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『シルクロード自転車旅行1999』遠征報告
(ツール・ド・シルクロード20年計画:第7次遠征)

中国のカシュガルからキルギスのビシケクまで500 km


(ツール・ド・シルクロード20年計画)
写真・文 長澤法隆
(
遠征報告は、『CYCLE SPORTS』1999年10月号に発表したレポートに加筆しています。)

(ツール・ド・シルクロード20年計画)
注記:『ツール・ド・シルクロード20年計画』は、
長澤法隆が地球と話す会の事務局長を務めていた1993年から2001年までは、長澤法隆が隊長として実施しています。2002年からは『シルクロード雑学大学(歴史探検隊)』にて、『ツール・ド・シルクロード20年計画』を継続しています。

【タイトル】
シルクロード自転車旅行

中国のカシュガルからキルギスのビシケクまで500キロメートル
『ツール・ド・シルクロード20年計画』第7次遠征

【リード】
1万5000キロメートルのシルクロードを、夏休みを利用して、20年かけて自転車で走破をめざす『ツール・ド・シルクロード20年計画』。

第7次遠征は、ルート上にある約3800メートルの峠を超える。シルクロード最難関の峠越えに22人が挑んだ。

初めての国境越えで、中国を出てキルギスに入る予定であった。

しかし、洪水により道路は決壊し、国境の100キロメートル手前で通行止め。行く手を阻む100年に1度という大規模な洪水によるアクシデントに遭遇。難問をどのように回避して、走行を続けたのか、レポートします。


【本文】

カシュガルから第7次遠征開始

 7月301630(北京時間)北京空港に到着。早速、中国内ガイドの楊明さんより旅程変更の相談があった。

 「カシュガルの60キロメートル先にある検問の小さな集落・トパと、国境間100キロメートルの中間にある村で宿泊許可を得る予定になっています。宿泊するためには、その地域を管轄するアトスで宿泊する必要があります」というのだ。アトスは、カシュガルより40キロメートル東にある街だ。

 カシュガルは、迷路のような路地を持った旧市街や職人街、新疆ウイグル自治区でもっとも大きなモスクであるエイティガール寺院など見所はたくさんある。それに、自転車屋さんや歯医者さんなどの看板もユニークだ。そんなウイグル族の生活習慣や文化に触れることができるオアシスだ。メンバーには、街をじっくりと見学してほしいと思っていた。

 話し合った結果、走行のスタートを1日繰り上げることにした。カシュガルを観光したその日の夕方に、走行をスタート。20キロメートルだけ東へ向かって、国境へと向かう
T字路で走行を終える。そして、アトスで1泊する。こんな案で譲り合って、合意を得ることができた。

 7月31目、ウルムチ市内にある博物館で『ローランの美女』として有名なミイラなどを見学した。バザールなどをめぐってウルムチを散策。夕方、ウルムチを出発し、カシュガル空港に到着したのは22時であった。

写真をclickすると説明のついた拡大写真が見られます。

 8月1日、9時に朝食を済ませ、ホテルの庭で自転車を組み立てた。大きなトラブルもなくホッとした。

 自転車の組み立てを終えると、楊明さんが、隊長の長澤、副隊長の水野秀雄さん(55歳)に相談したいことがあるという。

「洪水のために、国境の道路が決壊しました。トパまでは行けますが、その先の道路状況はわかりません。復旧するまでどれくらいの時間がかかるのかも、行ってみないとわかりません。どうしますか」というのである。

「とにかくトパまで進んで、そこで判断しましょう。現場を見ないと納得できない、というメンバーもいるでしょう。とにかく、国境へ近づく努力をしましょう」と、確かな情報を得た時点で判断することにした。昼食の時に、トパから先は洪水で進めない可能性もあることを全員に伝えた。

 17時、青空が広がり、気温は30℃。昨年のゴール地エイテイガル寺院前の広場を1周し、いよいよ第7次遠征の自転車旅行が始まった。隣のデパートの屋上からは、われわれの門出を祝うかのように、民俗楽器の音楽隊による生演奏が流れている。

 カシュガルからアトスヘ向かうルートは、ゆるやかな上り坂である。さらに向かい風が追い打ちをかけて走行1日目から自然の厳しさを体験することになった。チャクマク河を渡ったT宇路が、トパとアトスの分かれ道。ここまでの21キロメートルで走行を終了し、バスでアトスヘ向かった。



