シルクロード、西へ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
第9章 タシケント(1)――癒しの街 |
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宿へ 中央アジアのど真ん中に位置するタシケントは、意外にも緑が多かった。広い道路の両側に整然と植えられている街路樹はもちろん、街中を縦横無尽に張り巡らされている路面電車やトロリーバスも美しい緑色にペイントされている。雲ひとつない青空に照らされた街は、底抜けに明るい印象を与えてくれる。 乗り合いタクシーはまず市内の団地に立ち寄って同乗のおばさんを降ろし、それから私が指定した宿屋へと向かっている。市内に安宿は数件あるようだが、利便性を考えて地下鉄ガーフル・グラム駅近くに位置する宿に泊まることに決めていた。タシケントの中心から地下鉄で十五分ほどのところにあるようだ。
乗り合いタクシーは大きな交差点で停車した。運転手が「あそこがお前の言っていた宿だ」と後方を指差した。その先にはどうみても普通の高層アパートにしか見えない八〜九階建ての古びたビルディングが聳えている。道路の反対側はだだっ広いが人っ子ひとり見えない広場と、サーカスと覚しきテント状の建物である。ともかく宿と思われる建物へ歩を進めた。午後三時前である。 建物の入り口に守衛さんがいた。宿の名前を連呼すると、「五階だ」と教えてくれた。どうやらこの建物は普通の高層アパートで、五階の建物を宿として使っているようだった。エレベーターはあるが、動いているのか壊れているのかよく分からないので階段を使う。二階にはなにやら事務所らしいテナントが入っている。それにしても陰気である。人の気配が全く感じられないので薄気味悪い。大都市によく見られる、高齢化の進んだニュータウンを連想する。
五階に上がった。何の変哲もない古いアパートにしか思えないが、とにかく廊下を歩いて行くと突き当たりの部屋が開けっ放しになっていて、中にロシア系のおばさんがいた。ここがフロントに相当する部屋だった。幸いなことに空室があり、一泊六千ソム(約六百円、当時)とのこと。二人部屋で相客がすでにチェック・インしているというが、それは別に構わない。 部屋の鍵をもらい、さて部屋に入って昼寝でもするかと思ってふと事務所の奥を見ると、太ったロシア系のおばさんが座っており、にやにやと薄笑いを浮かべながらこちらを見ている。尋常ならざる空気を察して急いで視線をそらそうとしたところ、そのおばさんは私に「十ドル」と言ったのである。 ああ、これはこの宿専属の「春をひさぐ」女性かと納得した。それにしてもこのおばさん、体型といい、推定年齢といい、その手の女性の標準から少しく逸脱しているような気がする。十ドルは高い、と思った。深入りしてややこしいことになりたくない。速やかに回れ右をして廊下に出た。
部屋に入ると六畳ほどの広さにベッドが二つ並べられ、簡単な机とベランダがあるだけだった。相客は外出しているようだった。旅行者なのか、バックパックがベッドの脚に鎖でくくりつけられている。旅装を解き、空いている方のベッドに横になった。 気温は三十度強だと思われる。日差しは強いが空気が乾燥しているということもあり、木陰や建物の中に入ると涼しいくらいである。従ってエアコンがないにもかかわらず、部屋の中では過ごしやすい。これはかなりありがたいことである。東南アジアなどの安宿では湿気が強いため極めて過ごしにくく、備え付けのファンを動かしても淀んだ空気をかき回すだけで却って暑く感じるということもあるからだ。横になって旅の記録をつけているうちに眠ってしまった。 一時間ほど眠っていただろうか、鍵を開ける音がして目を覚ました。相客が帰って来たようだった。静かに開いたドアの向こうに目をやってびっくりした。相客はアルマトゥイで別れた日本の若者「みこと君」だったのだ。 思いがけない再開に、彼もびっくりしているようだった。 「ガオさんじゃないですか。タジキスタンに行ったとばかり思ってました」 「みこと君こそ、タシケントにいつ到着したの?」 聞くところによると、タシケントに到着して四日目、現在アゼルバイジャンのビザを申請中で、空いた時間を利用して市内の観光地を見て回っているという。 「そういえば、カザフとウズベクの国境越えはどうだった?」 アルマトゥイの宿で韓国人青年から聞いたよくない噂は本当なのだろうか。 