「舘浩道のポーランド自転車旅」 |
アウシュビッツ見学
岩塩鉱跡見学とアンドリュウさん宅訪問
クラコフ
ポーランドを走る
ワルシャワ駆け巡り
サイクリングルートを走る
「連帯」運動発祥の地グダンスク
ポーランドを走る…いろいろ編
ポーランド走集編
東ドイツを走ってハノーバーへ(最終レポート)
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2010年6月19日 舘浩道記す
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<アウシュビッツ見学>
ボクがポーランドを訪れたい第一の理由は、ナチスによる大虐殺が行われた現場に立ってみたいというものである。
いろいろと予備知識を仕込んだが、決定的だったのは、現地で日本人ガイドが活躍しているということで、しかも幸運なことに東京の国立で彼の講演を聴く機会があったことだ。
その中谷剛さんと連絡がとれたので、さっそく行くことにする。
オシフェンチム行きのバスは定刻の8時25分に発車。
1時間40分ほどでアウシュビッツ博物館に到着。曇り、時々雨といった念願の訪問にふさわしい空模様だ。オシフェンチムで暮らしているガイドの中谷剛さんはクルマがパンクしたとかで10分遅れて待ち合わせ場所の博物館前に姿を現す。国立で彼の講演を聴いたときより精悍な顔立ちだ。
ここ、アウシュビッツはさすが有名な世界遺産なので、ヨーロッパ各地からやって来た観光バスがひしめいている。
250人もいるという博物館のガイドたちが大勢の見学者を引き連れている。ボクらは吉川さんと埼玉からきたという女性の3人でガイドをお願いする。
正門を入るとまず目につくのは「働けば自由になる」(Arbeit macht frei)というアウシュビッツの有名な看板である。ガイドは、このスローガンに導かれ、囚人は競い合って働いたと説明。
ヨーロッパ各地からユダヤ人たちが次々とここに送られ、最終的には28もの収容所が作られた。パリやベオグラードからも貨物列車で運ばれたというヨーロッパ図があった。フランス国鉄も協力したというのだ。
収容されたのは、ユダヤ人のほか、反ナチ活動家、ロマ人、ロシア兵捕虜、ポーランド人などドイツ民族を守るために排除すべき人間をここに連れてきた。その貨車の実物も置かれ、貨車のなかには小さな木箱のトイレが置かれていたという。横になることもできない状態だった。
展示されていたのは、ガス室から注入したチクロンBの空き缶の山、累々と積まれた女性の髪の毛の山、また山。ユダヤ人が祈りのときにかぶるガウン。櫛やブラシ、シェービング道具、靴などユダヤ人が身につけていた品々。旅行鞄にはヨーロッパ各地から収容されたことを示す「ウィーン」、「オスロ」などの都市名も読める。
ガス室の手前の脱衣場で脱がされた衣服類。累々たる数の義足や松葉杖。鍋釜の山。8万足の靴の山。これらの遺留品を目の当たりにして言葉はなかった。どうして人間がこんなことを出来るのかと…。
連れて来られた日付と死亡日が記された収容者の囚人服姿の顔写真。明日を見ることができない目をした子ども達の写真が特にボクの目に焼き付いた。
生態実験をされたロマの女の子たちの写真。
囚人の胸には人種ごとに胸につけたマークが違っている。たとえば赤い三角は政治犯、黄色い三角はユダヤ人である。
こうした遺品や収容者名簿などは65年の歳月を経て傷んでくるが、博物館では修復保存の努力も地道に続けられている。
アウシュビッツの保全はEUが中心となって2000以降、動き始めている。何兆ユーロの基金をベースにその運用益で修復事業をすすめるプランだが、いまだ計画段階で進捗していない。
ルドルフ・ホス所長が処刑された絞首刑台もそのまま残されている。その近くにホスが家族と暮らしていた家もある。時折、虐殺された犠牲者を焼く煙がホスの家まで流れ込む近さだ。
遂にガス室に入る。なんとも云えない陰惨な部屋。救いは部屋の中央に小さい灯明が一つあったこと。
外の慰霊碑の前ではフランスから来たユダヤの人たちがユダヤ教の賛美歌を犠牲者に捧げている。ボクも手を合わせた。
続いてビルケナウ収容所にバスで向かう。
縦800メートル、横1200メートルの広大な収容所の中央にはヨーロッパ各地からの貨車のレールはそのままに。その両サイドには収容棟が並ぶが、まず貨物から降ろされた囚人たちは医者の手で、強制労働に耐えるかどうかで選別され、それに耐えられないものは「シャワーを浴びる」ために直ちにガス室送りとなった。映画「戦場のピアニスト」のシーンが迫ってくる。
毎年1月27日は国連のホロコースト追悼日でビルケナウ収容所の記念碑の前で式典が開かれる。90歳の元ユダヤ人収容者は毎日ここに通ってきて「語り部」をしているという。
強制収容所はポーランドに6カ所、ドイツに3カ所、オーストリア、ルーマニアにも作られた。
ガイドの中谷剛さんはやや早口で思いをはき出すように語ってくれ、こちらの質問にも率直に応えてくれた。毎日、ここでガイドを続けることは、時にいやになることは…との問いかけに、彼は「逆に犠牲者から勇気をもらっています。絶対に絶望などしません」と応えてくれた。優れた日本人と出会ったことも素晴らしかった。
20世紀に引き起こされた狂気を博物館というかたちで後生に伝える大切な現場を垣間見ることができ、ポーランドの旅の目的が半ば達成されたように思う。
(舘浩道 100619記す)
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2010年6月20日 舘浩道記す
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<岩塩鉱跡見学とアンドリュウさん宅訪問>
雨の中、滞在中の「ブルー・ホステル」からバスに乗ってヴェエリチカ岩塩鉱跡に9時40分着。
何世紀にも渡って掘り続けられた岩塩の鉱山が、今は世界遺産として博物館の役割を果たしている。内部は各国言語ごとにガイドが案内する仕組みで、日本語ガイドはなく、英語ガイドに入る。ガイドは女性でとてもクリアな英語だったのでわかりやすかった。
まず、木製の階段を折り返しながら、垂直にどこまでもといった感じで降下してゆく。約120メートルばかり降り立った地底に長い長い坑道がのびていた。
坑道に隙間なく立てられた木柱は暗いために白くペイントされている。ガイドの説明を聞きながら、大方の岩塩の純度は約50%だが、中には白い岩塩層では80%に達するものもあるという。坑道の壁は大理石のツルツルに輝いており硬く、ときたま岩塩の層の間から流れでた塩水がカリフラワーのように結晶を作っている。
岩塩の掘り出しで出来たいくつもの巨大な空洞には、掘り出しにまつわる様々な出来事や、掘り出しの様子が展示されてあり、また岩塩を用いた彫像もある。壁面も同様に、掘り出し労働の様子や、宗教的な色彩のものなどの像や文字が浮き彫りにされている。
圧巻は岩塩で作られた巨大なシャンデリアで浮かび上がった「大宮殿」で、キリスト像や「最後の晩餐」などが模写されていたし、死去する少し前にヴェエリチカを訪れたポーランド出身の前ローマ法王の像も建てられていた。
