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激痛 激しい痛みで、目を覚ました。 右足のかかとにひきつった痛みを感じる。試しに立ってみようと思うが、痛くて立てない。 足を折り曲げてかかとを見ると、みみず腫れのような長く赤い線が一本、醜くついている。 どういうことだろう、と思う間もなく、一昨日のトルファンでの出来事を思い出した。 火焔山を参観していた時、右足が泥にはまりこんだことはすでに述べた。その時、私はサンダル履きで参観していたのである。そして、私のかかとには以前から細かい傷がついていた。 内陸の乾燥地帯をサンダル履きで過ごす際、足のかかとに角質が溜まってかちかちになる。それを放置しておくと、かちかちになった部分がひび割れて無数の傷がついてしまう。これを防ぐには、サンダル履きをやめてきちんと靴下を履くか、あるいは角質を削ってやらねばならない。怠惰な私は、どちらもやらなかったのだ。 トルファンで泥の中に足がはまり込んだ時、雑菌がその傷口に侵入したに違いない。 ひとまずどのくらい歩けるのか、とりあえず洗面所まで歩こうとした。 が、激痛で右足を引きずるようにしなければ歩けない。厄介なことになった。 遅きに失した感はあるが、シャワーで右足をきれいに洗浄した。この時もかかとに触れると激痛が走った。 今後の予定を立て直さなければならないと思った。
今後の予定 真っ先に行かねばならないところ、それはイリではなくて病院であろう。 歩けなければ話にならないし、放っておくとどのような恐ろしい事態を招くか分からない。 が、すでに本日午後四時発のイリ行き寝台バスのチケットを入手している。払い戻すにはどのみち、ウルムチ西方にあるバスターミナルへ行かねばならない。ターミナルへ行くとバスが待っているのに、わざわざチケットを払い戻すのも面倒な気がした。 それに、ウルムチは大都市である。病院もさぞかし混んでいるに違いない。それより、イリの病院で治療を受けた方がいいのではないか、とも考えた。 ただ、この右足を抱えたまま過酷な夜行バスに耐えることができるのか、という心配も頭をよぎった。安全策は、ウルムチで治療を受けて傷が回復するのを待つことであろう。 ぐだぐだ考えた末に出た結論は、イリに行って治療を受けることだった。寝起きの回らない頭で考えたことだったので、今から思えば相当無謀であるが、この時はとにかくそれが最善策だと思い込んでしまっていたのだ。 持っていた液状の傷薬をかかとに塗ると、大いに傷口にしみた。 時計を見ると午前九時十五分、外も大分明るくなっている。
イリ行き夜行バス チェック・アウトぎりぎりまで宿で横になり、痛む足を引きずりながら昼ごはんを食べたりネットカフェに寄ったりしているうちに三時過ぎになった。そろそろバスターミナルへ向かわなければならない。路線バスには乗らず、タクシーに乗った。
イリへ向かうバスターミナルは、一昨日乗ったトルファンへのそれとは違う場所にあり、新疆大学からタクシーで二十分ほどだった。街の西側に建つ、こちらも立派なターミナルだ。
私の乗るバスはすでに入場していた。フロントガラスに「伊宁市-乌鲁木齐市」の掲示があった。伊寧とはイリの中心都市である。珍しいことに、このバスは土足禁止なのだった。入口でビニール袋が配られ、それにサンダルを入れた。サンダルを脱ぐのも苦痛なほど、足が痛む。 車内は清潔だった。が、思ったとおりベッドの全長が短く、脚を折り曲げなければならない。私は一番左の列だったので、痛む右足を通路にだらんと伸ばしておいた。すると少しは楽なのだが、他の乗客が通る度に右足にぶつかり、大いに痛む。どうすれば良いのか分からなくなったが、そのうちにバスは発車した。
苦痛の行程になるのではないかと思ったが、しばらくはバスが高速道路を快走したこともあり、意外と楽に過ごせた。発車してすぐに眠ってしまい、午後十時ごろに奎屯市のガソリンスタンドでトイレ休憩をするまで目が覚めなかった。ちょうど日没の時刻で、西の空に日がゆっくりと落ちていった。そして、十一時過ぎまで空が完全に暗くなることはなかった。それは傷の痛みを忘れるほど神秘的な光景だった。
