シルクロード、西へ |
第5章 アルマトゥイへの道――天山北路とカザフ人 |
カザフスタンの税関 初めての国に入国する時は緊張するものである。 大抵は何か咎められるのではないかとおどおどしながら税関を抜け、闇両替や白タクの誘いを何とかやり過ごしながら公共の交通機関を見つけ、安宿に落ち着いてからようやく一息つく。その間、気が休まることはない。 マニラのニノイ・アキノ空港では違法タクシーが横行しており、それを取り締まる意味で街中までの料金表が掲示されているとのことだったが、実はその料金表自体が偽物のぼったくり価格だという噂もあった。タクシーの運転手が追いはぎに豹変するという話も聞いたことがあり、何を信じていいか分からずに空港の片隅から出る乗り合いジープニーに乗り、途中で高架電車に乗り換えた。その間、気が抜けることがなかったが、特に何も起こることはなく、料金はタクシーの何十分の一だった。 結局のところ、噂の大部分はあくまで噂に過ぎないのだろう。 東南アジアや南アジアの国々では、一部の社会主義国を除いて税関職員も最小限の温かい対応をしてくれた。そのような対応に接すると緊張感が少しは和らいだものだった。 だが、ここカザフスタンの税関は、やや勝手が違った。 まず、税関の職員からして恐ろしげな雰囲気をかもし出している。 イミグレの職員は屈強なロシア系のおばさんだったが、私のパスポートを五分以上かけて隅々まで眺めた後、ようやくスタンプを押し、こちらに投げてよこした。 すっかりカザフスタンの税関に恐れ入っていた私は、その後の荷物検査で難癖をつけられたらどうしようと参ってしまっていたのだが、幸い咎められることはなくカザフスタン側に通り抜けることができた。
カザフスタン側の国境にて というのは、言葉が全然通じないからである。 これまで回ってきた国では、英語または中国語が通用した。たとえ英語を母国語や公用語としない国でも、バスやタクシーの呼び込みなどは必ず片言の英語を話したものだ。 それがここカザフスタンの国境では、誰に話しかけても全く取り合ってくれない。アルマトゥイに行きたいので、「アルマトゥイ」と言っても発音が悪いのか、肩をすくめるだけなのである。旧称の「アルマ・アタ」でも駄目だ。 旧ソ連圏の国々は英語がほとんど通じないという話は聞いていたのだが、これほどだとは思わなかった。
まだ日は高い。ひとまず、国境の様子を見ることにした。通貨はすでに余った人民元をカザフスタン・テンゲに両替しており、四千テンゲ(約4,000円、当時)ほど手元にある。アルマトゥイへ向かうバスや乗り合いタクシーの料金には十分余裕があるはずだった。 まず、広い国境駐車場の七割はアルマトゥイ方面へ向かうトラックで埋まっている。残りの三割が乗用車やバスなのだが、バスは「中国伊宁―哈萨克斯坦」の掲示を出してある大型バス一台のみで、それも国境では客を拾わないと見えて、すぐに砂煙を上げつつ発車していった。 残るは乗り合いタクシーを探すだけだが、一体どれが普通の自家用車でどれが乗り合いタクシーなのか見当がつかない。普通乗用車は旧型のアウディやフォルクスワーゲンなど古いドイツ車が二割ぐらい、わずかに韓国のヒュンダイやデウが見られるのみで、大半は朽ち果てかかったジグリやモスクビッチ、ポロネーズといった旧ソ連や東欧のおんぼろ車だった。 ひとまずアルマトゥイへ行く車を見つけなければと、人が集まっているところへ行き、「アルマトゥイ」と連呼してみるのだが、とにかく言葉がうまく通じないので相手も困った顔をしている。そうしているうちに他の客が脇から割り込んできて、その客に決まってしまうといった状態を何度か繰り返していた。 すると、少し離れたところにいた六、七人の人々がこちらを見ているのに気づいた。彼らはどうやらひとつの家族のようだった。そのうち、オレンジ色のTシャツを来た女の子がこちらに寄ってきて、英語で話しかけてきた。 