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『シルクロード自転車旅行2000』遠征報告
(ツール・ド・シルクロード20年計画:第8次遠征)

キルギスのビシュケクからウズベキスタンのタシケントまで620キロメートル
(リベンジ天山山脈ペダル越え-トルガルト峠越え-を含む)

写真・文/長澤法隆

(ツール・ド・シルクロード20年計画)
注記:『ツール・ド・シルクロード20年計画』は、
長澤法隆が地球と話す会の事務局長を務めていた1993年から2001年までは、長澤法隆が隊長として実施しています。2002年からは『シルクロード雑学大学(歴史探検隊)』にて、『ツール・ド・シルクロード20年計画』を継続しています。

【タイトル】

シルクロード自転車旅行 キルギスのビシュケクからウズベキスタンのタシケントまで620キロメートル(リベンジ天山山脈ペダル越えを含む)
『ツール・ド・シルクロード20年計画』第8次遠征

【リード】

1999年に実施した第7次遠征。中国のカシュガルから天山山脈を越えて、キルギスの首都・ビシュケクまで自転車で見聞する計画であった。しかし、カシュガルを出発して約60キロメートル。国境へ向かい最初の検問のあるトパに到着すると、道路は洪水で流されて、跡形も無く消え去っていた。飛行機で大きく迂回し、陸路で国境を越えることはかなわなかった。玄奘三蔵も天山山脈を越えるのに、かなり苦労している。クチャで60日間雪解けを待って出発したが、キャラバンの10人中、3・4人が凍死や病死、もっと多くの牛や馬を失ったと記録している。

2000年、空白となっている国境越えにチャレンジした上で、第8次遠征のルートとして予定しているビシュケクからタシケントへ、19名のメンバーがシルクロードを自転車で旅行した。


【本文】

通関手続きに6時間待ち、天山山脈ペダル越えをめざす

8月2目、中国の新疆ウイグル自治区にあるカシュガルをバスで出発し、中国からキルギスへ向かう出国手続きを行うトパという小さな町に到着したのは1015分であった。ようやくスタート地点に到着かと、ほっとするばかりだ。

 というのも、
730日に成田を出発し、ソウル、北京、ウルムチ、カシュガルと飛行機を乗り継いでいた。731日の夜中にカシュガルへ到着した。しかし、翌日の8月1日は中国の建国記念日にあたるというので、北京から要人が国境の視察に来る。そのために、わたしたちは国境へ近づくことができなかったのだ。そんなこともあり、ようやく8月2日にトパへ到着することができた。

 トパへ到着したらすぐに走り始めることができるように、カシュガルで空いた1日を利用して自転車を組み立てていた。トパへ到着したら、すぐにトラックから自転車を下ろした。そして、出国手続きをする順番を待つためのゲートに並んだ。ゲートの役人は、午前中に手続きをすると言ってくれた。ありがたいことだ。

雲ひとつない炎天下で、出国手続きの順番を待つことになった。ウイグル族、キルギス人を乗せたバス、ドイツ人のツアーなどを乗せた車が、次々とカシュガルからやってくる。ところが、後からきた人たちは、順次、手続きを終えて約110キロメートル先の国境へと向かっていく。後続のバスや車も手続きは、とっくに終了した。

 わたしたちのほかに、ゲートにはだれもいなくなった。自転車の脇に座って待つこと4時間余り。ゲートの役人の教えてくれた「午前中」というのは、北京時間ではなく、
2時間ほど遅い新疆時間だったのだろうか。交渉することにした。何と、ひとりあたり10ドルの賄賂を要求するではないか。賄賂を渡せば、手続きをはじめるという。そんなことなら、朝一番に要求してほしかった。ともあれ、1440分にようやくわたしたちの手続きが始まった。天山山脈をペダルで越えられる。一安心である。

 15時、自転車を押して通関を終えた。ところが、トラックに積んだわれわれの荷物を検査することになり、通関のやり直しだ。

また、参加者1人が読み終えた日本語の本を5冊、ビシケクの大学へ寄贈することになっている。ところが、あるメンバーの持っている本に「靖国」の文字があった。中国国内で反政府的な政治活動をしたのではないかと疑われ、別室で尋問されてしまった。さらに、無駄な時間が過ぎるばかりであった。結局、トパを出発したのは、16時を過ぎていた。