坑内には労働者のために設けられたチャーチで、安全のためのお祈りが毎朝行われていたという。
特別に期待していたわけではなかったが、約2キロの地底を歩いて感じたことは、ポーランドを訪れ、ぜひ見ておきべき特別のスポットだということだ。「塩だって舐めるなよ」とは吉川さんの的を得たオヤジギャグだ。
「夕方7時に来てください」と云われた、ホストのアンドリュウさん宅に行くまで、時間調整を兼ねてトラムに乗る。観光やビジネス用の「1時間乗車券」でトラムに乗ったり、乗り換えたり。日本で云えば京都にあたる古都クラコフの街の規模や様子が、輪郭としてわかってくる。
雨が降っているので自転車は輪行のままタクシーでアンドリュウさんのアパートに到着する。お宅は郊外の団地の9階にある。
ボクは「サーバス」という草の根国際交流組織の会員なので、訪問国の会員の家にお世話になることがたびたびだ。その逆で各国の旅行者が東京に来たときは泊めてあげて交流を楽しんでいる。今年だけでも、アルゼンチン、フランス、デンマーク、そしてポーランドからやってきた4組、延べ7人の旅行者を受け入れた。
今回の旅も事前に訪問先にメールで依頼し、OKをもらってから転がり込むわけである。この相互交流システムは、ホテル泊では得られない現地の人との交流を通して、相互理解が広がることが何よりのメリットだ。ただし今回のポーランド訪問では会員ではない吉川さんが「ついて行きたい」と、本当についてきたので、非会員まで受け入れる心の広いホストを探す必要がある。
というわけで、たまたま2度も日本にも来たことのあるアンドリュウ・コバルナスさん宅にお世話になることになったのである。ご本人は自分で「安自栄 小春茄子」とフルネームを漢字で充てるほどの日本びいきで、語源研究が趣味という言語学者だ。事前連絡では「友達のためのベッドはありませんが、それでもよかったら」とメールをもらっていたので、吉川さんは床に寝かされてしまった。
ボクもイギリスで玄関先の靴脱ぎ場で寝かされたことがある。日本人は来客を泊める部屋がないからと「体面」を気にするが、こうしたことが海外では当然のように行われている。もちろん中には豪邸の一部屋をあてがわれることもあり、B&Bより格段上のリッチな体験もできる。提供されるのは「宿泊場所」のみで、安全に夜露が凌げるわけである。
食事にありつけるかどうかは相手次第だが、大抵の場合は簡単な食事にありつくことができるが、日本のようにご馳走で歓待されるということは希だ。
アンドリュウさん宅では、同じく大学で英語を教えている奥さんが、短い麺が入ったサーモンと野菜のスープ、ジャガイモサラダの家庭料理を出してくれて、とても美味しく戴いた。現地の人々が日頃どんなものを食べているかもわかるわけだ。ボクらが「一緒に飲みましょう」と持ち込んだワインは、夫妻はそれぞれグラス一杯飲んだだけで、ほとんど、ボクらが戴いたようなものだった。
現地の人を訪れる、もう一つのメリットは地元の情報を詳しく聞けることである。食事中で知ったことはボクらがアンドリュウさん宅に転がりこんだ日が、丁度、大統領選挙の投開票日で、テレビでは開票速報が流れ、結果は「民族派」といわれ墜落死した元大統領に代わって、臨時大統領を務めた国会議長が当選したことだ。選挙結果でポーランドの政治が大きくロシア寄りに舵が切られるということはないだろうというのがアンドリュウ元クラコフ大学教授の観測だ。
そのアンドリュウさん、クラコフから20キロの所に山荘を持っておられるが、これが今回の戦後最大の大水害で人造湖が決壊し床上浸水の被害を受け家具や家電用品が粗大ゴミと化し、週2〜3回後片付けに通っているといわれが、ボクらはただ「お気の毒です」と、いうばかりだった。
厚かましくも、ボクは大水害を被ったポーランド最大のヴィスワ川流域を北上する計画なので、冠水地の自転車通過は大丈夫ですかと伺ったところ、いまは水は引いているとのことで安心した。むしろ気をつけなければならないのは、場末の酒場などに旅行者をねらう者がいる場合があるとのことで、ありがたい忠告だった。「自転車で旅する人は強い人ですね」とのコメントまで戴いた。ポーランドはここ数日小雨が続いている。
(6月20日 舘浩道)
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2010年6月22日 舘浩道記す
<クラコフ>
アンドリュウさんは90歳になるお母さんを介護するのに忙しいので、トラムの駅前で別れる。ポーランドにも日本と同様「老々介護」の現実があることを知る。
クラコフはポーランド第2の都市、そして「古都」である。日本で云えば京都か。最近の京都はアメニティーがめちゃくちゃで風格がなくなっているが、クラコフ旧市街は威厳と風格に満ちている。
トラムの一日券を購入して、その旧市街に入り、セントペテロ・セントパウロ教会、セントアンドリュウス教会などに立ち寄りながら、ヴィスワ川畔の小山に建つ大きな城郭、ヴァベル城に登る。
ヴァベル城からはボクらが辿るヴィスワ川を見下ろすことが出来た。ポーランド随一の河川ヴィスワ川はここからワルシャワを経て北上し、グダンスクでバルト海にそそいでいる。ポーランドの大平原を東西に切り開くように流れる大河である。ここクラコフですでに川幅はすでに100メートルほどある。この川が5月の長雨で氾濫したのだ。戦後最大級の規模だったという。現在は水は引いているものの、被害の爪痕はアンドリュウさんの場合のように流域のあちこちに残っている。ヴァベル城から見下ろす川は被害のことを感じさせない。
歴代のポーランド王の居城であったヴァベル城には歴代の王の墓もある大聖堂、旧王宮、竜の洞窟といったいくつかのスポットがあった。17世紀の旧王宮では遺構や重厚な中庭、そして当時の王の遺品や武具、馬具の展示を見て、竜の寝床のような「ドラゴン洞窟」に行く。
ユダヤ文化が色濃く残されているカジミエージュ地区では残念ながら博物館の「シタラ・シナゴーグ」は閉館していたが、「ユダヤ文化センター」では never more アウシュビッツ のポスターやアウシュビッツ博物館50周年ポスターを見かけたし、ユダヤ教会にも初めて立ち寄った。(舘浩道 100622記す)
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2010年6月26日 舘 浩道 記す |
<ポーランドを走る>
クラコフの、語源を調べるのが趣味というアンドリュウさんは、国名ポーランドの「ポー」は草原のことだと説明してくれた。クラコフからワルシャワの手前まで4日間かけて400キロ以上この国を走ったが、まさにポーつまり草原の国だと納得。
緩やかな起伏が続いているところ、はるか彼方の地平線まで続く真っ平らな大平原、深く広がる森林。人々は主に麦や野菜、そして牧草を平原から得て生活の糧としている。淡い緑の平野、濃い森林の緑、毎日その緑に染まって走っている。時折、日本は山国、峠はきついを、懐かしく思い出す。そして単調な水平走行に飽きてくるころ、小さな街が現れる。
