「ツール・ド・シルクロード2010」 |
第18次遠征 |
カピタン・アンデュレヴォ~ベオグラード |
現地からの報告 |
日程表:下記参照 | ||
ルート地図・Google Map, Google Earth で見たルート | ||
現地からの報告 | ||
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上記のツアーでベオグラードについてから2人のメンバー(高齢者)は1か月間のポーランド自転車旅行(車サポートなし)に出掛けました。アウシェビッツを含む旅の報告を掲載します。こちらをどうぞ。 |
「ツール・ド・シルクロード2010」 | ||||
カピタン・アンデュレヴォ~ベオグラード/日程表 | ||||
(ブルガリア・セルビア) | ||||
日程 | 6 月 | 曜日 | 行動や移動 | 宿泊 |
1 | 2日 | 水 | 成田(Narita)発 →Sofia(飛行機) | Sofia |
2 | 3日 | 木 | Sofia(ソフィア)発⇒(バスにて)→Kapitan-Andreevo(カピタン・アデュレヴォ)着 | Kapitan-Andreevo |
3 | 4日 | 金 | Kapitan-Andreevo滞在、自転車の組み立て | Kapitan-Andreevo |
4 | 5日 | 土 | Cycling ①Kapitan-Andreevo→Dimitrovgrad 70km | Dimitrovgrad |
5 | 6日 | 日 | Cycling ②Dimitrovgr→Bachkovo 80㎞ | Bachkovo |
6 | 7日 | 月 | Cycling ③Bachkovo→Velingrad 100㎞ | Velingrad |
7 | 8日 | 火 | Cycling ④Velingrad→ Dolna Bania→Borovets 80km | Borovets |
8 | 9日 | 水 | Cycling ⑤Borovets →Sofia 70km | Sofia |
9 | 10日 | 木 | Sofia市内観光 | Sofia |
10 | 11日 | 金 | Cycling ⑥Sofia→Pirot 80㎞ | Pirot |
11 | 12日 | 土 | Cycling ⑦Pirot→Nis 70㎞ | Mis |
12 | 13日 | 日 | Cycling ⑧Mis→Krusevac 100㎞ | Krusevac |
13 | 14日 | 月 | Cycling ⑨Krusevac→Kragujevac 70㎞ 近道 | Kragujevac |
14 | 15日 | 火 | Cycling ⑩Kragujevac→Pozarevac 80㎞、到着後、 自転車解体 |
Pozarevac |
15 | 16日 | 水 | Cycling ⑪Pozarevac→Beograd 70㎞、到着後、 自転車解体 |
Beograd |
16 | 17日 | 木 | Beograd(ベオグラード)市内観光 | Beograd |
17 | 18日 | 金 | Beograd発⇒Wien(ウィーン)経由⇒ | 機内 |
18 | 19日 | 土 | 成田着 |
「ツール・ド・シルクロード20年計画」第18次遠征 |
このページのアクセス数です。19日朝5時40分。 帰国の18日は過去最高の51件になりました。 ご家族の皆様が現地の様子を知るのにお役に立てたようです。 |
参加者の一言 |
参加者の一言 (舘さんにまとめてもらいました) |
(毎日の気配りが大変な、長沢) スタッフとブルガリア、セビリアの人に感謝している (鉄路に前輪取られ本望の「鉄ちゃん」こと、高山) 初参加ですが先輩に教えられ完走できました (毎日、蝶を追いかけた、湊) 幸せいっぱい、お陰様いっぱいです (博学が走っているような、鷲巣) べートーベンの「田園交響曲」のような風景のなかを走ることができて、とても楽しかった (BSモールトンでポーランドにも行きたい、吉川) 暑さと、「ごま塩」と、「ひび割れせんべい」に苦労しました (力走力をつけてきた、川原) 成田まで熱があったのに完走できてよかった (リム変形も器用に直す名工、市川) 無事に終われてなによりです。ローマに向けてさらに頑張りましょう (レポートのネタ探しに忙しい、松本) とても楽しかったし、これからあと2年続けたい (まめに風景を撮りまくった、坂井) 走り屋が多く疲れた。シルクロードらしくのんびり行きたかった (ブルガリアを琴欧州シャツで走った、横田) 琴欧州は人気なかった。横綱に早くなりましょう (秘めたる情熱の、山田) ブルガリアとセビリア、印象の違う国を走ることができてよかった (走りも口も忙しい、田澤) レースのように続く道を走れて素敵でした (しんがりを務めてくれた、水上) みんなで900キロを走った喜びと、セビリアの貴公子マルコと走れてよかった (ビールは脱水症状になるよと優しく忠告の、矢端) バルカン半島ののびやかな風景と優しい人々に接することが出来、感激 (新車ランドナーのパンクに悩まされた、堀江) ドナウの平原の向こうに麦やヒマワリの丸い地平線が広がっていた、ホットな毎日だったが面白かった (親子の対話も果たせた、林) 完走できるとは思っていなかった (毎日ジャージを替える伊達男、清水) シルクロード初参加、団体走、海外走も初めてだが2週間楽しく過ごせた (ポーランドで野たれ死にするなと冷やかされている、舘) 旧共産圏の二つの国を走ったが、人々は明るく親切だった |
スタッフの一言 |
(旅行社マネージャーの、ミーシャ) 日本人のお世話は初めてだが楽しかった、また来てください (ドラーバーの、リュマ) 優しくて、元気な日本人と過ごせてよかった (長く細い脚のマルコ) とても良かった、最高 (ベオグラード大学で日本語を学んだ美人の、ビザラ) 優しい日本人に会えて感動です |
第1報 現地報告 2010年6月3日 9時(ブルルガリア時間/日本時間よりマイナス6時間―日本時間では6月3日15時) 6月2日(水) 第1日目 移動は、成田→ミュンヘン(ドイツ)→ソフィア(ブルガリア) 6時45分 東京都立川市の立川駅近くから成田行きのバスに乗車。立川の天気は晴れ、気温も高く街を行く人は半そで姿も見受けられた。 8時30分 成田空港に到着。 10時 19名の参加者の中、10名がそろったので搭乗手続きを始めてもらった。利用するのは、ルフトハンザ LH715便のミュンヘン行き。出発は12時25分。 自転車を預けるには往復で330ユーロが必要。そのため、自転車を預けるのは32キログラムまでOK。そのほかに手荷物として20キログラムまで預けることができる。このシステムは、ルフトハンザでは2008年から実施しているという。 当初、オーストリア航空の利用を予定していた。往路は、成田からウィーン、ソフィア、帰路はセルビアのベオグラード、ウィーン、成田というルートであった。ところが、出発の3週間前に、オーストラリア航空のウィーンからソフィアへ飛ぶ飛行機には、自転車を6台しか積めないことがわかった。急遽、ルフトハンザのフライトに変更した。ところが、今度は、自転車を預けるためには330ユーロ必要だとのことになった。 ソフィアやベオグラード(セルビア)を出発やゴール地点として7名以上で自転車で旅行する場合、ルフトハンザしか選択肢がないようである。 10時30分 全員がそろった。帰りの便で自転車を預ける代金は、クーポンとして成田で支払い、現地での支払いがないようにした。出発までは、空港内で思い思いに過ごす。ビールを飲む人、そばを食べる人、家族に電話をする人、仕事の電話に追われている人。10人10色である。 12時25分 ルフトハンザ、ミュンヘン行きが出発。 ミュンヘンまでは約9400キロメートル。11時間40分のフライトだとのアナウンスがあった。高度は35000フィート、10668メートルを表示。外気温は-57℃、時速は800キロメートルくらいであろうか。 機内の画面には、世界地図と飛行のルートが表示され、時間の経緯とともに飛行している位置を知らせている。ルートは、ほぼステップルートを進む。昔のユーラシア大陸の交流も東西世界が行きかうのは、距離を考えるとステップルートが盛んであったのであろうか。 それにしてもオアシスルートは緑が少ない。昔と今では植物の量や植生に違いがあると思うが、大きく異なることはないように思う。 動物が生きるために必要なのは、食べ物と水。オアシスルートが利用されるようになったのは、自然なことなのであろうか。それとも政治的な背景があって生まれたものなのであろうか。あるいは鉄などの文明によって開拓されたルートなのであろうか。 12時間近いフライトでは、世界地図を眺めながらボーッとして、こんなことを考えながら、食事を2回むかえた。 24時30分ころ(2日の行動が分かるように、時間の数字を重ねて表示します)、(ドイツ時間は17時30分)、ミュンヘンに到着した。強い雨が降っていた。空港のテレビでは、ポーランドは洪水だと報道している。 出発前、ソフィアの旅行会社からメールがあった。「長雨の影響でソフィアで宿泊する予定のホテルは、部屋が水浸しになり、1部屋はシャワーが使えない。ほかの部屋のシャワーを借りてほしい」とのことであった。 ホームステイを中心としてしるので、大部屋やシャワーを借りに行くことには慣れている。心配ご無用と返事を送っていた。 ミュンヘン空港での荷物や身体のチェックはきびしかった。ベルトの金具も引っかかる。ビンディングの靴も引っかかる。うで時計も外してチェックのゲートをくぐった。 ソフィア行きの飛行機は、25時55分(ドイツ時間は18時55分)搭乗手続き開始の予定であったが、26時25分(19時25分)に変更になった。この時間、日本時間では3日夜中の2時25分。移動中の私たちには、2日19時25分。長い1日が、まだまだ続く。 26時50分 ミュンヘン行きが出発。強い雨が降る中を離陸した。雲の中では機体が揺れた。機内では日本語のアナウンスが流れた。私たちのほかに日本人の団体客はみかけない。日本人の利用の多いルートなのであろうか。 28時15分(日本時間で3日4時15分) ソフィアが近くなったのか、眼下に街の明かりが見えるようになった。雲は地上を覆っていないで、晴れているようだ。 しかし、道路の輪郭を描いて街灯が、街や村を結ぶ明かりの線が見えない。エコなのであろうか、経済的な理由であろうか。 日本でも中国でも中央アジアでも、夜のフライトの楽しみは、街灯の描く線により、人々の交流の様子、暮らしぶりが「明かり」によって感じられる点にある。しかし、ブルガリアでは、そのような様子を今日は見ることができなかった。エネルギー事情なのであろうか。 28時25分(日本時間3日4時25分) ソフィア空港に到着した。機内から星が見えた。雨上がりなのか空港の路面はぬれている。外が寒いのか、飛行機の窓の外側は曇っている。 29時 空港に降り立ち自転車が手元に届いた。19台そろった。ブルガリア時間では2日の23時。長い1日も終わりに近い。 29時15分、日本語ガイド、ミリッツィアさんという女性の出迎えを受ける。以前は、琴欧州関の故郷の街にある大学で日本語を教えていたという。 宿泊のホテルは、HEMUS HOTELであった。シャワーも何も問題はない。それもそのはず、ソフィアの街の中心部にある20階建てほどのホテルで、最上階にはすしバーがあり、カジノまで揃っていた。 |