 通関直後の道は、きれいに舗装されたアスファルト道路である。アップダウンを繰り返しながら、チャックマク河沿いに高度を上げていく。

 昨年の洪水から1年。道路の復旧工事は、ほぼ完了している。しかし、時にダート、時にコンクリート、アスファルト舗装したばかりのベトベト道路もあるという状態だ。高度を上げると、工事を終えた後に土砂崩れが発生し、道路が半ば埋もれている箇所も出てきた。


写真をclickすると説明文付きの拡大写真が見られます。

  岩山の間を、国境への道は続いている。チャックマク河を流れる水は茶色く濁っている。そのためか、時々、ポプラ並木の緑を見るとうれしくなった。だが、急坂と強い西風。工事中の区間では、散水車が容赦なく放水してくる。逃げようにも、渓谷沿いの道では、お互いに回避する空間的なゆとりがない。過去7回の遠征と比べると、実に変化に富んだ走行となった。「水攻め」「風攻め」「坂攻め」「国境の待ち時間攻め」。もう何でも来いという心境だ。このあと、とんでもない事態が発生するとは、このとき読めなかった。

 きつい上り坂の連続。風景を見るゆとりもなく、ひたすらペダルを踏む。体力不足なのだ。気がつくと、先導する役目の公安の車は、勝手に先に行ってしまった。それどころか、よたよたと坂道を上る自転車部隊の後ろを走るはずのバス。そのバスも先に行ってしまった。こんな坂道。ギブアップして「もう自転車はいやだ。バスに乗せてくれ」という人が出てくるのは分かっている。だから、バスにもトラックにも伴走してもらっているのに。なぜか、自転車キャラバンを追い越して、先へ行ってしまった。

 国境へと続く道を、先導と後続の両方の監視からはずれ勝手に走ることになった。ところどころ、山の上には銃を持った兵士が見下ろしている。怖くもあったが、爽快でもあった。国境までは、兵士が1人バスで同行している。彼には、「手続きでスタートが遅くなってしまった。太陽の見える間は走る」と伝えてある。ずーと上り坂。しんどいけれど、スタートの遅れを取り戻したい。一生懸命に、距離を稼いだ。

 ところが2015分、バスに乗っていた監視役の兵隊が坂道を下ってきた。「夕食の時間だから、トパへ帰らなければならない」と言い出した。とんでもない事態が発生した。「もう少し走ってから帰りたい。わたしが夕食をご馳走するから」となだめても通じない。何しろ、相手は軍隊の規則である。ここは国境である。

 兵隊の言うとおりにしなければ、キルギスへと続く国境への通行許可を取り消されるかもしれない。しぶしぶ、この日の走行を終了することにした。トパから走った距離は
42キロメートル。キルギスとの国境までは、69qを残してバスでトパへ戻ることになってしまった。

明日も彼が同行するというので、「朝一番で通関させてほしい」とバスの中でお願いし、20年計画のことも話した。これまで走ってきて、中国の役人はどんなに物分りがよかったかなど、ゴマをすりながら山道を下ったのだった。トパに到着したのは、およそ1時間後の2120分となった。ゲートと国境の間は約110キロメートルだが、この間に宿泊施設はない。そのために、再びトパへ戻ったのだ。

ペダル越え断念。雪と強風で真冬状態の国境。3752メートルを震えながらバスで越え。

 8月3日朝10時、前日と同じようにゲートに一番乗り。通関及び出国手続きが始まるのを待った。1120分にパスポートのチェツクが始まった。1310分、ようやくゲートを通過することができた。まずは、前日の走行終了地点までバスで移動する。バスの中で遅い昼食、その後のスタートとなった。すでに時計の針は1520分をさしている。同行の兵隊は、昨日の彼ではなかった。メンバー1人あたり10ドルの賄賂。この要求だけは、昨日と同じだった。玄奘三蔵は、天山山脈を越えるときに山賊に遭っている。1400年前も今も何も変わっていない。天山山脈越えには、天災と人災への覚悟が必要というわけだ。