「それが、話に聞いていた通りでしたよ。バスはタシケント行きと書いているのに国境の手前までしか行かないし、イミグレは外国人登録をしていないからってスタンプを押してくれずに追い返されるし、そんなことをしているうちに怪しいおっさんに声をかけられて、二十ドル払ってやっと国境を越えることができたんですよ」 噂は本当だったようだ。みこと君は「怪しいおっさん」と料金交渉でかなりもめたらしい。それを考えると、オシュ郊外から何事もなく国境を越えられた私は奇跡的と言ってもいいかもしれない。 「じゃあ、再会を祝して晩飯を一緒にどうですか?」とみこと君が言う。もちろん異存のあろうはずがない。ただ、手持ちのウズベク・ソムが尽きかけている。 「先に両替をしておきたいんだけど、両替所って近くにあるかな?」と尋ねるとみこと君は「ああ、それなら歩いて十分くらいのところにありますよ」と言い、地図を書いてくれた。 両替所 とりあえず、タシケントの雰囲気を掴む意味を込めて両替に出かけることにした。この国では銀行にATMは設置されているが、どういう訳か稼働していない。従って国際キャッシュカードを使ってウズベク・ソムを引き出すことは不可能である。銀行や街の両替所で手持ちの米ドルを換えるしかない。銀行より両替所の方がレートはいいようだ。 宿を出て、先ほどタクシーを降りた交差点を渡った。反対側にはサムスンの看板を掲げた大きな建物が見える。路面電車が通っている大きな道を中心地の方へしばらく歩くと、プレハブの小屋があった。日本の宝くじ売り場やパチンコの景品交換所のような風情である。それが両替所だった。
小さな窓口に百ドル札を差し出した。狭い両替所の中では二人の若い女性がいた。一人は金髪のロシア系、もうひとりは高麗人だった。高麗人とは中央アジアに居住している朝鮮系の人々である。元々は沿海州に住んでいたが、旧ソ連の大粛清時代にスターリンによってカザフ、キルギス、ウズベクの各地に強制移住させられた。ウズベキスタンには約二十万人の高麗人がおり、ほとんどが都市部に住んでいるという。そのような事情もあり、ウズベキスタンは韓国との結びつきが強い。 そう言えば道を行く自動車の多くは韓国のデウ製、他にもヒュンダイやキアなどの乗用車をよく見かける。アルマトゥイとは違ってタシケントのトロリーバスや路面電車は真新しくて綺麗なものばかりだが、それらにもデウ製が多い。先ほど見かけたサムスンの看板も、このような事情が分かれば「ああ、そういうことか」と納得する。 まもなく窓口よりウズベク・ソムが出てきたが、それを見てびっくりした。これまで見たこともないような札束が二束、それも無造作に輪ゴムでとめられたものだったからである。ウズベキスタンはインフレが激しいのか、百ドル札一枚で十万数千ソムの交換となる。にもかかわらず最高額紙幣は千ソムに過ぎないので、膨大なお札が出てくるということになってしまうのだ。これは困った。これほどの札束は財布に入りきれない。仕方ないので二つ折りにしてジーパンの尻ポケットに突っ込んだ。お尻に札束の感触があって上手く歩けない。
一旦宿に戻り、みこと君と夕食に行くことにした。宿を出て、先ほどとは反対の方向へ歩いて行くと地下鉄の入り口があり、周りにオープンテラスの食堂、スーパー、インターネットカフェ、アイスクリーム屋などが並んでいた。 食堂はこれまで回ってきた中央アジアの諸都市とほとんど同じ形式であった。店の入り口でシャシリクが、奥ではナンが焼かれている。そして生ビールのサーバーが設置されていて、冷えたビールが飲める。 少し早くタシケント入りしているみこと君はこの店をよく訪れるようで、店の兄ちゃんらと仲が良い。 このところいつもシャシリクばかりかじっていたので、この日はラグマンというトマトスープの麺を注文した。中国で同じものを「拌麺」というが、中央アジアのものはスープがより多く入っている。具は羊肉、じゃがいも、にんじんなどである。これに大きな塩味のナンがついてくる。 「それにしても、この辺のビールは薄いですね。水を飲んでいるようだ」とみこと君が言う。 確かにアジアのビールは薄いものが多い。日本風の濃いビールはマレー半島くらいでしか飲むことができない。 だが、暑いために逆に薄いビールの方が飲みやすいのではないか、とも思う。いずれにしても、長い時間バスや自動車に揺られた末にようやく落ち着けるタシケントに到着したのだ。ビールが進まないはずがない。 ビールをおかわりしつつ談笑していると、隣りのテーブルに座っていた二人の男性が話しかけてきた。二人とも、歳のころは五十歳くらい、トルコ系ではなくスラブ系の顔立ちをしている。彼らは旧ソ連圏を巡業しているサーカス団員で、ひとりはベラルーシ出身、もうひとりはウクライナ出身だった。 旧ソ連圏はサーカスが国民の重要な娯楽のようで、街の中心には大きなサーカス場が建てられていることが多い。現に、我々の泊まっている宿の真正面がサーカス場である。この二人はタシケント公演を終え、翌日の飛行機でベラルーシのミンスクへ向かうという。とにかく陽気な連中で、タシケント到着初日の夜を楽しく過ごすことができた。