ソフィアのホテルの窓から朝5時30分。吉川 達也さん撮影。 下水工事をホテルの前の大通りで夜通しやっていて騒音で眠れず。 曇ってはいるが雨ではなさそう。 |
ソフィアのホテルの外観。吉川 達也さん撮影。 |
Kapitan Andreevoのホテル外観。吉川 達也さん撮影。 |
Kapitan Andreevoでの夕食風景。松本 治さん撮影。 |
Kapitan Andreevoの夕食の土鍋料理。松本 治さん撮影。 |
朝食会場と朝食。吉川 達也さん撮影。 |
パンは塩辛い白いチーズを入れて焼いたものです。とっても塩辛いです。 あとどんぶり一杯のヨーグルト。野菜、たまご、ハムなど無しです。 典型的なブルガリアの朝食だそうです。吉川 達也さん撮影。 |
第2報 現地報告 |
2010年6月4日 11時(ブルルガリア時間/日本時間よりマイナス6時間) 6月3日(木) ソフィア くもり 本日の移動、ソフィア→ルビメス(Ljubimec) 7時ホテルで朝食。バイキング形式だった。 8時 本日の宿泊地・ルビメス(Ljubimec)へ向かう。19名と日本語ガイド、ドライバー2名の合計22名というメンバー構成。そして自転車19台を積んだトラック1台。途中の街・プロブディヴィ(Plovdiv)で昼食の予定だ。 ソフィアを出ると、バスは高速道路に入った。小雨の中を緑の草原を進む。春の若葉が目にまぶしい中を南東へと進んだ。右手の向こうには雪景色の山並みが道路に沿うようにして連なっている。 10時50分 ガイドのミリさんが、ブルガリアの歴史を説明してくれた。ブルガリア人は、もともと、アフガニスタンのあたりに住んでいたと考古学者は想定しているという。また、新橋にあるブルガリア料理のお店「ソフィア」でいただいた「ブルガリア語」の資料を利用して、即席のブルガリア語講座に取り組んでくれた。 昼食を予定しているプロブディヴィは、ブルガリアでは第2の都市。ローマ時代の遺跡があり、劇場の遺跡は、円形の階段がある。石造りの劇場として今日でもコンサートなどで利用されているという。 ブルガリアでは、首都であるソフィアを好きだという人、ローマ時代の遺跡が現在も文化的な活動に利用されている古都・プロブディヴィを好きだという人、市民の嗜好は2分されているとも話してくれた。 高速道路は、葡萄畑の中、ひまわり畑の中、麦畑の中、そして、羊や馬、牛やヤギの放牧されている風景の中をめぐっている。時には、水田があり稲作もおこなわれていた。遠い昔は黒い森におおわれていたのか、ところどころに鎮守の森のような光景もみかけた。 12時30分 プロブディヴィに到着。小雨の中を旧市街にあるお城へと、歩いて石畳の坂道を登り始めた。雨が強くなり、傘なしでは歩けない。旧市街のお土産屋さんで傘を買った。強い雨の中をさらに歩いて、古民家を利用したレストランに入った。百数十年も経った民家をそのままレストランにしているとレストランのオーナーのような男性が説明してくれた。ブルガリアの意外な歴史に触れた思いで、レストランの2階の窓から石畳の路地を見下ろした。 15時 昼食を済ませて石畳の通路に出ると雨は上がっていた。今度は強い日差しが路地に差し込んでいた。先ほどまで、濡れて滑りやすかった石畳はすっかり乾いた。丘の上にある城跡へと歩く観光客の後について散策した。城跡からは、旧市街の家並みは、赤い瓦屋根の並びでわかった。お土産屋さんで、趣味としているひょうたんの民芸品を購入した。 18時30分ころ、宿泊地・ルビメスに到着した。部屋割りをして、19時30分から夕食とした。わたしは、今日は5人部屋。林史朗さん、水上さん、矢端さん、川原さん、そしてわたしの5名が同室。シャワーとトイレは、5人で1つを共用となった。そこで、シャワーは、ほかの部屋へ借りに出かけた。 22時ころ休んだのだが、水上さんがホテルの脇にある広場に出てみると、満天の星が空を覆っていたという。明日は、天候に恵まれるようだ。外の気温は9度だった。 |
プロブディブの旧市街にある、歴代の豪族が住んでいた遺跡ネペットテペの最高地点で万歳するジャリンコ千恵。松本 治さん撮影。 |
プロブディブの旧市街の140年前に建てられたブルガリアの豪族の家をレストアーした博物館。松本 治さん撮影。 |
第3報 現地報告 |
2010年6月5日 21時(ブルルガリア時間/日本時間よりマイナス6時間) 6月4日(金) ルビメス 快晴 朝の気温は9℃ 本日の移動、ルビメス(Ljubimec)→カピタン・アンデレボ(Kapitan Andreevo)→ルビメス 7時 朝食。「バンサ」というブルガリの伝統的なパンが出された。それにどんぶり1杯のヨーグルト、ハーブティーの朝食。飲み物のハーブティーは、コーヒー、紅茶、ハーブティーから好きなように何杯でも飲むことができた。 バスのドライバーは、イリヤさん。トラックのドライバーは、コッツェさんという名前だと、ガイドのミリさんが教えてくれた。 8時 自転車の組み立て。トラブルがあった。1台の自転車は、フロントの一番大きなギアがグニャリと曲がってしまっていた。ホテル近くの自動車修理工場で、まがったギアに力を加えて元に戻そうと試みたが、うまくいかない。走行の際に、大きなギアに入れないこととする。 また、もう1台の自転車は、後輪のデスクブレーキのデスクが入らないと言っていた。よく見ると、クリックのレリースのばねが逆に入っていた。 9時ころ 組み立てを終える。 10時 ブルガリア国内の走行ルートと宿泊地を具体的に確認することにした。出席者は、市川、湊、水上、長澤、ガイドのミリさん、ブルガリアの旅行者の社長・Veselin Djambovさん、トラックのドライバー・、バスのドライバー。 この時に、現在の宿泊地の先30キロメートルの地点に国境のあることがわかった。そこで、昼食後、国境の町・カピタン・アンデレボまでの往復を走り、足慣らしとすることにした。往復60キロメートルほどであるが、実質的には、走行第1日目とすることにした。 12時30分 昼食。 13時30分 ホテルを出て、国境の町・カピタン・アンデレボを19名で目指した。ゆるやかなアップダウンを繰り返して、ひまわり畑の間を進む。いくつかの町を通り過ぎたが、バイパスができていて、町の中心部を通らないで国境へ行けるようになっている。 夏休み中ではあるが、近くの町で大きなお祭りがあるという。そのためなのか、子供たちの姿を見かけることは少なかった。バイパス道路が、影響しているのかもしれない。 15時ころ、国境に到着。カピタン・アンデレボは、国境の2キロメートル手前にあるが、あちこちの電信柱や民家の上にコウノトリが巣を作り、子育ての最中であった。大きな巣の周りには、小さな雀が数十羽も集まっていた。雛に与えるえさのおこぼれを頂戴しているのであろうか。日本人にとって、コウノトリは珍しい。写真を撮ろうとするのだが、真横を向いた姿勢を待ってシャッターを押す。だが、待ち時間が長い。思うようなポーズを取ってくれないのだ。 15時30分 宿へ引き返すことにした。帰りは疲れが出たのか、ちょっとした上り坂にさしかかると、先頭と最後尾の距離が大きく開いてしまう。間に大きな長距離トラックが入って危険なので、ガイドさんから一団となって集団で走ってほしい、と注意が出る。 何度も休憩して隊列を整えるのだが、上り坂になると力の差が出てしまう。ドライバーも、安全に走行するために一団で走ってほしいというが、気持ちはあっても体がついていかないメンバーは、どうしても遅れがちとなる。 17時 雨が降り出した。行く手には黒い雲が待っている。雨が通り過ぎるのを待とう。道路わきにあるお店でチャイを飲みながら雨宿りすることにした。 20分ほどで空が明るくなり、雨は小降りになった。あと12キロメートほどで宿泊地なので、一気に走ろうということになった。ところが、再び雨は強くなり、本降りになった。先頭は時速30キロメートルほどで走って、一刻も早く宿へ帰ろうとする。 なかなかスピードの上がらないメンバーの時速は20キロ弱。次々と追い越すトラックの巻き上げるしぶきを被り、スピードは上がらない。ホテルに到着したのは、18時5分となった。下着までずぶぬれになっていた。 19時 夕食。サラダは山盛り、サチという鉄板焼きのお肉も多かった。「半分でいい」「4分の1でいい」との声が出ていたが、デザートは思いのほかお腹に納まった。 |
鷲巣さんの運転しながら写真を撮る仕組み。吉川 達也さん撮影。 |
出発風景。吉川 達也さん撮影。 |
国境3キロの町でのコウノトリの子育て。吉川 達也さん撮影。 |
トルコの国境。吉川 達也さん撮影。 |
雨宿り。吉川 達也さん撮影。 |
第4報 現地報告 |
2010年6月6日 6時(ブルルガリア時間/日本時間よりマイナス6時間) 6月5日(土) ルビメス 快晴 朝の気温は9℃ 本日の移動、ルビメス(Ljubimec)→Harmanli→ハスコボ(Haskovo) 7時 朝食。ハムとチーズの盛り合わせが出る。それにパン。今日は、ヨーグルトが出なかった。ジュースは、オレンジなどのフレッシュジュース。 地図を見ると、途中で鉄道とクロスする。その後、Y字路があり、鉄道と川に沿う北東ルートと山の方向に北西へ行く道路に分かれている。私達が進むのは、山に向かうルートだ。だから、Y字路からはアップダウンを繰り返しながら、少しずつ高度を上げると思われる。 7時30分ころ 在日ブルガリア大使館の文化担当官、ダニエラ・ニコロバさんが、友達のデルガナ・イリエバさんと二人で合流。若い女性の参加で、オジサンたちは興奮気味。名前を聞いたり歓声を上げたり。イリエバさんは、マウンテンバイクに乗りなれた感じの服装であった。ニコロバさんは、借りたマウンテンバイクということで、サドルとハンドルの高さを調節した。ねじが錆びついていて二人がかりでねじを緩めた。舘さんが熱心に手伝ってくれた。感謝。 8時15分 出発。30分ごとに休憩の予定だが、道路が狭く思い通りに休憩できない。ドライブインやガソリンスタンドをみつけて休憩する。 道路の両側には、胡桃の並木が続いている。時々、桑の木、アーモンド、サクランボ、アンズなどの木が混じっている。胡桃の原産地は、イランと言われている。これまで、胡桃の並木を見たことはなかった。若いクルミの実を丸ごとシロップで漬けたデザートをアルメニアで食べたことがある。胡桃の殻も柔らかく、おいしく食べた記憶がよみがえった。ブルガリアでは、どんな胡桃の料理があるのか。 途中で道路脇の畑に大きな鳥がたくさんいた。ニコロバさんに聞いたら、「コウノトリです。昨日雨が降ったので、虫が地表に出ていて、それを食べているのかもしれません」とのこと。春だから子育てのコウノトリを見られるのだとも教えてくれた。そういえば、昨年の秋にトルコで見たコウノトリの巣には、鳥の姿はなかった。季節によって、風景だけでなく鳥の種類もかわってくる。当たり前のことだが、生活圏から離れてすっかり忘れていた自然の営み。よくわかった。 11時30分 ガソリンスタンドで休憩した。ここの庭で昼食させてほしいと頼むが「300メートル先に公園がある。そちらのほうがいい」と提案された。トイレだけ借りて、公園へ移動した。ホテルが準備してくれたランチボックスを広げる。だが、どうしても2人分足りない。幸いなことに、ブルガリアの料理は、日本人にとって量が多い。一人にハンバーグが2個用意されていたが、一人1個で十分。2人分足りないのだが、結果的には食べきれない。あまってしまった。通りがかりの子供たちにも食べてもらった。子供たちも喜んでいた。行き当たりばったりの、こんな交流が楽しい。 昼食後、湊さんが蝶の採集をはじめた。モンシロチョウだけでなく、日本では見かけない蝶も捕まえたという。しかも、日本のモンシロチョウは、2つの紋のはっきりした個体。