 何はともあれ、国境まで69キロメートルの地点から走行を再開した。まだまだ続く上り坂。時には、少しでもいいから下ってほしい。そうすれば、足を休ませることができる。だが、下る気配はない。疲れや気分のせいなのか、勾配はきつくなる一方だ。30分走るが、進んだのたったの7キロメートル。国境での手続きは、17時までに行わなければならない。どんなにがんばっても、1時間で60キロメートル進むのは無理だ。走行は中断だ。ペダルを踏んで国境を越えることは、今回も失敗した。

ここからトルガルト峠までは、国境の門限にあわせるため、バスで移動することにした。まったく中国の通関の役人根性に、天山山脈ペダル越えのチャレンジ精神は、裏切られてしまった。こんな役人根性も「中国4000年」の伝統なのだろうか。

中国側のガイドがウイグル族だった。そのために、国境を警備する漢族の兵士や役人に嫌がらせを受けたのであろうか。根強い民族差別の前に、わたしたちのチャレンジ精神、夢は、頓挫したのかもしれない。

さて、何とかトルガルト峠まで、バスに乗って到着することができた。前年は、飛行機で天山山脈を越えている。地べたを這って越えられるのだから、一歩前進だ。幸運と受け止めよう。前向きに考えよう。3度目のチャンスを、自分で作ればいい。
















 トルガルト峠には、大きな門があった。国境をはさんで中国とキルギスの間を往来する門である。そこには、キルギス側の旅行会社のスタッフとバス、トラックがすでに待っていてくれた。キルギス側で待つバス、トラックに荷物を移す。トラックには、リュックと自転車が積んである。荷物の移動を手伝うのは、若者の仕事となった。若者といっても、わたしたちのチームの場合、60歳未満を意味するのだが。

山口和行さん(当時47歳、会社員)は工具箱とパソコンのアタッシェケース、リュックという荷物であったが、2030m移動しただけで息が切れるとぼやいていた。わたしも、カメラにビデオ、パソコンの入ったアタッシェケース、リュックを担いでいる。状況は同じだ。あせらずに、一歩一歩確かめるように歩くことにした。富士山の頂上とほぼ同じ標高の国境。8月はじめだというのに、雪まじりの強風がトルガルト峠を吹きぬけていた。兵隊は、中国側もキルギス側も、ともに真冬のコートを着ている。聞けば、いつもと変わらない天候だという。

標高4000メートルの峠。半そで姿で震え、高山病を訴えるメンバー続出

 ようやくキルギスに入った。天山山脈を陸路で越えた。国境を越えた途端、風景はがらりと変わった。岩肌の続く荒地は、ハーブの草原に変わった。茶色い濁流の流れる河は、清流に変わった。しかも、国境のすぐ近く、こんな高地にホテルがある。(注:2006年の遠征ではホテルの存在は確認できなかった。KyrgyzのAgencyに問い合わせたがTorugart Passに最も近い宿はTash Rabatであるとの回答だった。)通関の手続きを行う建物に入った。

 入国の手続きを行っている間に、「隊長、何だか頭が痛い。朝も昼も食欲はあったし、風邪ではないと思うけど」と言って来るメンバーがいた。「わたしもそうなんです」と数名が続いた。「それは高山病ですよ。あまり動かないで水を飲んで横になっていてください。バスに乗ればすぐに高度は下がります。そうすれば治りますから」と説明する。

 高山病になると、どんな症状が現れるのか調べていないのだろうか。また、中学校で理科を教えているメンバーが、半そで姿で「寒い、寒い」と騒いでいる。驚いた。
4000メートルに近い標高では、ふもとよりどれくらい気温が下がるか。高山病も含めて、出発の半年前から、毎月1回集まって準備してきたことが何の役にも立っていない。事故に結びついていないからいいが、ただの宴会としか受け止めていなかったのか。あの時間を思うとむなしくなってしまう。

 入国手続きに1時間ほどかかった。その後、バスでアトバシに向かった。すでに外は真っ暗になった。風も強い。とんでもない豪雨の中を、バスは大きく揺れながら坂道を下った。キルギスのスタッフに聞いたところ、この辺りでは、毎日、夕方になるとこんな風に雨が降るのだという。

