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シルクロード自転車旅行1996 遠征報告
(ツール・ド・シルクロード20年計画:第4次遠征)

中国の敦煌からトルファンまで850 km

(ツール・ド・シルクロード20年計画)
写真・文 長澤法隆
(遠征報告は、『CYCLE SPORTS』(発行:八重洲出版)1996年12月号に発表したレポートに加筆しています。)

(ツール・ド・シルクロード20年計画)
注記:『ツール・ド・シルクロード20年計画』は、長澤法隆が地球と話す会の事務局長を務めていた1993年から2001年までは、長澤法隆が隊長として地球と話す会で実施しています。2002年からは『シルクロード雑学大学(歴史探検隊)』にて、『ツール・ド・シルクロード20年計画』を継続しています。


【タイトル】
シルクロード自転車旅行

中国の敦煌からトルファンまで850 km
『ツール・ド・シルクロード20年計画』第4次遠征

【リード】
  西安からローマまで、シルクロード15,000kmを20年かけて自転車で見聞しようという「ツール・ド・シルクロード20年計画」。1993年に始まり、4年目の今年は敦煌からトルファンまでの850kmを走ってきた。参加者は28歳から71様での42名。厳しい自然と対峙して夢を追った9日間をレポートします。

【本文】
積載量オーバーで中国人5人を降ろして敦煌へ向かう
 成田空港を出発したのは8月7日。翌日は北京空港から敦煌への空の旅だ。ところが、飛行機に乗り込む際に、思いがけないトラブルが発生した。

  「どうしても9台の自転車を積み込めないので、次の便で運ぶ」と空港の職員は、当然のごとく伝えてきた。ところが、次に敦煌へ向かう便が出発するのは2日後となる。同行の人民日報の記者・王京生氏も協力し、粘り強い交渉が続いた。

  その結果、預けた荷物のいくつかを機内へ移すことになった。トランクを除き、ほとんどのザックを機内へ移動したのは、隊長を務める長澤自身となった。ところが、客席は満席。荷物を入れる空間がない。結局、中国人の乗客5人を降ろし、その座席にザックを積み込むことになった。離陸は、2時間半ほど遅れた。
中国をサイクリングさせてもらうのに、中国人に迷惑をかけてしまい後味の悪いスタートとなった。

  8月9日の午前中は、敦煌のホテルの脇で自転車の組立作業に取り組んだ。自転車が輸送の途中で壊れていないか、恐る恐る輪行袋を開いたが、全員、大きなトラブルはない。

  8月10日午前7時30分、バスで鳴沙山まで10分ほど移動した。ここが「ツール・ド・シルクロード20年計画」4年目のスタート地点となる。快晴、気温はすでに27℃。もっとも、中国は全土で北京時間を使用している。

  そのため、北京から3000km西に位置する敦煌では、影が長く延びている。太陽の高さはまだ低い。トラックから自転車を降ろしてブレーキや変速機を点検、準備体操をして体をほぐした。いよいよ走行開始だ。

  8時過ぎに全員で元気にスタート。参加者42名のうちの女性は13人。平均年齢は48歳。先頭を走るジープには公安警察官が乗って、対向車のスピードを抑える。自転車の後ろには、バス3台、トラック2台、ジープ1台が連なっている。

  だから、2列で進む42台の自転車の間に、後ろから来る車が割り込むことはない。30分ほどで市街地を外れて郊外に出た。ポプラ並木の間を行くが、人家はなくなった。

  9時になっても朝の日差しが弱いので涼しく、走行は快適だ。パンクが1件発生したが、3人で協力して10分足らずでチューブ交換を済ませた。路面のガラス片を拾ったのが、パンクの原因であった。

  以後、「ガラス!」、「穴!」と、ガラス片が落ちていたり、道路に穴が開いていれば、大きな声で後続の人に伝達することにした。10時頃までに20kmほど進んだが、前後左右見渡す限りゴビ砂漠が続いている。並木も家も草もなく、羊飼いもいない。時々、雲の陰がゆっくりと地表を移動する。他に動くものはない。

  12時過ぎ、60km走行したところで昼食とした。道路わきに屋根だけで壁のない建物を見つけることができたのだ。すでに気温は40℃を超えている。ここで昼食と昼寝を含めて2時間の休憩とした。

  マントウ、ソーセージ、ゆで卵、ザーサイ各1個が昼食だ。食事の後、ダンボールを敷いて横になるが、ハエがうるさくてなかなか眠れない。こんな砂漠の中で、ハエはどうやって生きているのか。頭はますます冴えてしまった。

