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(ツール・ド・シルクロード20年計画:第10次遠征) |
ウズベキスタンのブハラからトルクメニスタンのマリーまで390 km |
(ツール・ド・シルクロード20年計画) 注記:『ツール・ド・シルクロード20年計画』は、長澤法隆が地球と話す会の事務局長を務めていた1993年から2001年までは、長澤法隆が隊長として実施しています。2002年からは『シルクロード雑学大学(歴史探検隊)』にて、『ツール・ド・シルクロード20年計画』を継続しています。 写真/文 長澤法隆 (遠征報告は、『CYCLE SPORTS』2003年2月号に発表したレポートに加筆しています。) |
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【タイトル】 【リード】 |
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【データ】 |
遠征の様子(写真) | |||||
【走行ルート】 | |||||
ブハラ(ウズベキスタン)⇒マリー(トルクメニスタン)390 km | |||||
【遠征の日程】 | |||||
2002年8月27日〜9月13日 18日間 | |||||
9月27日
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関西空港⇒タシケント 飛行機 |
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28日
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トルクメニスタン大使館 | ||||
29日
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トルクメニスタン大使館 | ||||
30日
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タシケント⇒ブハラ 飛行機 | ||||
31日
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自転車の組み立て/ブハラ市内観光 | ||||
9月1日
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ブハラ滞在 | ||||
2日
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ブハラを自転車で出発 17時トルクメニスタン国境 18時入国 走行132 km。21時に走行を中止してチャルジョーのホテルへ車で移動 |
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3日
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前日走行を中止した地点に車で戻って、再スタート。走行85km。車でチャルジョーへ戻って宿泊。チャルジョーで警察署へ連行される。 | ||||
4日
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車で前日に進んだ地点に行き、再スタート。走行180 km。マリーの子ども3人が一緒に走行。ゴールは総合博物館。 | ||||
5日
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メルブの遺跡を観光。総合博物館を見学。 | ||||
6日
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マリー⇒アシュガバード(トルクメニスタン)車で移動 | ||||
7日
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ニサの遺跡を観光。深夜/アシュガバード⇒タシケント飛行機で移動 | ||||
8日
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タシケント滞在 | ||||
9日
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旅行会社へお礼に行く。街であった建築家の家で痛飲。深夜、警察にパクられる。パスポートをとられ、交番へ連行される。 | ||||
10日
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タクシーでサマルカンドヘ | ||||
11日
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セントラルホテルへ行き、昨年、水野さんの件でお世話になった旅行会社の社長ラジスさんを訪問してお礼。 アフラシャフの丘など観光。結婚式に出席。日本大使館の職員という肩書にされる。 |
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12日
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タクシーでタシケントへ移動 深夜/タシケント⇒関西空港飛行機で移動 |
