シルクロード、西へ

 
第10章 タシケント(2)――ブロードウェイと謎の国


安宿での生活
タシケントに到着して五日ほどが経過した。その間、無事にアゼルバイジャンのビザを取得し、ぽつりぽつりと市内観光なども行なっていたのだが、この街は旅に疲れた旅行者を癒す力でも持っているのだろうか、体力が回復するのが目に見えて分かるようだ。このような気分にさせられる街は、他にバンコクやビエンチャンなどが挙げられる。思うに、程よい「都会さ」加減と適度な物価の安さ、治安の良さはもちろんのこと、これらの地に辿り着くまでの過酷な旅程を終え、ほっとひと息つく心理状態も関係しているのだろう。

そういう訳で、タシケントでぶらぶらしていると体力的には楽ではあるが、どうにも無気力さが頭をもたげつつあり、このままではいけないと思い始めてきた。やるべきことを終えるとすぐにタシケントを出なければならないのだが、それはいつのことになるだろうか。

泊まっている宿は、そのおんぼろ具合にも関わらずかなり快適である。高層階に位置しているために風通しがよくて涼しいのがその主たる原因である。あまりに快適なため、外出をせずに午後の時間をまるごと使って文庫本を読むことが多い。不思議なことに、旅先では日本にいる時に比べ、より集中力をもって本を読むことができる。『カラマーゾフの兄弟』でも、『戦争と平和』でも、旅の空だったらさくさくと読み進められる気がする。

ちなみに、同室のみこと君は相当な文学青年である。タシケントで再会して以降、すでに数冊の外国文学の作品を読破している。この時点ではトマス・マンの『魔の山』を熱心に読んでいた。先の言葉とは矛盾するが、分厚い岩波文庫の上下二巻本など、読む前から尻込みしてしまいそうなものだ。それをまだ二十歳にもならない彼は「面白く読めますよ」と、さらりと言ってのける。彼から貸してもらった『ディビッド・コパフィールド』四冊セットを手に取ってみるが、この手の作品には日頃接する機会がないこともあり、どうにも読む気が進まない。
     
 旧ソ連型の大型団地。   謎の看板。 

慣れない外国文学に悪戦苦闘しているうちに眠くなり、うとうとしてしまう。と、にわかに廊下が騒がしくなる。隣室に泊まっているパシュトゥン人の女の子が廊下を走り回っているのだった。パシュトゥン人とはアフガニスタンの基幹民族、つまり彼らはアフガン人である。

彼らは親子三人でカブールからやって来て、すでに二ヶ月もの長期滞在をしている。何の商売をしているのかはよく知らないが、旦那が携帯電話でしきりに長電話している様子をしばしば目撃した。朝早くから商売に出かけてしまうため、彼とはそれほど親密にならなかったが、奥さんおよび女の子とはかなり仲良くなった。特に女の子はいつしか我々になつくようになり、時折部屋に遊びに来るようになるほどだった。五歳くらいでおかっぱ頭にしていて、いつもひらひらしたスカートのワンピースを着ている。この子は将来美人になるであろうと確信を持った。ただ、母親は私より年上だと思っていたら四つも若く、二十代中程だった。ウルムチでもこのような経験があったが、トルコ系やイラン系の人々は老けるのが速いのだろうか。

この一家に、一緒にアフガニスタンに来ないかと誘われた。

例の、韓国人誘拐事件があった頃である。

「あなた日本人でしょ? ビザは即日で発給されるわよ」

それは前回述べたように確認済みだが、やはり安全面が、としりごみする。

「私たちと一緒にいれば安全よ。アフガンの人は外国人を丁重にもてなしてくれるわ」

確かに中央アジア入域以降、出会う人のほとんどが親切で礼儀正しい。東南アジアやインドには旅人を狙った悪人も多く、時に「人間不信」に陥ることもあるのだが、この地ではこれまでのところそのような思いをしたことがないのである。テロや内戦を除けば、アフガニスタンにも素朴な人々が多いのかもしれない。

だが、民族性と現実問題はもちろん別のものである。残念だが、近い将来アフガニスタンに行くことはないだろう。いつか安全に旅して回れる日は来るのだろうか、そんなことを思う。
     