「アルマトゥイへ行くの?」 地獄に仏だと思った。話を聞くと、彼らはウルムチへ買い物に行き、今からアルマトゥイへ帰るところである。タクシー二台に分乗して帰るところだが、良かったら一緒に乗っていかないかとのことだった。もちろん喜んでその話を受け入れ、古びたアウディ100の助手席に乗り込んだ。タクシー代は千テンゲだった。ひとまずの目標にしていた、アルマトゥイのサイラン・バスターミナルまで連れて行ってくれるという。 タクシーは意気揚々と出発した。と思いきや、数百メートル走ったところで情けない音を立てて停まってしまった。運転手が数回キーを捻るがエンジンがかからない。どうやらバッテリーが上がってしまったらしい。運転手がいまいましげにクラクションを鳴らし、先行していたもう一台のアウディを呼び寄せ、ボンネットを開けてケーブルを繋いだ。再びキーを捻ってようやくエンジンがかかり、走り出した。一息ついて前方をよく見ると、フロントガラスには大きなひびが入っている。そして、シートベルトはなかった。アルマトゥイまで約四百キロ、先が思いやられる。
天山北路を西へ 思うに、この道はいわゆる「シルクロード」で言うところの「天山北路」に相当するものであろう。 中国から見た「シルクロード」の路線は、それを定義したリヒトホーフェンやヘディンの解釈で言えば、大まかに三路に分かれる。敦煌から楼蘭、クチャを通る「天山南路」、および敦煌からホータンなどタクラマカン砂漠の南部を経てパミール高原に至る「西域南道」の二路がより「シルクロード」の雰囲気を現代に残しているのに対し、敦煌からトルファン、ウルムチ、イリを通ってアルマトゥイからタラズに至る「天山北路」は、道路整備が進んだこともあいまって、なんとなく味気ない感じがする。周囲が砂漠ではなく、草原地帯なのもその一因であろう。 しかし、「東西世界を結ぶルート」という面から見れば、いずれも「シルクロード」である。そのルート上に身を置いているというだけでも心地よい気分になった。問題は、タクシーが飛ばしすぎることくらいであろうか。 一時間ほどしてドライブインへ入った。ちょっとした売店があり、飲み物やお菓子を売っていた。ここで十分ほど休憩した間に、例の女の子と話をした。 「ウルムチへはよく行くの?」 「一年に三~四回くらい買い物に行くわ」 「アルマトゥイでは買い物ができないの?」 「そう、アルマトゥイは大きな街だけど、モノが全然売ってないの。だから家電製品とかを買いに中国まで行くわけ。多くのカザフスタン人がそうよ」 旧ソ連圏のモノ不足は未だに改善されていないのか。それにしても、依然として社会主義を称している中国の豊かさはどういうことだろう。 「でも、カザフスタンも石油や天然ガスがあるから、これから豊かになると思うわ」 そう彼女の母親が主張しているという。どうにも判断がつきかねた。アルマトゥイへ行ってみれば、あるいは少し事情が理解できるかもしれない。
タクシーは再び走り出した。道はほとんど直線である。無人の草原を行くような感じであるが、時折ちょっとした集落が出現する。そういった集落には、必ずといっていいほど何らかのモニュメントが存在し、傍らにバスの待合所が設けられていた。もっとも、バスが来るのかどうかは分からない。 一時間ほど走って、再び休憩した。今度は草原の中に設けられた簡易販売所であった。バケツに桃やみかんを山盛りにして販売している。日本の田舎でも見られる光景だが、草原の中の風景はより素朴さを感じさせた。ふと振り向いてみると、馬車に乗った少年が道を行くところだった。
