と88日は、下り坂に加えて追い風に恵まれて、またまた快適な走行となった。自転車ツーリングは、重力と風力という自然の恵みて爽快な気分を昧わえる。自然と人間の営みが、つながっていることを実感できる点も魅力となっている。地形に左右されるジグザグ道ならば、途中で横風に悩まされたかもしれない。しかし、ユーラシア大陸を東から西へと一定方向に向かうシルクロード自転車旅行。故に、自然の恵みを存分に享受できたのだろう。

 

 8日には、今回の遠征で最高の1120キロメートルの走行を記録。初心者も交えた集団走行にもかかわらず、平均時速は27キロメートルと速かった。

 まだ体力的には余裕があるようだが、この先はダート(砂利道)が何キロも続くと対向車のトラックドライバーが教えてくれた。この情報を耳にして、ダートの手前でこの日の走行を終えることにした。

 追い風に恵まれている間に、体力の消耗の大きいダートを突っ走るか。それとも翌朝の体力も気力も充実し、集中力のある時にダートを走るか。リーダーの間では意見が割れた。

 すでに走行を始めて6 日間となる。年齢も様々なこともあり、体力の違いは大きい。また、一週間以上も自転車でツーリングするのは初めて、海外旅行は初めてという人もいる。経験豊富なリーダーたちは元気であっても、中には疲れている人もいると判断。疲れていると車間距離が短くなったり、注意力が散漫になる傾向がある。その結果、事故の発生に結びつきやすくなる。こんな思いから、ダートの走行は、翌朝一番にチャレンジすることにしたと。


風雨の洗礼を受け過酷な自然に驚嘆

 翌日、走行前のストレッチ体操の最中に、運良く小雨が降りだした。

 これでダートの砂塵が舞い上がることはない。パウダー状の砂が濡れれば、多少は小石も固定して、走行しやすくなる。そうでなければ、対向車の舞い上げる砂塵を避けるために、ダートの道からも外れて、ゴビ砂漠の中を走行しなければならなかったのだ。

 けがの心配、体力の消耗、故障、時間のロス。どの点でもラッキーだ。砂漠の民の言い伝えどおり、“砂漠の雨は恵みの雨”を、身をもって体験することになった。

 12キロメートルのダートは、思っていたよりも好調に走破することができた。1時問ほどで通りぬけた。ところが、舗装道路に入ってからも、雨は降り続いた。しかも向かい風である。濡れた体に風が吹きつけるため、体温は下がり、体力を消耗する。

 可能ならば1キロメートルでも多くの距離を稼ぎ、翌日の敦煌へのゴールを気楽に迎えたかったのだ。だが、バスに乗るメンバーが増えていた。結局、13時に砂漠の真ん中で1日の走行を終えた。楽あれば苦あり、とはよくいったものだ。

 この日到着した安西という地域は、中国でも風が強いことで有名だ。風庫と呼ばれていて、―週間に3日は強風が吹いているのだという。

 風は砂を運び、砂は植物の作るわずかな空間を埋める。さらに植物は上に伸び、もっと多くの砂が植物の上に堆積する。

 その結果、風の強い地域では数メートルもある大きな土饅頭があちこちに出現し、奇怪な風景を生む。そんな地域に差しかかっていたのだ。

 

 ところで夕食は、約10人ごとに円卓を囲んで食事をするのだが、連日10品以上もの中華料理がテーブルに並ぶ。中華料理が好きといっても、豚肉、油たっぶりの料理の連続でちょっと食傷ぎみであった。

 それでもこの日は、体力の消耗が激しかったと見えて、みんな食欲旺盛だ。昼間からビールが出たこともあってか、どのテーブルも盛りあがり、明るいうちからにぎやかな宴会が始まった。これもまた、中年探検隊の楽しみの一つだ。

シルクロードの砂丘前へ涙のゴール

 810日。ついに自転車走行、最後の日となった。これまでは、一時も早くゴールしたいと思って走ったが、この日は1メートルでも先にゴールを延ばしたい心境で朝を迎えた。

 今年、最後の走行と念じて砂漠の中をスタートしたのは930分。右手は砂漠。左手は敦煌の莫高窟に連なる低い山並みが、男性的な線を描いて西に向かっている。晴れているが向かい風だった。

 スタート時点の風景が変わったのは、走行を始めて60キロメートルも西へ進んでからのことだった。道路わきに、植えたばかりと思われる高さ1メートルほどのポプラが並んでいた。

トウモロコシやヒマワリの畑が左右に広がり、オアシスに到着したと実感したのは、単調な風景を走り始めて90キロメートルの地点。すぐに道路脇の風景は土壁の家に取って代わり、敦煌の街に入った。街を抜けて再びポプラ並木に入った。今度のポプラは、高さ10メートルもあり、木々の緑が木陰を広げている。正面に大きな砂丘が現れた。優美な姿で人を魅了する砂山、鳴沙山である。長年、夢に見たシルクロードのイメージ、『月の砂漠を はるばると』という歌詞とぴったり重なる。8日間砂漠を走行してきた目には、両脇に並ぶポプラの緑が眩しい。




 2列に並んだ自転車の隊列が前進するほどにボプラ並木は少なくなり、砂丘は大きくなる。さらに進んで、ボブラ並木が切れると砂丘の手前に黒い門が現れた。2列に並んだ自転車は右へ、そして左へと大きく旋回した。そして、黒い門を通り過ぎてとまった。

 次から次へと自転車が到着する。一瞬のうちに狭い通路は赤や青、黄色といったカラフルな自転車やヘルメットで埋まった。

 「やったね。ご苦労さま」

 お互いに声を掛け合うが、言葉は続かない。男同士で、あるいは女同士で握手したり、抱きあってゴールの喜びをぶつけている。  ‘

 感激のあまり涙を流す女性も多い。握手も抱擁も、いつのまにか男女の境目はなくなった。こころの底から湧き出る喜びを表現する姿は、飾り気がなくて美しいものだ。最後の2日間、厳しい自然に苦労したこともあって、過去3回のゴールの中でも最も感勤的なひと時となったのであろう。

 雨、風、熱風、熱砂、たった8日間の走行で、砂漠で得られる自然条件はすべて体験できた。まさに天の恵みと言えるだろう。

 約1600年前、玄奘三蔵という僧は、仏典を求めるインドヘの巡礼の旅で、たった一人でここを旅した。人力の旅、脚力の旅で、その旅の厳しさを実感することができた。それだけに、過酷なひとり旅を支えた、玄奘三蔵の精神力に感動するばかりだ。

 人はなぜ旅をするのか? ペダルを踏みながら、自分の内面と語り合うことになる。自分が見えてくる。一人一人のこころに秘められていた理由を、脚力の旅で発見したに違いない。来年は敦煌からトルファンへ、玄奘三蔵の足跡を巡る。