ボクの旅スタイルはサポートに依存できない自主独立の旅なので、大きめのフロントバッグとリアの振り分けパニアの、3個の荷物をつけて走っている。荷物の重量は25キロほどで、ランドナーの重さの2倍もあるから、平原の走行で休んだり、写真を撮ったりする時に自転車を立てかけるところもないので苦労する。横倒しに置くと、引き起こしが大変だから、やりたくない。というわけて写真撮影も自転車にまたがったまま、小用も同じく「横出し」だ。誰も見てない。
東京であらかじめ、1日100キロ前後になるように、ルートを決めておいた。ゴールには必ずホテルがあるとおぼしき小都市を選んである。途中で出会ったストックホルムからアテネまでのカップルのサイクリストのように「キャンプ」はやらない主義だ。これは荷物がさらに増えるばかりで「後期高齢者」が真似することではない。年齢にふさわしく、ゴールで美味しい料理と酒、乾いたシーツを楽しもうではないか。
「ポーランド・ルネサンスの真珠」と呼ばれるタルヌフ。「クラクフのミニチュア都市」サンドミエシュ。中世のポーランド大王がユダヤ人の街作りを許したという美しい街カジミエージュなどで、夕方からの至福のひとときを過ごす。
道路は一般的に舗装状態が良く、道幅もあり走りやすい。3桁番号のローカル道路はたまにつぎはぎ舗装や、穴ぼこもある。これは日本も同じ。決定的な違いはドライバーのマナーだ。大型トラックやトレーラーも自転車を抜けない時には、後ろから、ゆっくりとついてくる。抜くときは大きく反対車線にでてくれるので安心だ。クルマ優先社会の日本で、後ろから「そこどけ」と大音響の警笛で脅迫されるのと雲泥の差だ。
前にも書いたが、カジミエージュに向かうルートでは、今回の大水害で被害を被った最もひどい地域を通過した。大方の家々は、2メートルから3メートルの床上浸水に見舞われ、中には屋根だけを残して水没したと見られる泥の痕が残っている家もあった。
家々の前には粗大ゴミと化したベッドや、ソフファーが山積みだ。写真を撮るのもはばかれるような有様で、まさに「ゴースト・ビレッジ」が延々と続いていた。被害を被った人は約3万人。都市ではなく農村地域の3万人だから、いかに広大な地域だったかわかる。果樹園も全滅。数週間の水没でスモモは茶褐色に、水没を免れた梢だけが緑を保っている。牧草地帯の緑も一面の茶褐色に変色。家畜に与える牧草も全滅だ。
ボクらはほぼ100キロ毎に氾濫したヴィスワ川を渡り、その右岸と左岸を走った。橋と出会うたびに川幅が広くなり、最上川のようなかなり速い濁流がワルシャワに向かって流れていた。
そのワルシャワまで残り140キロとなった。1日でこれを走るのは「チョット辛い」ということで途中のホテルがありそうな街までGPSをセットした。しかしGPSのルータブルと呼ばれる「自動ガイド」表示はループを繰り返したり、進んだ道を戻ったりと、あらぬ方向に導いてくれるではないか。なんといういうアルゴリズムだ。
あげくの果てに、方角にして目的地とは約90度ずれた別の都市に向かっている。森の中の一本道だ。脇道もない。引き返すのも面倒だ。というわけで別の街に向かう。GPSのルータブルを過信してはいけない。やはり自分で作成した「ルート」やウエイポイントを辿るべきだった。
尻も痛くなってきた。吉川さんが自転車を列車に乗せてみたいというので、「それもいいね」ということになり、ワルシャワまでの残り数十キロは列車で行くことにした。実に臨機応変。
ホテルのフロントで列車の時刻や自転車積載料金を調べてくれた。一人1500円の三つ星ホテルのサービスもいいね。(舘浩道 100626記す)
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2010年6月30日 舘 浩道 記す |
第5回レポート
<ワルシャワ駆け巡り>
朝の散歩で、ホステルの近くにある、元ポーランド統一労働者党本部が置かれていた証券取引所を見る。かつてポーランドを支配した「共産党」らしく権威の象徴のような建物だが、現在は屋上に「リコー」の看板が掛かったり、中庭にトヨタの車が駐車していたり、時代の変遷を感じる。
ワルシャワで、訪れたいところはいろいろあるが、日曜日の今日、どうしてもはずせないのが広大なワジェンキ公園内にあるショパン像の下でのピアノ演奏だ。
女性の司会者は英語で1956年から夏の間、欠かさず日曜日毎に無料コンサートを1日2回行っていて、市民と旅行者にショパンの音楽を楽しんでいただいておりますと挨拶。そのあと、コンクールで優勝した男性ピアニストが演奏を始めた。曲はボクも日本で何度も聞いたことのある「華麗なる大円舞曲」、「ノクターン」など有名な曲ばかりだ。
日本人の顔もちらほら見えるように旅行者もいるが、聴衆のほとんどはワルシャワ市民だ。散歩の途中で立ち寄ったカップル、わざわざ自転車に乗って聴きにきた中年女性など、ざっと見渡して3000人ほど。
ボクはショパンが、いまもこれほどワルシャワ市民に愛されていることに驚いた。そして音楽が心底好きだという人々の気持ちも伝わってきた。というのは誰でも参加できる無料コンサートだと、日本では私語が絶えないなどよく見られる光景だが、一面に赤いバラが咲く公園のベンチを埋め尽くすだけでなく、花壇の煉瓦にも腰掛けて集中して演奏を聴いている聴衆の姿は、コンサートホールの雰囲気と変わりないからだ。
コンテストで優勝したピアニストの演奏だからかもしれない、また今年はショパン生誕200年ということもあるかもしれないが、ワルシャワ市民の文化水準の高さを感じざるを得なかった。
わずか25分間だったが、真っ青な空の下、柳の巨木の下で曲想にふけるショパン像のもと、乾いた空気を伝わって流れてくるショパンの透明な曲に、ボクは我を忘れてしまった。
第2次大戦でナチの空爆で完全に破壊された旧市街市場広場を訪れた。空爆前の写真を手がかりに再現したとうから市民のワルシャワを愛する心は半端じゃない。日本なら間違いなく再開発だ。そのナチに破壊された街の資料が見られるワルシャワ歴史博物館は修繕のために閉館中だったのが心残りだ。
半旗が翻る大統領府の前には、突然の墜死で、ポーランド国民が深い悲しみにくれた前大統領を偲ぶ大きな写真が掲げられ、その前は花束や灯明で埋め尽くされていた。また搭乗機の残骸や、葬儀の様子の写真パネルも並べられ、人垣が出来ている。葬儀に参列した政敵の国会議長の目には引っかかれた傷が付けられていた。ちょっとやり過ぎだが、ポーランドの政治状況を示すものとして受け止めた。
ここワルシャワからも多くのユダヤ人がアウシュビッツへ貨車で送られたが、そのことを忘れまいとする大きな記念像が、彼らが実際に送られた貨物引込線駅の近くに建てられていた。ワルシャワ・ゲットー記念碑である。ボクは長崎の原爆祈念像を思い出した。
記念像の前にはユダヤ人の小さな皿のような帽子をかぶった若者が大勢集まっている。日本から来たというとたちまち取り囲まれ、我も我もと一緒に写真を撮ることをせがまれた。ロサンゼルスから来た男女の高校生たちだった。夏休みのヨーロッパツアーの途中なのだろう。ユダヤ人が受けた悲劇を若い人に伝え残そうという気持ちは、よく理解できる。