昨年、湊さんがトルコで採集したモンシロチョウは、はっきりした紋は1つ、ほかの一つは薄かった。ところが、ここで採集したモンシロチョウの中には、2つの紋がはっきりした個体もあった。 また、地中海から日本へとキャベツなどの菜の花の類といっしょに伝播したと思われるモンシロチョウに対して、アジアからヨーロッパへとスジグロチョウが伝播している。今回は、スジグロチョウも採集できた。日本固有のエゾスジグロチョウかもしれない。そうであれば、思わぬ発見だ。帰国後の詳しい観察が楽しみに加わった。 12時45分 午後の走行のスタート。牧草のような草原が広がる丘陵地帯を進む。丘に登ってみると麦畑だった。長距離トラックが多いが、日本のトラック野郎のように自転車乗りを蹴散らすようなハンドルさばきは見かけない。追い越す際に自転車にすり寄っていやがらせをするような陰湿なトラック野郎もいない。シルクロードのトラックドライバーは、紳士ばかりだ。 ブルガリアの道路事情は、自転車の走行を前提とした構造ではない。道路も路肩も狭い。それでも、ドライバーは自転車を、車と同じような乗り物として対応してくれる。日本との自転車に対する文化の違いを感じた。やはり、ヨーロッパだ。 1名は、パンクの修理のためにホテルへバスで移動した。 14時ころ ハスコボ(Haskovo)のホテルに到着。エレベーターもある立派なホテルに驚嘆。ニコロバさんに話したら、中は合宿所みたいですよとのこと。走行距離は約60キロメートル。今日の宿泊は、川原さんとの二人部屋。曇り空だった。 昨日、時計の電池が切れて動かなくなった。そこで、時計を買うことにした。5レフ、250円ほどだった。ブルガリアの記念を一つゲット。 14時30分 アレクサンドロフ村にあるトラキア人の遺跡に建てられた博物館を見学に行く。途中で4バッグのサイクリストを見かけた。これで、今回3人目である。ホテルからは13キロメートルほどの距離だというが、バスで移動中に土砂降りの雨に見舞われた。 博物館へも傘をさして駐車場から入口へ向かった。丘の上に博物館はあった。 日本の無償援助で博物館が建てられたのだと、ガイドのミリさんは私たちにも感謝の言葉を言ってくれた。なかなか謙虚な人だ。古墳からの発掘物を展示しているという。展示物は、約2400年前の生活を想起させるものだった。当時のこの地域の自然の豊かさも狩猟の様子や鉄器の刀、槍などから想像することができた。 博物館を出ると、雨は上がっていた。周囲を見渡せる丘の上に古墳が立地していたことがわかった。庶民の竈の火を見下ろせる位置に、王さまは墓を建てたのであろうか。 17時30分ころ ホテルに戻る。18時30分ロビーで山田さんに、夕食のときにレトルト食品の赤飯をスタッフに食べてもらうために用意していたが、この調理をお願いする。 19時 夕食。スタッフと一緒にお酒も飲みながらの夕食とした。お酒は、ブルガリアの伝統的なお酒ラキア、ビール、ワインと進めるのがブルガリア流だと、コックの方が話してくれた。この通りにお酒を飲むことになった。ブルガリア人のスタッフによる一言スピーチなどで宴席は盛り上がった。 おいしい鶏肉が出たが、参加者の一人は「これは鳥肉じゃない。何の肉だ」とお酒の力も加わってしつこく問いただしていた。ガイドのミリさんは、「鶏肉です」となんども答えるが、酔いのまわったメンバーは納得しない。ミリさんは、トラックのドライバーに聞いた。「ピレ、ピレシコ」との返事が返ってきた。ブルガリア語で「鶏だ」というのだ。結局、納得することはなかった。 市川さんは「ピレシコ、メソ」といい、矢端さんは「おいしい鶏肉ですね」と。何度も同じことを繰り返し「もうわかりました」とミリさんに大きな声で抑えられるスピーカーも出てきた。こうなったらお開きである。湊さんに耳打ちして、20時30分頃、一旦お開きとした。宴会はさらに30分ほど続いた。 二人のトラックドライバーは、ラキアが大好きだという。ビールもワインもいらない。最初から最後までラキアなんだという。しかし、ラキアのグラスに口をつけたのは2杯まで。明日の運転を安全にと考えて、飲まないのだという。それでも、次々とラキアをすすめるメンバーもいた。 22時少し前、花火のような大きな音に気が付き窓の外を見る。正面に花火が上がった。あわててビデオを取り出したが、ちょうど終わってしまった。時計は22時をさしていた。 |
今朝の朝食、野菜は無し |
出発まえ風景 |
お昼の弁当、中は開けてのお楽しみ |
日本ブルガリア大使館員、今日明日一緒にサイクリング |
その友達、日本に2回訪問 |
駐車場の小さなお店。右のケースの中はチーズ。直径30センチほどのもので2400円位。 |
店の中、駐車場の店なのにビール、ウオッカを売ってる。 |
コウノトリの群落を発見。 |
休憩風景、横を大型トラックが。怖い。 |
死亡広告。町の壁、電柱に張ってある。 |
弁当袋の中身。バーガー2個にチョコパン、ジュース。とても食べられる量ではない。 |
昼食風景、土曜日で休みの郵便局の入り口。 |
Haskovo到着後バスで古墳博物館を訪問。 展示場の入り口。 ガイドのミリチャンはこの博物館の建設、展示の日本語サポートを担当したとのこと。 |
発掘した古墳はここに保存されている。 |
博物館の看板。 |
博物館の全景。日本のODAで建てられた。 |
駐車場の看板。 |
第5報 現地報告 2010年6月6日 21時(ブルルガリア時間/日本時間よりマイナス6時間) 6月6日(日) ハスコボ 雨 朝の気温は8℃ 本日の移動、ハスコボ(Haskovo)→バスコバ(Backovo) 6時 起床。 7時 朝食のため、ホテルを出て隣接しているレストランへ向かった。外は雨だった。小雨で、走れるのか微妙な空模様。路面には水たまりもある。7時30分、ロビーでは無線ランを利用できるというので、レポートを送信。 8時 出発の時間だが雨は強くなるばかり。やみそうにない。走行担当およびスタッフと相談の結果、雨に加えて、30キロメートル先までは交通量が多いこともあり、バスで移動して天候の様子をみることにした。 8時15分 バスに乗って出発。ブルガリアの大使館職員のニコロバさん、彼女の友人のデルガナさんは、二人がソフィアから乗ってきた乗用車で、バスの後について移動したようだ。 バスで進んだのは、アップダウンのあるコースだった。見渡す限り広がっている麦畑が美しい。丘陵地帯を緑で覆っている。ときどき、茶色い屋根瓦の民家が緑の絨毯の中に現われて、自然の風景にアクセントをつけている。 道路は、対向車のトラックとすれ違うたびに水しぶきを被るような状態。路面はかなり水におおわれている。 アップダウンを繰り返し、緩やかなカーブをいくつもまわり、雨に恵まれて生き生きとした緑の絨毯の中を、バスは北へと進んでいった。 8時50分ころ バスで出発して30キロメートルになったのだろう、バスは止まった。小さな村のはずれの広場であった。雨が強いので、わたしは傘をさしてバスを降りた。30分くらいは、小雨になるのを待って自転車で走りたいと思っていた。目の前には、10メートルほど完全に道路を覆う大きな水たまりがある。水溜りを通るバスや乗用車の轍を目で追った。路面に大きな穴はないようだ。また、水溜まりには、渦を巻いたり、水が湧き出しているところもない。ゆっくりと車の車輪の通ったコースを追えば、トラブルなく通ることができそうだ。 自転車を積んだトラックが到着するのを待つ間に、小雨になった。後方に少しだけ青空も見えるようになった。水たまりもだんだんと小さくなっている。メンバーの全体の雰囲気は、最初はバスで移動しようという雰囲気だった。しかし、水たまりが小さくなるのと比例して、走りたいというメンバーが増えてきたように思われる。靴をビニール袋で覆ってガムテープで留めたり、合羽を着たり。走りたいメンバーは、雨の用意をしてバスから降りてくる。バスの中で待機しているメンバーは、雨の中を走る間はバスの中で休憩したという意思表示。彼らの自転車は、再びトラックに戻した。 彼らも走りたいのだろうが、雨の中の走行で自分だけが遅れて、他のメンバーに迷惑をかけては申し訳ないという心遣い。なかなか出来ない大人の判断に思う。「せっかくここまで来たのだから、全行程を完走するんだ」と、どんなに遅れても「自分が完走」することを優先するひともいた。そのために全体が遅れてしまい、日没のため、全員が最後の5キロメートルほどをバスで移動しなければいけなくなったこともあったのだ。 9時 自転車を乗せたトラックが到着した。すでに小雨になっていた。9時10分、小雨の中を自転車で走り始めた。ブルガリア人の女性は、デルガナさんだけが走り、ニコロバさんはソフィアから乗って来た乗用車を運転してついてくるようだ。 交通量が少なく、時折通るのは地元の人たちの乗用車。大型トラックが通ることは少ない。見渡す限りの麦畑。雨上がりの緑はきれいだ。 途中の小さな村では、道路わきに教会があり、一番上にコウノトリの巣があった。雛にえさを与えているようで、ずっと巣の上に立っていた。 10時25分 ここまで2回ほど休憩した。ゆるやかに曲がる道路。繰り返すアップダウン。見渡す限りの緑の丘陵地帯。そして、雨上がりの空気がさわやかだ。 この時間は、ガソリンスタンドで休憩としたが、クッキーやチョコレートなどの間食を積んだバスが来ない。バスは、自転車と同じ速度で走ったのではエンジンにトラブルが発生するので、1時間遅れで自転車の後を追いかけている。ところが、村を結ぶ道路が狭いので、思うようなスピードで自転車を追いかけることができないようだ。 11時20分 大きな道路に出た。この前の30分間ほどの道路は狭かったが、大型トラックも通った。それでも、自転車に配慮して左によって追い越してくれるので、安心してペダルを踏むことができる。また、途中で2か所、麦畑のなかに小さなお墓のような土饅頭をみかけた。キャラバンサライが朽ちた跡であろうか。地形を利用した曲がりくねった道路は、古い道路のように思われる。とても興味深い。土饅頭であった。 大きな道路に出てすぐに、ガソリンスタンドで昼食とした。裏庭のブランコで昼食をとるメンバー、滑り台の上で食べているメンバーなど、雨上がりで地面が濡れているので、思い思いの空間を見つけて昼食とした。このときのハンバーガーが大きい。小学生の子供の顔くらいの大きさでろうか。食べきれないで、半分ほどは近くにいた犬のお腹に入ったようだった。 12時20分 午後の走行をスタート。すっかり雨が上がり路面も乾いている。バスで移動していたメンバーも一緒にペダルを踏んだ。川に沿った道は上りの連続だった。速いグループとゆっくりとしたグループ。自然に2つに分かれて、12キロほど先にあるホテルを目指した。追い抜く乗用車が多い。宿泊地は観光地なのであろうか。 12時55分 ホテルの入り口に到着。看板を背景に、全員で集合写真を撮る。ブルガリア人の若い女性2名は、オジサンたちの人気者、一緒に写真を撮らせてほしいというメンバーが続出であった。これも国際交流。 ここから先は道が細いので大きなバスは入れない。バスの荷物をトラックに移動して、その後にホテルへ向かってペダルを踏んだ。車1台がやっと通るような路地を5分ほどでホテルに到着した。古い町並みを再現したような趣のあるホテルだった。 13時20分 バスコバ僧院へ観光に行く。歩いて10分ほどのところにあるのだが、参道を歩くこと10分。大きな木がたくさんある。僧院に入ると、真中に池があり緑も多く落ち着いた雰囲気だった。紅白のバラが咲き、石榴の花が咲く。イチジクの木には実がなっている。 現在も信仰の対象であり、教会では多くの信者が十字を切っていた。ブルガリア人の二人のお嬢さんもスタッフも、マリア像にお祈りをしていた。 中庭には、僧衣をまとった僧が歩いている。中でも、立派な白い顎髭の僧は印象深い。白いあごひげを扇のように広げていた。写真撮影禁止なのが残念だ。 16時 湊さん、山田さんと一緒に蝶の採集に出掛けた。ここでもスジグロチョウを採取。20頭ほど採取することができた。 山の中の宿泊地は、ホテルの裏に川があり、雨上がりのせいなのか茶色い濁流がすごい勢いで流れていた。川の流れは、村のどこにいても聞こえてくる。 |