   アフガニスタンからやって来た母子。  

このように居心地の良い宿ではあったが、シャワーやトイレなど、水回りの問題だけは例外だった。廊下の一角にある、畳一畳ほどの狭くて薄暗い個室がトイレ兼シャワー部屋だった。洗濯はもちろん、洗面所がないために洗顔や歯磨きもここで行なう。

トイレは洋式の水洗トイレだが、便座がなくなっている。これはカザフスタンに入国してからタシケントに着くまで、ほとんどのトイレでそうだった。どのようにして用を足すのか地元の人に聞いてみたいところだが、結局聞けず終いだった。そしてシャワーはお湯が出ず、水道のホースから水を直接浴びるのである。暑い国なのでお湯が出ないのは特に問題がないのだが、衣服や洗面道具、そして貴重品を置くスペースが存在しないのには弱った。普通は壁にフックなどが設置されていて引っ掛けられるようになっているが、それがない。便座に置こうにも前述の通り便座がない。床に置いたら水に濡れる。強引にドアノブに引っ掛けるのだが、しばしば落下してTシャツなどが水浸しになった。

程なく、トイレ問題については解決することになった。前回書いた、近所のスーパーに小ぎれいなトイレがあることが分かり、そこで落ち着いて用を足せるようになったからである。
     
   今日も無為に日が暮れる。  


「ブロードウェイ」へ
 宿でごろごろしてばかりいても面白くないので、時には街に出る。

みこと君もちょうど街へ出かけたいということで、一緒に繁華街へ出かけることにした。

先にも述べた通り、タシケントは中央アジア一の大都会である。そのタシケントの繁華街は、中央アジア一の繁華街ということになる。

「ガイドブックによると」とみこと君が言う。

「街の中心に大きな公園があり、その中に『ブロードウェイ』なる一角があって、そこがタシケント随一の繁華街らしいです。バーやお洒落な店が建ち並んでいるらしいですよ」

地図を眺めると、タシケントも旧ソ連の都会に漏れず、街の中心地区には公園などの緑地が豊富に見られるようだ。これはアルマトゥイやビシュケクで経験済みである。ただ、それらの街と異なり、この「ブロードウェイ」は「都会度」や「お洒落度」が格段に高いらしいのだ。

いやがおうにも期待感が膨らむではないか。

早速地下鉄を乗り継いで、ブロードウェイへ向かうことにした。
     
街中至る所にあるナンの店。    本当にどこにでもある。

タシケントの地下鉄はすでに数度利用したが、本数の少なさ、恐ろしく不親切な案内、それから例の「ギロチンドア」などにやや辟易している。それに加え、地下鉄は窓の外が見えないために街の雰囲気が楽しめない。個人的にはバスか路面電車を使いたいところなのだが、複雑怪奇に入り組んだ路線網を使いこなすことができないのでやむなく地下鉄利用に甘んじているところである。

「ギロチンドア」におびえつつ地下鉄に乗り込む。ブロードウェイに行くには途中で一度乗り換えが必要だが、アナウンスがないので駅に着くごとにホームの駅名票を確認しなければならない。かなり疲れる。

それでも無難に乗り継ぎを済ませ、目指す駅にたどり着いた。「ムスタキルリック・メイダニ駅」であった。地上に出た通りから一筋南に走っている通りがブロードウェイのはずだった。角を曲がればお洒落なカフェが我々を迎えてくれるに違いない。そう思っていた。

期待は見事に裏切られた。

通りの両側に建ち並んでいる店は、いずれも扉が固く閉ざされていた。既に営業を休止してかなりの時間が経過しているようだった。我々は思わず顔を見合わせた。

「こ、これは……」

「もう少し歩いてみましょう。営業している店があるかもしれない」

みこと君が言った。それもそうだと思い直し、さらに三十メートルほど進んだ。だが、開いている店は見あたらない。「開店前」という訳でもなく、人のいる気配が感じられないのだ。やや失望感が強まってきた時、前方左手の路上に設置されているテーブルと椅子を発見した。