続いて「市民よ立ちあがれ」と銘打たれた蜂起を呼びかける記念碑、ワルシャワ蜂起の群像、そしてポーランド各地からアウシュビッツに送られたことを告発する巨大な枕木とユダヤ人が詰め込まれた貨車を模したモニュメントを見る。枕木は47本あり、そのすべてにポーランドの地名が浮かびあがっている。枕木の先には1台の貨車があり、たくさんの十字架が立てられている。貨車の床の隙間から、指が救いを求めるように突き出ている。アウシュビッツへの死の輸送をこのような迫力に満ちた巨大モニュメントに仕立てたのは誰だろう。
ワルシャワ蜂起博物館は、Warsaw Rising Museumu の英訳も添えられているが、日本流に翻訳すれば「ワルシャワ平和博物館」だろうか。ナチスの空爆でワルシャワは20万人が犠牲になったが、市民やパルチザンが組織的抵抗に立ちあがり、「ワルシャワ蜂起」と呼ばれた反ナチ抵抗闘争の史実を伝える博物館である。
ナチスの空爆機の実物や、抵抗闘争を組織する「地下」のビラ工場、火炎瓶やピストルといった軽火気器中心の武器類などが展示されている。戦いは敗れるが、効果的な学芸員による展示からは、死守したいワルシャワと市民の誇りを感じ取ることができた。
この博物館では、たまたま、ソ連によるポーランド将兵を虐殺した「カティンの森」事件の展示も行われていた。ポーランド将兵を虐殺の森まではこんだ輸送トラックの実物も展示され、ボクは思い出したくない映画「カティンの森」の実におぞましい最後のシーンを思い出さずにおれなかった。
ワルシャワを去る日の朝、映画「戦場のピアニスト」の主人公ウワディスワフ・シュピルマン(1911-2000)の墓詣りをした。映画で、奇しくもアウシュビッツ送りから逃れワルシャワ市内を彷徨するシュピルマンは、実在のピアニストだったのだ。市内のはずれにある大きなコムナルニィ墓地で、管理人が「日本から来たのか」といって案内してくれた。
有名な人物なのに、墓碑には彼の名と没年が彫られているだけという簡素な墓だった。
広い市内に散在しているこうした場所を訪れるのに自転車ほど便利なものはない。自転車道も整備されていて、効率よく巡ることができた。ワルシャワでの見るべきもの、訪れるべきところを、すべて訪れ、ワルシャワを後にする。
(舘浩道 100630記す) |
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2010年7月3日 舘 浩道 記す |
●第6回レポート
<サイクリングルートを走る>
ワルシャワを出て、再び、風の音を聞きながらヴィスワ川の左岸、「ボー」を走る。午前中は89キロ走行。走りすぎだ。レストランらしきものはほとんどなく。小さな店を見つけて休憩。ようやくヴィスワ川の河畔にそびえるプウォックに入る。11世紀から12世紀にかけておよそ60年間、首都だった街で風格があるが、現在は観光客も訪れない(6月29日)。
百羽を越える白鳥がヴィスワ川いっぱいに広がってエサを獲っている。吉川さんが「あれ、コオウノトリじゃないの」。ボクは「コウノトリに水かきはなかたっよね」と交わす言葉ものんびりしている。
ここ Wloclawek はヴィスワ川の巨大な堰があり、最大の川幅となっているところ。川幅は1キロに広がっている。その巨大な堰を見る。
森では、黄色いキノコを採取した地元の人が道路脇で売っている。いい現金収入になるのだろう。
標高は徐々に下がっている。ついに海抜50メートルとなる。といっても10キロ走って1メートル下がる程度で真っ平らだ。だからペダルは軽い。
トルンは旧市街地が世界遺産となっている『中世都市』で、コペルニクスの生誕地でもある。日本人の観光客もいた(6月30日)。
トルンを出て約22キロでダートに入る。吉川さんは「イヤだ」というけど、約3キロのダートをついてきてもらうしかない。菩提樹の道では小鳥がさえずっている。いよいよポーランドに深く分け入った感がある。延々と続く菩提樹の木陰。快適。
ヴィスワの広大なデルタ地帯のグリーン。青い空。白い雲。菩提樹の幹に自転車ルートのマークが描かれている。
実はポーランド大使館で貰ったマップに西ヨーロッパからの自転車ルートを見つけていた。ポーランド西部から東に向かい、ヴィスワ川で北に転じ、そのままバルト海に出るルートだ。
ボクは「この一部を走ってやろう」と用意していたのだが、現地に来るまで自信がなかった。
この道はサイクリング専用道ではなく、ごく普通のポーランドの田舎道で、道の両側には菩提樹が大きく茂り、真夏の強烈な太陽を避ける木陰が続いている。クルマは2キロほど離れた1号線を飛ばしているから、この道を走るクルマはたまに出会う程度で、楽しくポーランドの田舎を満喫できた。
ヨーロッパサイクリング協会が指定したルート「R1」の起点はパリ、終点はバルト海だ。丸一日かけて100キロあまり、その一部を走ることが出来てラッキ−だ(7月1日)。
朝の Nowe の街は深い霧に包まれている。メガネに水滴が付着する。7キロ走ったところでようやく霧も晴れてきた。朝露を受けて牧草がキラキラ輝いている。アブラナ科の雑草に仕掛けた蜘蛛の巣が霧の水滴を受け、朝日に光っている。一面の蜘蛛の巣はまるで綿花畑のようだ。草原が朝の光に輝いている。ヒナゲシは真っ赤な絨毯だ。正午、グダンスクに到着(7月2日)。
こうしてワルシャワ〜グダンスク間を4日間で448km走った。そして、ここまでのポーランド走行累計距離は962kmとなった。
報告を読んで頂いた方から質問も寄せられたので、サポートなしで、どのようにしてポーランドを走っているのかということに触れてみる。
主にGPSに関してのことなので、関心がないかたは読み飛ばしてください。
ボクは自転車旅に紙の地図を持たないで行動している。GPSという便利な道具をもう6年間も使っているからだ。
人工衛星からの電波を受信して、デジタル地図と組み合わせて現在位置を測定するやりかたは極めて正確で、ひらたく云えば、手のひらサイズの小型カーナビを自転車につけて走っているのだ。
この道具はサイクリングだけでなく、登山など広くアウトドアに使われている。特に登山をする人は、ガスにまかれ道を間違えるなど「迷い遭難」を確実に回避できる。
実は、西アフリカ難民をスペインあたりまで運ぶ木造のボロ船もGPSを使って商売していたり、行き先をツインタワーにセットし旅客機を激突させたテロリストもやはりGPSを使っていたというのは有名な話だ。
シルクロード雑学大学でも前田さんの「GPS講座」があり、最近は使う人も増えている。
ボクは前田さんの勧めもあり、最新機種(GARMIN OREGON 300)に切り替えたり、フリーのデジタルマップをサイトからダウンロードして使っている。自転車旅とGPSについては、奥行きも深く、面白いので、興味がある人はボクの次のサイトも参考になると思う。
http://cycle.tc/cyc061.htm
前置きが長くなったが、GPSでのポーランドの走り方だ。GPSをナビとして使うには3通りほどの使い方がある。
まず一般的には、行き先をセットして自動案内機能を使うやりかただ。ルータブルと呼ばれている。これは前にも、触れたように問題があることが判明。その問題と、問題回避法は前田さんが、吉川さんの「吉川達也のポーランド自転車旅日記」のページの冒頭に「海外Routableフリーマップの使用上の注意」として解説している。ボクもその通りだと思う。