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社長とミレッツァ |
ミレッツァ |
ミレッツァ、北浦和のJICAで研修、今大学の先生。 月収200€。夏休みでアルバイトのガイド。 |
ミニバンの運転手。琴欧州があだな。 |
バチコバのホテルのそば。.蜂蜜とジャムの店 |
バチコバ僧院の参道の店 |
同じく蜂蜜とジャムの店 |
バチコバ僧院の入り口 |
第6報 現地報告 |
2010年6月8日 6時(ブルルガリア時間/日本時間よりマイナス6時間) 6月7日(日) バスコバ 快晴 朝の気温は10℃ 本日の移動、バスコバ(Backovo)→ベリングラード(Velingrad) 6時 起床。インターネットがつながらないので、レポートの入力を済ませる。 7時 朝食。パン、ヨーグルト、紅茶。紅茶の代わりにコーヒー人もいる。ホテル裏の川は、昨日は濁流だった。今日は、少し濁りも薄くなり、水位は50センチメートルほど少なくなっている。 昨日、ホテルの前の通りで胡桃のシロップ漬けを購入し、同室の清水さんや隣室の林父子、松本さん、坂井さん、鷲巣さん、矢端さんと食べた。おいしいと喜んでいたが、とても甘いので、1個で十分との感想。胡桃の実を若いうちに収穫して、皮ごとシロップで漬けている。まだ柔らかい殻も一緒に食べた。 また、昨年、トルコのエデルネで買ったフルーツの形をした石鹸が、バスコバ僧院の参道でも売っていた。香りがいいので今回も購入した。トルコのエデルネではモスクの中でイスラム教徒にお供え物として売っており、ブルガリアではキリスト教会の入り口でお土産品として売っている。宗教も国家も超えて受け入れられているフルーツの石鹸。何とも平和的な光景に見えた。 8時 交通量が多く危険なルートを避けるために、ホテルから約30キロメートルをバスで移動した。空の青が濃い。「ブルガリアン・ブルー」と名付けたマルコバさんの著書の書名、それを納得させるような青空が広がっている。 9時 麦畑の広がる中で自転車をトラックから降ろしてスタートした。畑の真ん中だったので、15キロメートル先にあるガソリンスタンドでトイレ休憩とすることを確認してスタートした。 街路樹は胡桃。道路の両側にはブドウ畑やひまわり畑が広がっている。まっ平らな風景は、感動的ですらある。休憩したガソリンスタンドには、ツバメの巣がいくつもあり、自然の豊かさを見せている。昭和30年代の日本もこうだったことを思い出した。 10時過ぎ、平野部から山間部に入る一帯には、薔薇の柔らかい香りが漂っていた。道路わきの畑は、薔薇の畑だったのだ。自転車を降りてちょっとした傾斜を登り、薔薇の畑に入れてもらった、と言ってもだれもいなかったのだが。畑には淡いピンクのバラが咲いていた。こんな畑でのんびりと散策を楽しみたいが、そんな時間のゆとりはない。ちょっとだけ身を置いて楽しみ満足することにした。 11時 道路の両側に回廊のように木々が迫っている山間部で休憩した。道路が狭いので休憩する場所を探すのに、先導車のドライバーは苦労している。伴走の乗用車とミニバンがあるので、駐車場やガソリンスタンドなどのちょっとした空間がないと休憩できない。上り坂で苦しくても、足を休めるわけにはいかない時もある。 11時30分 大きな道路に出てすぐに、ガソリンスタンドがあった。トイレもあるので、ここで昼食とした。ハンバーガー2個とリンゴ1個のランチボックス。ほとんどのメンバーが、ハンバーガー1個で満足していた。 すぐ前にあるホテルは、ツバメの巣がたくさんあった。3階部分よりも4階部分のほうが広く作られているために、階段をひっくり返したような壁面があり、ツバメが巣を作るにはもってこいの形をしている。ツバメの巣の団地のような光景は、織り込み済みの設計なのだろうか。聞いてみたい気分だ。 12時30分 午後の走行をスタートした。広く日あたりのいい道路からすぐに細い道路に入った。林の中を進む。曲がりくねっている回廊を再び進んだ。青空は、道路と同じように細長く、くねくねと隣村へと延びている。上りっぱなしのコースが10キロメートル以上も続いた。ダム湖の発電所のような構造物の脇で休憩した。左手に流れる川はこちら側へと流れている。自転車の進行方向が上り坂であることを伝えていた。 さらに7キロメートル登って休憩し、もう一度7キロメートル登って休憩した。上るたびに隊列は広がり、脚力に応じていくつもグループに分かれた。それをサポートするように、脚力にゆとりのあるメンバーが、グループの最後尾について影のよう伴走する。川の流れを見る限り、水源地はまだまだ先のようだ。峠は遠い。さらに道はくねくねと続いている。 上り坂の途中に湧水を利用した水飲み場があった。ここで休憩していると1台の乗用車が停まった。頑張って坂を上っているというので、サクランボを差し入れてくれた。そういえば、小さな村を通る時に、街路樹はサクランボの木だった。サクランボもブルガリアの特産品であることを思い出させてくれた。 15時15分 20分走っては休憩。次は15分走っては休憩と、休憩の間隔は短くなっていく。何度も休憩を繰り返して、峠に到着した。広い空間は見晴らしがよく、森林から草原へと風景は変わっていた。標高を上げる垂直のサイクリングは、高度を上げるとともに植生が変化して風景が変わっていく。これも楽しみの一つになっている。峠の青空は「ブルガリアン・ブルー」。青空が見渡す限りの風景を覆っていた。また、峠には、多くの種類の蝶が舞っていた。短い休憩時間を利用して、蝶の採集を試みた。 16時25分 雄大な風景の中をダウンヒルの開始。時速30キロメートル、時速40キロメートル、時速60キロメートルとスピードは上がる。風景は後方に飛ぶようにして変化していく。草原から森林へ、針葉樹から広葉樹へ、桃の畑から麦畑へ。高度が下がるとともに風景は、ふもとの光景を取り戻す。 大きな湖のほとりのホテルの庭で、アイスクリームを食べながらゆっくりと休憩した。近くに様々な花の咲いている草原があり、蝶の採集に行った。6種類の蝶を各1頭採取することができた。 17時35分 75キロメートルを走ってベリングラードに到着。今日のサイクリングを終えた。松の木が多い町だ。町の真ん中を大きな川が流れていた。川原は牧草地なのであろうか、何頭もの馬が草を食んでいる。のどかな光景である。あちこちに牧場がある。馬の多い町だ。 ホテルは、松の木を利用したように見えるベランダが特徴だ。庭には松の木もある。ベリングラードは、首都のソフィアに近い温泉地として有名な町だとガイドのミレッツァさんは説明してくれた。 また、ホテルには温泉がある。「利用の方法は日本と違います。水着を着て入ってください」との注意があった。庭にはプールがあり、温泉だという。4歳くらいの子供を2人連れた男性が利用していた。父親のような男性に、ペットボトルに入れたお湯を頭からかけて、子供たちは歓声を上げた。そして走り出した。何度も何度も繰り返して遊んでいた。 |
第7報 現地報告 |
2010年6月11日 6時(ブルルガリア時間/日本時間よりマイナス6時間) 6月8日(火) ベリングラード 快晴 朝の気温は10℃ 本日の移動、ベリングラード(Velingrad)→ボロベッツ(Borovets) 5時 起床。レポートの入力を済ませる。ベオグラード大学教授の山崎佳代子さんからメールが入っていた。わたしたちは、参加者一人が5冊ずつ日本語の本をベオグラード大学日本語学科へ寄贈することになっている。その窓口になってくれているのが、山崎佳代子さんだ。 日本語学科の4年生は大事な試験を控えているので、本の贈呈式には出席できない。1年生、2年生、3年生で、合計60人ほどの学生が参加してくれるとのこと。6月17日の午後に贈呈式を行う。その後、学生に街を案内してもらい、夕食を一緒に楽しむことになっている。夕食に参加する学生の数は、何人くらいが適当なのか教えてほしいとの内容だ。 また、3年生のミリッツアという名前の女子学生がまとめ役だということで、彼女と直接話してほしいと、電話番号を知らせてきた。 今、一緒に旅行しているブルガリア人の日本語ガイドの名前もミリッツアだ。日本語ガイドのミリッツアに、事情を話して名前にはどんな意味があるのか聞いてみた。「セルビア人の有名な女の子の名前」とのこと。ブルガリアとセルビアは、文化的には同じ根っこを持っているように感じた。 7時 朝食。バイキング形式でパンは4種類ほど並んでいた。庭にあるプールのような温泉からは、湯気が出ていた。早朝は、その向こうの空が赤くきれいだった。 8時 自転車でスタート。村の中を抜けて幹線道路に出る。道行く人に「ドーブロ・ウートロ(おはよう)」と声をかける。また、何人もの自転車通勤のような人とすれ違った。この町は自転車通勤が盛んなようだ。何キロくらいの自転車通勤なのだろうか。若い人はマウンテンバイクにデイバッグを背負って、すごいスピードで駆けていく。年配の自転車通勤風の人はのんびりとペダルを踏んでいる。 8時45分 最初の休憩。草原がどこまでも広がっている。55分に再スタート。せせらぎの音と並行して進んだ。 9時15分 休憩は山間部に入ってからとなった。何種類もの鳥のさえずりが聞こえる。せせらぎの音は遠くなった。ここまでで10キロメートルの走行。 9時50分再び休憩。上り坂になり、休憩の間隔が短くなった。 10時 再びスタート。 10時15分 休憩。標高は1270メートルと坂井さん。前の休憩から130メートル高度を上げて、進んだのは6キロメートル。 10時55分 休憩。峠に到着した。その手前に牧場があり、実に多くの種類の蝶が飛んでいた。しかし、最後尾につけているので、蝶を追いかけるわけにもいかない。 峠の手前に広い空間があり、蜂蜜を売っている売店というかスタンドというか、そんなお店が30件ほど並んでいた。また、レストランがあり、何人かは紅茶を飲んで体を休めた。ここに住んでいる人たちは、イスラム教徒だと、後でガイドのミリッツアさんが話してくれた。 11時25分 長い休憩の後、再びペダルを踏みだした。ちょっとだけ上り坂だったが、その後は豪快なダウンヒル。大部分は、道路が荒れていて、小径車に乗っている吉川さんは、それほどスピードを出せない。路面の凸凹を拾ってハンドルが振動するので両手がしびれているように思う。 わたしは、スピードを出して下り、2回ひやりとする場面に遭遇した。1回目は、急なカーブで、上ってくる対向車のトラックと接近したので急ブレーキをかけて、後輪が振れた。もう1回は、同じく急カーブで、上ってくる乗用車をセンターライン上でかろうじて交わした。以後、ダウンヒルでのスピードを控えることにした。 12時30分 21キロメートルのダウンヒルを終えて、10キロメートルほど平らな道路を線路沿いに進んだ。小さなお店の前で昼食とした。 すぐ近くに学校があり、小学生から高校生くらいの子供たちが次々とお店の周りに集まってくる。昼食の場所はバス停でもあったのだ。集まってきたのは、家路へ向かう子供たちだった。 横田さんは、琴欧州の写真を20枚ほど準備しており、子供たちをつかまえては「琴欧州を知っているか」とたずねていた。