「イリ! イリ!」という叫び声で目を覚ました。外を見ると、バスはちょうど伊寧のバスターミナルへ入っていくところであった。足はなお痛むが、昨日よりは治まっているようだ。私の選択は成功したように思えた。 あたりはまだ暗い。とりあえずは宿を見つけなくてはならない。今回は少しグレードの高い宿を選ぶことにした。激痛を少しでも和らげるためである。幸い、バスターミナルの近くに落ち着いた雰囲気の宿を見つけた。 よたよたと中に入っていくが、フロントには誰もいなかった。声をかけると、奥からひとりの男が眠たそうな目をこすりながら現われた。ウイグル族とは明らかに違った風貌である。先日、カザフスタン領事館になっている建物で見た人々にそっくりだったので、彼らこそがカザフ族なのだろうと思った。 一番安い部屋は一泊百五十元(約2,000円、当時)である。今まで泊まってきた宿の数倍するが、これは仕方がない。やはり体が資本だ。
病院にて 仮眠をとり、起きると午後になっていた。早速病院に向かった。伊寧の街は小さいので、病院はすぐに見つかった。受付に、自分が日本人であること、こういう理由で保険証などは持っていないことを説明すると、すぐに診察室に通された。 十分ほどして、現役時代に「ヤンバルクイナ」の異名をとり、引退後にタレントに転向した沖縄出身のプロボクサーに酷似した医師が現われた。とても医師には見えない。絶えずにやにやとした笑みを浮かべているのが、逆に胡散臭さをかもし出している。 私が事情を説明したところ、ヤンバルクイナ氏は「お前の中国語は上手いなあ、どこで勉強したんだ?」と尋ねてきた。ああ、またこの説明から始めなければならないのかとうんざりした。しかしここは真面目に答えておかねばならないと考え、雲南省に住んでいたことを説明する。と、やはりお決まりの答え、「俺は雲南省に行ったことがないんだ、いいところだろう?」と返ってきた。もうこうなると雑談をやめる訳にはいかない。十五分くらい、延々と雲南省の観光案内を続けてしまった。足は依然として痛む。 ようやく、ヤンバルクイナ氏は痛む右足を見てくれた。そしてすぐ、紙に「砍伤」と書いて私に見せた。電子辞書で調べると、「切り傷」という意味だということが分かった。そして奥からなにやら液体の薬を持ってきて、綿棒で私のかかとに塗りつけた。 あまりの痛さに飛び上がりそうになったが、痛みは一過性のものですぐに治まった。治療はあっさり終わったように思われた。
が、ヤンバルクイナ氏はすかさず「一応、点滴も打っておかなくてはならないな」と言い、女性の看護師さんを呼んで私を点滴室へ連れて行かせた。点滴まで受けるとは思わなかったので、少し面食らった。 点滴室は全くもって緊張感に欠けるものだった。子供や老人が、点滴を受けながらテレビを見ている。テレビはやはりサッカーのアジアカップであり、この日も中国チームが出ていた。日本チームは出ていないのか、それが気になったが、そのうちに看護師さんが点滴の道具を持ってきた。
点滴の道具はきちんと消毒されているんだろうな、と少し心配だったが、見ると未開封の清潔そうな針だったので安心した。 が、看護師さんの針の打ち方がすこぶる乱暴である。二度も血管を外し、三度目にようやく所定の位置に刺さった。彼女が針を刺すたびに私は激痛に顔をゆがめた。 大体、この看護師さんの服装からして、いかにも中国的なものである。一応白衣は着ているが、それは私服の上から羽織っているだけで、下はジーパンだった。あまり清潔な印象は感じられない。 彼女と少し話をした。西安の専門学校を出て、この病院に職を得たという。故郷は寧夏の銀川とのことだった。「ずいぶん遠いところまできたものだね」というと、「そう、人の多い西安が懐かしいわ」と笑った。