 8月2日(走行2日目)は、前日の走行終了地点までバスで移動。国境への入り口となっているトパをめざした。標高差400mを上るのだが、体力に差があるのでトパまでの40キロメートルをフリーランとした。ただし、10キロメートルごとに休憩を設けて、全体が離れないように申し合わせた。

 前半の20キロメートルは、集落を結ぶポプラ並木の間を進んだ。そして集落とともにポプラ並木が途切れると、向かい風とアップダウンが待っていた。下り坂なのに向かい風。ペダルを踏まないと前へ進まない。ダウンヒルを楽しみに坂道を上ったというのに。悔しい。でも、見える範囲に仲間がいるだけでも喜ぼう。ありがたい。安心感がある。


洪水により国境通過と峠越えを阻まれる

 トパに到着すると、その先は通行止めだった。交渉して、全員で道路の決壊場所までバスで見に行った。途中の集落も水浸しであった。復旧を進めている作業現場のはるか向こうに橋がある。だが、途中の道路はすべて流されている。現場を見た後、副隊長の水野さんなどと話し合い、全員を集めて今後の行動を提案することにした。

「すぐに復旧できそうもないので、カシュガル、ウルムチ、ビシケクと飛行機で移動して、バスで国境方面へ向かいます。キルギス側から再び走行を開始したい。これが、シルクロードを時間の許す限り走って、国際航空券も無駄にしない最善の方法と考えます。全員の合意が得られたらすぐにチケットの手配に動きます。一人でも反対があれば、次の行動には進みません」

 反対する者はいない。追加の航空券代はウルムチで集めることにし、すぐに自転車を解体し、輪行の準備を済ませた。峠越えに備えて、高山病を防ぐために行った富士山への登山や五合目までの走行トレーニングの成果を、今回発揮することはできなかった。

 夕食の時、気分を切り換えようと斎藤健二さん(63歳)はみんなにビールを振る舞った。ふるさとの踊りを披露して、場を盛り上げる人もいた。遠征中は禁酒と決めている私もこのときだけは解禁した。しかし、本当に大事なのは、リラックスよりも緊張感を維持することなのだ。でも、このメンバーではそれも難しいようだ。


 8月3日、夕方の便でカシュガルからウルムチヘ移動。8月4日、5日とウルムチに滞在した。ビシケクへと移動する飛行機の運行する日を待ったのである。

 8月6日、朝9時10分にウルムチからビシケクヘ飛行機で移動した。さらに、ナリンまでの400キロメートルはバスを飛ばした。18時30分、ナリンのホテルヘ到着。早速、自転車を組み立てた。


 8月7日(走行3日目)8時にナリンをスタートしDolon峠に向かったが、街を出るところは上り坂だった。しかし、上り切るとダウンヒルとなった。

 そして1時間後、落車事故が発生した。この春、看護師を定年退職して参加した
Aさん(60歳)が、路面の亀裂にタイヤを取られて転倒。救急処置に慣れているというメンバー2人が同行してナリンの病院で応急処置をした。その後、ビシケクに移送することになった。ビシケクヘは、小川なみ(49歳)さんが同行を申し出てくれた。楽しみにしていた走行を中止した3人に感謝。

 転倒事故の発生したとき、フリーランとしていた。フリーランでは、前の人が見えなくなると不安になり、ついついスピードを出す傾向があるようだ。下り坂では、あまりブレーキを使わないで、追いかけることにだけ夢中になる。事故の原因はこういう事かもしれない。以後、下り坂では時速30キロメートルの制限速度を確認した。はるばるとキルギスまで来たのだから、安全第一にペダルを踏んで、風景を楽しむことも大切にしたい。

 午後の走行もゆるやかな上り坂が続く。途中にはユルタ(ロシア語。中国語で言う『パオ』の意味)が並び、チンギス・ハーン治世の時代があったことを実感できた。

 16時30分、62キロメートル走行したところで、今日で最後の上り坂となった。斜度は12パーセント。これが3キロメートル続く。しかもダートである。最後尾のグループについていると、真ん中あたりで斉藤健二さんが下ってきた。背後には青空が広がっていた。