このルータブルが狂ってしまったことを読まれたHさんから「アルゴリズムて何だ」という質問があった。これはつまり前田さんが解説しているようにデジタルマップに埋め込まれた道路の交差点などの位置情報を組み合わせて、GPSが自動的に最適ルートを示す計算機能のことだ。その際「高速道路を使用しない」とか「ダートのルートを使う」などの条件指定も可能だ。
ボクは海外の自転車旅ではメインとして一般道路を走るので、「高速道路を使用しない」通常のカーナビモードに設定している。
そしてボクはこのルータブル機能を応急的に使っている。何故かというと、確かに便利だが、「西に行け」、「次を曲がれ」などとうるさい指示を出してくるので、電池の消耗が激しく、あくまで応急時が出番だ。
ボクのGPSの使い方の基本は、東京でPCのソフト MapSouce で「トラック」を作成し、あらかじめGPSに転送したものを使っている。その「トラック」は1日毎に作成し、走行中に残り距離が判るようにするとペース配分が出来るので便利なのだ。同じく MapSouce で作成する「ルート」も便利だが、ルータブルと同じく、余計な指示をだしてくるので、ボクはあまり使わない。
しかし、この使い方は、現地で廃道になっていたり、あらたにバイパスが出来ていたりする場合もあるので、あくまで「参考ルート」としての位置づけだ。そうした場合は「参考ルート」を見失わないようにしながら走行可能な別の道を走ったあと、その先の「参考ルート」に戻る。一番のメリットはこれを使っていると迷わないし、そして必ずその日のゴールに到着できるという安心感がある。
もう一つのナビ方法に、ウエイポイントを使うやり方がある。これもルータブルなのだが主に短距離の場合に使っている。ウエイポイントはGPSの基本なのだが、これについては先に紹介したボクのページで解説している。
今回入手した東欧のフリーマップでも観光スポット、ホテル、レストランなどの位置情報が埋め込まれているので、マップからそれを探しだし、「GO」をクリックすると、そこまでの道筋がしめされる。これも臨時的な使い方だ。今回も現地のホスト宅に転がり込んだが、その場合もGoogleMapで住所を探し、ウエイポイントとしてGPSに転送しておいたのだ。突然の訪問に相手は驚く。
こうして地元のガイドなしで安全に自転車旅ができるのだが、問題は地元の人間しか知らない「美味しいレストラン」や「穴場的観光スポット」はGPSでは判らないので、知らないでその近くを走っていたということもある。
ともかく、GPSによって未知の世界を自由に移動できることが、ガイドなし、サポートなしの旅を可能にしていると思っている。
(舘浩道 100703記す)
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2010年7月4日 舘 浩道 記す |
第7回レポート
<「連帯」運動発祥の地グダンスク>
ポーランドを南北に縦断して流れてきたヴィスワ川がバルト海に流れ込むグダンスク。北に繋がるソポト、グディニアと合わせ「三つ子都市」を形成している。なかでも規模の大きいグダンスクは、1997年に建都1000年を迎え「千年都市」とも呼ばれている。
旧市街に向かってまっすぐに伸びるドゥーガ通り、そしてその先に「ネプチューンの噴水」がドゥーギ広場にある。
市内で一番高い聖マリア教会の400段の階段を登って、その展望台からグダンスク市内や、ここまで走ってきたポーのはるかな地平線を見渡す。
目を転じるとグダンスク造船所の建造中の赤い船首も見える。
「連帯」運動の舞台となったレーニン造船所(現グダンスク造船所)正門には連帯運動の発祥の地と書かれている。ソルダルティ(連帯)と記された旗とポーランド国旗、それにヨハネ・パウロ二世の写真も飾られている。土曜日なので造船工場内のバスツアーはお休み。レフ・ワレサはここで電気技師として働いていた。
造船所横にあるのは「犠牲になった造船所労働者の記念碑」。この「連帯運動」への犠牲者を弔う巨大な錨を模した記念碑は労働運動の聖地の雰囲気で、今も訪れる人や献花が絶えない。日本の「国労」も『鎮魂』と刻印したプレートを捧げていた。
1980年の独立自主管理労組「連帯」の委員長だったレフ・ワレサ(1943年9月29日〜)は、ポーランドの民主化をリードした後、第二代ポーランド大統領を務めたが、1995年の選挙で破れ、以後の政治活動はない。1983年にはノーベル平和賞を受賞し、現在はグダンスク郊外に蟄居している。
その「連帯」運動の博物館は造船所近くの地下にあった。その入口には「連帯旗」が翻り、共産政権が彼らの弾圧に使用した戦車が置いてある。
地下の展示場では、当時のフィルムが映され、集会で当時の若きワレサが「労働運動を通して権利を確立することだ」と演説している。ソ連式の売店には何も買うものがない有様が展示されるなど、市民の窮乏状態に造船労働者が「連帯」して立ちあがるよう呼びかけ、それに市民が呼応するさまが克明に示されている。そして運動への弾圧シーンが上映される。ここはユネスコの「世界の記憶」リストにも掲載されている実質的なポーランド民主化のメモリアル・プレースなのだった。
その後、グダンスクの「ニューポート」に行く。港には丁度、スウェーデンからの大型客船が入港するところだった。隣りのソポトが見える海岸線は土曜日とて海水浴客でごったがえしていた。裸の海水浴客のなかには超肥満もいて、民主化後の市民生活を観察した吉川さんは「自由とは太ることだ」とまたオヤジギャグ。なかなか的を得た哲学的ジョークだ。
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2010年7月6日 舘 浩道 記す |
●第8回レポート
<ポーランドを走る…いろいろ編>
予定した日程が早く進んでいるのでルートを変更して、バルト海に突き出た半島MierzejaHelskaを巡ることにする。ワルシャワのホスト Joanna さんの勧めによるものだ。
半島に渡るフェリーの乗客はほとんどポーランド人だが、スウェーデンからやって来た人も多い。ストックホルムから大型フェリーで19時間かけてグダンスクに来て、このフェリーで半島突端のHelに行くというおばさんから声が掛った。4時間海辺で遊んで戻るのだという。日本流に云えば東京から伊豆方面への日帰り旅行のような感じなのだろう。
半島は細く長い形をした長さ40キロ、幅2キロから3キロで、先端部が少し幅広く「孫の手」のような形をしている。松林が茂る国立公園だ。海抜は1から6メートル。Helは完全な夏のリゾートだった。そこから16キロほど走ってJastarnia という町のゲストハウスに泊まる。日本の民宿のようなもので、3階建てで4部屋を持っている。夏だけの商売だ(7月4日)。
7時、半島を北に向かって走る。リゾート地帯なので様々なアコモデーションがある。キャンプサイトには、キャンピングカーがひしめき、テント泊も多い。海岸沿いの自転車道は快適。さすが Joanna さんが勧めてくれただけのことはある。ハマナスが延々と続く。丁度20km走って半島の付け根に到着。ここからはポーランド最北東部の海岸線を走る。道の両側には、クルマがいっぱい止まっていて、人々は林のなかの道を通って海岸に向かうのだ。
