シルクロード、西へ
 

第3章 ウルムチ・トルファン―奇妙な共存 
 

ウルムチでやるべきこと

ウルムチの宿は、かねてより決めていた新疆大学近くの安宿に落ち着いた。南北に細長い街の南側にあり、中心部に出るにも郊外のバスターミナルへ行くにも便利だ。宿はこじんまりして清潔なところである。ゴキブリは出るが、ネズミほど驚かされるものではない。

ウルムチでやるべきことは、カザフスタンのビザを取得することだが、もちろんそれだけでは物足りないので、空いた時間でトルファン観光をしてこようと思い立った。ウルムチにはかつて来たことがあるが、トルファンは行かずじまいだったのである。

まずはビザ申請から始めようと思い、外に出た。初夏のウルムチは日差しがきついが、木陰に入ると涼しさを感じる。つまりそれほど暑いというわけでもない。

     
 近代的なウルムチの街。    漢字とウイグル文字が併記されたバス停。

フロントで尋ねたところによると、カザフスタンの領事館は街の北郊外にあり、路線バスで三~四十分ほどかかるようだ。最寄りのバス停名と路線番号を教えてくれたので、ひとまずバス停に行った。バス停は漢字とウイグル文字が併記された異様な外観であった。

まもなくバスがやってきたので、列に並んで乗り込んだ。他の中国の都市とは異なり、ウルムチでは人々は列を作り、比較的整然と乗り込んでいる印象があった。さらに、バスの運転手はイスラム帽を被ったウイグル族のおっさんで、漢語をほとんど解さない。このような光景も他の中国の都市ではありえないことである。

     
   漢字とウイグル文字が併記されたバスの行先表示。  

バスの中で漢族の若いカップルがいちゃついている。中国の若いカップルがいちゃつく様子は欧米人より過激である。人目をはばからず、どこでもべたべたしている。そのような光景を目にする度に「ムカッ」とさせられるのだが、それはある種のひがみであろう。

このような光景を見ても、周りのウイグル族は知らんぷりを決め込んでいる。私は心の中で、「隣りのおっさん、怒れ、怒るんだ」と念じていたが、残念ながらその想いは届かなかった。ともかく、この光景を端緒に、ところどころで漢族とウイグル族との間で厳然とした「壁」のようなものがあるのではないかと思い始めた。

いわゆる「○○自治区」は中国に五ヶ所存在する。そのうち、チベット自治区は行ったことがないのでよく分からないが、内蒙古、寧夏、広西の都市部ではいずれも漢族が多く居住し、非漢族の人々の漢化が進んでいる。よく行くところは広西チワン族自治区の南寧や百色だったが、この地のチワン族は洋服を着、外見も漢族とほとんど変わることなく、チワン語を解さず漢語を話した。彼らをチワン族たらしめる要素は身分証明書の記載のみであった。よほどの田舎に行かねば、民族アイデンティティを持ったチワン族に出会うことはできなかった。都市部では漢化しなければ生活していくことができない。多民族国家・中国に住む少数民族の、それが厳しい現状である。

それがここウルムチのウイグル族は、漢化が進んだウルムチの街中において、かろうじて一定の民族アイデンティティを残しているようなのだ。この街は一体どのような構造になっているのか、非常に興味をそそられた。


カザフスタン「領事館」
バスはまっすぐ北上した。ウルムチの街は道路の整備がしっかりしているのか、それとも自動車の数が少ないのか、渋滞がほとんど見られない。スムーズにすいすい進むため、あっという間にカザフスタン領事館の最寄りバス停に到着した。そこから十五分ほど歩くと、一目で領事館だと分かる建物を見つけた。

というのは、建物の周りを大勢の人々が囲んでいたからである。近寄ってみると、看板が剥ぎ取られた形跡があり、何の建物かよく分からない。ただ、人々が大勢集まっているのでここがビザを発給してくれる機関であることはまず間違いなかろう。守衛さんに尋ねた。