なすべきこと 翌日。とりあえずやらなければならないことを済まそうと思う。 タシケントでやっておく必要があるのは、例のごとく次に進むべき国のビザを取得することだけである。次に進むべき国、これはいくつか選択肢が存在し、それはタジキスタン、アフガニスタン、トルクメニスタンの三国である。 まずはタジキスタンであるが、この国に入国するというのはどん詰まりの袋小路に入るようなもので、結局はウズベキスタンかキルギスに戻らねばならない。何となく面倒くさい感覚があったのでタジキスタンに行くのはやめにした。 次にアフガニスタン。意外にもこの国もビザは簡単に取得できる。タシケントのアフガン大使館に行けば即日発給されるのである。そのため、少し興味が湧かないこともない。が、やはり余程の物好きでもなければ入国しないだろう。それに加え、この日を遡ること数週前にアフガニスタンで韓国キリスト教団体の人々が多数人質になり、死者も出ているというニュースを見た。さすがにこのような事件を目の当たりにした上で、進んでアフガンに入国しようという根性は持ち合わせていない。 残るはトルクメニスタンである。と言うより、西に進むということはすなわちトルクメニスタンを通過しなければならないということである。その時点で選択肢はこの国しか残されていないも同然であった。が、トルクメニスタンに入るにはかなりややこしい手順を踏む必要がある。 あまり知られていないが、トルクメニスタンは「中央アジアの北朝鮮」とも言われる独裁国家であり、外国人が自由に国内を旅行することが認められていない。トルクメニスタン国内を回るには、旅行会社を通してガイドを雇い、泊まる宿も事前に指定する必要がある。そのような手続きを経てビザが下りるのに約一ヶ月、費用も相当かかる。これはどう考えても効率的ではないし、面白い旅になりそうもない。ただ、通過先の国のビザがあれば「五日間のトランジット(通過)ビザ」を取得することができる。僅か五日間だけだが、トランジットビザでトルクメニスタンを自由に移動することができるのだ。これはトランジットビザ本来の使用方法ではないのだが、他に方法はない。 通過先の国、それはアフガニスタン、イラン、アゼルバイジャンの三国である。このうちアフガンは上述の理由で入国を断念、イランはこれまたビザ取得に時間と手間がかかる国なので、残りはアゼルバイジャンだけである。トルクメニスタンとアゼルバイジャンは直接国境を接してはいないが、西部のトルクメンバシュという街からカスピ海を横断してアゼルバイジャンの首都・バクーへ向かう貨客船が毎日運行している。これを利用すればトルクメン〜アゼルバイジャンの移動が可能である。 これでタシケント以後の大まかなルートが決まった。ウズベキスタン中西部のサマルカンド、ボハラ、ヒヴァといった古都を巡った後、ヒヴァ西方のヌクス付近からトルクメニスタンに入国、五日間で首都のアシガバートを経てカスピ海沿岸のトルクメンバシュへ移動、貨客船でアゼルバイジャン入りするというものだ。かなり綱渡り感が強いが、何とかなるだろう。 よって、トルクメニスタンのトランジットビザを申請する前に、まずはアゼルバイジャンのビザを取得しなければならないのだった。
