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『シルクロード自転車旅行2001』遠征報告
(ツール・ド・シルクロード20年計画:第9次遠征)

ウズベキスタンのタシケントから、サマルカンドを経てブハラまで600 km


(ツール・ド・シルクロード20年計画)
写真・文 長澤法隆
(
遠征報告は、『CYCLE SPORTS』2001年11月号に発表したレポートに加筆しています。)

(ツール・ド・シルクロード20年計画)
注記:『ツール・ド・シルクロード20年計画』は、
長澤法隆が地球と話す会の事務局長を務めていた1993年から2001年までは、長澤法隆が隊長として実施しています。2002年からは『シルクロード雑学大学(歴史探検隊)』にて、『ツール・ド・シルクロード20年計画』を継続しています。

【タイトル】
シルクロード自転車旅行 ウズベキスタンのタシケントから、サマルカンドを経てブハラまで600キロメートル
『ツール・ド・シルクロード20年計画』第9次遠征

【リード】
中国の西安からイタリアのローマを自転車で走破する『ツール・ド・シルクロード20年計画』。第9次遠征の今回は、中央アジアのウズベキスタンの首都・タシケントから、アレキサンダー、玄奘三蔵、チンギス・ハーンなど多くのシルクロードの旅人が足跡を残したサマルカンドを経て、ブハラをめざす。日中は40℃を超える気温のなか、中学1年生から68歳まで、31人の参加者が走った600キロメートルの模様をレポートします。


走行ルート(青い線)



遠征の日程
1日目 8月1日 成田発→ソウル着(飛行機) ソウル泊
2日目 8月2日 ソウル→タシケント着(飛行機)、タシケント滞在(観光・交流) タシケント泊
3日目 8月3日 タシケント滞在(観光・交流) タシケント泊
4日目 8月4日 タシケント→シナズ シナズ泊
5日目 8月5日 シナズ→カザフスタンを約24km走行→komsomol付近→バスでジザフ ジイジャック泊
6日目 8月6日 ジザフからバス→komsomol付近→Kosh-Sarayからバス→ジザフ ジイジャック泊
7日目 8月7日 ジザフからバス→Kosh-Saray→サマルカンド サマルカンド泊
8日目 8月8日 サマルカンド滞在(観光・交流) サマルカンド泊
9日目 8月9日 サマルカンド滞在(観光・交流) サマルカンド泊
10日目 8月10日 サマルカンド滞在(観光・交流) サマルカンド泊
11日目 8月11日 サマルカンド→カッタクルガン カッタクルガン泊
12日目 8月12日 カッタクルガン→カルマナ カルマナ泊
13日目 8月13日 カルマナ→ギジドゥバン ギジドバン泊
14日目 8月14日 ギジドゥバン→ブハラ ブハラ泊
15日目 8月15日 ブハラ滞在(観光) ブハラ泊
16日目 8月16日 ブハラ滞在(観光) ブハラ泊
17日目 8月17日 ブハラ→タシケント→(飛行機) 機中泊
18日目 8月18日 →ソウル→成田着(飛行機)



【本文】
初日から飛行機の日程変更のアクシデント

 中国の西安からイタリアのローマをめざす『ツール・ド・シルクロード20年計画』第9次遠征のメンバーは、8月1日に成田を出発した。

  この日、飛び立ったのは
14時。16時にソウルで乗り換えて、ウズベキスタンの首都・タシケントヘ向かう予定であった。ところが、タシケントからの飛行機がソウルに到着していないという。空港の中にあるホテルで一泊して、翌日の8月2日の朝、タシケントヘ向かうことになった。出発直後から、日程の変更を迫られてしまった。
  それでも、急きょ宿泊することになったソウルの夜、メンバーはキムチやビビンバを食べられると歓迎していた。

8月2目、8時に飛行機はタシケントに向けて出発した。昼間のフライトなので、万年雪を頂いた天山山脈を、機内からくっきりと見ることができた。ラッキー。機内は歓声に包まれた。みんなが日程変更で、今後のスケジュールが窮屈になったことを受け入れてくれた。これも、全体をまとめる上でありがたいことだ。タシケント到着は、12時30分。気温は36℃であったが、湿度が低いために暑さはそれほど感じない。心地のいい気候だ。

写真をclickする説明がついた拡大写真が見られます。戻る時はブラウザー(画面左上)の「戻る」を押して下さい。


8月3日、タシケント市内にある日本文化センターで、ウズベキスタンで日本語を学んでいる子どもたちと交流を楽しんだ。女生徒の民族舞踊あり、男子生徒の空手の模範演技あり。日本側からは、草笛やハーモニカの演奏、折り紙の指導などで応え、ノート30冊などの文房具をプレゼントした。