下り坂を前に、観光気分を引き締めてスタート。天山山脈ペダル越えの夢はお預け

 8月4日、外に出ると、昨夜の嵐がうそのようだ。青空が広がっていた。道路やホテルの庭のあちこちに水溜りが残り、昨夜の嵐が夢でなかったことを示していた。

 昨年は、中国のトパからトルガルト峠までの道路が洪水で流されてしまい、ペダルを踏んで天山山脈を越える「夢」を実現することはできなかった。カシュガル からウルムチ、ビシケクと、飛行機でぐるりと天山山脈を迂回した。そして、ナリンからイシククル湖を経て、ビシケクまで走行している。

 アトバシから30キロメートル弱の距離を、国境の方向にバスで戻った。ここから、アトバシを経て90キロメートル先にあるナリンをめざすことにした。
いよいよキルギスを走行だ。

 走り出す前、走行リーダーはみんなを安心させるために、

「今日は90キロメートルの行程で上りもありますが、みなさんの力なら楽にいけますから」
と励まし、みんなを安心させてくれた。

 一方、山口さんは、
「標高3000メートルの峠越えがあります。ピークを越えて下った後、直後に再び上ります。『かなりの困難』が予想されます。ほかの隊員の体力を消耗させないためにも、疲れた方は早めにリタイアしてバスを利用してください」
と、トルガルト峠をバスで越え、観光気分になっていたメンバーの気持ちを引き締めてくれた。

 下り坂での事故は怖い。大陸の風景は広い。見とれていると、あっという間に時速
50キロメートルくらいは出てしまう。自転車の場合、時速40キロメートル以上のスピードで転倒した場合、即死だ。

 だから、下り坂の場合は、気持ちを引き締める必要がある。特に、トレーニング不足のメンバーは、遅れを取り戻そうとして、下り坂で能力以上にスピードを出す傾向がある。車いすでの帰国となり、成田空港まで家族に迎えに出てもらったケースもある。あの事故では、生きて帰れただけ運がよかったのだが‥‥。海外の場合、観光気分で気持ちが緩みがちとなる。常に、気持ちを引き締めることが大切だ。

  とにもかくにも出発だ。ハーブが香る草原。山岳地帯のアップダウンを走る。道路は舗装され、通る車は少ない。申し分ない走行条件だ。ただ隊列を組んで走るため、最高時速は30キロメートルを目安にしている。紫外線が強いためか日差しがまぶしい。でも、乾燥した空気の中を進むサイクリングは快適だ。

 さて、いつまで走っても『かなりの困難』が予想される峠がない。いったいどうしたことか。そこで、山口さんは責任を感じたらしく、アカエフ大統領の顔の置物がある峠で、公安の人に確認した。「きつい峠があるはずなんですが、何キロくらい先でしょうか」「ああ、もうとっくに過ぎたよ。知らなかったのか」。本日の『かなりの困難』は、無事に乗り越えていたのだった。

結局、この日は68キロメートル走行して、ナリンのゲストハウスに泊った。

こうして、『空白』となっていた天山山脈の峠越えへのチャレンジは、宿題を残したまま終わってしまった。

翌日の8月5日は、ナリンからバスで移動した。イシククル湖、バラサグン遺跡などを観光。本来の「ツール・ド・シルクロード20年計画」第8次遠征の出発地・ビシケクに到着した。市内見学や自転車整備などのため、ビシケクで2泊した。

ビシュケクを出発し、『ツール・ド・シルクロード20年計画』第8次遠征スタート

 8月7目、いよいよ「ツール・ド・シルクロード20年計画」第8次遠征、通称『ツール・ド・シルクロード2000』スタートの日を迎えた。ビシケクの中心部にある美術センター前広場。ここに建っているキルギス民族叙事詩『マナス』の主人公の大きな像の前を出発地に選んだ。