「ここでカザフスタンのビザを発給してくれますか?」

すると守衛さんは、「ああ、発給してくれる。でも少し待ってろ」という。ビザを発給してくれるということで少し安堵したが、どのくらい待たされるのか不審に思った。しかし待ってろというからには待たねばならない。三十分ほど人々の間にぽけっと立っていた。

ただぽけっと立っているだけなのも馬鹿らしいので、他の人々の様子を観察してみることにした。この人々はカザフスタンのカザフ人なのか、中国に住んでいるカザフ族なのか、あるいはウイグル族や回族なのか、よく分からない。が、ウイグル族に比べて少し鼻が低く、一重まぶたで黒髪の人が多いように見受けられた。彼らがカザフ族なのだろうか。それにしても飛び交うことばは漢語とは全く異なったもので、漢語に慣れきった身としては少しく不安である。
     
 右の建物がカザフスタン「領事館」。    多くの人々が集まっている。

そこへ、あごひげを生やした長髪の西洋人と日本人とおぼしき東洋人が並んでやってきた。彼らは守衛さんにパスポートを見せるや否や、すぐに屋内へ招き入れられた。つまり、私はパスポートを見せることをせず、漢語で話しかけたために中国人(の漢族)と勘違いされ、ここで足止めを食っているということになる。なんとも間抜けな三十分を過ごしたものだが、守衛さんにパスポートを提示すると、彼は目をぱちくりさせて「何だ、お前日本人なのか、早く言えよ」と言い、私を中に招き入れてくれた。
 

「領事館」の中で
室内に入ると、すでに数名の西洋人旅行者が並んでいた。私もビザの申請用紙を受け取り、記入を始めた。すると目の前にいた、金髪碧眼でどう見ても西洋人にしか見えない女性に話しかけられた。ウルムチの旅行会社に勤務するオロス族で、ビザの代行業務を行っているとのことだった。

オロス族は中国国内に居住するロシア系の人々で、55ある中国の少数民族のひとつである。元朝のころよりすでに中国に居住する者もいたようだが、多くは日本の「白系ロシア人」のように、ロシア革命の際に東方に脱出して来た人々の末裔である。

彼女は新疆大学を卒業し、ロシア語、カザフ語と漢語に堪能だという。「ロシア語って難しいでしょ?」と尋ねると、「そんなことないわ」と言っていたが、考えてみれば彼女の母語のようなものだろうから当たり前だ。ただ、私より年上かと思っていたら五つも年下だったので少しショックだった。


旅の仲間たち
用紙を書き終わって列にならんでいたら、門のところで見かけた東洋人の青年が「日本の方ですか?」と声をかけてきた。「みこと君」という日本の旅行者だった。連れの西洋人は「フランソワ」と名乗り、ケベックから来たと言った。カナダ人だとは決して言わなかった。カナダのケベック州は独立志向が強く、十年ほど前に分離独立をするか否かの国民投票が行われたというニュースを聞いたことがあった。彼もフランス式の教育を受けて育ち、普段はフランス語で通しているそうだ。

ふたりは西安で知り合い、敦煌、ハミ、トルファンと行動を共にしてきたという。翌日あたりにトルファンへ向かうつもりだと言うと、みこと君が「では、後で僕のガイドブックをコピーしますか?」と言ってくれた。ありがたくその申し出を受けることにした。

程なくして名前が呼ばれ、写真とパスポートを提出した。三日後に受け取りに来いと言う。受取書をもらい、例のオロス族の女性に挨拶して建物の外に出た。

三人で路線バスに乗った。車内から適当なコピー屋があるのを見つけたので、みこと君と二人で下車した。フランソワはこのまま宿に戻るという。

私はトルファンだけでなく、これから行くであろう主要都市の地図と宿についてのページもコピーさせてもらった。中国はコピー代が安い。約十枚で一元(約14円、当時)なので、思ったより多くの量の情報を仕入れることができる。