  14時再びスタートした。さらに気温は上昇し、45℃。日差しも強い。1日目の走行は80kmを予定していたが、15時には目標を達成した。今日の宿泊地は、さらに50km先にある柳園という街だ。80km地点で自転車をトラックに積んで、バスで移動する予定だった。しかし、時間も早いので、さらに走行を続けることにした。

  ここからはゆるやかな上り坂となった。さらに右(東)からの風が強くなってきた。まだ走りに慣れていない上に疲労も加わり、時速20kmの走行から遅れる人が出てくるようになった。先頭は時速20kmで進むが、後ろの人は時速10km。集団から大きく遅れてしまう。

  101km進んだところで、1日目の走行を終了することにした。陽は高いが17時30分である。ペダルを外して自転車をトラックに積み込んで、柳園の宿舎へとバスで向かった。宿舎は3人部屋。シャワーは屋外に一箇所あり、男女が交代で利用した。利用するメンバーが、日本と同じようにお湯を使うため、最後の10名ほどはお湯も水も出ない。シャワーは明日の楽しみとなった。砂漠への適応は、まだまだだ。

  8月11日は朝の6時起床とした。気温は23℃で肌寒く感じる。8時過ぎに全員でバスで柳園の宿舎を出発し、昨日の走行を終えた地点へ戻った。走行を始めると、ゆるやかな上り坂に向かい風。力の差が出て、遅れる人が増えてきた。柳園から上海とウルムチを結ぶ国道312号線に入った。ここからは高速道路だ。

  さっきまでの道は舗装道路とはいえ、大きく波打ったような路面もあった。国道312号線は、路面状況がいい。そして、追い風となったので快適な走行を楽しむことになった。ところが、わたしの自転車のペダルが外れそうになった。

  ペダルを付ける際にネジ山を間違えて斜めに入れてしまったようだ。何とか走れるのだが、遅れてみんなに迷惑をかけてはいけないので、走行を中断した。バスに乗ってビデオの撮影役となることにした。

  他のメンバーは走行を続け、51km進んだところで本日の走行を終えた。12時15分であった。バスで再び柳園の宿舎に戻り、午後は昼寝。昨日の疲れも回復だ。

  ここ柳園には、井戸がない。街全体が列車で運んだ水を使っているという。それなのに、今日も熱いシャワーが準備されていた。昨日の経験から、お湯がなくなったらシャワーは終了を学習。節水。節水。今日は、シャワーを浴びることができた。全員がシャワーで疲れを流すことができた。ありがたいことだ。

  8月12日、今日のコースは全体に下り坂だった。どうしても車間距離が狭くなってしまう。それが原因で、昼前に接触事故が発生した。ひとりが転倒して肩を強打。バスの人となる。だが、大事には至らなかった。

  12時40分に招待所に到着した。周りには10数件のドライブインや車修理の工場が並ぶ。宿泊用の部屋を利用して、ベッドの上で、マントウとソーセージという例の昼食となった。今夜の宿は、この招待所だ。しかし、陽も高いし、今日の走行はまだ65kmだ。気温も33℃と涼しくて追い風だ。
14時過ぎに再び走行を開始して西をめざす。ゆるやかなアップダウンを繰り返し、走行距離が100kmになったところで走行を終えることにした。15時30分であった。

  さて、バスで招待所まで戻ったが、招待所が小さいために42人全員が一箇所で宿泊することができない。15人は、2軒先の宿に泊まることにした。宿の前には水槽があり、この水で顔を洗う。洗面器に水を入れてタオルを浸し、身体を拭いた。ここは砂漠だから。これで今日のシャワーは終了だ。

  部屋は5人部屋。部屋の真ん中には裸電球がひとつ下がっている。だが、電球が灯るのは19時から。それまでの照明として、ローソクを準備してもらった。

定年記念に4000km走破にチャレンジ中の中国人と出会。

  8月13日、朝7時の気温は21℃。湿度は30パーセント。走行を始めたときには気温は35℃に達した。雲ひとつなく暑い1日が始まった。それでも、北東の風5mが右の斜め後ろから押してくれて快適だ。文字通りの順風満帆。しかもゆるやかな下り坂だった。

  30分走ったら5分休憩。次に30分走ったら今度は10分休憩してスイカを食べる。これが基本的な走行のパターンだ。10時頃から風がかなり強くなった。風が砂を舞い上げて、路面に模様を描きながら流れていく。時々、道路の工事のために往来する車が砂漠の中の悪路を進むところがある。