アゼルバイジャン大使館 みこと君がすでにアゼルバイジャンのビザを申請しているとのことだったので状況を尋ねた。それによると、大使館は宿から地下鉄で四駅ほど行き、降りて大通り沿いに一キロ程度歩いたところにあり、申請料は四十ドル、発給に三営業日かかるという。タシケントの地図を取り出して眺めた。地下鉄は途中で一度乗り換えをする必要がある。 「あ、それから」みこと君が言う。 「地下鉄駅では駅や車両の撮影が禁止されていて、見つかったらカメラやフィルムを没収されます。あと、駅にいる鉄道警察が難癖をつけて来て、所持品検査をすると見せかけて貴重品を抜き取るということもあるらしいので気をつけてください」 確かに、海外では鉄道は軍事機密に属するという理由で撮影禁止の国が多い。しかし、地下鉄にまでそれが適用されるというのは初耳だった。かつて、これほどまで神経を遣う地下鉄に乗ったことがあっただろうか。 少し不安がない訳ではないが、とりあえず出発する。 地下鉄の駅へやってきた。ガーフル・グラム駅である。辺りには何の標識もなく、歩道の傍らに真っ暗な穴が口を開けていた。地下に降りると、壁に美しいモザイク画が描かれていた。しかしその反面、照明が暗くて薄気味悪い印象を受ける。開通してから相当の時間が経過しているのだろうか。さらに、本数もそれほど多くないようで、広いホームに降りてから十五分以上待たされる羽目になった。それにしても、田舎で一日に数本しか来ないローカル列車やバスを待つ時にはのんびりした気持ちでいられるのに、どうして都会の地下鉄や通勤電車を待つ時には、僅か十分待つだけでいらいらさせられるのだろうか。 ようやくトンネルの奥が明るくなり、轟音とともに無骨な姿格好をした地下鉄が入線してきた。案内のアナウンスは当然のごとく、ない。車体を見て、そのおんぼろさ加減におどろかされた。深緑を基調とした色に塗装されている。旧共産圏の鉄道はみな、この色だ。ワンマン運転を行なっているのか、運転席の脇にバスのようなバックミラーがついていた。ドアが開いたので早速乗り込む。ラッシュ時間を過ぎているせいか、ロングシートの座席は半分程度しか埋まっていなかった。 車内に乗り込むとすぐ、「バシャン」という音を立てつつ猛烈な勢いでドアが閉まった。その閉まる速度たるや相当なものだった。挟まれたら確実に大怪我をするだろう。私はこのドアを「ギロチンドア」と呼ぶことにした。 地下鉄の乗り心地は日本とさほど変わらなかった。それはつまり、大して良いものではなかったということだ。尤も、通勤電車はそれが当たり前である。途中乗り換えを挟みながら、約十五分の短い旅を終えた。ホームに降りると、この駅にもモザイク画が描かれている。もう少し別の部分も整備していればなお良いのだが、と思った。ここは、「ヤシュリク駅」である。
地下鉄が全体的に暗めの雰囲気だったためか、地上に戻ると日の光が眩しい。地図を見ながら大通り沿いに進んで行く。途中、川を渡った。それほど幅が広い訳でもなかったが、ふと横を見ると、この部分だけ地下鉄が地上に顔を出していた。 十五分ほど歩いていると、目指すアゼルバイジャン大使館が見えた。大勢の人々が建物を取り巻いているのかと思っていたが、意外なことに人っ子一人いなかった。建物の脇に三日月と星をあしらった国旗が翻っていたのでようやく大使館と判断した次第である。 門の前に受付があり、守衛さんに目的を告げると「少し待て」と言う。この「少し」がくせ者だった。三十分経っても、一時間経っても、全く声がかからないのである。無論、我々はただの旅行者、どうこう言える立場にないので、待合室も何もない炎天下の中、じっと待っていた。大使館の庭ではスプリンクラーが涼しげに回っている。 一時間半ほどして、ようやく声がかかった。よく整備された庭園を抜けて屋内に入ると、六畳ほどの広さの部屋に大きな机があり、男性が座っていた。頭を丸刈りにしているが、大きなたれ目と高い鼻が再放送で観た『0011ナポレオン・ソロ』のロバート・ヴォーンそっくりである。彼が大使なのかそれとも職員なのかはよく分からない。 ソロ氏が「椅子に座れ」と促すので、言われるままに着席した。 「アゼルバイジャンに入国したいのか?」と問うてきたので「そうです」と答えると、入国する理由や意義についてかなり突っ込んだところまで聞かれた。面接形式のビザ申請は初めてである。かなり焦った感はあったが、「アゼルバイジャンは日本から遠く離れていて情報が少ない、自分の目で国の様子を見てみたい」とか、なんとか無難に答えた。ソロ氏は私の答えに満足した様子であったが、最後に「お前の宗教は何だ?」と聞いてきた。これについては経験がある。特にムスリム国家では相手の宗教を尋ねることが多い。この場合一番まずい回答は「無宗教」と答えることだ。日本人はこのように答える人が多いだろうが、これは信仰心に篤い人々に対して悪印象を与え、ひどい時には露骨な差別待遇を受ける可能性すらある。 無難に「ブッディスト」と答えるとソロ氏は満足気な表情を見せ、「ビザの発給は三日後、料金は四十ドル」と言った。ちなみにアゼルバイジャンはムスリム国家である。 大きな目的を果たしたので、満足して帰途につく。地下鉄駅に戻る途中、例の橋のたもとに食堂が出ているのを見つけた。ちょうど昼時だったので店に入り、生ビールをおかわりして明るいうちからいい気持ちになった。暑い国ではビールが美味い。