コピーしながらみこと君の話を聞いた。バンコクから旅を始め、東南アジアを遡ってウルムチまで来たという。行程は私とほとんど一緒だったが、チベットのラサを経由したというところが異なっていた。

私はチベット自治区に行ったことがない。というのも、チベットは当時、外国人の陸路移動を許可していなかったからである。それでも、陸路でチベットを目指す旅行者は大勢いた。あるものは青海省南部のゴルムドから、またあるものは四川省西部のガンゼから、バスの運転手と直接交渉して、少しでも現地人に似せるために髪の毛をくしゃくしゃにし、バックパックをぼろぼろのズタ袋に放り込み、三日三晩かけてラサを目指すのである。途中、三千メートル級の山々を幾度も越えるため、高山病にかかる者も多いと聞いた。

そのような中、私も数度ラサを目指したことはあるのだが、いずれも途中で見つかり、到達することはできなかった。そんな訳で、雲南省西北部のシャングリラからあっさりラサにたどり着いたみこと君を非常にうらやましく思った。

みこと君から、いま泊まっている宿に来ませんかと誘われたが、すでにチェック・インしているので好意だけ受けて別れた。彼はカシュガルからキルギス経由でカザフスタンに行くという。私は直接カザフスタンを目指すので、これで会うことはないかと思っていたが、彼とはこれから邂逅を繰り返すことになる。


ウイグル街にて
宿に戻り、インターネットカフェに入ったりしているうちに夕方になった。そろそろ夕食の時間だ。ウイグル料理を食べたいと思っていたので、コピーしたガイドブックにあった「ウイグル街」へ向かうことにした。新疆大学から北に二キロほどのところにあるようなので、のんびり歩いていくことにした。

新疆の夏は日が長い。午後七時を回っているのに日が沈む気配がなく、従って暑い。汗がTシャツの背中を濡らし始めたころ、知らぬ間にウイグル街に入り込んでいる自分に気づいた。

     
 ウイグル街の入口。    ウイグル族の老人。

というのも、いつの間にかあたりはウイグル族でいっぱいだったからである。男性は丸いイスラム帽を被り、老人は白いあごひげを垂らしている。女性はスカーフで頭を覆い、暑いのにも関わらず長袖のだらんとした服をきている。このスカーフをマレーシアではトゥドゥン、西方ではヘジャブやブルカなどというのだが、ウルムチではなんと呼ぶのか分からない。

道端にはヨーグルトのような清涼飲料を売っている店もあれば、干し葡萄をいっぱいに積み上げた露店、「ナン」と呼ばれる硬いパンを売っている屋台、それからイスラム風の服を地べたに並べて売っている店もある。それらの光景が、いかにもイスラム世界のバザールを連想させた。あれほどいた漢族はいったいどこへ行ってしまったのだろうか、ほとんど見かけない。通りで男たちがチェスをしていた。西安で見かけた将棋文化は、ここウルムチのウイグル街で早くも消え去ってしまっていた。

     
 ヨーグルトを売っている売店。    干し葡萄を売っている露店。

一軒の食堂に入ることにした。入口のところでイスラム帽を被った男が「羊肉串」を焼いている。北京あたりでも食べられる、羊肉を串で刺して焼いた食べ物だが、肉の粒が恐ろしく大きい。これを6本注文し、それから「新疆拌麺」を所望した。これはうどんのような手打ち麺にトマトソースをかけた食べ物である。昆明にも新疆料理の店があり、そこで何度か食べたことがある。これで酒があれば言うことないのだが、イスラム料理店のためか置いていなかった。

     
 「羊肉串」。粒が大きい。    「新疆拌麺」。トマトソースがかかっている。後ろに皿には切ったナンが。

従業員の大半はウイグル族なのだが、「老板」すなわち店の主人は漢族の女性だった。流暢な標準漢語でいろいろ話しかけてくる。おかげで食事に集中できなかったが、それを除くと料理は美味しいし、値段も安かった。この店が気に入った私は、ウルムチ滞在中に毎晩足を運ぶことになった。