嵐の襲来 タクシーは再び走り出した。道の両側は見渡す限りの草原で、ところどころに低木が密生している。進行方向左側に雪を戴いた山脈が見える。後部座席の女の子が「あれを越えるとクルグズよ」と教えてくれた。クルグズとはキルギスのことであろう。とすれば、あの山脈が天山山脈なのか。 それにしても道の悪さには参ってしまう。舗装がはげて穴だらけになっている箇所もあれば、地盤が悪いせいか路面が波打ってしまっている部分もあり、ある意味では起伏に富んでいるといえる。 このような道はミャンマーやカンボジア、バングラデシュなどの国道では当たり前のように存在しているが、大体のドライバーは減速して穴を避ける傾向にあり、その度にいらいらさせられた。が、この運転手はスピードを落とさず、巧みに穴を避けつつ走る。その運転テクニックたるや賞賛に値するものだが、シートベルトがないので体が上下左右に跳ね回り、すこぶる危険である。運転手はと見れば、石原軍団のドラマに出てくる部長刑事のようなティアードロップ型サングラスをかけ、鼻歌混じりで運転している。スピードメーターを見ると、百キロは軽く越えている。これはえらいことになったと思いながら前方を見て、異変に気づいた。 地平線の彼方に真っ黒な雲が出現し、それがみるみるうちに近づいてくる。雨雲だと思った時にはあたりはすでに真っ暗になっていた。 あっと言う間もなく、マシンガンが炸裂するような轟音とともにタクシーは雨の中に突っ込んでいた。大粒の雨でフロントガラスが洗われ、前方が見えなくなった。私は驚いて運転手を見たが、彼は鼻歌をやめることなく、減速もしない。僅かに間欠ワイパーのスイッチを入れ、フォグランプを点灯させただけだった。後ろの一家はどうかと見れば、楽しげに談笑し、天気の変化などにお構いなしである。 そんなものなのかと思い、こちらも覚悟を決めることにした。時折対向車のヘッドライトが現われたかと思うと、あっという間に脇を駆け抜けていく。少しでもハンドル操作を誤れば正面衝突してしまうような状況下で、運転手は落ち着き払ったものである。モンテカルロやサファリというのはこのような感覚なのだろうか、ラリーのナビゲーターは大変だろうなと思っているうちに、いつしか雨雲を突破していた。 何事もなかったかのように、再び青空が現れた。天山山脈の雪が美しく反射している。
アルマトゥイに降り立つ 「あと一時間くらいで着くわ」と、後部座席の女の子が言う。 いよいよアルマトゥイか、と感慨に浸る間もなく、タクシーは鉄道の操車場を陸橋でオーバークロスし、片側二車線の大型道路に入った。 車の流れが急に悪くなった。市街地へ突入したということだろう。目指すサイラン・バスターミナルは市街地の反対側にあるようなので、もうしばらく時間がかかるだろう。道路標識には、「Астана」、「Бишкек」と書いてある。感覚的に「アスタナ」、「ビシュケク」だなと思った。いよいよ到着である。そのまま大通りを四十分ほどのろのろ流し、路面電車が走っている交差点に差し掛かった時、女の子に「あれがサイラン・バスターミナルよ」と言われた。なるほど、交差点の角に多くのバスが停車しているのが見えた。その後ろには古びた建物が建っている。おそらくそれがターミナルの建物であろう。 荷物を下ろし、一同にお礼を言って別れた。タクシーは猛スピードで去っていき、再び私は一人になった。 お世話になった一家の名前を聞きそびれてしまった。
トラブル バスやタクシーが雑然と停車している駐車場を抜けると食堂街に入り、その外れからターミナルの中に入った。一階は待合室になっているようだった。暗い蛍光灯に照らされた中、荷物を抱えた人々が座っている。一方では銀行のATMや両替所、公衆電話が立ち並び、ワイシャツ姿の男性が行き交っている。テレビや本で見た、少し昔の上野駅のような光景である。