ここで会った子供たちは、琴欧州を知っていた。一人の男の子に写真を上げると、中学生1年生くらいの女の子も写真をほしいと言ってきた。琴欧州は子供たちの人気者だとよくわかった。 子供たちにブルガリア語会話のプリントで挨拶などを教えてもらった。昼食のリンゴを上げた子供に、りんごをブルガリア語で何と呼ぶのか聞いてみようとするが、うまく伝わらない。氷はレッツュというようだとわかった。 子供たちに写真を撮らせてもらっていると、列車が通った。高山さんが鉄道好きなのを知っているメンバーは「鉄っちゃん電車だよ」とあちこちから声がかかった。あわてて線路へと走り出す高山さん。ちょっと太めに見える高山さんの俊敏ぶり、あわてた様子がおかしくて、15名ほどの子供たちが一斉に笑った。ブルガリアの子供たちが、日本人のおじさんにもっとも親しみを感じた一瞬に思えた。 子供たちは、時折停車するバスに乗って、次々と姿を消していった。 13時40分 昼食を終えて午後の走行を開始した。やや下りぎみだがアップダウンがある。上りでは、隊列が長くなる。道路に並行して線路が走っているが、3回ほど列車が通り過ぎた。間に木立があったりした。電車が来た。後ろを走っている山田さんに「電車よ、早く行きなさい」とはっぱをかけられて、高山さんは見晴らしのいいところまですっ飛んでいった。電車の撮影はうまくいったようだ。 14時45分 午後になって2回目の休憩とした。道路と線路が交差しており、行く手の5メートルほど上空を線路が通っている立体交差の手前だった。この線路をよく見渡せる草むらで休憩とした。気温はどんどん上がって、止まっていると汗が流れる。ここまでで、午後の走行は15キロメートルだった。 17時 今日の走行は90キロメートルだが、最後の15キロメートルは道路が狭い上に急な坂道というので、脚力のある水上さんと松本さんが代表して走ることになった。それを、伴走のトラックで高山さんが追いかけてビデオで記録することにした。 18時 二人は、15キロメートルを1時間で上った。平地でも全体の走行時速は20キロメートル。二人の脚力からして、普段の走行ではいかにほかのメンバーに歩調を合わせてシルクロードのサイクリングを楽しんでいるか、よくわかった。 ゴールした水上さんは、すぐにホテルのバーに直行。おいしそうにビールを飲んで疲れを癒した。松本さんは、標高が高いのですぐに体が冷えると言って、シャワーを求めて部屋に入った。 今日の宿泊地はブルガリアでも有名なスキー場だという。ドイツ人のスキー客が多いところだと聞いたが、日本人のスキー客はあまりいないようだ。水上さんは、今年イタリアへスキーに出かけたが、「ブルガリアもいいですね」と、スキーを目的のブルガリア訪問に気分は飛んでいた。 22時30分 パソコンに向かっていると、突然電気が消えた。停電だ。ほかのホテルは明かりが点いている。自家発電なのだろう。この日は水上さんと同室だったが、向かいの部屋で彼はお酒を飲みながら他のメンバーと歓談していた。真っ暗になったので、切り上げて部屋に戻ってきた。ヘッドランプの明かりを頼りにパソコンに向かっていると、「よく、そんな荷物を持ってきたね」と感心していた。 シルクロードのサイクリングはこれまでは辺境が多かった。停電も文化の違いと認めて楽しむ気持ちで臨んでいた。 向かいの部屋でパソコンを打っていた吉川さんは、パソコンの画面の明かりで、他の人がヘッドランプを探すのを手伝ったという。ぐっすりと寝ていた林史朗君は、何も知らないで朝を迎えたことだろう。 |
ヴェニングラードのホテルそば。ソ連崩壊で建設中止の劇場 |
ホロビッツのスキーリゾート最後の15キロ高低さ500メートルの坂に水上、松本が挑戦。水上さんのゴールの勇士。残りはバス。 |
第8報 現地報告 | ||||
2010年6月12日 6時(セルビア時間/日本時間よりマイナス7時間) 6月9日(水) ボロベッツ 快晴 朝の気温は8℃ 本日の移動 ボロベッツ(Borovets)→ソフィア(Sofia) 5時起床。 7時 バイキング形式の朝食。スキー場なので標高が高いので気温が低い。ヨーロッパからのお客を集める有名なスキー場だと聞いているが、季節はずれなので観光客の数は少ない。昨日、夕食の後に街の中を歩いてみたが、明るいけれども早々と店じまいのお店がほとんど。飲食店だけが開いていたので、ビールを冷やしている冷蔵庫にある水を購入した。 8時5分 鷲巣さんがラジオ体操の音楽をもっていて、これを聞きながらラジオを体操で身体をほぐしてからスタートした。全員が音楽にあわせて体操をする様子を見て、ガイドのミリさんは、大笑い。それにしても、三つ子の魂百までというが、小学生の時に身につけたラジオ体操は、70代のメンバーの身体に今も染みついているのは興味深い。 走行早々にダウンヒルになるので、防寒のウエアーを着こんでスタートした。指先も冷たくなるほど寒い。時速35キロメートルから40キロメートルでダウンヒルを楽しんだのは20分程であった。 8時35分 町中を走り始めると交通量が多くなった。子供たちの通学の時間と重なったのか、同じ年代くらいの子供同士で手を振って挨拶をしたり、あちこちから学校のような建物に消えたりといった姿を見かけた。 9時30分 25キロメートル走ってBelcinski Baniという町に到着した。30分間の長い休憩だった。 10時25分の休憩までに35キロメートル走った。牧草地が広がる草原の中は、排気ガスのにおいもない。人里離れた草原の中で過ごす時間は、すがすがしい。 在日ブルガリア大使館のニコロバさんの紹介で、ブルガリアテレビのスタッフが取材にきた。私へのインタビューの後、親子で参加している林英一さん、史朗さん父子を紹介したらインタビューしてくれた。 その後、モンシロチョウを主に、蝶を通してシルクロードと日本、ブルガリアと日本の関係を調べたいという湊さんを紹介して、インタビューしてもらった。「一番きれいな蝶を見せてください」とテレビ映りのいい蝶を選んでほしいとの要望があり、森林の中で風に舞いそうになる三角紙(採集した蝶を入れておく三角形に折りたたんだ紙)を両手で押さえながら、湊さんはインタビューに答えていた。 この頃は、森林の中の上り坂を喘ぎながら上っていた。時折眼下に見える茶色い屋根が、緑の風景の中に人間の営みを示している。人里は近いようだ。 昼食は、レストランの屋上を借りて、ホテルが準備してくれたサンドイッチを食べた。茶色い屋根の連なりが、屋上から見えた。すっかり人里に入っている。リンゴとオレンジジュース。ペットボトルの水。お昼前に上り坂だったから、のどが乾いているのだろう。 13時55分 ゴールの街、Bistricaに到着した。石畳の道路を走ってゴールしたこの日の走行は、62キロメートルだった。ここから先は交通量が多いので集団走行は危ないので、ソフィアの中心部にあるホテルまでは、バスで移動することにした。 14時10分 自転車をトラックに積み込み、バスでソフィアのホテルに向かった。 14時30分にホテルに到着した。 16時30分 ガイドのミリさんが、買物のお手伝いをしてくれるというので、何人かは集まって一緒に買い物に出かけた。行先は、交差点を挟んで向かいにあるショッピングセンターという。本日の同室者は、高山さんだったが、二人とも買いものにはいかなかった。 19時 昼間に受けたインタビューの様子が、テレビのニュースの時間に流れるというので、ロビーに集まってみんなで見ていた。ポーランドの洪水やギリシャの問題、麻薬マフィアの裁判などが続いたが、待っているニュースは始まらない。疲れて眠るメンバーも出てきた。 とうとう、40分過ぎてニュースは流れなかった。ミリさんはがっかりしていた。みんなが部屋に戻るためにエレベーターを待っていると、ミリさんが大きな声で「ニュースの予告です。見てください。10時のニュースですね。遅いので皆さんのそれぞれ部屋で見てください」と伝えてくれた。振り向くと、テレビの画面に自転車の列が映っていた。 テレビを見たあとは、ホテルのレストランで夕食。高山さんと一緒に部屋で10時のニュースを見てから、ベットに入った。 |
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ホロビッツのホテル |
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野生のバラ |
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ブルガリアテレビの取材。22時に放映されました。 |
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ブルガリアテレビの取材。22時に放映されました。 |
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第9報 現地報告 |
2010年6月13日 5時(セルビア時間/日本時間よりマイナス7時間) 6月10日(木) ソフィア 快晴 朝の気温は10℃ 本日の移動 ソフィア(Sofia)滞在 7時 バイキング形式の朝食。 7時30分 バスで世界遺産に登録されているリラの僧院へ向かう。秋(10月6日~23日)に計画している「ツール・ド・シルクロード20年計画」ギリシャ探訪隊では、このルートを走ってリラの僧院まで自転車で訪問する予定だ。しかし、高速道路のような交通量の多いルートなので危なそうだ。他のルートを通って、リラの僧院へ向かうルートを探す必要がある。 幹線道路から外れてリラの僧院へ向かう道路は素晴らしかった。畑から集落、そして森林へと景観は変わる。集落を抜ける間には馬車も往来している。荷役運搬の現役の輸送方法となっている。荷車には、干し草のようなものを積んだり、家族なのか5人ほどの老若男女が乗っていたりする。過去と現在、車のスピードと動物のスピード、異なった時間が同居しているように感じられて楽しいルートだった。秋には、この坂道を、リラの僧院から幹線道路へ向かって下ってみたいものだ。のんびりと写真を撮りながら、約20キロメートルを楽しみたいと思った。 沿道の桑の木には、黒、紫、薄緑の桑の実を見かけた。ブルガリアの南部ではすでに熟していて食べられた。北上したせいなのか、桑の実はまだ実っていない。ちょっと気温が低いのだろうか。 ガイドのミリさんがバスの中で話してくれたが、リラの僧院がある地方は、ブルガリアのマケドニア地方。この地方で使われている言葉で話をすれば、マケドニア語で話す人たちと会話できるという。バルカン地方の言語は、日本でいえば方言の範疇に入るようだ。 8時45分 ガソリンスタンドで休憩。9時に再び出発。 10時 リラの僧院に到着。ふもとのリラ村よりもさらに山の中に入ったところに僧院はあった。雪を頂く山がすぐ裏手に見えた。花束を持ったり写真を持ったりして教会に入っていく人の姿は少なくない。現在も生活の中で生きている教会だった。大きな敷地の中にはリラの僧院の歴史を伝える博物館もあった。 また、日本でいえば大きな神社や寺院と同じように小学生くらいの子供たちが、教師風の大人と一緒に訪問していた。熱心に十字を切る子供の姿もみかけた。 日本人の観光客の一団と遭遇した。リラの僧院を訪れて、まずは個人個人の記念撮影、その後観光を済ませているスタイルが印象的であった。 11時30分 リラの僧院を出発して、ソフィア市内のレストランへ向かった。 13時45分 丘の上にあるレストランに到着。名称は、プリマだった。 15時25分 ブヤナ教会を観光。その後、近くのお土産屋さんでショッピング。 18時15分 ブヤナ教会をバスで出発。ソフィア市内のラッシュの中をホテルへ向かう。 19時 ホテルに到着。在日ブルガリア大使館のニコロバさんから、テレビ局に貸していたビデオを返却してもらう。また、日本国内で開催される本の展示会で使用する本を、あずかる。これは、明日日本へ向けて出発する林史朗さんが持ち帰る。その後、長澤が大使館へ送付する約束をした。 19時40分 参加者の吉川さんの希望で、中華料理店で夕食とした。一足早く、鷲巣さんの誕生パーティーを行った。 21時45分 ホテルに戻った。休養日の予定だったが、長い1日になった。 |