再び宿に戻った。この宿はエアコンがついているので快適である。テレビをつけて買ってきた缶ビールの栓を抜いた。「烏蘇ビール」なるブランドで、味が薄いので暑いところでは美味しく飲める。ちょうどスポーツニュースの時間で、サッカーのアジアカップが開幕したというニュースを流していた。ベトナム、マレーシア、タイ、インドネシアの四カ国開催とのことだった。バンコクでタイとイラクが対戦し、一対一で引き分けた。日本もいずれ出場するのだろうが、どの国と対戦するのかはよく分からなかった。


トルファンへ
翌日、トルファンへ日帰りで出かけた。日帰りというのは、パスポートをカザフスタン「領事館」に預けてしまっていて宿泊が出来ないからである。路線バスに乗り、市の南郊外にあるバスターミナルへ行った。

三十分ほど揺られていたであろうか、降り立ったところは人家も少なく、視線の彼方にはひたすら荒野が広がっている寂しいところであった。そのような荒れ果てた光景の片隅に一軒の巨大で立派な建物があった。これこそ、ウルムチから新疆南部へ向かうバスターミナルだった。

     
 トルファンへ向かうバスターミナル。    ターミナル内の切符売り場。

早速、トルファン行きのバスチケットを購入した。四十六元(約650円、当時)だった。広大な待合室には、トルファン、クチャ、アクス、カシュガル、ホータンなど新疆南部の都市へ向かう案内板がずらりとならんでいて、壮観である。バスの待機場へ行くと立派な大型バスが停まっていた。フロントガラスに「
乌鲁木齐市吐鲁番市」という掲示がある。

     
 広大な待合室。ここから多くのバスが新疆各地へ向かう。    トルファン行きのバス。

バスに乗りこんだ。中国の豪華バスは東南アジアのバスと違い、エアコンが弱冷気味に設定されているので快適に過ごすことができる。タイやマレーシアのバスや列車はエアコンが効きすぎて逆に寒すぎることがあるので、夜行便などでは風邪をひくことすらある。

車窓の風景は雄大の一言であった。赤い砂漠が現れたかと思うと、一転して緑の草原が出現し、二時間半の行程は飽きることがなかった。

     
 バスの車内より砂漠を望む。    トルファンのバスターミナル。

が、トルファンのバスターミナルに降り立った私は、想像を絶する暑さにうんざりさせられた。ウルムチと比べてはるかに暑く、たちまち全身に汗が噴き出した。試しに今何度くらいかとバスターミナルの職員のおっさんに尋ねたところ、涼しい顔で「そうだなあ、四十数度じゃないか」とさらりと言ってのけたので仰天した。

このような状況下でトルファン観光を行うことになる。いかにも厳しい行程のように思われた。



トルファン観光
トルファンの見どころはほとんどが郊外に位置しており、路線バスはなさそうなのでタクシーをチャーターすることにした。バスターミナルの前に停まっているタクシーの運転手からしきりに一日ツアーをやらないかともちかけられたが、彼らはぼってくる可能性が高いので断り、表の道路を走っていた流しのタクシーを捕まえた。

運転手は初老のウイグル族だった。しわがれた声でたどたどしい漢語を操る。好感が持てたがチャーター代の値段交渉はしたたかだった。結局、四百元から始めて百七十五元(2,250円、当時)で決着した。高いのか安いのか分からないが、半額以下になったので、個人的には満足した。ただ、もしかしたら相場よりはるかに高いのかも知れない。ついでに言えば、車内のエアコンは壊れていた。そのために窓を全開にして走行すると乾燥した風が車内に吹き込み、散髪をしていない長い髪が大いに乱れた。