一時間ほどで点滴が終わった。すると再びヤンバルクイナ氏に呼ばれた。塗り薬をくれたは良いのだが、ここで金を払えと言う。おかしい、普通、お金は別のところで払うものではないか。 「そりゃそうだ、お前は外国人だからな、特別だ」と彼は言う。 それなら、と値段を尋ねると、「四百元(5,600円、当時)」と言い、その直後ににやりとしてみせた。 その「にやり」がどうにも胡散臭かったので、わざと「え、四百元? 高いな」とつぶやいたところ、即座に「じゃあ三百五十元」と値切ってきた。 どうやら、イリの小さな病院で診察を受けるのも、トルファンでタクシーの値段交渉をするのも、感覚的には変わらないらしい。何といういい加減さだとあきれつつ、こちらも値切り交渉に入り、結局二百四十元まで下がった。このお金の行き先はどこだろう、と思った。病院でないことは確かだろう。 「お前はカザフスタンに行くらしいが、行く前にもう一度様子を見たいから来い」とヤンバルクイナ氏が言うのを聞きながら、このどうしようもない病院を後にした。 宿に帰ってスポーツニュースを見ると、中国がイランと引き分けたとあった。 伊寧の街 翌日。痛みはかなり引いていた。なんとか普通に歩けるようになっている。伊寧に数日滞在して、様子を見るつもりだ。が、観光はそれほど行わないことにした。無理して痛みが再発したら困ると考えたからである。 街をぶらぶら歩き回って、全貌をつかもうと試みた。伊寧の街はウルムチよりさらに「漢化」が進んでいるように感じた。街の開発が最近急速に始まったかのような印象も受ける。
「スターリン西路」という通りを見かけた。ここ伊寧の街は1940年代の一時期に「東トルキスタン共和国」なる国の首都となっていたことがある。中華民国時代、漢人の軍閥がはびこっていたこの地にソ連の援助で国家が建設され、一時はウルムチ近くまで勢力を拡大したが、新たに成立した中華人民共和国とソ連が同盟を結んだためにソ連の援助が打ち切られ、そのまま中国に編入されて東トルキスタン共和国は消滅した。この運動はイリをはじめとする三つの地域で行われたため、「三区革命」と呼ばれている。 東トルキスタン共和国の指導者たちはソ連がこの地から手を引いた後、会談のため北京に向かう途中で立ち寄ったモスクワで殺害された。それも飛行機事故と偽装され、殺害が発覚したのはごく最近のことだという。しかし彼らはいまだに中国で「イリ地方を解放した英雄」という扱いをされ、記念館も建てられているようだ。なんとも血なまぐさい、かつ都合のいい話である。新疆で独立運動が絶えないのも分かる気がした。 そのような経緯もあり、ソ連の影響が強かったためにスターリンの名前が残っているのだろう。ただ、「スターリン西路」にソ連やスターリンを連想させるものは何も見出せなかった。
この日の晩は、中国の全土でよく見かける「砂鍋」という料理を食べた。小さな土鍋に肉、野菜、豆腐、麺類などを入れて煮る料理である。カザフ族もムスリムなので、肉は羊肉である。これがすこぶる辛い。唐辛子味のスープの中に具が入っている感じである。体中から汗をだらだら流しながら食べた。これが逆に爽快だが、冷たいビールがあればもっと良いのにと残念に思った。
結局この日も宿に帰ってビールを飲み、サッカーを見て一日を終えた。足の具合が思ったより良いので、予定を前倒しして翌日カザフスタンへ入ることにした。だが、その前に一応、例の病院に顔を出しておこうと考えた。
再び病院にて 翌日。いよいよカザフスタンへ入国する日である。未知の国に入る期待感と不安感が交錯する。 国境は伊寧西郊のコルガスというところにあり、バスターミナル付近から乗り合いタクシーが頻発しているようだ。時間を気にしなくて良いので、やや余裕を持って例の病院へ向かった。 受付の女性が私のことを覚えていてくれた。他の患者をパスして、すぐに診察室に通されると、やはり十分くらいして、例のヤンバルクイナ氏が現われた。 相変わらずにやにやした表情である。もしかしたら、これが彼の地顔なのかもしれない。本当は真面目な男なのかと思った瞬間、彼が口を開いた。 「足の調子はどうだ?」 かなり気さくである。こちらの気分も良くなるというものだ。 「はい、おかげさまで大分良くなりました」 私は心から感謝の意を込めてそう言った。「今日は薬を塗って、終わりですか?」と、軽い気持ちで尋ねたところ、彼の表情がさらに緩んだ感じがした。嫌な予感が頭をよぎった。 「時に」とヤンバルクイナ氏は口を開いた。 「おまえの足はまだ全快したとは言えない。