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13日
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朝、関西空港着 |
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【本文】 「ウズベキスタンのビザが出ません。タシケントの空港で、ビザを買えるように手配しました」。出発前日に旅行会社から電話があった。『はたして、ウズベキスタンからトルクメニスタンまで走れるだろうか』と不安になる。 8月27目。ウズベキスタンのビザもないまま、関西空港を出発。7時問後、タシケント空港に到着した。お金を払ってビザを買い。何の問題もなく、ウズベキスタンへ入国することができた。 8月28日、旅行会社でトルクメニスタンのビザを申請。明日には、ビザが出るという。トルクメニスタン大使館の前で、ビザの申請に来ているウズベキスタンの旅行会社の人たちをみていると、警備の警察官に賄賂を渡してから中へ入っていく。『郷に入っては郷に従う』のことわざに習い、警察に賄賂を渡して、翌日にビサを取得する順番を確保した。 ところが、8月30日になってもビザは出なかった。11時に大使館へ行き『ウズベキスタンにあるトルクメニスタンの大使館として、トルクメニスタンのビザを出してほしい』と頼んでみた。すると若い領事は、『自分の首が飛ぶので不正はできない』と、ごく当たり前の答えを返してきた。帰国する日時は決まっている。しかたがないので、トルクメニスタンのビザのないまま、ブハラヘ移動し、国境の近くで待つことにした。ブハラで情報を集めて、国境でビザを発給してもらえるのか。いざとなったら、賄賂を払って解決することができるのか模索することにした。 8月31日、ブハラに到着し、まずは自転車を組み立てた。市川武邦さん(60歳)の自転車の後輪がパンクしていたが、ほかにトラブルはない。自転車にも体調にも問題はない。あとは、国境を越えるビザの問題を解決しなければならない。タシケントヘ電話するが、ビザは出ていなかった。 ところで、市川さんは、元小学校の校長先生。8年ほど前に『学遊』(第一法規発行)という、教育関係者を読者とする雑誌に「先生の自遊時間 ライフワークのある人生」という人物ルポを企画提案したところ、連載が始まった。このシリーズで、手作りによるバイオリン製作を趣味としているというので、取材させてもらったことがある。お邪魔すると、工房の一角に自転車があった。『ツール・ド・シルクロード20年計画』の話をすると、「定年になったら参加します。連絡しますから」と、威勢のいい声が返ってきた。シルクロードを自転車で旅行したい。そんな夢を持ち続けて、定年を待っている人に、思いがけないところで出会うことになった。 定年を迎えると、市川さんは電話をかけてきた。京都からかけてきた電話だったが、すぐに会った。 「バイオリンのルーツは、中央アジアの民族楽器なんです。自分の目で見て、音を出して、買ってきたいなあ。道具はどんなのを使っているんだろう。工房へも寄りたい。中央アジアの楽器が、西へ行ってバイオリンになりました。一方、東へ伝わって馬頭琴や二胡、三味線になったんです。同じルーツです」。市川さんの話を聞いて、『シルクロード楽器の旅』も楽しいと思った。 |
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9月2日、ブハラを自転車で出発し、国境へ向かうことにした。朝6時はまだ寒い。街を出るとすぐに桑の並木が西へ仲びている。まさにシルクロードだ。その両側には、ナツメの畑が広がる。風景は麦畑から綿花畑に換わった。オアシスが近づくと、空の下でハミウリやスイカ、リンゴなどを道路脇で売っている人々も現れた。 8時ごろ、着飾った子どもたちを追い越した。今日は始業式。ウズベキスタンでは、子どもたちから教師に花束をプレゼントする習慣があるという。道路から学校が見えたので訪問することにした。その学校へ通っているのは、小学生から高校生くらいまで。日本から来たというと、大歓声があがる。民族楽器の演奏が始まり、大人も子供も踊り出す。わたしたちも踊りの輪に入った。 始業式は、日本でいえば村中の人が集まるお祭りや小学校の運動会といったところであろうか。通りすがりの旅人を、大切な行事で歓迎してくれる。気さくで陽気な村人たち。1000年前も2000年前も、シルクロードの旅人は、こうやってオアシスの人々と交流しながら旅を続けたのだろうか。踊りの後、校長室に案内されて、警察官と一緒にお茶やお菓子をご馳走になった。自転車の旅は、荷物が少ない。何もお返しができない。手帳に住所を書いてもらい、日本へ帰ったら写真を送ることを約束してシャッターを押した。ほんとうは、再び訪れて、直接写真を渡したいのだが。 |