タクシーは走り出してすぐ、ガソリンスタンドに入った。ガソリンを入れるのかと思いきや、運転手は後部トランクを開けた。そこにはずんぐりした酸素ボンベのようなものが入っていた。その上部に蓋があり、運転手は蓋を外し、そこにノズルを入れて燃料を充填し始めた。このタクシーはガス車だったのである。日本のタクシーでは一般的だが、ガス補給の場面を見たことがなかったので新鮮な気がして覗いていると、スタンドの職員に「危ない、爆発するぞ」と脅された。

     
   ガスの給油。右は老運転手。  

火焔山とベゼクリク石窟
タクシーが走り始めた。最初の行き先はトルファン市の東北郊外にあるベゼクリク石窟である。イスラム化する前のウイグル人、あるいは漢人が開鑿したといわれる石窟群である。途中、『西遊記』でおなじみの火焔山を通る。

タクシーは快調に飛ばす。カーラジオではウイグル音楽が延々と流れている。と、運転手がダッシュボードに転がっていたテープを取り出し、セットした。すると、「ぎゅいーん」というゆがんだエレキギターの音とともに、大音響で西洋のロック音楽が流れ始めた。驚いて運転手に尋ねると、以前西洋人の乗客が置いていったもので、外国人が乗車したらかけることにしているという。ケースを見せてもらうと、漢字で「史密斯飞船合唱团」とあった。アメリカのロックバンド、エアロスミスの『ナイン・ライブズ』というアルバムの中国発売版だったが、ロックバンドに「合唱団」はないだろうとあきれた。

     
 火焔山。東西に100キロ近くも広がる。    ベゼクリク石窟のへ向かう。タクシーの中より撮影。

やがて、火焔山に差しかかった。『西遊記』の中で三蔵法師一行が行く手を阻まれ、牛魔王と羅刹女から芭蕉扇を奪うために戦う、というストーリーだったように記憶している。運転手にタクシーを停めてもらった。写真を撮るために路肩の土の部分へ足を踏み出したとたん、突然右足がズブズブと土の中へはまり込んでしまった。土だと思っていたのは、実は泥だったのだ。空気が乾燥していたのですぐに乾いたが、おかげで右足は泥まみれになってしまった。

運転手が泥だらけの足をみて笑う。ほうほうの体でタクシーに乗り込んだ。「合唱団」のテープはいくらか伸び気味である。

火焔山から二十分ほどでベゼクリク石窟に到着した。チケットを買って入口に行くと、「絢爛多彩なウイグル仏教美術」と書いている案内板があるが、その前にオレンジジュースを満載したトラックが停まっており、全くもって雰囲気をぶち壊しにしてしまっているのであった。しかもこのトラックが邪魔で入場できない。やむなく少し離れた柵を乗り越えて入った。

     
 ベゼクリク石窟の入口。トラックに入口をふさがれている。   ベゼクリク石窟の全景。内部は撮影禁止。 

石窟の全景は写真で見たことがあったが、内部は初めて見るため新鮮な気持ちで眺めていた。が、無数の仏像の顔がほとんどすべて切り取られ、のっぺらぼうになってしまっている。これはかつてこの地にイスラム勢力が侵入した時に行われた行為である。イスラム教では偶像崇拝を禁止しているため、このような措置が行われることがままある。中国国内でも、甘粛や新疆など長らく漢族の支配外に置かれていた石窟寺院のほとんどがこのような状況である。例外が、敦煌の莫高窟である。

石窟内に管理人がいた。新疆大学に通う漢族の女子学生で、夏季のあいだ管理人のアルバイトをしているという。僅かな外国人を除いて人がほとんど訪れることがないらしく、しきりに話をしたがった。かつて雲南省に住んでいたと言うと、目を輝かせて「とてもいいところだと聞いてるわ」と言った。大河ドラマで主人公を演じた早婚の女優を思わせる、かわいい女の子だった。「またウルムチに来ることがあったら連絡ちょうだい」と電話番号を教えてくれたが、残念ながらいまだに訪れる機会はない。