オープンテラスのカフェが一軒だけ営業しているのだった。営業休止状態の飲食店に囲まれてただ一軒営業しているというのが、逆に侘しさを誘った。

やや失望した感はあるが、生ビールでも飲んでみようかとそのカフェに近づいて行くと、どこかで聴いたことのある無機的なサウンドが耳に入ってきた。

一瞬「?」と思ったが、すぐにその曲が何か分かった。「めざせモスクワ」であった。

中央アジア一の大都会の目抜き通りで流れている曲が、三十年前の古びたディスコ・ミュージックなのか。

つまり、そういうことだ。

我々はそのカフェには寄らないことにした。
     
ブロードウェイ付近のバス乗り場。   これが中央アジア随一の大都会の実情である。 

ブロードウェイをさらに進むと突き当たりが公園になっていて、無数の油絵を地面に並べて売っていた。似顔絵を描いてくれる画家もいるのか、多くの人が集まっている。辺りがやや開けた感じがして、ようやく落ち着いた。

道の傍らに土産物を売る露店があった。買う気はないが少し覗いてみる。並んでいる土産物は各種勲章、レーニンやスターリンの顔が描かれたピンバッジ、古銭、双眼鏡、手巻き式懐中時計、レンジファインダー式カメラなどであった。いずれも旧ソ連や東欧製のものである。中国の観光地で『毛沢東語録』が売られているようなものだろう。珍しいものも見られたが、荷物が増えると厄介なのでここは我慢した。

ブロードウェイの突き当たりに位置する大きな公園は「アミール・ティムール広場」であった。中央アジアを強く意識させられる名前である。ティムールはモンゴルの子孫と言われるが、ウズベキスタンの人々にとっても彼は郷土の英雄なのだ。

期待はずれに終わったブロードウェイ散策だが、このまま帰るのも面白くないので周辺を少しぶらぶらすることにした。アミール・ティムール広場を中心として放射状に道路が延びており、それらを縫い合わせるようにティムール博物館、国立博物館、バレエ劇場などが位置している。アルマトゥイやビシュケクもこのような感じだった。恐らく他の旧ソ連都市もそうであるに違いない。
     
 中央アジアの英雄、アミール・ティムール像。「アミール」とは「将軍」、「提督」のような意味である。   デパートの入り口付近。 

バレエ劇場の近くにデパートがあるようなので行ってみることにした。

旅先で暇を持て余している時、デパートは絶好の暇つぶしになる。エアコンは効いているし、一階から最上階まで品物を眺めていると三、四時間はすぐに経ってしまうものだ。そう言えば、西安でデジカメを買って以降デパートを見かけない。アルマトゥイやビシュケクではバザールが主体、時々新し目のスーパーマーケットを見かける程度だった。

バレエ劇場を過ぎると、行く手に五階建てのビルディングが見えた。それが目指すデパートだった。しかし、その内部は私が思い描くデパート像とは全く異なる光景が広がっていた。

古びたショー・ウィンドーの中に陳列されている僅かな商品。空っぽのウィンドーも多い。そしてその奥で暇そうにしている店員にはやる気が見られないし、僅かな客も商品を見に来ているとはとても思えない。そこには活気が全然なかった。

ふと、小学校の社会科で習った「ソ連の買い物」の様子を思い出した。普段はがらがらの店内が、品物が入荷した時だけ満員になるあれである。勿論、実際にはソ連時代に比べ、物も増えて買いやすくなったのだろうが、我々がイメージするソ連的要素そのものの光景がそこで展開されていることは間違いなかった。売り場とレジが分離しているところまでソ連式である。

品物は少なく、目を引くものはほとんど見当たらなかったが、そういった「ソ連的」な雰囲気は大いに楽しめるものだった。珍しい物と言えば、旧東独製のカメラメーカー「プラクチカ」のデジカメがあった。だが、カメラと腕時計と自動車はメイド・イン・ジャパンが最高だろうと思っている主義なので、見せてもらわなかった。

なお、みこと君には旧ソ連の記憶が全くないため、終始暇そうにしていた。
ブロードウェイ探訪が恐ろしく拍子抜けする結果に終わったため、路面電車で宿に引き返すことにした。市内中心部では線路がサイドリザベーション、つまり道路の一方の隅に寄っていて自動車が入れない構造になっているのでスムーズに進む。緑の多いタシケントに緑色の車体が美しく映えている。
     