二階に上がると簡易宿泊所があった。フロントのおばさんに英語で泊まる旨を伝えたが、まったく通じずに相手を苛立たせ、パスポートをかざした挙句にようやく理解してもらえた。「ヤポンスキー」とか何とか言っている。ロシア語だ。都市のカザフ人はカザフ語を解さずロシア語を喋るらしい。この呼称は「日本人の蔑称」という意味合いを含むと聞いたことがあるのだが、真相はどうなのだろうか。 余談だが、カザフスタンは他の中央アジア諸国に比べ、ロシア系住民の人口比率が高い。ソ連解体の時点ではロシア系とカザフ系の割合がほぼ一対一だったという話を聞いたことがある。現在ではカザフ系住民の割合が上回っているようだが、アルマトゥイは都市部のせいか、金髪碧眼のロシア系の人々を多く見かけた。そのためか、街の雰囲気は中央アジアの都市というよりはロシア圏のそれのような印象を受ける。 宿泊所は六人部屋で、すでに四人の先客がいた。全員カザフスタン人で、あきらかによそ者の私を好奇のまなざしで見つめている。どうやらこの宿は外国人旅行者向けではなく、カザフスタン人の泊まる商人宿のようだった。場違いなところへ入った感じがあり、きまりが悪かった。共同シャワーはお湯が出たが、共同の洋式トイレには便座がなかった。みんな、どのように用を足しているのだろうと思った。 荷物を置くとにわかに空腹を覚えたので、一階の食堂街で何か食べてこようと思い立った。その前に、一階に設置されていたATMが使用できるかどうか確認することにした。 私はドル紙幣の他、国際キャッシュカードを持っていた。このカードが使用できる国ではドルを消費せず、こちらを使うことにしていた。レートはやや悪いが、旅先では重宝する。 早速一階に降りて行きATMを確認したところ、国際キャッシュカード使用可能のマークがついている。では残高照会をしようとカードを挿入すると、にわかに画面が変わり、英語で「このATMは現在使用できません」の表示が出てしまった。 ボタンを押してもうんともすんとも言わない。十分ほど機械をいじっているうちに、かなり焦ってきた。これでカードが出てこなかったらどうするのか、カードを第三者に悪用されたらどうしようか、挙句にはこれで旅の終わりか、ということまで考えてしまった。 騒ぎを聞きつけ、周囲に人々が集まってきていた。身振り手振りで「カードが出てこない」という表示をしたので意味は分かってくれているのだが、言葉が通じないのでどうしたらいいのか分からないような反応だった。いよいよ困った。 そこへ、ひとりの青年が通りかかり、私に中国語で「どうしたんだ?」と話しかけてきた。この日二度目の「地獄に仏」だった。そして、「実は、カードが出てこないんだ」と話すと、「じゃあ、電話で銀行に聞いてやるよ」と携帯電話を取り出し、ATMに記されている銀行のサービスセンターに電話をかけ始めた。三分ほど話した後、「明日の午前十時前にカードを回収に来るので、それ以降に銀行に取りに行けばいい」と教えてくれた。 私はお礼を言ってその場を離れようとしたその時、彼が「ところで今日はどこに泊まるんだ? 良かったら俺の家に来ないか?」と言った。 私は反射的に「ほんと!? ありがとう!」と言ってしまったが、これは「地獄に仏」の感覚が残っていたからであって、言った後に少しく後悔した。旅の途中で知らない人について行ってはならない、これは鉄則である。旅の途中でなくとも、小学校の時に先生に厳しく教えられたではないか。それを忘れてしまったとは、私は愚かな生徒だった。小学校時代の恩師が泣いているだろう。そんなことを考え、「あ、やっぱり‥‥」と言いかけた側から彼は「よし、決まり! じゃあ荷物を取りに行こう」と二階の簡易宿泊所に上がり、私の荷物を取って来てしまった。 カザフスタン到着初日から色々な事件が起こりすぎて、自分でも何がなんだか分からなくなっていた。 マルシュルートカの中で 「どこに住んでいるの?」と聞くと「カスケレン」と答えた。アルマトゥイから西へ一時間くらいの街だという。 我々はバスターミナルを出て、路面電車が走っている交差点を渡り、先ほど私がタクシーを降りたあたりへやってきた。そこには牛乳パックを横倒しにしたようなデザインのミニバスが数台停まって客待ちをしていた。 「マルシュルートカだ」と、バヤンが言った。そして「カザフスタンには多く走っている」と続けた。 マルシュルートカの言葉は私もガイドブックからの情報で知っていた。旧ソ連圏に遍く見られるミニバスで、多くは客待ちをして満員になったら発車するシステムである。このマルシュルートカはフロントガラスに「Каскепен」の表示があった。カスケレンのことだろう。