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リラの僧院 |
リラの僧院 |
リラの僧院 |
リラの僧院 |
リラの僧院 |
リラの僧院 |
リラの僧院 |
リラの僧院 |
リラの僧院 |
リラの僧院 |
リラの僧院 |
リラの僧院 |
リラの僧院 |
リラの僧院 |
リラの僧院 |
リラの僧院 |
ソフィアのレストランでの昼食 |
このパンがおいしかった。 |
陶板焼き。ソーセージ、ベーコン、色々な肉と野菜。秀逸。 |
デザートのいちご。 |
ボヤナ教会。世界遺産。 |
ボヤナ教会。世界遺産。 |
ボヤナ教会。世界遺産。 |
ボヤナ教会。世界遺産。 |
ボヤナ教会。世界遺産。 |
第10報 現地報告 | ||||||||||||
2010年6月13日 18時(セルビア時間/日本時間よりマイナス7時間) 6月11日(木) ソフィア 快晴 朝の気温は8℃ 本日の移動 ソフィア(Sofia)→国境→ピロット(Pirot) 7時30分 バイキング形式の朝食。ルーマニア人の団体旅行客が7時まで朝食なので、わたしたちの朝食は30分だけ遅くなった。 8時30分 ソフィア市内は交通量が多く自転車での集団走行は危険なので、バスで郊外まで移動することにした。仕事の都合で、今日の午後の便で帰国する林史朗さんに見送られて出発した。 9時ころ 郊外のMetroというスーパーの駐車場でバスを止めた。トラックから自転車を下して、ブレーキやタイヤの空気圧を確認した。バスに積んでいた荷物をトラックに積み替えて出発。その前に、ブルガリアのスタッフと記念撮影をした。小さなスペースでも休憩できるようにと考えて、大型バスはスーパーの駐車場に置いたままとした。 9時35分 セルビアとの国境へ向けてスタート。快晴に恵まれて快調だ。路面はいい。交通量も少ない。 9時50分 11キロメートル進んで休憩とした。暑い。気温は24℃、湿度は70パーセント。風はない。 10時45分 ガソリンスタンドで休憩。アイスクリームを食べた。ビデオ撮影のために一足先にスタートしていると電車がゆっくりとSofia方向に向かって走っていた。鉄ちゃんを自称している高山さんからは、「休憩中だったし、なぜか電車がゆっくり走っていたので、ばっちり撮影できた」と、後で聞いた。 山並みは遠く麦畑の広がる空間は広い。カエルが鳴き、鈴虫のような虫の音が聞こえ、小鳥のさえずりが聞こえる。そんな緑の風景が心地よい。最初は平地を進んだが、長い上り坂もあった。それでも、路面がきれいなこともあり苦になるような傾斜ではない。時間とともに上昇する気温だけが気がかりだ。 11時45分にもガソリンスタンドで休憩する。ここまで32キロメートルの走行となった。 13時 木陰を見つけて、道路わきで昼食とした。車が目の前を往来するが、他に伴走のトラックが停車できる空間を見つけることが出来なかったのだ。 13時10分 国境に到着した。出国も入国も手続きは簡単だった。大型トラックは数珠繋ぎでチェックを待っている。イスタンブールとベオグラードを結ぶルートは、現在もシルクロードの交易ルートとして大いに利用されている様子が目の前に展開されていた。 昨日、鷲巣さんがインターネットでベオグラードの天気予報を見たら、雨とのことだった。しかし、どこまでも青空が広がる快晴。気温はウナギのぼりで上がっていくばかりだ。 13時40分 セルビアに入国した。ブルガリア国内まで、荷物を積んだトラックはセルビアに入ることができた。バスと先導役の乗用車は、ブルガリア側に置いたままとした。スタッフだけが国境のセルビア側まで入ることができた。ブルガリア、セルビア、それぞれのスタッフも交えて、記念撮影となった。湊さんは、記念撮影が大好きで、折にふれて記念撮影の声をかけてくれる。国境でユーロをセルビアの通貨デナルに両替した。 セルビア側のスタッフは、日本語ガイドのビリャナ(女性)、旅行会社のミーシャ(男性)、バスのドライバーのリューバ(男性)、サイクリストのマルコ(男性)。車両は、ミーシャの運転する乗用車とけん引している自転車を運ぶ駐輪場風の車両、バスとけん引しているコンテナ。 ブルガリア時間の14時に、セルビア時間に合わせた。13時とした。入国早々にビリャナさんが「昼食は何時がいいですか」と聞いてきた意味がわかった。ブルガリア側で昼食を済ませたことを伝えた。 ここからセルビア時間で表記します。 13時10分 セルビア国内でのサイクリングが、長い下り坂で始まった。初めて目にするセルビアの風景は、のどかで静かだった。丘の上からの展望は、緑の風景の中に茶色い屋根の集落が点在して見えた。一軒一軒の家はブルガリアよりも大きい。建て売り住宅のように外観が似通った新しい家が多いように感じた。家の大きさにも豊かさを感じる。ブルガリアと比べると、セルビアの方が、自然に恵まれている容易に見える。そのために、古くから興亡の舞台となったのだろうか 畑で栽培しているのはトウモロコシやジャガイモが多い。ブルガリアよりも気温が低いのかもしれない。 13時40分 休憩とした。気温は30℃、湿度は50パーセント。道路わきの畑で蝶の採集を行った。紫色の花の奇麗な畑だった。だが、ガイドのビリャナさんには、毒を持ったヘビがいるので注意するようにアドバイスをされた。 13時50分 走行を再開する。ここまで交通量は少なかったのだが、私たちを追い越していくトラックが多くなった。ここでもトラックドライバーのマナーはいい。 途中で道路に白線を描く工事があった。白線を描いたばかりの個所には、赤く小さな円錐形の道具で車の進入を規制している。監視する係員がいなくても、往来している車は、片側交互通行を行っている。自転車の後ろに車が連なっていても、クラクションでいやがらせをするようなドライバーはいない。自転車も車両として認めているからであろう。日本とは大違いだ。 15時 ピロットの町に入った。町の入口のあたりから、自転車に乗った若者を見かけるようになった。マウンテンバイクが多いが、実用車もある。中には、二人乗りをしている高校生くらいの大勢の二人組を見かけた。年配の人も買い物かごに、野菜を載せている主婦のような女性も見かけた。 歩道と車道の境となるセメントのブロックは、自転車で歩道と車道を行ったり来たりしやすいように、直角ではない。角をカンナで削った様に40度くらいの傾斜があった。自転車の利用が盛んな町のようだ。 ここでは、旅行会社のミーシャさんの奥さんの実家という家庭に案内された。ホームステイを受け入れているので、ここで休憩してから宿泊するホテルへ向かうのだという。 まずは、ラキアというお酒で歓迎された。自転車に乗るからと断るメンバーは少ない。断ったのは、酒を飲めないメンバーだけだった。その後、コーヒーをごちそうになり、おばあちゃんがカーペットを作っている様子を見せてもらった。そして最後に、おばあちゃんの手作りのカーペットがみんなに紹介された。カーペットを販売してくれるというのだ。3人ほどが小さなカーペットを購入して、ホテルへ向かうことにした。 16時ころ ピロットの町にある民族博物館を自転車で訪問して、見学した。見学は45分間であった。 16時50分 ホテルに到着した。セルビアスタイルの歓迎、ということで、パンと塩、そしてラキアというお酒が、全員にふるまわれた。サイクリストにとっては、困った習慣だ。ただし、今ではあまり行われないようだ。ガジ黒人高rた特別とのことであった。 部屋割りの後、部屋に入り19時に夕食とした。日本から持参したパックの赤飯をスタッフにふるまって、歓迎の意味を込めた。 |
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ブルガリア国境 |
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ブルガリア国境 |
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セルビア国境 |
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セルビア国境 |
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セルビア伝統の織物 |
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セルビア伝統の織物 |
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セルビア伝統の織物 |
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織っていた家。長屋。 |
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民族博物館 |
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民族博物館 |
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民族博物館 |
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民族博物館 |
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民族博物館 |
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民族博物館 |
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民族博物館(パンを焼く窯?) |
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パンを焼く窯(民族博物館?) | ||||||||||||
第11報 現地報告 |