  脇を走る車が砂塵を舞い上げると、一寸先も見えなくなる。12時30分、砂の舞う砂漠で昼食とするか宿まで走るか迷った。宿でゆっくりと食事をするほうを選んだ。しかし、その先が厳しかった。13時30分頃に、右に大きくカーブしながらの上り坂が出現した。道がカーブしたために、順風は、厄介な右からの横風に変わった。

  13時30分、あせらずに道路わきの食堂で昼食とすることにした。9時30分頃からずっと気温は40℃以上。それに昼食が遅くなったのでかなり疲れた。食堂に保育園児くらいの子どもがいた。スイカとハミウリをあげたら、ハミウリだけを受け取った。どうしてなのか、ガイドに聞いた。ハミウリはスイカの5倍の値段という。

  なるほど、子どもは、普段はスイカを食べていて、ハミウリにありつけるのは遠来の客人があったときくらいなのかもしれない。素直で子どもらしい態度が、かわいらしく思えた。15時、再び走行を開始した。風の影響を受けて、先頭のスピードは時速13km。途中に休憩を挟んで5kmを30分で走り、駱駝圏子という村の宿に到着した。

  ここの宿は日本の民宿のような雰囲気がある。宿の小学生くらいの子ども(姉弟)が部屋(4人部屋)に遊びに来た。中国語会話の本を見ていると、本を取り上げて「ニーハオ」と読み上げた。わたしにも発音しろという。何度発音してもOKがでない。最初は笑っていたが、終いには「相手にならない」という軽蔑した表情で、部屋を出て行った。子どもにまで馬鹿にされるとは。40歳過ぎのおじさんが‥‥、情けないなあ。

  宿の近くに池があり、そこで行水をしてもいいという。地元の子どもたちの真似をして、数人の男性メンバーが、素っ裸で池に入って行水をした。そのうちのひとりが、足の裏を切ってしまった。

  参加者のひとり・宍戸茂さん(57歳)は、「イスラム圏では肌を見せてはいけないし、水が貴重な土地。子どもはともかく大人が池に入る習慣はないのだろう。砂漠では水を神聖視する文化を持っているのだろうから、外国人の不粋な行動を止めさせるためにガラスや陶器の破片をわざと入れたのではないか」
 と分析した。砂漠とイスラム。砂漠の民の水への畏怖。この2点はしっかり調べて旅行する必要がありそうだ。旅先の文化や宗教を知ることは、旅先での不要なトラブルを防ぐために当然だろう。何で外で裸になるんだろうか。命に別状はないが、破傷風が怖いのでけが人をハミの病院まで輸送して、治療することにした。病院へは、長澤が同行した。

  この日の夕方、メンバーに話しかけてくる中国人がいた。ウルムチからラサまでの4000kmをサイクリング中の史徳双さん(60歳)とその友人で定年記念の自転車旅行なのだという。自由に旅行できるのか。中国も変化していると実感した。

  8月14日、今日から新疆時間を採用し時計の針を1時間遅らせた。そのため、7時起床であったが、1時間余計に眠ることができた。時間にゆとりができたようで、豊かな気分になれた。
8時15分、曇り空で涼しい上に、強い追い風の中を走行。道は、ほぼ平らなために快調だ。時々、恵みの雨もあって快適なため、遅れる人も無く一団となって進むことができた。地形と気候に恵まれて、ハミのホテルに着いたのは13時であった。

  8月15日は休養日。快晴で穏やかな中で午前中は観光と民族学校で小中学生との交流。子どもたちが手や足を動かして回るだけで、踊りになっている。こちらからの返礼は、かっぽれ、ケン玉、お茶、凧揚げであった。強い日差しを避けて、18時から自転車の整備を行った。

  8月16日、7時起床。8時30分、準備体操の時から北からの強い横風がふきつける。自転車を右に傾けて、ハンドルを取られないようにして進む。10時には砂嵐となった。12時30分に、砂嵐を避けてバスの中で昼食とした。白人のサイクリストが、一人で西から東へと走っている。しかし、風に押されて道路下の砂漠へ落ちてしまう。何度やっても同じだった。ついに、道路下で、風がやむのを待つことにしたようだ。

  13時30分、走行を開始するが向かい風。14時40分、風速20mを超えると思われる砂嵐のために走行を中止してバスの中で待機する。北京からウルムチをめざしている中国人サイクリストが、たったひとりで砂嵐に挑んでいる。バスで休憩してもらおうと思って声をかけるが、振り切って砂の中に消えていった。水もあげたかったのだが。