ポーランド最北東部の海岸の町 JastrzebiaGara でレーパンのまま泳ぐ。バルト海の水は冷たく身が引き締まる感じがする。海水はやや不透明な緑色で砂は三温糖のように実に細かい。
この地方の人々の習慣は「囲いもの」を持参して海岸で過ごすこと。この「囲いもの」で、浜辺にプライベートなテリトリーを思い思いに作るのだ。このなかには「Today Tomorrow Toyota」と印刷されたものもあった。日本企業はしたたかだ。彼らの習慣のなかでもしっかりPRしている(7月5日)。
朝6時、出発時にシャワーが来て出鼻をくじかれる。吉川さんは天気予報を気にしている。気にしてどうなるものでもない。受け入れるしかないのだ。6時半に止んだので出発。しばらく走るとまた雨が降り出した。鹿がゆっくり道路を横断して森のなかに消えていった。
今朝から、3組4人のサイクリストとすれ違う。中年カップルと青年、そして1輪車を牽引するドイツ人とおぼしき中年男性だ。だれも雨を気にしていない。これまで15日間快晴だったから、久しぶりの雨だ。文句を云っても始まらない。こうして6時間後にスープスクの街に着く(7月6日)。
今日は、ポーランドを走ってみたい人向けに、思いついたことを記してみよう。なにかの役に立つことを願って…。
ボクの走行スタイルは夏だけど、手と足を完全に覆って走っている。日焼け止めと虫や茨などにかまれないようにするためだ。小さな「ブト」または「ブユ」もかまれると1週間腫れが引かない。
基本は、早立ち、早着きだ。6時から7時ごろ宿泊場所を出発して、途中で朝食を摂り、正午から午後3時頃には目的地に着いてしまう。たまに夕方の5時頃着もあるが、早着だと気持ちにゆとりをもって走ることができる。雨でも、よほどの降りでない限り、走っている。フロントバッグとハンドル部全体を覆う自作のカバーをつけているので、手も濡れないし、完全防水なのでパソコンなども濡れない。
上半身はレインウエアだが、下半身は蒸れるのでそのまま。だから靴も濡れてしまうが、蒸れても平気だ。宿に着いたら、特別の方法で乾かしてしまう。
ここで、ポーランドの物価にふれて置こう。
ボクらはホテルやホステル、ゲストハウスなどに泊まって旅を続けているが、宿泊代は馬鹿にならないだろうと思われると思う。
日本円にしてボクらが泊まった最高の3つ星ホテルで素泊まり一人1泊2400円、最低はクラコフのホステルで900円という安さだ。
ビールは平均150円前後、ポーランドの銘酒ズブロッカもボトル900円ほど、夕食は飲み物込みで1000円も出せば食いきれないほどだ。
これまでの支出を日数で割れば、一人1日3000円ですべて賄える計算だ。日本では2食付き民宿に泊まれば、軽く1万円は消えるから、ポーランドの物価はほぼ日本の3分の1以下ということになる。
だから、倹約はするが、ケチらない。矢端さんから「君らは飲み過ぎじゃないの」と云われそうだ。
(舘浩道 100706記す)
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2010年7月12日 舘 浩道 記す
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●第9回レポート
<ポーランド走集編>
北欧方面から高気圧が押し寄せ、秋冷で寒く気温10度。淡いピンクの花をつけたジャガイモ畑、青森などのローカル空港ほどの広大な広さでビックリ。
風の常襲地帯で発電風車100基が広いエリアに散らばり、どれも良く回っている。その風に向かっての走りで、スピードはガタ落ち。いつもの平均時速18キロが12キロとなる。
それでも14時半、コウォブジェク着(7月7日)。
道は細かなアップダウンを繰り返すようになる。バルト海に向かって立つ灯台が遠くに見える。
ドイツ・ワイマールからの高齢者夫婦ゲーテ・フラミングさんはキャンピング仕様の自転車で荷物を7個も積んでいる。とても重そう。彼らはキャンプサイトに泊まり10時スタート。随分と遅い。
綺麗なピンクの野草の背後にバルト海が見え隠れする。道はトラクターが減り、代わりにキャンピングカーが増えてくる。
沼あり、森ありの国立公園の途中、深い森のなかのバイソン保護区に行く。ポーランドの原生林、木々の根元は苔むしている。松などもあり広葉樹との混交林だ。野生のブルーベリーが密生している。
見ることが出来たのは5頭のバイソン。かつて広くヨーロッパに生息していたが、いまはポーランドの保護区でしか見ることはできない。保護区は動物園の周辺に木の塀を巡らせて作られていた。もちろん見ることはできない。
下り坂で瞬間時速56kmを記録。もちろんポーランドでは初めてだ。
街のすぐ西側はドイツ国境、港湾都市シフィノウィシチァ。ここに入るには無料のフェリーに乗るしかない。水路には橋が設けられていないからだ。
街は1945年当時ドイツ領だったためアメリカの空襲で破壊された。戦後はポーランド領となり冷戦期にはソ連海軍の基地も存在した(7月8日)。
今日はバルト海とシュチェチンを繋ぐ水路や大きな潟湖 ZalewSzzecinski をボートで辿り、ポーランドでの最終目的地シュチェチンへ向かう。
昨夜、ホストのコトウスキー(Marek Kotowski)さんと連絡が取れ、夕方伺うことになった。彼は51歳のエコノミスト。
高速艇は時速60キロで水路と潟湖を切り裂いて行く。水面は細かなさざ波でキラキラと輝いている。モーターボートばかりか水面すれすれに飛ぶ水鳥も追い抜いてシュチェチンに到着。
シュチェチンはポーランドではグダニスクに次ぐ第2の規模の港湾都市だが、その歴史は古く、1243年に自治権を獲得したものの18世紀にはスウェーデンに支配されたり、19世紀にはドイツ領となったりもした。日本人の常識を越える歴史経験だ。
その市街は第二次世界大戦でのドイツ軍とソ連軍の戦闘で破壊され、戦後はふたたびポーランド領となり、ドイツ系住民が大量に追放された。歴史地区を含む市街中心部と港湾は100%破壊されたが、戦後、市民の手で正確に復元された。
1970年と1980年には大規模な反社会主義暴動が起こり、「連帯」の活動に大きな影響を与えた。
GPSを頼りに市内をホスト宅へ。訪問すると奥さん( Alina )から「さよなら」と迎えられ面食らったが、ボクらは教室に使うという小部屋をあてがわれた。
コトウスキー宅は郊外の丘の上の一角にある。日本流に云えば二戸一の住宅で、妻の Alina が経営する語学学校の名前も付けられている。語学学校の名が書いてある派手なクルマで周辺を案内してもらったところ、古い家と新しい家が混在している。戦争による爆撃のためだという。
食事は例のピンクのスープとサラダ、それにジャガイモとベジタリアンだ。ワインが少し出た。
Alina によると、共産政権が崩壊し、国境がオープンになると、西ヨーロッパへの旅行や仕事を求める機会が増え、それに伴って英語の習得が人々の要求になってきたという。
そこでAlina が始めた語学学校(alma)は大当たりで、小学校の授業を終えた子ども達が200人も通っているという。小規模グループや個人教授で英語のほかドイツ語なども教えているという。頂いた名刺には9カ国語が並んでいるが、そのなかに日本語も含まれていた。