ベゼクリク石窟の印象は、美しい仏教美術とそれを阻害せんとするイスラム教のせめぎあいが感じられ、非常に緊張感あふれるものだった。


ウイグル族の村
次に訪れたのは、アスターナ古墳群である。ベゼクリク石窟より南へ五キロほどのところにあるため、すぐにたどり着いた。漢代から唐代あたりにかけて、この地に住んでいた漢人たちの墓だという。そのうち、唐代に埋葬された漢人のミイラを見ることが出来た。ミイラは非常にショッキングなものだったが、他の文物はそれほど多くなく、私にとってはやや退屈するものだった。

     
   アスターナ古墳群の全景。ミイラは撮影禁止。  

古墳群を離れたところで喉が渇いた。どこか適当なところで水を買いたい。運転手にその旨を告げ、漢語がうまく通じずにすったもんだの末、アスターナ古墳群の南方に位置する三堡村というところでぬるい水を買うことができた。ここはウイグル族の村である。売店では旧型のクーラーがやかましい音を立てて稼動し、屋外では乾燥した広場で子供たちが遊んでいる。ひとりの女の子にカメラを向けると、ポーズを取ってくれた。農地にはぶどう棚が広がり、戸内には楕円形のスイカが積み上げられていた。ぬるい水だったが、暑さが尋常ではないためにタクシーに乗り込むやいなや、一気に飲み干してしまった。

     
 売店の中にはスイカが積み上げてあった。   旧型のクーラー。 

水を買い求めてすぐ、高昌故城についた。高昌国の名前は聞いたことがあった。魏晋南北朝から唐代にかけてこの地に栄えたオアシス都市国家だと高校の世界史で習った記憶がある。当時は、「火州」などと呼ばれていたらしい。なるほど、言い得て妙である。日干しレンガで造られた建物は長い時間をかけて肥料として持ち去られてしまったものも多く、原型をとどめていない。それが、あたかも熱射によって建物が溶解しているようにも見えたからである。

     
   高昌故城の全景。  

高昌故城は一辺が二キロほどの正方形をしているようで、内部は自由に歩くことができた。暑い中を歩いていると、ウイグル風の格好をした女性が数名たむろしていた。数元払って写真を撮らないか、という訳である。今日は私のほかに客が少ないとみえて、すこぶるしつこい。ようやくのことで断ると気分を害したのか、あっさりどこかへ行ってしまった。それで、こちらの気分も萎えてしまったので入口に戻った。

トルファンにはもう一箇所、交河故城という古代高昌国の王都跡もあったが、時間的に参観するのが無理だったのでやむなくバスターミナルへ戻り、人の良い老運転手に別れを告げた。

     
   ウイグル族の少女。カメラを向けるとポーズをとってくれた。  

バスターミナルでバスを待っていると、近くにウイグル族の親子が座っていたのだが、その背中合わせの席にはビール会社のコンパニオンと思しきミニスカート姿の美女が三人、脚を組んで座っており、目のやり場に困った。ウイグル族たちはこのような光景を見てどのように思うのだろうか。しかし、見た限りでは彼らは漢族に対して全くもって無関心を決め込んでいるように思えた。やはり、ここでも「壁」を感じた。

     
   ウイグル族の親子。後ろに漢族のコンパニオンが見える。  


カザフスタンへの道
翌朝はすることがないので、ウルムチ市内をうろつくことにした。ウルムチはウイグル族が多いとはいえ、いくつか存在するウイグル街を除いては漢化された都市である。街中には他の中国の都市と同じく漢語が飛び交い、漢字が踊っている。もちろん、ウイグル文字も併記されてはいるのだが、ほんのつけたしのようなものだ。公園の名前も、「人民公園」とか「紅山公園」といったいかにも中国風の名前だし、道路も「黄河路」とか「長江路」、「解放北路」といった具合である。