2010年6月14日 22時(セルビア時間/日本時間よりマイナス7時間) 6月12日(金) ピロット 快晴 朝の気温は不明 本日の移動 ピロット(Pirot)→ニスカ・バンジャ(Niska Banja) (Niska Banjaとは、近くにあるNisという町の温泉の意味だそうです。野沢温泉のイメージでしょうか。以前は温泉でにぎわった町だそうです。温泉といっても日本の温泉と異なり、病気の治療を目的としているようです。) 7時 朝食。 8時5分 スタート。小さな町なのですぐに山間部を縫うような道になった。下り坂。時速25キロメートルくらいで快適な走行を楽しんでいた。乗用車と乗り合いバスは通るが、大型トラックの往来はあまりない。 路面は悪いが、時速25キロメートルくらいと、それなりのスピードで楽しんでいた。ところが、MTBにのった40代くらいの男性が、私たちを追い越して行った。あっという間の出来事だったので、時速35キロくらいは出ていたように感じた。デイバックを背負っての猛スピードは、サイクリングではないだろう。自転車通勤のように思われる。セルビアは、自転車通勤が盛んな国なのであろうか。 8時35分、9時20分の休憩は、山の中だった。木々の間を延びる道路。後ろにも前にも、そのほかの何物も見えない。 10時 村の中で休憩とした。子供の姿が見えない。荷物を背負って道を歩いていくおばあさん。干し草をひっくり返す木製の農具を背負ったおばあさん。道行く人は高齢者ばかりだった。 高山さんがガイドのビリャナさんに聞いたところ、セルビアでも地方の山間部では子供の数が減っているとの回答であったという。日本でいう限界集落なのだろうか。農山村から子供たちの姿が少なくなり高齢者の比率が高くなる現象は、日本ばかりではないようだ。 11時 10時15分に走り始めたが、10キロメートル進んで200メートルほど下がる下り坂。そして休憩場所に選んだのは、10メートルほどの落差のある滝のある広場だった。 すでに先客がいて、早い昼食を楽しんでいた。若いカップルが交互に滝を背景に立ち、記念写真を撮っていた。写真を撮ってあげるというと、デジタルカメラを渡された。シャッターを押して返したが、画像を確認しない。写真を見てくれと言うと、画像を確認した。微笑みが返ってきた。ほっとした。 12時30分 アップダウンを繰り返しながら長い上り坂をのぼった。いくら上っても下り坂になる。いくら下っても上り坂が待っている。また、道路わきに何十匹もの蝶々が集団で舞っている。車に踏みつぶされた蝶に、3匹も4匹もの蝶がとまっていたりもしている。死んだメスのフェロモンにオスがひきつけているのであろうか。こんな光景が、繰り返して目の前に展開された。 そして、この時間に丘の上で昼食とした。スタッフが調理してくれたサラダやハム、サラミ、ソーセージ、キュウリやトマト、それにパンの手作りの昼食だった。丘の上に立つたった一本の木が落す陰に18名のメンバーと4名のスタッフが入って、ピクニックのスタイルの昼食としたのだった。 また、昼食後も日差しが強く気温が高いので、昼休みを長くした。また、この時間を利用して簡単なセルビア語を、ガイドのビリャナさんに教えてもらった。 14時 午後の走行をスタートした。15時の休憩は街の中だった。道行く人もなんとなく気になる様子。ちらりと見ては、通り過ぎていく。ヘルメットをかぶって自転車に乗ることが珍しいのか、小さな子供たちは興味深そうにじっくりと私たちを見ている。なんだか落ち着かない。 15時50分 ずっと長い上り坂を上がってきた。広い道路は、路面がきれいで走りやすい。だが、上り坂では景色を楽しむゆとりはない。あと1キロメートル上れば峠というところで、道路わきに水場があった。湧水をだれもが飲めるようになっている。 私たちが休憩していると、上半身裸の若い男性ばかりがバスから次々降りて並び、水を飲んでいく。ガイドに聞いたら、高校生だという。運動部の合宿か遠征の帰りなのであろうか。ひ弱な高校生はいなかった。峠からは15キロメートルのダウンヒル。気温34℃、湿度58パーセントの中を一気にかけ降りた。大きなカーブがあったりしたが、道路が広く路面がきれいに整備された道路なので、安心してスピードを出すことができた。 17時15分 ホテルに到着した。16時30分ころ「あそこに見える大きなホテルの近くに私たちの宿泊する場所があります。高速道路を横断できないので、う回して行きます。その言葉の後、幹線道路を横断して、住宅街の細い道を縫うようにしてかけた。長かった。 そして、T字路を左に曲がると、あっと息をのむような上り坂が待っていた。吉川さんは、今回で最も急な坂でしたね。今日は、いくつもの坂を上ったが、こんなに急な坂はなかったように思う。この坂を上って3分ほどでペンション風の宿に到着した。 「店の主人はワールドカップのサッカーの試合に夢中で、挨拶にも出てこないですみません」と、ガイドのビリャナさんが謝っていた。彼女が謝る必要はないのだが、ベオグラード大学の日本語学科を卒業後、東京学芸大学に留学していたという日本びいきなだけに、ペンションの主人の態度に不満だったのだろう。 18時 「骸骨の塔」と言われている遺跡を観光にバスで出かけた。希望者だけの参加だった。疲れたのか、参加したのは11名だった。 オスマン帝国の支配に不満を持つセルビア人が抵抗したが、オスマン帝国の兵隊の方が多かった。勝ち目のないセルビア人は全員が自殺してしまった。 オスマン帝国は、見せしめのために自殺したセルビア人の頭骸骨で塔をたてて見せしめとし、セルビア人の抵抗を抑えつけようとした。そのため、この塔は、イスタンブールとベオグラードを結ぶ道路わきに立てられた。そんな説明があった。200年ほど前のことである。明日は、その道路を通って、ベオグラード方面へと向かう。 ナチスだけでなく、ソンミ村だけでもなかった。民族虐殺の歴史は、こんなところにもあったのか。繰り返す「負の歴史」に、みんな愕然とするばかりだった。口々に「そんな歴史があったのか。学校で習ったこともなかった」とため息をつく。セルビア人の若い女性が二人で訪れていた。その姿に救われる思いだった。というのも、歴史を直視すること。それは、これからの歴史をデザインする現代人にとって、原点になると考えるからである。 |
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12日のサイクリングの途中で羊飼いに会う |
滝があり一休み |
滝があり一休み |
アイスクリームを食べ一休みの時(誰も食べていませんが?) |
アイスクリームを買った店 |
坂の途中の水のみ場でフットボールの応援の高校生のグループにあう。 |
第12報 現地報告 |
2010年6月16日 5時(セルビア時間/日本時間よりマイナス7時間) 6月13日(日) ニスカ・バンジャ 快晴 朝の気温は24℃ 本日の移動 ニスカ・バンジャ→クラセバック(Krusevac) 7時 朝食。 ペンションに宿泊したが、無線ランの設備はなかった。 朝から気温が高い。暑い1日になりそうだ。 8時5分にスタートした。昨日、最後に上った壁のような坂。今日は、ダウンヒルを楽しんで1日のサイクリングが始まった。すぐに交通量の多い幹線道路へ出た。 昨日、夕食のレストランへ向かうバスがここでパンクしている。幸いなことに車のパンク修理を専門とするようなお店が近くにあり、5分ほど歩いて修理店の前へ移動して、タイヤ交換を待った。今日は、何事もなくその場を18台の自転車は通過することができた。 8時30分 昨日、夕食の前に見学した「骸骨の塔」の前を通過。確かに、200年前はイスタンブールとベオグラードを結ぶ重要な道であったことを実感することができた。 8時45分 街の真ん中の広場が道路の右側にあり、最初の休憩とした。広場にはモニュメントがあり、戦争の記憶を刻んでいる。奥には門と城壁が見えた。オスマン帝国時代のものだとガイドは話す。 日曜日の朝ということもあり、ベビーカーに赤ん坊をのせたカップルが何組もいた。シャッターを押してほしいと言ってくるカップルもいた。先日通過した「限界集落」とは異なり、子供や若者の姿が多い。日本と同様に都市に人口が集中する傾向があるのだろうか。ニスの広場と言われているところだという。 8時50分 広場をスタートした。信号待ちが多く、そのたびに自転車の列が途切れた。先頭を走るグループは、途切れるたびに道路わきで待つ。後続のグループは、道路を横切る車を気にしながら追いかけることになる。 9時 街外れで休憩してアイスクリームを食べた。コーラも飲んだ。普段はコーラなど飲む機会はない。ところが、今は甘い飲み物がほしくなっている。疲れているのだろう。 ここより10キロメートルは平たんな一本道なのでフリーランとした。10キロメートル先で、1時間後に集合だ。その間、一気に駆けるのもいい。行きかうセルビアの人と交流するのもいい。時間を守ればそれでいい。 わたしは、走行直後に墓地で写真を撮った。墓石には夫婦の肖像画が刻まれていて、家族のきずなの強さを感じた。早くに命を落とした若者の存在も目立った。 ここで思ったのは、「限界集落」に戦争の傷跡が刻まれていることはないのだろうかという疑問であった。戦争の後、若い男性の数が減少するのは、歴史的な事実である。そんな思いでお墓をよく見ると、若い男性の肖像画が多いような気がする。予想が外れていればいいのだが。 墓地には、市川さんと高山さんもいた。身近な出来事に思いをはせていたのだろうか。 再び走行を始めると、庭にあるテーブルを囲んで楽しそうな歓声を上げている2組の母子の姿があった。一人の男の子は、手作りのブランコに揺られていた。2人のお母さんはコーヒーを飲んでいる。垣根越しに写真を撮らせてもらった。 すると、「ラキア」という単語が聞こえてきた。お母さんたちはコーヒーの後か前か知らないが、ラキアというお酒を飲んでいたのだろう。テーブルの上には、1本の瓶があった。 デジタルカメラで撮影した写真を見せると、小さなグラスにラキアをなみなみと注いで、わたしの眼の前に差し出した。笑顔で一気に飲み干した。もう一杯、それは遠慮させていただいた。 わたしは普段はお酒を飲むが、遠征中は控えている。しかし、この場は別だ。郷には郷に従うことにした。場を大切にしたいから。私の後に続いていた高山さんも「ラキア」を差し出された。どうしたのであろうか。 フリーランでは、モンシロチョウを採集した。また、小さな鈴を拾った。羊の首につけるもののようだ。 集合場所となったのは、住宅街の中にある三叉路だった。ここで小さな道に入るので、迷うことのないようにとスタッフが配慮してくれたのだった。 10時40分 小さな町の中で休憩した。お店の陰でコーラを飲みながら休憩した。町の中心部なのか、飲料などを扱うお店が5件ほどロータリーを囲んでいた。水や炭酸飲料、ビールなどを買う人は、自転車、バイク、乗用車とさまざまだ。 驚いたのは、自転車置き場の1台。ブレーキレバーを引くと、ブレーキのゴムが前輪を上から抑えるシステム。ブレーキの役目を果たすのか、パンクしないのだろうかと話題に上った。 11時 再スタート。気温32℃、湿度72パーセント。路面の温度は45℃。 11時35分 平たんな道を進んで、再びお店の前で休憩とした。大きな木のあるお店、木には亡くなった住民の写真と年齢などを書いた印刷物が、いくつも貼っていた。この張り紙は、どんな役目をはたしているのだろうか。お店を外から眺めていたら、2匹のモンシロチョウが入っていた。中には、珍しく、キャベツを売っていた。それで、モンシロチョウがいたのだろう。 13時30分 気温34℃、湿度60パーセント。標高は165メートル。この後、10キロメートル下りとなる予定。 ビトコバシュという駅前のお店で休憩した。アイスクリームを食べる。舘さんはアイスクリームを食べない。そのため、毎回私が2個食べている。 木にはかたつむりがたくさん上っていた。庭には小さなモグラが昇天していた。雨のために地上に出て、今度は日照りにあったのか。ミイラのようになっていた。 このあたりの、家のつくりが変わってきている。以前見かけた家と比べると庇の部分が短い。雨や雪が少ない地域なのだろうか。 15時40分 気温32℃、湿度58パーセントの中で休憩。疲れてきたのか、休憩のときの会話が少なくなってきた。 16時 ホテルに到着した。裏庭が広い草むらになっている。新興住宅街であろうか、10数階のアパートが林立している。 夕食後、松本さん、水上さん、林さんと20分ほど歩いて街へ出かけた。林さんは、折り紙に使う紙を買いたいという。だが、日曜日なのでお店は閉まっているケースが多い。 街の中心部のロータリーで、若者が声をかけてきた。マウンテンバイクのチームを作っているという。彼らのデジカメに記録されているサイクリングの様子を見せてもらった。わたしたちも自転車で旅行していると、林さんが説明すると喜んでくれた。だが、年齢を伝えると、驚いてしまった。 途中で吉川さんが合流して、若者3人組にサイクルショップを教えてもらうことにした。だが、お店はない。一人が車に積んであるマウンテンバイクを見せてくれた。2台のマウンテンバイクがあった。若者の名前は、ミッシュといった。名前と電話番号を手帳に書いてもらい別れた。 |