Alina は商売柄、特に言葉に興味があり、いくつかの日本語をメモしていた。ローカルピープルを訪問することで、こうしたポーランドでの実際の生活や、またその変化を知ることができるので、サーバスのホスト宅訪問はやめられない(7月9日)。
夕べ住宅地で出会った、オルード・イングリッシュ・マシフというとても大きな犬と散歩中のカップルが、是非、日本人を観光案内したいと申し出てくれた。主はヒューレッド・パッカードのエンジニヤのヤレックと、その妻で家庭裁判所判事をしているアニャだ。結果として、ボクらは素晴らしい市内観光ガイドをシュテチンで得たことになる。
彼らが案内してくれたのは、「連帯」運動の先駆けとなったステチン造船所のストライキが行われた門前や、3年前に完成した、運動の犠牲となった青年や若い女性ら18人の記念碑のほか、13世紀の最も古い教会、それにカテドラルからシュテチン市街を見下ろしたりと、いたれり尽くせり。
ヤレックは39歳だが、19歳のときに共産政権の崩壊を体験しており、「連帯」運動で自由を勝ち取ったのは、とてもいいことだと話してくれた。彼らのクルマで30分ほど離れた森なかにある「リノボ」という湖に行った。
湖岸のコテージではコトウスキーさんと、奥さんの語学学校で働く英語教師のマリオシュさんが、バーベキューの支度をして待っていてくれた。食後の時間をのんびりと過ごしたあと、リノボ湖で少し泳いだ。綺麗な湖で10センチほどのずんぐりした魚をたくさん釣っている人もいた。水温は適度で、バルト海のように冷たくはなかった。
彼らは泳いでは休み、何かを食べ、話をして、また泳ぐというサイクルを3度ほど繰り返し、午後7時まで湖岸で過ごした。ポーランドの人々は待ちかねた短い夏をこうしたところで目いっぱい楽しむのだ。都心からわずかに30分のところにあるリゾート地で過ごせることをうらやましく思った。
午後8時にコトウスキー家に戻り、ボクは「カレーシチュウ」の支度を始めた。前夜、「もし良かったら」と約束していたもので、日本から持ってきたカレールーをすべて使って、大人6人分と子ども達の大量のカレーを作った。
みんな美味しいと喜んでくれた。コトウスキーさんはワールドカップの決勝戦を見ながら、せわしくカレーを口に運んだし、アリーナは「長く居てもっと作って」と云ってくれたし、子どもらも「ストレンジ」と云いながらお代わりをした(7月10日)。
是非行ってみたい国、行かなければならない国として半年前から準備してきたポーランド。当初の計画通り、ほぼ走りきることができた。思いつくままに振り返ってみる。
◎道路走行環境
一部に「ガタガタ舗装」があったものの90%以上は滑るような道路で快適な走行が楽しめた。
「歩道を走れ」「側道を走れ」と指示があるところは従う。
何度も繰り返すが、ドライバーのマナーは最高。日本の「クルマ優先社会」はなんとかならないか。
◎走った距離
当初の計画ルート合計1500キロに対し、
クラコフ-ワルシャワ間 432キロ
ワルシャワ市内 82キロ
ワルシャワ-グダンスク間 448キロ
グダンスク市内 39キロ
グダンスク-ドイツ国境間 496キロ
ポーランド国内の累計走行距離は1497kmとなった。
ボクの場合はランドナー(650Bx32mm)だが、これまでノーパンク、ノートラブルである。タイヤもすり減ってきており、ボロかったサドルがさらにボロくなってしまった。勲章のようなものなので交換する気はない。
◎日程
当初、1人旅のため、雨、病気、その他のアクシデントを想定して、32日間という、かなり余裕を持った日程を組んだ。
順調に日程を消化してきたので、腰をすえてじっくりと見るべきところも廻ることができたし、なにより気持ちにゆとりが生まれて良い。
ギリギリの日程だとどうしても「駆け足旅」になるが、この余裕をもった彷徨は最高だ。
◎人々の表情
「ドブレ」(こんにちわ)と声を掛けても、無視する人、ぼそぼそと小さな声でつぶやく人がほとんどで、トルコ、ブルガリア、セビリアの人たちのような陽気さが感じられない。ドイツやソ連などから侵略を受けてきたので、外国人とは関わらない、または外国人は信頼できないといったことがあるのかもしれない。
あるいは英語が出来ない人がほとんどなので、しゃべりかけると「逃げ」の構えになる。この点では日本人も同じだ。
◎ホストファミリー
前に「開けた人々」と書いたが、国際草の根交流組織サーバスのメンバーであるホストは全く違う。まず積極的に外国人を受け入れて、もてなそうという精神にあふれている。ポーランドで訪れたのは全部で4家庭(クラコフ1家庭2泊、ワルシャワ2家庭各1泊、シュテチン1家庭2泊)。
ごく普通の暮らしぶりだが、教育レベルが高く、政治、経済、国際問題にも明るく、かつ旅行経験や他国での生活体験を持つ人も多い。実際のポーランド人家庭生活を体験しながら、様々なことが話しあえる「ミニ国際交流」は楽しく、面白い。
◎美味いもの
初めからポーランド料理など期待していなかった。スープのことを「ズッペ」というが、これが何種類もあり、疲れて食が進まないときはズッペに限る。モツ煮込み風、カブの酢漬け風、ジャガイモと人参のトラディショナルのものなど、どれも美味かった。
「ザピエカンキ」と呼ばれるグリルドオープンサンドも癖になってしまった。チーズやサラダを乗せてあり、たっぷりとケチャップが掛かっている。
「ケバブ」と呼ばれる料理はトルコでおなじみのものだが、厚めのナンのようなパン生地の中にたっぷりとしたサラダのなかにケバブが少し混ざっているだけで、とてもヘルシー。
サーモンだけでなく、様々な魚の薫製も絶妙の味だ。これにビネガーたっぷりのサラダを添えて食べるとビールが進む。
◎ビールとズブロッカ
毎日走っているので、疲れた体にビールがしみこむ感覚がたまらない。ポーランドにはたくさんの種類のビールがあるが、代表的なものは男女が民族衣装で踊っているラベルの「ZYWIEC」(ジビック)だ。これが、やや色が濃く、コクがあって旨い。
ポーランドの焼酎、ズブロッカは日本ではボトルのなかに野草の茎が入ったものが有名だが、これにもいろいろある。ボクの場合は、日本の屠蘇に近い薬草入りで甘い味の「ZLOTA」が気に入っており、ボトルが空になれば同じものを買ってきて飲んでいる。
◎「極楽トンボ」の相棒、吉川さん
「ついて行きたい」というので、大丈夫かなと思っていたが、本当に最後までついてきた。小径車では辛い場面が何度もあった。
「ダートはイヤ」、「○○に行きたい」など時々勝手なことをつぶやいているが、一切耳を貸さない。「ついてきたんだから文句を云うな」とは云わないが無視するだけだ。いちいち注文を聞いていたら、こちらの計画が狂ってしまう。
メリットは、二人でツインが取れるので経済的。食い物をシェアできる。写真を撮りあえる。防犯的にも助け合える…など、いろいろ。
「雑学メンバー」のなかには「珍道中」を期待する向きもあったが、ドイツに入ったとたん彼とはぐれてしまい、現在、行方不明。警察のパトカーで2時間探したが発見できず、その後、すでに24時間が経過している。彼との連絡手段は唯一メールのみ、彼のドコモのケイタイは使い物にならない。どこを放浪しているのやら…。放浪初等科だからこちらも気になる。早く、ボクのメールを読んでくれよ。ベルリン近郊のホテルで待って居るんだ。(舘浩道 100712記す)