緑の車体が美しいタシケントのトロリーバス。   サイドリザベーションになっている路面電車。 

宿に一旦戻って夕食にくり出す。既に顔なじみとなっている食堂で飲み食いすることにした。とはいっても特別な物を注文する訳ではなく、ナンにシャシリク、生ビール程度しか頼まないのだが、店員の兄ちゃんと仲良くなったので色々とサービスをしてくれる。

この日は席につくや否や、頼みもしないのに生ビールとサラダを運んで来てくれ、「これはサービス」と言ってにやりとしてみせる。
そして我々の隣りに座って「日本には期待している。我々の敵討ちをしてくれ」と言った。
     
   ナンを焼く兄ちゃん。サッカー好きである。  

どういうことか分からなかったのでみこと君に尋ねると、どうやら現在行なわれているサッカーのアジアカップでウズベキスタンがサウジアラビアに敗退したらしい。そして次にサウジと当たるチームが日本だという。そう言えば中国にいた時にアジアカップの開幕戦をやっていた。

サッカーにはあまり興味がないので分からないのだが、果たして勝てるものなのだろうか。サッカー好きのみこと君に言わせれば「五分五分」だという。全ては明日の夕方になってみなければ始まらないことである。

結局この日は、店の兄ちゃんも交えて楽しい食事ができた。
     
 シャシリクを焼く兄ちゃん。24歳とのこと。    ウェイターとウェイトレス。仕事をさぼってビールを飲んでいる。


謎の国
このあたりで、いよいよ懸案となっていたトルクメニスタン大使館へビザの申請に行って来なくてはならないと思うようになってきた。が、どうにも足が向かずにずるずると一週間ほど過ごして来たのだった。その理由は「本当にビザが発給されるのか」という不安感に苛まれているからである。
     
   食事をしなければビザも取れない。パスタのようなもの。  

先にも述べた通り、中央アジア諸国の中でも日本から一番遠く、かつ謎が異様に多いトルクメニスタンを語るのは至難の業である。この「謎」というのは、日本と関係が薄いためとかそういう理由ではなく、この国あり方そのものを表している。トルクメニスタンは永世中立国であると同時に独裁国家でもあり、日本的な解釈では絶対に理解できない要素が多く見られるのである。

このあたりには石油や天然ガスなどの資源が豊富に眠っている。トルクメニスタンはカザフスタンやウズベキスタンといった旧ソ連の国々と同様に一種の開発独裁を行なっている国なのだが、「独裁の構造といい、その思想的背景といい、とにかくそういった要素が通常我々の考える独裁国家とは全く別の次元にある」ように思えてならないのだ。

近代国家で「独裁」と言えば即座に連想する言葉が「毛派」とか「内戦」とか「植民地戦争」とか、そういった旧植民地主義と階級史観が入り組んでいることが多い。が、トルクメニスタンの独裁を語る上で、これらの言葉はまず出てこない。では出て来る言葉は何かと言われると、「ニヤゾフ」という人名である。

つまり、トルクメニスタンを語る際に外すことのできない人物というのは、数年前に死去した前大統領のサパルムラト・ニヤゾフ氏なのである。彼は旧ソ連時代に党第一書記となり、ソ連崩壊後にそのまま大統領の座に就いたという経歴を持つ。ここまでは中央アジア諸国の各大統領とあまり変わらぬものだが、国民の人気を掌握するのが上手かったのか、90年代の初めには「トルクメンバシュ(トルクメン人の頭領)」と称されるようになり、それが90年代の終わりには「終身大統領」となり、近年では「神に選ばれた民族指導者」と呼ばれるに至ったのである。二十一世紀のこの世の中に、仮にも旧共産党の第一書記だった男が、である。

ちなみに、首都アシガバードにある空港の名前は「偉大なるサパルムラト・トルクメンバシュ記念国際空港」という。ウラン・バートルの「チンギス・カーン国際空港」、台北の「蒋介石国際空港(以前日本語のアナウンスでこう言っていた)」を遥かに上回る、インパクト溢れる空港名である。人名を冠した空港でも、「シャルル・ド・ゴール空港」とか「ジョン・F・ケネディ空港」とか「ディオスダド・マカパガル空港」とかは「おっ」と思うのだが。これは完全な余談である。
     