8月4日、走行1日目は6時に起床。8時にホテルの前のチムール広場を日本語を学ぶ子どもたちに見送られてスタートした。このとき、気温はすでに34℃。日中、いったい何度まで気温はあがるのだろうか。

 30分くらい走行するたびに、10分ほどの休憩を行なっているが、最初の休憩は9時10分。ここまでは、ほぼフラットで走りやすい。しかし、クルマの排気ガスがひどくて、のどか痛くなってしまった。その上、日差しが強くなっていく。

 11時の休憩の前、緩やかな下り坂で、後ろの方を走っていたメンバーが、気分が悪くなった。自転車に乗りながら嘔吐しようとした。その際に、ハンドルの操作を誤り、中央分離帯に突っ込むアクシデントが発生した。幸いなことに、すねの打撲程度で済んだ。このとき、気温は40℃を超えていた。熱中症だった。当人は一時バスでの移動に切り替え、再び走行をスタートした。一緒に旅行している仲間のことも考えて、安全第一、バスの窓から眺める風景を楽しむ。体調が悪いときは、そんな風に気分を切り替えてほしいものだ。中高年は、本人が気づいていなくても生活習慣病を抱えているケースが多い。病気とも上手に付き合って、旅行を楽しみたいものだ。トレーニングを積んでいないと、体調の変化に気づきにくい。この点も難問だ。

さて、昼食をはさんで15時20分に、シナズの宿舎に到着した。走行距離は、74キロメートルだった。14時30分には、最高気温44℃を記録している。暑い夏休みの1日であった。パンクは7件も発生した。原因は、休憩時で路肩に自転車を寄せた際に、道路脇に落ちているラクダ草のとげをタイヤが拾うことにあった。路面にも注意して、休憩することにした。

 この宿舎は、シルダリア河のほとりにあり、川縁にシャワー施設が壊れたまま放置されている。ソ連邦の時代には保養所として使われていたようだ。閑静な農村にある。出かける所もないので、シルダリア河で水泳をしたり、昼寝などで夕方までのんびりと過ごした。



コーランで目覚めサマルカンドヘ向かう

 8月5日、走行2日目。昨日、熱中症でトラブルが発生しているし、気温40℃を超えると、走行がかなり苦しくなることが分かった。そこで、この日は4時起床、5時朝食、6時スタートとした。

 6時15分、朝日を背に受けながら走行。肌寒いために、薄い雨がっぱを着て走行するメンバーが目立った。気温は21℃。途中でカザフスタンの国土を20キロメートルほど走行することになっている。途中で休憩してはいけないということだった。だが、心配無用。スムーズに通り技けることができた。桑の木の並木道を、交通量も少ないので安心して走ることができた。緩やかな上り坂ではあるが、順調に距離を稼いだ。とはいえ、14時に走行を終えることにした。走行距離は81キロメートル。気温は40℃。最後の30分はかなりくたびれた。暑さは体力を奪うことを実感した。




8月6日、4時30分にコーランの街頭放送が窓の外から聞こえ、目が覚めた。朝食の後、6時に走行を開始した。気温26℃。湿度は26パーセント。さわやかな早朝サイクリングとなった。道路の両側には桑畑が続く。これこそ、シルクロードだ。曇り空なので気温は、それほど高くならなかった。走行を終えたのは12時。走行距離74キロメートル。






8月7日、走行4日目。コーランで4時に目覚める。今日の朝食は、ハムのサンドイッチ、ゆで卵、きゅうり、トマト。集合がスムーズになってきた。6時に走行を始めたが、7時30分に検問がある。サマルカンド市内に入って道路状態がよくなり、快適なサイクリングとなった。9時を過ぎてからは下り坂も加わり、11時30分にサマルカンドに到着することができた。街に入ってからも、緩やかなアップダウンを繰り返した。今日の走行は76キロメートルとなった。

 サマルカンドへ到着してすぐに、メンバーの一人が倒れた。年に4回くらいトライアスロンの大会に出場し、病気とは無縁というタイプだ。いつも、先導役を引き受けてくれていた。ところが、今日は、「調子が悪いから、朝からバスに乗ります」といってきた。

「下痢をしているが、いつも水を控えて治している。心配しないでください」ともいっていた。ところが、ホテルのベッドから、何度も落ちると、同室の人が疑問に思い、同行の医師に診察をお願いした。