これでは、「新疆ウイグル自治区」といった名称がほんの建前に過ぎないのではないかと考えてしまう。その上、漢族の流入はとどまることを知らない。道路の整備や鉄道の開通がそれに拍車をかける。時々、ウイグル族の独立運動が新聞紙面を賑わせることがあるが、それも当然であろうと思った。

ともかく、明日にはカザフスタンのビザが手に入る。すぐにでもカザフスタンへ移動しようと考えているのだが、問題は移動手段とルートである。

第一に考えているのは、鉄道による国境越えである。ウルムチとカザフスタン最大の都市、アルマトゥイの間には週二便の国際列車が通じている。ウルムチより西へ向かい、阿拉山口というところで国境を越えてアルマトゥイへ向かうという、二泊三日の行程である。中国とカザフスタンでレールの幅が違うため、阿拉山口では列車の台車を交換するらしく、興味をそそられる。やはり陸路で国境を越える場合、鉄道を利用するというのは言い知れぬ旅情がある。

第二は、夜行バスでウルムチ西方のイリ・カザフ族自治州の伊寧という街まで向かい、そこから乗り合いタクシーを乗り継いでアルマトゥイへ向かうというものである。中国の夜行バスははっきり言って苦手である。バスの進行方向に二段ベッドが三列並んでいるのだが、幅も狭いし全長も一七〇センチ強しかなく、私の身長では脚を折り曲げなければ横になれない。揺れもひどいために熟睡できたためしがない。その先の「乗り合いタクシーを乗り継いでいく」というのにも漠然とした不安を感じた。楽なのはやはり、ダイレクトにアルマトゥイまで運んでくれる国際列車であろう。

だが、ウイグル族の現状を見た私にとって、今度はイリという街を見てやりたい、そういう気分になった。「壁」があるとは言え、ウルムチのウイグル族は現在徐々に漢族に侵食されつつあるように思う。イリのカザフ族はどうなのだろうか。また、鉄道は週に二便しかないが、イリ行きのバスは一時間に一本程度出ているようだ。夜行バスは確かに乗り心地が悪いが、中国最後の思い出と考えれば悪いことでもなかろう。

もう一点、列車による国境越えの際に気がかりな点があった。コピーさせてもらったガイドブックにあった「通関の際、列車のトイレは三時間ほど施錠される」とあるのがそれだった。私はお腹が弱い。少し辛いものを食べただけで、翌日は一日中、断続的にトイレに駆け込む羽目になる。そのような状態で、しかも旅の途中というリスクがあるのに、一日のうちに三時間もトイレに行けないというのは、考えただけでもぞっとする。むしろこちらの理由で、列車で国境を越える案はボツになった。

     
 興味をそそる看板。乳製品の広告か。    これも興味をそそる看板。理髪店の広告だった。

そういう訳で、ビザを受け取る翌日にイリを目指すことに決定した。ルートが決定したため気分が俄然明るくなり、昨晩と同じウイグル料理屋に行って「羊肉串」を注文し、部屋に戻ってサッカーのアジアカップを見ながらやはり「烏蘇ビール」でひとり乾杯した。


再び「領事館」へ
夜が明けた。今日はカザフスタンのビザが交付される日である。朝一番で取りに行きたい。すぐに着替えて宿を出、路線バスに乗りこんだ。路線バスのフロントガラスには漢字で、「流动的莫斯林之家」と書いてあった。「動くムスリムの家」という意味である。

カザフスタン「領事館」に到着した。パスポートを受け取ると、インドネシアのビザの隣りのページにシール式のカザフスタンのビザが貼られていた。キリル文字でびっしりと埋め尽くされている。カザフスタンへ入国出来るということで、足取りも軽くなった。

ビザが取得出来たということもあってか、空腹を感じた。「領事館」からバス停へ向かう道の途中に四川料理屋があったので、そこへ入った。ウルムチで四川料理なんて、と思うかも知れないが、これで食べおさめという気持ちもあり、入店して麻婆豆腐と米飯を注文した。