甘いお菓子を切り分けるおばさん。   郊外向けのバスはややおんぼろである。 

ニヤゾフ前大統領の存在感があまりに大きいため、彼の死後に大統領となった人物はどうにも影が薄く、名前がどうしても思い出せない。この手の大物政治家没後によくある「ニヤゾフ批判」も全く見られず、崇拝が続いているようだ。

なぜ、このような特異な政治的状況になったのかは諸説あるようだが、旧ソ連風の独裁政治とトルクメンの部族政治が巧みにミックスされた結果、政治権力が共産党ではなく、ニヤゾフ前大統領ひとりに集中してしまったからだと考えられているようだ。

ちなみにニヤゾフ前大統領は「トルクメンバシュ」を名乗るほどの大物だったが、生涯トルクメン語を喋れずロシア語で通したと言われる。それでよく国民の支持が得られたものだと不思議に思う。この話はいつも入り浸っている食堂の兄ちゃんたちがある種の笑いを持って教えてくれた。トルクメン語でニヤゾフは「ヌヤゾウ」になるらしい。

それはともかく、独裁や個人崇拝といった要素の濃いトルクメニスタンの政治状況は日本のお隣りにある某半島国家を連想させるが、トルクメニスタン国民の間では不満が少ないとも聞いている。ソ連時代はウズベキスタン同様、綿花のモノカルチャーに特化した農業経済が形成されていたが、独立後に豊富な天然ガスや石油が産出されるようになり、国民に十分な還元がなされているからだという。

そう言えば、十年ほど前に日本のバラエティ番組でトルクメニスタンの独裁について取り上げられたことがあった。新聞のラテ欄で「国民の不満がほとんどない」などという番組案内を読んだ記憶はあるのだが、実際に番組を観ることはなく、この期に至って後悔している。

ともかく、謎の国トルクメニスタンにおいては、トランジット・ビザですら取得できるのかどうか分からないのが現状なのだった。
     
 至る所にモスクがある。   手をつないで、子供たちがやってきた。


謎が謎を呼ぶ
そのようなこともあってか、やや珍妙なニヤゾフ崇拝がトルクメニスタン国内で展開されているようであり、それもこの国を巡る上で欠かせない観光的要素と言えるだろう。

同じくトルクメニスタンを目指す日本人青年「イヌイ君」から聞いた話をいくつか挙げてみる。

まずは「道の至るところにニヤゾフ大統領の像が飾られている」そうである。

これはまあ、少し独裁的傾向の強い国々ではよく見られることなのでそれほど驚かない。タイやマレーシアといった政治的に割合穏やかな国でも、国王やスルタンの写真が至る所に飾られ、国民の王室を尊敬する様子を見ることができる。が、ニヤゾフ前大統領の崇拝はその斜め上を行くような感じである。以下の像がそれを象徴している。

「常に太陽の方向を向いて回転している金の大統領像が存在する」

つまり、この像は二十四時間で一周しているということだろうか。汚れてもすぐに清掃できるよう、メンテナンスを行なう係員すら常駐しているらしい。これは首都・アシガバードにおける観光のハイライトでもあるようで、見た人に言わせればなかなか感動するそうだ。イヌイ君もまだトルクメニスタンには入ってないのに説明があまりに真に迫っていたので、こちらもビザを取る前からニヤゾフ・ファンになってしまいそうなほどだった。そして同時に、「ああ、もし俺がトルクメン人だったらこうやってニヤゾフ前大統領に心酔したのだな」と気づいた。

このように、独裁国家であるにも関わらずトルクメニスタンにはどことなく滑稽な様子が感じられるのであった。
     
   やはり腹は減る。ナンとサラダは欠かせない。  

次に教えてもらったのが、大統領によって書かれた啓蒙書『ルーフナーマ(魂の書)』がコーランと並ぶ国民必読の書だということである。

こんな書物があるのか、と思った。まるで『毛沢東語録』である。しかもイヌイ君はこの書の英語版を持っている。どうやらタシケント市内で入手したらしい。「トルクメン人は自動車の免許を取るにもこの本を暗記しなければいけないらしいんですよ」なんて言っている。