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2010年7月19日 舘 浩道 記す |
●最終回レポート
<東ドイツを走ってハノーバーへ(最終レポート)>
さて、ボクの目の前から忽然と消えてしまった吉川さんは、ほぼ30時間後にベルリンから電話を寄越し、ボクらはベルリンで無事合流できた。しかしボクらが知らないところで、たいへんな事態が進行していたことが、後に判明する。このことは彼のプライバーシーにも関わることなので、ネットでの公表は控えたいが、個人で自転車旅をするものにとって、とても貴重な体験となったので、機会があれば「雑学の例会」にでもお話できるかもしれない。
7月13日、ボクは暑さを避けて早朝から走りはじめ、ベルリン近郊の深い森を抜けて、ひそかに決めていたボクの今回の旅のゴール「ブランデルブルグ門」に着いた。長い自転車旅のゴールである。それなりの感慨があった。
ここで吉川さんと落ち合ったあと、ボクらはサーバスのホスト Berthold Breid さんの高級マンションに転がりこんだ。彼は日本人以上に多忙なビジネス生活を送っており、2日間、ボクらに鍵を預けて、冷蔵庫のビールを飲むのも、洗濯機を使うもの、なにをするのも結構といってくれて、本当に自由に使わせてもらった。お礼にと「肉じゃが」を作って待ったが、深夜まで帰ってこなかった。
ベルリンで印象に残っているのは、巨大な若きレーニンの胸像に「NO」の落書きがされており、消されないまま放置されている。「過去はもういい」とでも云おうか、現在のベルリン市民の気持ちが解るようなような気がした。また東独の国民車トラバントも展示してあるDDR博物館…東ドイツ博物館も、当時の市民生活の様子が解り面白かった。
ベルリン以降、ボクらは西のハノーバーに向けて数日間の自転車旅をしたが、このなかで2つのことだけ触れておきたい。もちろんドイツのビールやハム、ソーセージ類も楽しんだのだが、それを書き出すと長くなるので、止めておく。
話題の一つはベルリン近郊の美しい街ポツダムに立ち寄り、偶然にも地元女性の案内で、歴史上有名な「ポツダム会談」が行われた貴族の山荘ツェツィーリエンホーフ宮殿を訪れることができたことだ。
美しい湖と、後に世界遺産に指定された古い木造のこの館でトルーマン、チャーチル、それにスターリンのビッグスリー会談が行われたのだった。第二次世界大戦の終結とその後のドイツ統治を主な議題とする、この歴史的会談は、日本の北方領土問題にも大きな影響を及ぼし、日本は千島放棄、北方4島ソ連統治を内容とする「ポツダム宣言」を受諾するのである。この会談で日本はドイツとともに「お白州」に置かれ、日本国民にとっては文字通りの「蚊帳の外」の出来事だった。
さらに2日後、ウーベスフェーラ Oebisfelbe という小さな街を過ぎたところで、旧東ドイツから旧西ドイツ地域に入った。さきの「ポツダム会談」によってソ連占領地域がそのまま「東ドイツ」となり、長い「冷戦」時代を迎えるのだが、そのドイツの東西を分けた境界線には非武装地帯や監視塔など、往時の様子を示す看板が出ていたし、その隣には1989年に「東西問題」は解決され、欧州は統合されたという看板も立てられていた。その横をクルマが通過して行く。
さて、最後の話題はドイツ自転車道のことだ。ボクは常々「自動車大国ドイツ、自転車天国ドイツ」と勝手に呼んでいるのだが、この数日、ドイツ国内の自転車道を走ってみた結果を報告してみたい。
ボクは何度も、ドイツやオランダを走っているので、これらの国の素晴らしい自転車環境のことは知っているつもりでいた。その特徴は、一般道路とは完全に分離された途切れることのない自転車専用道や都市部の専用レーン、付随する自転車用信号機や右折専用レーンなどだ。もちろん、全国に張り巡らされた、楽しいサイクリング道路もあり、代表的なものにライン河サイクリング道路やドナウ河サイクリング道路などがある。さらに西欧や東欧を繋ぐヨーロッパサイクリング道路なんてものまである。
東ドイツの場合、経済発展がやや遅れているので、自転車環境整備もあまり進んでいないのではないかと思っていたが、ベルリンにもしっかり自転車専用レーンがあり、郊外のローカルな一般道路にも、時々途切れるもののクルマとは遮断された自転車専用道が平行して延びていた。ボクらは専用道があるところは、そこを走り、途切れたら一般道路の路肩を走るということを何度も繰り返した。
フォルクスワーゲン工場がある街ウォルフスブルグ Wolfsburg に入り、何層にも重なったジャンクションを抜ける自転車道を通ったときのことである。自転車道はそのジャンクションの下を短いトンネルで繋いでおり、東西南北どちらの方向へも信号待ちなしで素早く、かつ安全に市内中心部へ入れた。フォルクスワーゲン工場の街だから自動車交通も大事、しかし自転車交通をその犠牲にしないという合理主義が貫かれていた。
極めつきは、ボクらの旅のゴール、ハノーバーである。冷戦時代、ハノーバーから東ドイツ内の西ベルリンへ生活物資を運んだというミッテランド運河に作られたサイクリング道路を辿って、ハノーバー市内に入り驚いた。自転車道路が縦横無尽に走っている。それも深い森のなか。森の木々が視界を遮るので、どこを走っているのか、見当もつかない。
「神宮の森」を何倍も大きくしたような森のなかは、ほとんど自転車道だけ、あらゆる方向に通じている。調べると、マッシュ湖を基点として合計15本の自転車道路が放射状に延びている。もちろんクルマとはほとんど出会うことがなかったから、これは自転車中心の驚異的な都市デザインだ。渋滞とクルマ公害からの克服をめざすハノーバーの自転車中心の街づくりは、70年代から取り組まれ、今では全長530キロの自転車専用道と約5000カ所の無料駐輪場もあるという。日曜日のこの日、ハノーバー市民が2〜300人、森のなかでビールなど飲みながらゆっくりとした時間を過ごしていた。その周りにはおびただしい数の自転車が駐輪していた。
前回レポートから数日が経過し、ハノーバーまでやってきた。この街でボクらの自転車旅を終えることにする。ドイツ国内の走行距離は604キロ。ポーランド国内走行分1497kmを加えて2101kmとなり、さらにブルガリア、セビリアの走行分を加えると、ボクらの50日間の自転車旅の累計走行距離は3000キロを越えてしまい、タイヤもすり減ってしまった。
全10回にわたる報告を読んでいただいたみなさん。最後までのお付き合い、誠にありがとうございました。行間から、気ままな自転車旅のすばらしさ、さまざまな現地の人たちとの交流、ポーランドの自然、ドイツの自転車環境のことなどを、くみ取っていただけたのではないかと思っています。
また少なくない読者の方々から、ご質問や感想も頂き、励みにもなりました。改めてお礼申し上げます。
帰国後、日常生活に復帰するまでしばらく時間がかかるかもしれませんが、よろしくお願いします。(舘浩道 100719記す)
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