63歳の斉藤健二さんも12パーセントの峠越えに成功

「隊長ォー。もうだめです。バスに乗ります。きついんだもの」と斎藤さんが言うではないか。
「峠が見えているんだから、自転車を引いてでも上りましょう。箱根も走って準備したんだから」と激励した。

 黙々と上る斎藤さん。保育園の園長の山田悦子さん(51歳)が続いた。標高3038mのDolon峠に到着したのは17時であった。

 下りも斜度12パーセントのダートが続いた。慎重に下った。17時30分過ぎ、100キロメートル地点で先頭と合流することができた。バスで宿舎へ向かった。下りは、ペダルを踏まないので楽ではある。しかし、上りで汗をかいていると、下りでは風の影響もあって体感温度が下がる。峠越えは、体調管理に気を配ることも大切となる。震えながら45分も待っていたという先頭集団に、感謝するのみである。ありがとう。



 8月8日、前日に走行を終えた地点ヘバスで戻り、出発の準備をしていると、ひとりのサイクリストが坂道を上ってきた。キルギスを走った後、カザフスタン、インドを走るという。中国との国境手前のゲートまで進み、引き返してくるようだ。ゲートまでのアップダウンやダートの位置などを伝えた。一路平安を願った。

 標高に反比例して、緑は濃くなっていく。牛、馬、羊の放牧の数もユルタの数も増えてきた。103キロメートルを走行して、イシククル胡の西端にある町・バルクチのホテルに到着した。17時30分であった。



 8月9日、朝食時に公安のエルメルさんが、話があると声をかけてきた。

「今日のコースの一部は、とても危ないのでバスで移動してほしい」という。「中国からキルギスまで、500キロメートル以上も、こうしてみんなで走って旅行してきた。私たちを信じてほしい。ゆっくりと全体がまとまって走る。危険ならば、走行を中止する」と、答えて納得してもらうことができた。

 実際、一部では道幅が狭かった。お役所の黒塗りの車は、猛スピードで飛ばしていた。しかし、乗用車のドライバーもトラックのドライバーも親切だ。対向車は路肩に止まり、窓から身を乗り出して声援してくれる。うれしい。昼過ぎ、4バッグでフル装備でペダルを踏んでいる白人カップルとすれ違った。互いに手を振って健闘をたたえた。彼らは本物である。いつの日か、あんなふうに気ままに走ってみたいものだ。105キロメートルを走行し、オラオブカのホテルに到着したのは17時であった。



 8月10日、いよいよ走行最終日となった。今日は7時スタート。涼しいうちに距離を稼ぎたい。ゆるやかな下り坂ということもあり、10時45分には65キロメートルも進むことができた。ここで昼食とした。

 昼食を済ませてスタートしようとすると、エルメルさんが、「ビシケクの10キロメートル手前からは交通量も多いのでバスで移動してほしい」といってきた。

「キルギスの英雄・マナスの像まで自転車で行きたい。最大限の努力をするから力を貸してほしい」と懇願しエルメルさんの理解を得た。

 ビシケクの街の真ん中を、パトカーのサイレンを先頭に、信号機も無視して進んだ。先を急いでいるキルギスの市民もいることだろう。申し訳ない。そして、ありがとう。マナス像を自転車で周回することも許された。本来、公園に自転車を乗り入れることは、禁止されているという。申し訳ない。ありがとう。

16時、洪水の影響で国境越えの300キロメートルを残したが、ビシケクに到着。

 すぐに、転倒でけがをしたメンバーが入院している病院へ、私と水野さんなど数人で見舞いに行った。全員で行かなかったのは、他の入院患者への配慮でもあった。幸いにも、歩けるし話しもできる。まずはひと安心だ。しかも、「病院の車椅子が古いので、自分で買って寄贈しようと思うんです」と、けがで入院しているメンバーは話した。

 けがをした当人もキルギスにいい印象を抱いて帰路に着けたのは、幸いである。来年こそ、一緒に峠越えのリベンジに挑むことを誓って、成田で解散した。



  水害の被災者に義援金を送付

遠征のハイライト「国境越え」は、洪水のため見送りとなった。だが、林英一さん(61歳)の呼びかけで集まった義援金2045元(約3万円)を、8月3目、アトス政府旅游局長・沈建計氏を通じて、被災者に届けることができたのは幸いである。参加者の皆さんの協力に感謝します。1日も早く、洪水の被害を受けた村が復興することを願っています。


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