私はバヤンに促されるままマルシュルートカに乗り込んだ。すでに車内は六割くらいの入りであった。勤め帰りとおぼしきおっさん、美しいロシア系の女の子、買い物帰りのおばさんなど、色々な人が乗っていた。そうこうしているうちにドアが乱暴に閉められ、マルシュルートカは動き出した。 発車してしばらくは交通量の多い道路を走っていたが、十分もしないうちにあたりは真っ暗になった。市街地を抜けたのだろう。 寂しい光景を見て、私は再び不安になった。周りの乗客がどんどん降りていくのもそれに拍車をかけた。これまで優しかったバヤンが追いはぎに豹変するのではないか、それとも途中から悪党の片割れが乗り込んでくるのではないかなど、色々なことを考えてしまった。不安げに、再びバヤンに尋ねた。 「このマルシュルートカは、本当にカスケレンに行くの?」 「そうだ。何を言ってるんだ?」と、バヤンは不思議そうに聞き返した。 その言葉を聞いてから、私はやや落ち着いてバヤンを観察した。背は高くないが体格はがっちりしていて、西郷隆盛の銅像を連想させる。「気は優しくて力持ち」タイプの外見である。茶色い目をしているが、そのまなざしは優しそうに思えた。改めて彼と知り合った経緯を思い返し、最初から悪さをするつもりで自分に近づいてくる状況ではなかったはずだと思った。いや、必死でそう思い込んだ。 乗客はいよいよ減り、遂には私たちを除けばほんの二、三人になった。あたりはますます寂しくなる。最後の女性客が降り、車内は全員男ばかりになってしまった。私にはこの男性全員が追いはぎに見えてしまい、針のむしろに座っている思いだった。しかし私の気持ちにお構いなく、マルシュルートカは暗闇の中を突っ走る。 と、「カスケレン」という声が聞こえ、マルシュルートカが停車した。バヤンに促されて降車した。道路の南側には十数軒の家が立ち並んでおり、北側は真っ暗な草原である。 「さあ、こっちだ」とバヤンは道路を横断し、集落の方へ向かって歩き始めた。 「三年前、ここに家を買った」と彼は言いながらずんずん歩く。ここまで来ると、私ももう腹を括っていた。まもなく訪れるであろう運命を甘受するしかなかろう、しかしカザフスタンの田舎で朽ち果ててしまうのも無念だ、などと考えていた。 すると、一軒の家のドアが開き、中から三人の女の子が勢いよく飛び出してきた。 ここに至って、全てが杞憂だったと悟った。 客間で落ち着くや否や、奥さんが食事を運んできた。ナン、チーズ、ピスタチオに紅茶である。チーズはナンに塗って食べる。私はといえば、一連の騒ぎで食事どころではなかったため、これらの食事を美味しくいただいた。 「今日は色々あっただろうから、まあゆっくり休めよ」とバヤンは言い、居間に布団を敷いてくれた。夜十一時ごろに消灯となり、私は居間で横になった。 思えば、今日は朝から事件が多すぎた。イリの病院、コルガスでの出来事、アルマトゥイまでの道、そしてカードのトラブルからバヤンの家まで。これらの事件が一日に収まっているというのもめったにないことだろう。明日以降、アルマトゥイでどのような日々が待ち受けているのだろうか。先の話を考えていたらきりがないが、わくわくした。同時に睡魔が襲ってきて、程なくして眠ってしまった。