 脳梗塞だった。他のメンバーには理由を言わないで、長澤と添乗員が日本の旅行会社や保険会社とやり取りをした。

 結局、医師の判断で、フランスから医療専用のジェット機をチャーターして日本へ移送することになった。とはいっても、サマルカンドは国際空港ではない。出国手続きなどで、タシケントにある日本大使館へ連絡したり、ジェット機が日本のどこの空港に降りることが可能なのか。フランスや日本へ連絡したが、離陸した後もわからなかった。それだけに、羽田空港へ無事に到着したとの電話を聞いたときはホッとした。無事を確認して、事情をみんなに説明した。

 みんなが郊外へ観光に出かけた日、寝不足を補うために寝坊を決めていた。日本語のガイドの案内でアフラシャフの丘へ行ってみた。観光客はいない。玄奘三蔵が、仏教寺院が廃れて、ゾロアスター教徒が多いと伝えている遺跡だ。ガラス片や陶片が落ちていた。ねじれた陶片を拾った。どこかで見たようなデザインに感じたのだ。

 遺跡を巡りながらも、日本へ移送したメンバーのその後が頭から離れなかった。











沿道の声援がエネルギーに変わる

 8月11日、3日間の休養で遺跡巡りを楽しんで、走行5日目を開始した。4時起床で5時朝食、6時にホテルのスタッフの見送りを受けて出発。普通の日常生活に戻った感覚だった。気温は21℃と低いので、大方のメンバーが長そでのジャケットやシャツを着込んでいた。気温が低いと走行は快適だ。その上、大部分が下り坂。追い風となった。沿道の子供たちは、ますます人懐っこい。いつまでも手を振って、通り過ぎる私たちを見送ってくれる。

 チャイハナ(喫茶店)で休憩したり、木陰で休憩して、11時30分、86キロメートルを走って、カッタグルカンに着いた。ゴールの直前に上り坂があり、ここで声援する子どもたちに手を振って応えようとしたメンバーが転倒。凸凹な路面にハンドルをとられたのだ。上り坂の転倒では、大きなけがはない。運がよかった。

8月12、走行6日目。6時に気温25℃の中を出発した。10時を過ぎると気温は急に上昇し、38℃くらいになる。11時を過ぎると40℃を超え、休力の消耗は急激に激しくなった。

 加えてこの日は、工事中なのかダート状の道路もあり、路面からも疲れを覚えた。それでも、地平線を追うように西へ進むサイクリングは、沿道の声援がエネルギーに変わり快適だ。88キロメートルを走ってカルマナに到着したのは、11時30分。今日の宿泊は民宿だ。ベッドではなく、マツトの上に布団を敷いた寝床。日本と同じスタイルだ。それにしても、メンバー30人とスタッフ15人を収容できるのだから、大きな家だ。午後はたっぷりと昼寝で休養した。



ラクダキャラバンを想起させる西への道

 8月13日、走行7日目。6時にスタートして、麦畑の地平線を進んだ。すぐに、キャラバンサライ(隊商宿)の遺跡が見えた。休憩後、5分しか過ぎていなかった。だが、再び30分の休憩とし、昔のシルクロードの往来に思いをはせることにした。道路を挟んで井戸があり、ラクダキャラバンの往来が目に浮かぶようだ。

黄金色の大地を真っすぐ西に伸びる道路。緩やかな下り坂を風に押されながらペダルを踏んだ。あまりにも楽なので、後ろめたい気分だ。りんご畑、綿花畑の中を、トラブルもなくギジルバンヘ11時に到着することができた。

 今日も民宿だ。周辺を散歩しても、畑があるだけ。出かけても30分としないうちにみんな帰ってくる。気温40℃では、散歩をするだけでも厳しいのだ。

8月14、最後の走行日を迎えた。ブハラを一刻も早く見たい。でも、今年のシルクロードを自転車で楽しむのも最後となると、ちょっとでも先に延ばしたい。複雑な気分だ。6時にいつものように出発した。7時30分を過ぎても気温は25℃。曇り空の下でちょっとさむいのだろう、沿道の若者も青いコートを着ていた。身を乗り出して声援してくれた。

 ブハラ市内の道路は、きれいに整備されていた。その中を、ゴールのミナレットに到着した。日本人観光客の驚きにも迎えられてゴールすることができた。

 来年は、ブハラからトルクメニスタン横断を予定している。



成田空港に到着すると、病気で日本へ移送したメンバーが入院している病院へ直行した。面会謝絶だった。でも、今は元気になっている。

時々、顔を見せに行く。サマルカンドへ一緒に旅行する約束をしている。ペダルを踏んで、夢を追いながらリハビリに励んでいる。

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