  ビシケクの街は20分ほどで通り過ぎた。左手のはるか遠くには、万年雪をいただいたパミール高原の山並みを望み、草原を走った。さすがにイラン、トルクメニスタン、ウズベキスタン、カザフスタン、キルギス、さらに中国の新疆ウイグル自治区へとつながる幹線道路。中央アジアを横断するだけに交通量は多い。

 また、道路沿いの並木は
10列ほどが並ぶグリーンベルト。防風林の役目を果たしているのだろうか。木の種類は、もうポプラではない。中国と比べると、グリーンベルトも含めた道路全体の幅が広い。道路の両側に公園が並んでいるような雰囲気だ。並木の影が路面に落ちることはない。若葉を通してきらきらと光線が降り注ぐ中国のポプラ並木の光が、懐かしく思える。


 この日は、62キロメートル走って、宿泊地カラバルタに到着した。兵舎を借りて宿泊したが、シャワーはない。みんなで歩いて近くにあるサウナへ行き、集団で入った。照明もない真っ暗な中での熱いサウナ。うーん。これぞ異文化体験だ。

 翌日の8月8日。30qほど走ると、カザフスタンとの国境に到着した。アイスクリームを食べたりして、キルギスのスタッフが行ってくれる手続きが終わるのを待った。―時間ほどで手続きは終了した。中国からキルギスへの国境越えとはずいぶん違う。簡単だ。国境の警備員の指示に従って、自転車を押して通過した。国境から30キロメートルほど走って宿泊地のメルケに到着することができた。

 水シャワーの時間が決まっているホテル。わたしの順番で『ちょうど断水』

 宿泊したホテルには、カード式の国際電話がある。しかし、使い方が難しい。ボタンを押す、カードを入れる、受話器を取る。それぞれのタイミングが微妙で、表示に従って操作をしたつもりでもつながってくれない。つながったとしても、『送話』のボタンを押さないと、こちらの声が相手に聞こえない。それでも、日本へつながったのだから由としよう。

 宿泊したホテルでは、シャワーを使える時間が決まっている。18時からの給水を楽しみにシャワーを待っていた。時間より少し早めに水が出た。喜んで何人かが水を使った。さあ、次はわたしの順番だと喜んで蛇口をひねった。ところが、いくら蛇口をひねっても水は出ない。ぴったり、わたしのところで断水だ。残念無念。裸のまま、しばらくは呆然とシャワーを見上げて立っていたのだった。

 翌日、75キロメートル走って到着したマルジバイのホテルでは、蛇口から勢いよく水がでた。草原や林の中を気持ちよく走った後、やっぱりシャワーを浴びたい。走行の様子は記録せず、メモ帳にはシャワーのことだけが書いてある。前日のホテルでの断水が、相当ショックだったのだろう。

 ところが、バスタブとトイレの水は流れるが、洗面台の排水がうまくない。流れが悪く、水は床にあふれてしまった。ベッドのスプリングも抜けている。シルクロード自転車旅行は、記憶に残る旅の連続なのだ。


宿泊したカザフスタンの兵舎。盗難騒ぎでてんやわんや、犯人は意外な人物

 810日、朝起きると廊下が騒々しい。リュックに入れていた現金やカメラ、ナイフなどが抜き取られているという。ここでも兵舎を借りて宿泊したのだが、夜中に、兵隊が各部屋を巡回してくれた。寝付けなかったために、兵隊が荷物を触っているのを寝た振りをしながら見ていたメンバーがいた。とんでもないことだ。夜中の巡回は、犯罪防止のためではなかった。犯罪のための夜中の巡回だったのだ。

 誰がいくら抜き取られたのか。盗まれたカメラは何台か。メンバーを集めて調べた。その結果を持って、キルギスの旅行会社のスタッフに説明した。現場の兵隊では埒があかなかった。

 スタッフに
「盗まれたものが返却されるまで、日本人は出発しない。兵舎に留まる。ビシュケクへ連絡して、日本の旅行会社を通じて日本の外務省へ状況を伝えてほしい」と日本側が言い出したと、軍の上部へ伝えてもらうことにした。

 すると、道路を隔てて向かいの兵舎から、すぐに偉そうな兵隊が来た。若い兵隊の態度が、がらりと変わった。お互いに自己紹介をした。その後、わたしはスタッフに、偉そうな兵隊に、次のように説明してもらった。