バザールにて 宿に戻った。みこと君は外出中のようだ。日はまだ高い。このまま宿にいても面白くないので、近くにある見どころを調べると、宿より西方に十五分ほど歩いたところに「チャールスー・バザール」という巨大なバザールがあることが分かった。 早速バザールへ歩いて行く。晴れていて暑いが、木陰に入ると涼しげな風が吹いてきて心地よい。湿気がないために日本より暑いという印象が薄い。 サムスンの看板が掲げられている交差点を両替屋とは反対の方向へ進んで行くと、モスクが見えてきた。その脇にバザールの入り口が見える。
それにしても、何という巨大なモスクなのだろうか。普段見慣れているモスクの二倍近い大きさだ。高さは十メートル以上あろうか、エメラルドグリーンに輝く丸屋根が青空に映えてとても美しい。これまでに見たモスクの中で、一番美しく感じた。 バザールの中に入ると、その広大さに圧倒された。バザール内はいくつかのブースに分かれており、様々なものが売られている。真っ先に目につくのは大きなナンである。それから、衣類や絨毯も並べられている。これまで巡ってきた国々でもこれらの製品を見かけることはあったが、ウズベキスタンのものはひときわ鮮やかだった。
どこからともなくイスラム風のポップソングが聞こえてくる。アザーンではない。近くにCDショップでもあるのだろうか。ともかく、ここタシケントには「明るい」イメージがある。 特に何をするあてもなく、一時間ほどバザール内をうろうろしていると小腹がすいた。ちょうど食堂があったので中に入り、ご飯の上に鶏肉そぼろと目玉焼き、ハンバーグ風の肉が乗っている食べ物を注文した。お茶とナンが添えられている。意外とあっさりしていて、美味い。
ご飯を食べていると、向かいに座っているお婆さんと目が合った。随分と派手な青めの服を着ている。驚いたことに、歯は全て金歯だった。これは「裕福さの象徴」ということだろうか。この後も金歯を入れた女性を見かけることは多かったが、若い女性は一、二本、歳をとるに従って金歯の数が増えているようだった。 このお婆さん、東洋人の私に興味を持ったのか、お茶を勧めてくれるのはいいが、一方で色々と話しかけてくるのである。例のごとく現地語なので何を言っているのかさっぱり分からない。通訳してくれる人もいないので、私はただにこにこするしかないのだった。勧められたお茶を飲み過ぎ、腹がふくれた。
バザールを出て歩いて行くと、行く手に立派な建物が見えた。アルマトゥイやビシュケク同様、タシケントの街も旧ソ連風のくたびれたビルディングばかりを見かける。ただ、それらの街と異なるのは、至るところに鮮やかなモスクなどのイスラム建築が見られ、雰囲気がゆったりしていることである。ともかく、そのような中にあって立派な洋風建築を見かけるのは意外であった。入ってみると、一階はスーパーマーケット、二階は美術館のようになっている。エアコンが効いているのでついつい長居をしてしまう。これも購買意欲を促すひとつの方法なのだろうか、特に欲しいとも思わなかったのだが、ジュースを買ってしまった。
仕方ない、買ったからには飲まなければならぬ。表に出て、階段に腰掛けて通りを眺めながらジュースを一気に飲み干した。午後の暑い盛り、どうしても腰を上げる気にならずにぼんやりと表通りを眺める。暑いせいか人通りはそれほど多くなく、車道をぽつぽつと自動車が通るだけである。道路の奥に観覧車があるが、アンディジャンの遊園地で見かけたそれと同じく動いていない。旧ソ連時代から走っているのであろう、古びたバスが排気ガスを吐き出しながら轟然と走り去って行く。遠くに来たものだ、と改めて思う。 と、背後で子供の歓声が聞こえた。驚いて振り向くと、四、五人の女の子が元気よくはしゃいでいる。私の視線に気づいたか、こちらに向かって走ってきた。
どこに行っても、どんなに疲れていても、子供の笑顔には癒されるものだ。同時に、厳しい旅程を経てようやく至ったこのタシケントという街にもいいようのない安らぎを感じた。 そろそろ宿に戻るか、そう思った。 タシケントでの日々はまだ始まったばかりである。
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