  15分後、砂嵐はやみそうもないので自転車を押して歩くことにした。いざスタートするとひとりが自転車に乗り、次々とそれに続く人が出た。自転車に乗ると、風に流されるて対向車線に飛び出してしまう。自信があるというよりも、自然の怖さを白なすぎる。

  1時間かかって前進したのは、3.8kmだった。歩くよりも遅い。風の強いエリアを抜けられそうもないので走行を中止した。明日の朝、バスでここまで戻って、空気が安定して、元気な時にアタックすることにした。

  バスで移動して三道嶺の宿に向かう。宿の近くに銭湯があったので連れ立って行く。湯船につかって久しぶりに温泉気分を味わい、砂嵐の疲れも解消した。砂漠の真ん中になぜ温泉があるのか。中国人ガイドの話では、近くに鉱物がとれるようで、鉱山労働者のための施設のようだ。25mプールのような大きな湯船、周囲はぐるりとシャワーがあった。

  8月17日、昨日の砂嵐がウソの様な穏やかな朝だ。おまけに、わずかだが東からの風がある。バスで戻って、9時40分から砂嵐で中断した続きを走る。快晴、追い風、前方には雪を頂いた天山山脈が見えて風景もすばらしい。

  しかし、すぐに横風が出る。徐々に上り坂となり段々きつくなる。午後からは勾配がさらにきつくなり、横風も強くなった。走っている人数は、15時に20人、16時16人、18時20分12人と減っていく。サバイバルゲームの様相だった。今日の完走者は12名であった。

  七角井という村の宿は、定員10名。他のメンバーは、バスに15㎞揺られて立派な招待所に宿泊した。それでも、トイレは300m先の砂漠の中。穴が開いているだけで、ドアも仕切りもない。

最後の2日間は、230kmを全員が完走
  8月18日、ドアをノックするモーニング・コールで1日が始まった。8時にスタートしたが、気温は17℃。震えながらの走行となった。事前に地図で調べてあるが、最初の20kmは急な上り坂のはずであった。ところが、いくら進んでもなだらかな上り坂だ。GPSで位置を計測してみると、道から外れていた。地図にはない新しい道路を走っているようだ。

  GPSでこまめに計測してみると、地図にない新しい道路は、山の脇を通っているので、急な上り坂はなくなったようだ。昼食は立体交差の工事をしている踏切の手前。中国では、踏み切りの前後1kmは駐車禁止となっているという。工事を監督している女性から移動を命じられた。結局、バスやトラックを道路わきの砂漠に下ろして、一件落着となった。気温は45℃。トラックの下の日陰は、昼寝する人に、人気のスポットとなっていた。

  13時に走行を再開した。下り坂、追い風に恵まれたこともあるが、先頭を走ってペースメーカーを務めたメンバーが、全員が完走できるように配慮した安定した走行で、130㎞を全員が完走できた。鄯善の宿は、21時から23時までシャワーを利用できる。蛇口をひねれば水やお湯の出るありがたさをしみじみと感じた。

  8月19日、走行最後の日が来た。快晴。気温25℃。8時30分にスタートした。街を抜けると道路は狭く、交通量が増えた。両側に茶色の砂漠広がる。油田があるので、行き交う車は大型のタンクローリーが多い。一方、その脇をロバに牽かれた車や馬車がのんびり通行している。古代の時間と現代の時間が共存しているように見えた。

  道はほとんど下りで、ところどころにダートがある。11時頃、橋を渡って火焔山に至った。道路は狭く凸凹だが、交通量は増えている。12時30分、火焔山の前に構えたスイカ売りのお店を借りて昼食とした。正面に火焔山を見て、孫悟空を思い出した。

  13時30分、午後の走行を開始した。今度は熱風の向かい風。しかも上り坂。疲労でペダルは重い。15時にトルファンの街に入った。標高マイナス42mのトルファンでは、5月から9月いっぱい暑さのために、11時から18時までは昼寝の時間だという。仕事も休みなのだという。街を歩いている人の姿も少ないわけだ。

  30分ほど街の中を走り、ブドウ棚の下を走行する。すると、笛と太鼓のイスラム音楽が聞こえてきた。その音楽に誘われるように進むと、ゴールのホテルだった。音楽は、わたしたちのトルファン到着を歓迎して演奏されていたのだ。

  9日間で850kmを走行した。シルクロードを舞台にライフワークを実践し、暑い夏を熱く楽しむ夏休みは、大きなトラブルもなく無事に4回目のゴールを迎えることができた。