先にも書いたが、私はすぐお腹を壊す。そのくせ、辛い料理は好きなものだから始末が悪い。雲南省に住んでいた時は毎日のように唐辛子のきいた辛い料理を食べまくったが、食べて三十分後くらいにすぐにトイレに行きたくなる。そういう時に路線バスなどに乗っていたりすると最悪だった。中国の路線バスは交通マナーがめちゃくちゃな割に融通がきかないところがあり、信号待ちの交差点では「危険だから」という理由で絶対に降ろしてくれない。冷や汗をかきながらトイレに駆け込むことが何度あったことか。しかし、激辛の麻婆豆腐はどうしても食べたくなってしまう。この時もそうだった。

     
 非常に辛い四川麻婆豆腐。    チェスで遊ぶ人々。西安のような中国将棋ではなくなっている。


奇妙な共存
食べ終わって外に出ると、漢族の女の子が遊んでいる。その隣りにはウイグル族のお婆さんが漢族の子供をあやしている。ウルムチに来て初めて見た、漢族とウイグル族の「交流」だった。女の子に、「ご飯食べた?」と聞くと、「小劉(劉ちゃん)が夕方に作ってくれるの」と、笑顔を見せた。

     
 数少ない漢族とウイグル族の「共存」。    ナンを売っている店。

この「交流」はほとんど例外だと言ってよい。ウルムチの街では、漢族とウイグル族の交流がほとんど見られなかった。おたがいに共存しつつも「壁」を作り、無関心を決め込んでいる。漢族はもちろんウイグル語を学ぼうとしないし、大多数のウイグル族もしかりである。そのくせ、彼らと喋っていると、内心では漢族もウイグル族もお互いを嫌っているような発言が多々現れるのであった。

ウイグル族居住地では漢族の姿を見かけることはほとんど皆無である。これは漢族がウイグル族を意図的に避けているようにしか思えない。「民族の力関係」で言えば、漢族の方がはるかに優位に立っているように思える。圧倒的な人口の多さに加え、内地よりの漢族移民が増加していることもその原因のひとつである。ウイグル族の居場所は徐々に狭められているように感じた。漢族とウイグル族との共存関係は、現在のところ危うい「壁」のような均衡をもって保たれてはいるが、それがいつ崩れてウイグル族を呑み込んでしまうのか分からない。

そのようなことを考えながら、帰りの路線バスに乗った。十分ほど南下すると、バスは「汗血馬」像のロータリーを通過する。汗血馬とは前漢の武帝が李広利という将軍に命じて大なる西方の国へ獲りに命じた駿馬のことである。血のような汗を噴き出して疾走することからこの名がつけられた。大はさらに西方のウズベキスタン・フェルガナ盆地のあたりらしいが、なぜかウルムチにその像がある。像自体は大した価値があるものではないが、下車して写真を撮った。

     
 汗血馬の像。    ウイグル族の赤ちゃん。

ウルムチ最後の夜である。ウイグル族の居住地を心ゆくまで満喫したいと考え、新疆大学よりウイグル街へ歩いて向かった。どこからともなくウイグル族が現れ、やがて道を埋め尽くした。丸い屋根のモスクも見える。ひょうたんを吊るして売っている店もあるし、ゆで卵と蒸し大豆を混ぜ合わせた食べ物を売っている露店もある。三日間通いつめたウイグル料理屋に入った。店の前で羊肉串を焼いている兄ちゃんが、また来たのかとばかりににやりとしてみせた。

     
 ひょうたんを売っている店。    ゆで卵と蒸し大豆を混ぜた料理。

ここはウイグル族が望んでやまないウイグル族だけの世界なのだろうか、一瞬、そう信じたくなったが、漢語でなされるけたたましいバスのアナウンスが路上に響き渡り、その思いもかき消されてしまい、「中国」という現実に引き戻された。

     
   ウイグル族の少女。  

「壁」もいつかは崩れ、ウイグル族を呑み込むのか。

つまるところ、ここウルムチも、「中国」なのだろうか。