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闇の中を自転車で渡ったアムダリヤ トルクメニスタンヘの途中、携帯電話を借りるためレストランに入った。旅行会社に連絡すると、今日の夕方、国境でビザを受け取ることができるという。 国境に到着したのは、16時。ウズベキスタンの出国手続きに1時間を要し、トルクメニスタンには18時15分に入国。さっそく走り出す。まずは湿地帯を進んだ。20時を回り、アムダリヤ河を渡る前に暗くなってしまった。車の後ろにつき、道路に反射するテールランプの赤い反射で路面の凸凹を確かめながら進んだ。20時30分。「暗くなったので、ここで走行を終えて、明日ここから走りたい」とガイドに伝えてみた。しかし、「アムダリヤ河の先にある検問まで進んでほしい」とのこと。一旦検問の西へ行くと、再び検問の東側へ戻るのに手続きが大変になるようだ。トルクメニスタンでは、日程どおりに旅を進めなければならない。外国人が自由気ままに旅行することはできないお国柄だ。入国できただけでも感謝。無事に出国できることを願うのみだ。さらに1時間走り、アムダリヤ河にかかる橋に到着した。暗闇の中で河の流れは見えない。水の音だけが聞こえる。鉄板を敷いただけの浮き橋。鉄板の継ぎ目は凸凹。明るければ足下の河の流れに恐怖感を覚えたかもしれない。検問を通り、132キロメートルの走行を終えた。 ところで、千葉大学環境リモートセンシングセンター助教授の本多嘉昭さんには、アムダリヤ河の両側に生えている植物の写真を、GPSデジタルカメラで撮影してデーターを提供。砂漠化の研究のために協力する約束になっている。日本大学文理学部地球システム科学科の助教授中山裕則さんとは、アムダリヤ河周辺の水溜りをGPSデジタルカメラで撮影してデーターを提供。異常気象の研究に協力する約束もしている。しかし、こんな真っ暗な中では、撮影は不可能だ。この先のルートで、できるだけの協力をしよう。 検問の先で走行を終えてからは、宿泊地トルクメナバット(旧名チャルジェウ)ヘ車で移動した。街がとても明るい。通訳の渡辺信君は、「豊富な天然ガスで国が潤っているのだろう」と喜んでいる。しかし、わたしには、うわべはきれいだけれど、街に温かさを感じることができなかった。ごみひとつ落ちていない生活感のなさ。市民への監視、締め付けが厳しいように感じたのだった。 |
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バザールでは、秘密警察が監視している,市民に話しかけないで 9月3日、快晴。今日は砂漠の真中で宿泊を予定している。まずはバザールで食糧を買い込むことにした。「バザールでは、つねに秘密警察が監視しているから市民に話しかけないでください」というガイドの言葉は、この国が普通ではないことを物語っている。個人崇拝独裁国家トルクメニスタン。だけど、この国に生まれ、暮らしている人たちには、こんな調子が365日、10年以上も続いている。日本と同じ感覚でいてはいけない。ガイドにも迷惑をかけてはいけない、と肝に銘じた。 10時過ぎ、前日に走行を終えた地点まで車で戻りスタートした。9月だというのに、午前中の気温が40℃にもなっている。アムダリヤ河からトルクメナバットまでの約10キロメートルは、緩やかな上り坂だった。街に入ると、ニヤゾフ大統領の写真がいたるところに飾られている。道路にゴミがなく「神経質な街」を感じさせた。トルクメニスタンの人々の反応は、陽気で気さくなウズベキスタンとかなり違う。外国人となるべくかかわりたくない、といった態度のように見える。 カラクム砂漠を走ると両側には、タマリクスなど砂漠特有の植物を見ることができた。「ラクダに注意」の標識もあった。この砂漠で見るラクダは、ヒトコブラクダだった。緩やかにアップダウンが続き、適度にカーブしている。83キロメートル進み、走行を終えた。砂漠の真ん中で泊ろうと考えていたが、許可が下りていないので宿泊させることはできないという。小さなドライブインもあったが、ガイドは女性なので、安全を考えてトルクメナバットへ車で戻り、ホテルで休むことにした。 |
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9月4日、走行3日目だが、ビザの問題で手間取ったので、今回の旅行で最後の走行日となった。マリーまでは、約180キロメートル。出発時間は朝の6時とした。昨日、走行を終えた地点まで戻るのに2時間。すでに気温は40℃。伴走のクルマにはクーラーがない。暑さを避けて10キロメートルほど先で木陰を探し、自転車の到着を待つ。道路はカラクム運河に沿って走り、両側には麦畑や綿花畑が広がっている。放牧されているのは、羊ではなく牛が多くなった。体の大きな牛を飼育できるほど、草が豊富なのだろう。道路の両側には、幹周りが1メートルほどもある桑の大木が、何キロメートルも続いていた。 国境によって風景だけでなく、そこで暮らしている人々の性格も変わるのであろうか。政治の怖さを、砂漠の真ん中で思った。 |
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中学生3人の飛び入り参加でシルクロード自転車旅行の思い出が増えた ゴールよりも日没が先に訪れた。再び車のテールランプを頼りに、市内を進む。ゴール地の約3キロメートル手前からは、地元の中学生3人も加わり、走行するメンバーは5名となった。大きなトラックや乗用車で混雑する中を通り郷土博物館へ、183キロメートル走ってゴールすることができた。博物館の前で、中学生やガイド、ドライバーも一緒に記念撮影をした。このときばかりは、ウズベキスタンで感じたような、人間味のあふれる温かい空気に包まれた。そう思った。彼ら自慢のMTBはイラン製だった。トルクメニスタンにもいろんな人がいる。一部を見て、全部を見たと思ってはいけない。相手の立場に配慮しなければいけない。自らを戒めた。 車に気をつけて自宅へ帰って頂戴、子どもたち。来年も一緒に走りたい。そう思った出会い。シルクロード自転車旅行の思い出が、またひとつ増えた。 |
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