あと一週間くらいここで治療を受けて、それからカザフスタンへ向かうのが上策だ。それまではここに毎日通うのだ、友よ」 彼は確かに「朋友(友よ)」と言った。胡散臭い響きだった。このひとことで、ヤンバルクイナ氏への信頼が一気に崩れ落ちた。 私はおずおずと尋ねた。「一日あたりの治療費はいくらくらいになるんですか?」 するとヤンバルクイナは緩んだ表情で「そうだな、大体五百元くらいだろうか、友よ」と、再び「朋友」と言った。 冗談ではない。ただ薬を塗るだけで五百元とは法外すぎる。それに、一昨日吹っかけてきた値段より百元も高くなっている。ここは話を打ち切って逃げ出さなければとんだことになる、と思った。 「友よ、これはお金の問題ではないのだ」 三たび「朋友」である。しかも、金の問題ではないと言うが、この金の入るところは間違いなくヤンバルクイナのふところだ。もはや話はかなり馬鹿馬鹿しいところに来ていると感じた。 「やっぱり今からカザフスタンへ行くから」 そう言い残し、ヤンバルクイナが止めるのを振り切って猛烈な勢いで病院を出た。不思議なことに、足の痛みはほとんど消えていた。 国境へ 伊寧バスターミナルの脇に、「霍尔果斯」の看板を掲げたフォルクスワーゲンサンタナが停まっていた。これがコルガスへ向かう乗り合いタクシーだった。乗客が四人集まらなければ発車しないようだったが、ちょうど私が最後の乗客だったため、すぐに動き出した。
タクシーは荒野の中の並木道を延々と三十分ほど走った。途中で「六○九農場」などという標識をいくつか見かけた。このような荒涼とした辺境の地にも農場があるのか、と新鮮な気持ちで眺めていたところ、タクシーはにわかに立派な舗装路に入った。そろそろ到着するのかと思って前方を眺めると、荒涼とした景色の中に、明らかに税関の建物だと分かる堂々たるビルが見えてきた。
タクシーを降りた。そこから税関の建物までは歩いて五分はかかりそうだった。足の状態を考慮して、まあのんびり行くかとのろのろ歩いていると、いきなり目の前でフェンスが閉ざされてしまった。これがかなり強制的な措置で、カザフスタン側から入国してきた人々の中には中国側に出ることができず、フェンスの内側に取り残されてしまった人も多くいた。フェンス越しに抗議をしているが受け入れられず、炎天下のフェンス内で座り込んでいる人が二十人ほど見受けられた。 あわてて守衛に尋ねた。「昼休みなんですか? いつフェンスは空くんですか?」すると「午後四時ちょうどだ」と答える。時計を見ると、午後一時半だった。つまり私は中国側の国境で二時間半を過ごさねばならない。なんてこったと舌打ちした。僅か数分のロスのために、大きな時間を失ってしまった。この二時間半は大きい。下手をすると、今日中にアルマトゥイまでたどり着けないかもしれない。そのようなことを考えるとうんざりしたが、フェンスが開かないことにはどうしようもないので、仕方なく国境で時間をつぶすことにした。
思うに、旅をしていて国境周辺ほど怪しく、かつつまらないと感じるところはないだろう。「怪しい」というのは、身元不詳の人々が続々と国境につめかけ、怪しげな商売を営んでいるからである。「つまらない」というのは、国境の建物は見かけこそやたらと立派だが、実際には大体が免税品店かカジノで、普通の旅行者には縁がないところだからである。 話は脱線するが、私が経験した中で一、二を争う怪しげな国境は、中国とミャンマーの国境に位置する「瑞麗口岸」だろうと思う。口岸とは国境のことである。瑞麗の街はとにかく怪しいの一言に尽きた。街中のいたるところでミャンマー人が商売をしており、相当混沌としていた。中にはインド系やパキスタン系の人々もいたため、その地が本当に中国なのか分からなくなった。 瑞麗が怪しいもうひとつの理由は、国境のフェンスを乗り越えてミャンマー人が続々と不法入国してくるからであった。素朴なミャンマー人には似つかわしくない、恐ろしく派手な化粧をした女性たちがフェンスを乗り越えて中国側に入り、フェンス脇に建てられている小屋に入っていく光景を見た。彼女たちが何をしているのかは知らない。あるいは、ミャンマー側から大きな袋がぽんぽんと中国側に投げ入れられている光景を見た。