翌朝、七時ごろ目が覚めた。客間ではバヤン夫妻が朝食とりながらテレビを観ていた。娘たちは客間中を走り回っている。バヤンが言った。 「今日、俺は仕事でアスタナまで行く。アスタナは遠いので早く出発しなくてはならない。だから銀行まではついて行けないが、ここに地図を描いてあるから自力で行けるだろう」 見ると、テーブルの上に丁寧に描かれた地図があった。銀行までのバスの番号と降りるべきバス停名も描かれている。「これを車掌に見せれば、降りるときに教えてくれるよ」と彼が続けた。 「さあ、食事をしたら出発だ」 私は彼に心から感謝して食事をいただいた。出発の時、奥さんがナンを一枚くれた。家を出て振り返ると、三人の娘たちが家の外まで出てきて見送ってくれた。
少し歩き、昨晩下車した地点までやってきた。昨晩は真っ暗だったのでよく分からなかったが、道路の北側は公園になっていて何やらモニュメントが建っている。ちょうどやってきたマルシュルートカに乗り込んだ。 「アスタナはここから千数百キロ離れているが、月に数回は行かねばならない」と、バヤンが言った。 アスタナは一九九七年にカザフスタンの新首都となり、現在アルマトゥイから首都機能を移転させている真っ最中なのだそうだ。 「今カザフスタンで人気のある車はドイツ車、次に韓国車。日本車も人気があるが、あまり入ってこないな」とバヤンが言う。 「カザフスタンと中国では習慣が全然違う。中国に住んでいたのなら社会主義の国には慣れているかも知れないが、ここは旧ソ連なのでもっとひどい。気長に構えることが大事だ」などというアドバイスもくれた。 そのような話をしているうちにサイラン・バスターミナルへ着いた。 「じゃあ、俺はアスタナ行きのバスに乗るから、ここでお別れだ」 「何から何までありがとう。あ、忘れていた、お礼を‥‥」 そう私が言いかけると、バヤンは「何を言ってるんだ。困った人がいれば助けるのが当然だろう。今度会ったらまた声でもかけてくれ」と言い、くるりと背を向けてバスターミナルの雑踏の中に消えていった。
アルマトゥイへの道、収束 バックパックには錠をかけているので、セキュリティ面は大丈夫だ。もとより盗られて困るものもない。早速ボイラー室へ行き、柱にバックパックと二胡のケースを立てかけ、持ち歩いている自転車用のチェーンでぐるぐる巻きにしばりつけた。これで荷物を盗まれることはないだろう。銀行へ行くことにした。 バスターミナルの前で、路線バスに乗った。バスはツーマンカーで、車掌は十歳くらいの子供だった。二十五テンゲ(約25円)を支払い、乗り込んだ。エアコンがないので車内は相当暑い。窓がわずかしか開かないので、蒸し風呂のようである。 一時間弱で目指す銀行に着いた。下車すると熱線が照りつけ、暑い。急いで銀行に入ると今度はエアコンが効きすぎていて寒いくらいだった。 女性の行員さんに話しかける。彼女は英語を話した。 「今預かっているカードは一枚もないわ。あと一時間くらいしたら回収車が戻ってくるから、それからまた来て」と言われた。 ああ、こういうところが旧ソ連の感覚なのだなと思った。もっとも、のんびりしているのは中国や東南アジアで慣れっこになっているので、腹も立たない。 銀行のあたりをぷらぷらした。銀行の向かいに「Ресторан」と書かれた建物があった。「ペクトパー」と呼んでしまいそうだが、「レストラン」のことだった。キリル文字は読み方がよく分からないが、文字の形状は面白くて興味深い。
それからキヨスクでぬるい缶ビールを買って飲んでいるうちに一時間以上が経過していたので銀行に戻り、先ほどの女性行員に尋ねると、「ああ、これね」と、奥からカードを持ってきてくれた。これでようやくアルマトゥイへの旅が収束したような感じがした。 カザフスタンに入国以来、気が休まることがなかったが、ここでようやく落ち着くことができた。 しかし考えてみたら、カザフスタンに入国してからまだ一日しか経っていないのだった。
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