サイクリング風景 |
サイクリング風景 |
サイクリング風景 |
ちょうちょを採取 |
ちょうちょを採取 |
ちょうちょを採取 |
ちょうちょを採取 |
サイクリング風景 |
マルコがパンク |
サイクリング風景 |
サイクリング風景 |
駅のホームで |
駅の前の売店。アイスクリームで休憩 |
サイクリング風景 |
坂の手前で休憩 |
サイクリング風景 |
サイクリング風景 |
第13報 現地報告 |
2010年6月17日 6時(セルビア時間/日本時間よりマイナス7時間) 6月14日(月) クラセバック 快晴 朝の気温は30℃ 湿度70パーセント 本日の移動 クラセバック(Krusevac)→クラグジバック(Kragujvac) 7時 朝食。 8時 スタート 8時30分 水のあるところで最初の休憩とした。朝から暑い。 9時20分 旅行会社のミーシャさんの友人の家で休憩とした。広い中庭。両親と夫婦、二人のお嬢さんの6人暮らしだった。お嬢さんは7歳くらいと10か月くらいであろうか。緑の芝生、強い日差しの中で、日陰を求めて家の影や木陰に入っての休憩となった。林さんは折り紙で交流している。ゆっくりと休憩して、家族と一緒に記念写真を撮って10時に再び走り始めた。 一般道に出ると、郵便を配達している人に出会った。スクーターのような小さなバイクに乗って、向かいにある小さなお店へ入ろうとしていた。郵便物は、ハンドルに取り付けた黒いバッグに入れていた。その後も郵便屋さんに会ったが、郵便物は、声をかけた上で、配達先の家の入り口となっている屋外の鉄格子の引き戸、その格子の部分に挟んで次の家に向かっていた。郵便受けはない。雨が少ないのだろうか。 10時25分 休憩したが、とにかく暑い。気温30℃、湿度62パーセント。道路からの照り返しもあり、流れる汗が口に入り、塩分補給となっている。ここまでの走行は約30キロメートル。 気温が高く、疲労もあるので10時45分まで休憩した。休憩のたびに水分を補給するが、人気はコーラ。みんな、普段はコーラを飲まないが、なぜか遠征で走っていると飲みたくなると話している。疲れがたまっているのだろうか。ここからは、林の中を進んだ。 12時 「マイライ」というレストランで昼食とした。「小さな天国」という意味だと、ガイドのビリャナさんが説明する。メンバーの中には「お店の中は小さな天国でも、一歩外にでれば『灼熱地獄』が待っている」と、冗談をいっている。声が出るだけ、体力にゆとりがあるようだ。 14時25分 坂の上で休憩。気温は35℃、湿度52パーセント。気温を見る限り、屋外で運動をするのは限界の環境となった。疲れもあり、怒りっぽくなるメンバー、素直になれないメンバーもでてきた。いつもは穏やかな人が、急に「飲み物は3本にして」などと余計な口を挟んで担当の人に指示を出したりして、その場がとげとげしくなったりする。 サラリーマン時代に部下に指示を出したり、家で奥さんに指示を出して過ごしている生活態度。そんな素顔が、だんだんと出てくる。大部分のメンバーは、ずっと精神的に安定しているのだが。 14時35分 下り三昧のコースが待っていた。道路わきには農家が並び、トラクターやトラック、乗用車が並んでいる。日本であれば豪農であろう。それが、道路の両側に並んでいる。時々、草刈りの大きな刃をつけたトラクターとすれ違う。セルビアは、農業立国なのであろうか。 前を走っている坂井さんは、農家を写真撮影しながら坂道を下っていたが、思うようなスタイルが見つからないという。参加者は、それぞれの視点で風景や土地の人の暮らしぶりを観察している。 高山さんの鉄道マニア、湊さんの蝶の採集。二人からも刺激を受けて、わたしは通る列車を写真に収め、休憩時に蝶を追いかけている。 蝶の採集は、高校生の時以来、40年ぶりだ。蝶を通して、東西交流の足跡を楽しみ。さらに専門家に情報を提供できればいいのだが。 16時45分 ふもとの町に降りた。線路を渡ってすぐ、大きな木のある学校のような建物のわきで休憩とした。向いにはレストランがあり、地元の人がサッカーのテレビ観戦を楽しんでいる。 また、その中の一人が「朝の10時ころ、あなたたちと同じようなサイクリングの集団が通った。もっと大きな人数だった」と声をかけてきた。「ヨーロッパの人か、私たちのような東洋人か」と問い返したら、「東洋人だ」との返事だった。 夏休みでもない時期にセルビアでサイクリングをする。それも20人以上。となると、韓国人か台湾人であろうか。それともインドネシア人か。東洋人がバルカンのような遠い地域に関心を持ってサイクリングしている。それは、相互理解のためにプラスであろう。ゆっくりと異文化を体験してほしいものだ。もちろんサイクリングに限らないのだが。 17時20分 ホテルに到着した。 到着後、メールを開いた。ベオグラード大学日本語学科教授の山崎佳代子さんから連絡があった。 17日のベオグラード大学日本語学科を訪問して日本語の書籍を寄贈する時間の都合を教えてほしいという。また、16日のベオグラード到着時間も連絡してほしいともあった。ガイドのビリャナさんに相談して回答した。 19時30分 30分遅れて夕食だったが、連絡ミスで7名のメンバーがいつもの通り19時に集合したと高山さんが教えてくれた。疲れている中での30分は貴重だ。申し訳ないことをした。私もかなり疲れていることが、このミスではっきりした。 明日・15日は「ツール・ド・セルビア」という自転車のレースがあるという。わたしたちがサイクリングを計画しているルートと、まったく重なっている。そこで、最初の25キロメートルはルートを変更して、レースに影響がないようにした。レースのスタートは、ベオグラードだという。舘さんは自転車のレースにとても関心があるようで、ガイドのビリャナさんにスタート地点やルート、ゴールなどの詳しく聞いていた。 |
14日の写真 |
13日クルシェバツの夜の散歩 |
13日クルシェバツの夜の散歩 |
そこで会った英語をしゃべる青年。MTBの大会に出てきた とのこと。僕の自転車は最高と案内されたのが車。 TREKとFELTのかなり上等なMTBだった。 |
14日のサイクリング風景。町から10キロ離れた水のみ場で休憩。すでに暑く頭に水をかぶる人がいた。 |
社長の知人宅を訪問、休憩。 |
社長の知人宅を訪問、休憩。 |
今日の昼食は55キロ地点のレストラン、入り口。 |
昼食風景。ボトルは炭酸入りの水。アルコールは無し。 |
最後の頑張り |
最後の頑張り |
最後の頑張り |
最後の頑張り |
最後の頑張り |
最後の頑張り |
最後の頑張り |
最後の頑張り |
最後の頑張り |
最後の頑張り |
15日の写真 今日は前半20キロの登りでしたがまあ平ら、それほど暑くなく95キロを完走しました。 |
出発風景、おばさんが写真を撮りに。 |
出発風景、おばさんが写真を撮りに。 |
鉄道と車の共用橋。隊員の一人が線路に車輪を落とし転倒。怪我はたいしたことはなかったが前輪のリムが変形。昼休みにI隊員の名人芸で修復・ |
16日の写真 |
ポジャリバツのホテル |
最後の出発前のラジオ体操 |
鉄道、車共用橋で鉄道が通るため進入禁止 |
止められていた釣りに行く人。鮭を釣るとのこと。 |
最初の休憩地でトマト売りから商品全部を買占め。 全員で食べる。総額300円。トマト売りは満足そうにトラクターで帰宅 |
製鉄所前の三叉路で先頭集団が道を間違え休憩した製鉄所前駅の駅前売店 |
15世紀セルビアの首都だったドナウ河沿いのスメドロポ要塞。河の反対側はハンガリーだったが現在はセルビア |
もとハンガリーだったところのハンガリー料理屋で昼食。疲れで昼寝する人。 |
もとハンガリーだったところのハンガリー料理屋で昼食。疲れで昼寝する人。 |
もとハンガリーだったところのハンガリー料理屋で昼食。疲れで昼寝する人。 |
もとハンガリーだったところのハンガリー料理屋で昼食。疲れで昼寝する人。 |
もとハンガリーだったところのハンガリー料理屋で昼食。疲れで昼寝する人。 |
もとハンガリーだったところのハンガリー料理屋で昼食。疲れで昼寝する人。 |
もとハンガリーだったところのハンガリー料理屋で昼食。疲れで昼寝する人。 |
もとハンガリーだったところのハンガリー料理屋で昼食。疲れで昼寝する人。 |
もとハンガリーだったところのハンガリー料理屋で昼食。疲れで昼寝する人。 |
そのレストラン |
昼寝をする人 |
昼寝をする人 |
無事ベオグラード到着集合写真 |
自転車の解体 |
自転車の解体 |
自転車の解体 |
自転車の解体 |
ベオグラードのホテルの玄関 |
夕食のレストラン前、400年前の石畳 |
夕食後のエンタメ |
寛ぐジャリンコ |
バンドのバイオリンを借りて品定め |
レストラン前の風景 |
エンタメ第二部 |
もう疲れた |
17日の写真 |
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17日ベオグラード市内観光、ホテル前の集合風景 |
通訳のビーちゃんとガイド |
広場の像 |
ベオグラード大学の前庭 |
ベオグラード要塞公園(カレメグダン城址公園)の写真。サバ川とドナウ川の合流地点にある。 |
ベオグラード要塞公園(カレメグダン城址公園)の写真。サバ川とドナウ川の合流地点にある。 |
ベオグラード要塞公園(カレメグダン城址公園)の写真。サバ川とドナウ川の合流地点にある。 |
ベオグラード要塞公園(カレメグダン城址公園)の写真。サバ川とドナウ川の合流地点にある。 |
ベオグラード要塞公園(カレメグダン城址公園)の写真。サバ川とドナウ川の合流地点にある。 |
ベオグラード要塞公園(カレメグダン城址公園)の写真。サバ川とドナウ川の合流地点にある。 |
ベオグラード要塞公園(カレメグダン城址公園)の写真。サバ川とドナウ川の合流地点にある。 |
ベオグラード要塞公園(カレメグダン城址公園)の写真。サバ川とドナウ川の合流地点にある。 |
ベオグラード要塞公園(カレメグダン城址公園)の写真。サバ川とドナウ川の合流地点にある。 |
ベオグラード要塞公園(カレメグダン城址公園)の写真。サバ川とドナウ川の合流地点にある。 |
ベオグラード要塞公園(カレメグダン城址公園)の写真。サバ川とドナウ川の合流地点にある。 |
ベオグラード要塞公園(カレメグダン城址公園)の写真。サバ川とドナウ川の合流地点にある。 |
ベオグラード要塞公園(カレメグダン城址公園)の写真。サバ川とドナウ川の合流地点にある。 |
ベオグラードで一番古い小学校 |
教会の塔 |
ベオグラード大学日本語学科に本を贈呈。先生、生徒と集合写真 |
サバ川と新市街 |
日本語学科の生徒と散歩、立ち寄ったベオグラードで一番古いカフェーでお茶 |
6月18日の写真 |
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18日の出発風景 |
18日の出発風景 |
18日の出発風景 |
18日の出発風景 |
18日の出発風景 |
18日の出発風景 |