袋の中身が何かは知らない。ただ、その場にいた中国の国境警備員がこう言っていた。「中国人がミャンマーに入ったら多大な罰金を払わねばならないが、ミャンマー人が中国に入ってきても我々は咎めない。なにしろ、彼らは我々に利益をもたらしてくれるからな」と。この地の法律はいったいどうなっているのかと驚いた記憶がある。 瑞麗の国境付近では二重三重に検問が張られ、麻薬を持ち込んで来ていないか執拗に検査された。そのような努力にも関わらず、そこはミャンマーから中国へ入ってくる麻薬の一大ルートになっているようだった。ちなみに、この国境を外国人が通過することは基本的に禁じられている。 中緬国境の話はさておき、さすがにフェンスを乗り越えてくる者はいないが、ここコルガスの国境も相当異様な雰囲気が漂っていると私は感じた。 コルガスの国境 することがないので、まずは近くに建っている免税品店を見ることにした。国境付近のうらぶれた雰囲気に似つかわしくない立派な建物である。だが、内部は中国特産の玉や絹製品、あるいは怪しげな漢方薬などで、これからの旅程には何の役にも立たないので全く買う気が起こらなかった。ただ、暇つぶしにはなった。
一時間ほどして国境のフェンス付近に戻った。フェンスの傍らに羊肉串を焼いている露店があったので、そこで時間をつぶすことにした。主人はキャップを被った寡黙な雰囲気の、おそらくはカザフ族の兄さんである。傍らに奥さんと、子供とおぼしき男の子と女の子がひとりずついる。
男の子の方は父親に似たのだろうか、口をへの字に曲げてむっつりしている。珍しいお客がやってきたとでも思っているのか、挑戦的な目でこちらを見るので、こちらもつい目を合わせてしまう。すると、この子の後ろに、ウイグル文字が書かれた生ビールサーバーのような緑色のタンクがあることに気づいた。 「これは何?」と主人に聞くと、「クワスだよ」と教えてくれた。クワスを見るのは初めてだった。いよいよロシア世界に入っていく感覚がしたので、このアルコールが含まれたロシア製清涼飲料を注文した。口に含んでみると、甘酸っぱい味がする。初めて飲むクワスなので、新鮮な感覚でちびりちびりと飲んでいると、主人が人間の顔ほどあるナンを出してくれた。塩味がきいていて、おいしい。
クワスを飲みながらナンをかじっていると、女の子がガスに火をつけ羊肉串を焼き始めた。まだ五、六歳くらいだと思うが手馴れたものだ。目が合うと笑ってくれる。寡黙な男の子とはまた違った印象を受ける。
この露店でクワスを飲み羊肉串をかじりながら、ここ数日の出来事を思い返してみた。自分のほんの不注意から、今後の旅程に大きな影響を及ぼすほどの代償を負ってしまった。これは今後旅を続けていく上で大きな反省点となるだろう。体調管理に気をつけなければならないと、改めて気を引き締めた。
そうこうしているうちに四時となり、ようやくフェンスが開いた。フェンスに取り残されていた人々がどっと中国側になだれ込んでくる。それをやり過ごしてから税関の建物に入った。中国側の税関はすでに多くの人々で長蛇の列ができていた。出国カードに必要事項を記入してから、なるべく空いてそうな列を見つけて一番後ろに並んだ。 三十分ほどして、ようやく私の番になった。職員は若い女性だった。私の薄汚れたパスポートのページを手繰りながらスタンプを探しているようだったので、「このページに入国のスタンプが押してありますよ」と、入国スタンプが押してあるページを教えた。 すると女性職員はそれを見て、「ああ、あなた雲南省のシーサンパンナから入ってきたの? シーサンパンナっていいところって聞いてるわ。あなたは雲南省に住んでいたの?」と、矢継ぎばやに質問してきてから、にっこりと笑った。 私は、またこの質問かとうんざりし、一方では緊張感に欠ける税関だなと感じたが、女性職員の人当たりの良さそうな笑顔を見て、「まんざらでもないな」と思った。 ともかく私は中国を出国し、カザフスタンに入国した。 中国最後の日々は、傷の痛みに悩まされた日々でもあった。
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