「日本人はパソコンを持って旅行している。毎日、日本へ旅行の状況を連絡することになっている。連絡がなければ、トラブルに巻き込まれたと考えて、日本のスタッフが外務省を通じて在日カザフスタン大使館へ問い合わせることになっている。

 また、この兵舎に宿泊して、盗難にあったこと、管理する軍が協力しなかったこと、カザフスタンは盗難が多いので、旅行者は通らないように。これらのトラブルを、帰国後にホームページを通じて世界中に発信する。なくなった品物とお金が戻れば、一切触れない」

すると、偉そうな兵隊は、若い兵隊を怒鳴ったり、たたいたりした。若い兵隊は、走って部屋に戻り、日本円やドルの紙幣を握って戻った。まだ足りないというと、再び走り出した。こんなことを何度か繰り返し盗品が戻ってきた。ナイフ1本だけが出てこなかった。若い兵隊について部屋へ入った。現金などの盗品を、羽目板の中に隠したものの、場所を忘れてしまったようだ。偉そうな兵隊に協力へのお礼を伝え、メンバーの了解を得た上で、一件落着とすることにした。

 それにしても、よくもまあ次々とでたらめを並べたもんだ。自分でも感心する。読書と、日本アベンチャーサイクリストクラブのメンバーから聞いた苦労話のおかげで、カモにならずに済んだ。わたしたちがカモになると、次に宿泊する旅行者も盗難にあって泣き寝入りすることになる。そこが問題なのだ。

 とんでもないトラブルのおかげで、出発時間が2時間ほど遅くなってしまった。

 走り出せば、カザフスタンは爽快だった。刈り取りを終えたばかりの牧草地と畑の中を走った。牧草の香りが、心地よかった。右手にはカザフスタンの草原が地平線まで広がっている。左手には、パミール高原の白い山並みがどこまでも続いている。

 宿泊地となっているタラス。街の中は、緑が多い。公園のようだ。しかも、木々の間を豊富な水が流れている。砂漠や草原を走ってきた目に、オアシスという言葉がぴったりの風景だ。

 さらに、オアシスの豊かさを実感したのはホテルである。シャワーから出てくるのはお湯、バスタオルも用意されているし、トイレットベーパーもあるではないか。ベッドのシーツも汚れていない。限りなく日本に近い。感激の連続だ。『ラクダ・キャラバンの人たちが、どれほどオアシス到着を喜んだころだろう』と、シルクロードの旅人に思いを馳せた。ここに2連泊する。ホッとした。

 


  翌日の811日は、自由行動。図書館を見学し、学校に入ってみた。日本人だと思って若い男女に声をかけると、コリアンだった。祖父母の代に、スターリンの政策により強制的に中央アジアへと移住させられたのだという。ハングルで挨拶しても分からないという。会話はロシア語であった。

 また、バザールに出かけると、うれしい発見があった。地元のタラス・ウオツカがうまいのだ。しかも、
1本200円ぐらい。ラベルには、タラス城がデザインされていた。ラベルを見て思い出したのが、タラスの戦い。西暦751年に中国とアラブがここで戦った。戦に負けて捕虜となった中国軍の中に、紙漉きの職人がいた。アラブ軍は、この職人をサマルカンドへ連れて行き、紙を生産する工場を作った。紙を作る技術はさらに西へと伝わり、ヨーロッパへと紙が伝わった。そんな歴史が、ウォッカのラベルに秘められている。


 バザールを見学してホテルに戻った。バスタオルやシーツの交換は行われていない。石けんやシャンプーの交換もされていなかった。やはり、日本とは違う文化の中にいることを痛感した。多くを望んではいけない。


残念無念。下り坂に続くダートで転倒事故発生。トレーニングの大切さを痛感

 タラスでの滞在を快適に過ごし、812日には、爽快なダウンヒルの走行が待っていた、と書きたいところだが、ついに事故が発生してしまった。走行リーダーが、ダウンヒルを時速50キロ以上のスピードで隊列を引いた。ところが、突然、ダートが待っていた。ダートに入るときの減速が間に合わず、石にハンドルを取られた女性1名が転倒。顔面からダートにたたきつけられてしまった。「痛い」と言って起きようとしたので、そのまま横になって同行の医師が来るのを待った。

話も出来るし、自分で歩くことも出来る。しかし、顔面を打撲していることもあり、万一のときのために伴走してもらっていた乗用車で、医師と一緒にシムケントという大きな街へ行き、検査と治療をしてもらうことにした。シムケントへは、自転車キャラバン隊も2日後に宿泊する。検査の後、医師の指示に従って、もっと大きな病院で検査するとか、入院して治療を続ける、あるいはホテルに宿泊して病院へ通院して治療するかを決めてもらうように日本語のガイドに説明した。日本語ガイドは女性だったので、けが人に同行してもらうことにしてもいた。



 この転倒事故は、走行リーダーのスピードの出し過ぎが原因のひとつと考える。体力にも自転車操作の能力にも個人差がある。弱い人に合わせてスピードをあわせることが、事故を防ぐためには大切だ。事故当時の走行リーダーは、通常、30分に1回休憩するのだが、45分も引っ張り続けたりしていた。自分が、どんなに強いか、能力が優れているが示したいのだろう。

 しかし、日本アドベンチャーサイクリストクラブのメンバーで、世界一周したような人と集団走行すると、彼らは一番後ろの人が離されていないか、気をつけながら集団を引っ張ってくれる。休憩時間には、弱そうな人に声をかけて、スピードが速すぎないか確認しながら前進してくれる。もっとも、そんな魅力があるからこそ、旅先で親切にされ、結果としてひとりで世界一周できるのだろう。事故当時の走行リーダーのように、「俺はこんなに力がある」と主張しても、反感を買うばかりであろう。

事故原因の第2番目は、転倒した女性は、学校の仕事が忙しいことを口実として、出発まで走行トレーニングに取り組んでいなかった。体力不足である。『ツール・ド・シルクロード20年計画』を舐めてかかっている。何回か参加しているとは言え、毎回、初めての土地を走っている。同じルートを走っていても、自分の体調も日々違うし、天候や交通量も同じではない。何よりも、年々、老化によって体力も落ち、気力も反射神経も衰えている。その分だけ、トレーニングの量を増やすか、伴走のバスも利用するか。そうやって、他の参加者に迷惑をかけないように配慮する。そんな謙虚さがあれば、事故を防ぐことができたと思う。

3つ目の事故原因は、下り坂でスピードが出ていることを考慮し、車間距離を長くする配慮が欠けていた点。車間距離が短い分だけ、ダートを発見するのも対応も遅くなってしまった。車間距離が長ければ、ダートに入るときのスピードを自分の能力に合わせて、減速できたと思う。

それにしても、転倒した女性が、それほど体重のない人だったのは運がよかった。もっと体重のある人だったら、顔面から転倒した場合、首の骨をやられて、一生車いす生活を強いられたかもしれないのだった。下り坂には、魔物が棲んでいると考えて、臆病なくらいに注意したいものだ。

同じダートで、ダートに入る際の減速が間に合わないために、タイヤが石に激突しパンクした人もいた。徐々に空気が抜けていくために、残りの10キロメートルを、空気を入れながら、だましだましの走行した人もいたのだった。

 デコボコ道では、カメラを落としたり、カメラのキャップが落ちたりと、落し物が多くなる。結局、危険な目にあうのは後続の人。そんなことがないように、ダートに入る前に持ち物も点検しておきたい。

ラッパと太鼓でドンちゃん騒ぎの法事。民族楽器を弾きながら唄う吟遊詩人

 そんなこんなで、事故の後は慎重に走行して、バノノフカの宿舎、サナトリーカザフスタンホテルに到着した。部屋に入って、ベッドに腰を落として一息つくと、近所からラッバと太鼓の音が聞こえてくる。ナンだろう。いやににぎやかなので「結婚式でもあるのだろうか」と思って外へ出た。尋ねてみると、日本でいう法事の真っ最中だという。この家のおばあさんの17回忌なのだという。

 ドンブラという民族楽器を弾きながら、ひとりの青年が唄っていた。生前のおばあさんは、どんなにいい人だったかを、事例をあげながら連綿と唄っているのだという。このような行事の時に呼ばれて演奏する吟遊詩人だった。法事だというが、明るくて、まるで祝いの席のようだった。




この辺りがリンゴの故郷だろうか。シルクロードに並んでリンゴ売る少女たち

 813日。バノノフカの宿舎を出発して5キロメートルほど進んだ。道路の両側に何人ものリンゴ売りの女の子が並んでいる。大きな木の箱やポリバケツに、無造作に詰められたリンゴ。形はふぞろいで素朴だ。リンゴの原産地は中央アジアだと、本で読んだことがある。小さなリンゴも堂々と並んでいる。日本のスーパーとは違う。原産地に近いから、大小様々なリンゴがあるのだろうか。この辺りがリンゴの故郷なのかもしれない。


 転倒した女性が、一足先に到着しているシムケント。オアシスの街まで、ギンギラギンに太陽が照りつける大平原、アッブダウンをくり返す一本道を、ひたすら西へ向かって走った。平らなところよりも、アップダウンがあると足を休めることもできるので、風景も楽しめる。おもしろい。シムケントまで、72キロメートルだった。

翌日の814日は、レーニンスコエまで64キロメートルを走った。

 シムケントからは、道路は狭くなり片側1車線ずつとなった。それまで、2列縦隊で走行していたが、1列縦隊の走行とした。いよいよ明日は終点のタシケントに着く予定だが、気がかりなことが1つある。

 それは今年に入ってから、『カザフスタンとウズベキスタンの国境を閉鎖した』という、日本で聞いた情報だ。現地のスタッフは、まったく問題はないと説明してくれたのだが。

 とにかく現地でしか、確かな情報を得ることはできない。心配しながらレーニンスコエに泊まり、翌日の815日は予定通りに出発した。いざ国境に着いてみると、心配は無用であった。以前は、自由に行き来できた国境。そこに立派な門を造って、通関の手続きが必要となっていた、ということだった。


 無事に国境越えを果たし、ウズベキスタンへ入国することができた。中国の国境からここまでお世話になったキルギスのスタッフとは、ここでお別れだ。ありがとう。

ウズベキスタンは警察の天国か。疲れ果ててのゴール。喜びの歓声も出なかった

 さて、ウズベキスタンに入国し、最後の走行を開始した。ところが、なんとウズベキスタンの警察は、わたしたち自転車キャラバンの安全のために、後続の車を完全にブロックしてくれた。確かに安全ではある。しかし、警察のパトカーの後ろに続く長蛇の列を見ては平静ではいられない。道路をメンテナンスする税金を払っているのは、後続の方々である。わたしたちは、一介の旅人に過ぎないのだ。警察にお願いして、時々走行を中止。大渋滞させてしまった車に先を譲ることにした。

 ところが警察のお仕事は、後続の車をブロックするだけではなかった。わわたしたちの走行を優先して、交差点には事前に多くの警察官を配置。サイレンを鳴らして突っ込んでいく。ウズベキスタンの警察の力を見せ付けられるたびに、うんざりするのだった。

 VIPではない。ごく普通の旅行者なのに。まさに″そこのけそこのけ″という状態だ。覆面でもして、顔を隠して走りたい気分。みんな恐縮しながらも、ペダルを踏み続けるのだった。

 最後がすごい。タシケント市内に入ると、さすがに首都だけあり道路は広い。片側4車線くらいあるのだろうか。信号も操作してあり、必ず青信号が待っていた。だが、交通量が多いためか、青信号は短い。あっという間に赤信号に変わってしまう。先頭のパトカーから離されないようにと、懸命にペダルを踏んで追いかける。しかも、路面はデコボコや段差がある。これに恐縮しながらの走行が重なる。ホテルに着いたときは、だれもがグッタリ。ゴールを喜ぶ、歓声も出なかった。

 これでなんとか2000年の走行予定は完了した。でも、けが人が発生したことは、とても残念だ。

 さあ、みんな。来年はトレーニングを重ねて、無事故でシルクロード自転車旅行を楽しもう。




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