このイヌイ君、「トルクメンマニア」と言っていいほど彼の国の情勢に詳しい。私と違ってヨーロッパ側から旅をしてきており、アゼルバイジャンから貨客船でカスピ海を渡ってカザフスタン入りし、タシケントまで南下して来たと言う。トルクメニスタンから再びアゼルバイジャンへ戻り、イランから改めて東方へ向かうと言う、いわば「Z型」のような軌道を描いて中央アジアを移動していることになる。
     
ティッラ・シャイフ・モスクのドームとミナレット(尖塔)。   歩く人々から、その巨大さを理解することができるだろう。 

彼はまた、うさんくさい表情で微笑むニヤゾフ前大統領の肖像が描かれた筒型のお茶缶を見せてくれた。

ニヤゾフ本人の顔が描かれた食料品や飲用水が安価で販売されているのもトルクメニスタンのひとつの特徴で、安価な食料品を流通させることによって低所得層の取込みを図ったといえようが、我々にとってはいい土産になる。このようなレアな物を見せられると、私もトルクメニスタンへ行ってこの缶を買い占めたくなってしまう。

一方で「インターネットの完全禁止」という暴挙とも言える規制も見られる。以前マレーシアに住んでいた時、ルームメイトのひとりがイラク人だった。その彼によると、あのサダム・フセイン政権の時でさえ大きな規制がありながらもインターネットは一応許されていたというから、トルクメニスタンの特異さが理解できるだろう。
     
   同じくマドラサ(学院)。  

インターネット禁止と並ぶ暴挙が「地方での図書館や病院の廃止」である。この理由が滅茶苦茶すぎる。「田舎者はどうせ本など読まないのだし、首都に来れば先進的な医療が受けられるのだから」だそうだ。書籍はともかく、田舎で急病人が出たらどうするつもりなのだろうか。ただし、教育費や医療費は無料だという。資源が豊富な独裁国家にはよくみられる。

「ヒゲと化粧禁止」というのもある。ヒゲはムスリム男性の、化粧は成人女性の象徴である。それを禁止する理由は「ヒゲはむさ苦しいし、トルクメンの女性は化粧をしなくても十分美しいから」だそうだ。要するにニヤゾフ前大統領の悪趣味によるものに他ならない。ついでに言えば、ニヤゾフ前大統領の頭は「ダミー」つまりかつらだという疑惑があり、やはり例の食堂の兄ちゃんが教えてくれた。金正日にもそういう話があったし、独裁者はかつら好きなのだろうか。

「七月十日は『メロン記念日』で企業や学校が休みになる」らしい。有名な歌集と売れない女子アイドルグループを足したようなネーミングに思わず失笑してしまった。別にメロンがトルクメニスタンの特産品というわけではなく、「単にニヤゾフ前大統領の好物だから」だそうだ。

他にも色々あるのだが、興味のある方は関連書籍等で調べていただきたい。

ともかく、トルクメニスタンという国そのもの以上にニヤゾフ前大統領の強烈な個性に興味を覚えた私は、イヌイ君並びに数人の外国人旅行者と共に熱線が照りつけるトルクメニスタン大使館の前に車座になって座っている。周囲には例によってビザを求める人々であふれんばかりの状況である。
     
 神秘的なモザイク画。   ドームの修復をしていた。


謎の国のビザを待つ
時計を見た。午前十時を回っている。トルクメニスタン大使館前に来てから既に二時間近くが経過している。辺りは平屋の民家が建ち並び、大使館前の細い道は舗装されていないので道行く車が埃を巻き上げて体中が茶色になってしまう。

多くの人がひしめきあうなか、どうやらトランジットビザ申請者は最後に回されるようだ。警備員の兄ちゃんが優しく「もう少し時間がかかるだろうけど待っててくれ」と言ってくれる。私はこの警備員に好感を覚えた。
     
  右の建物がトルクメニスタン大使館。  

トランジットビザの申請を待っている面々は私を含めて五人、先にも延べたイヌイ君、ドイツ人の「ロバート」という青年、そしてトルクメニスタンからイランへ抜けるヨーロッパ人のカップルである。

このうち、カップルはふたりでいちゃいちゃしているので我々三人には構ってくれない。カールマルクスシュタット出身のドイツ人・ロバートはやせぎすの眼鏡、カールした金髪の似合う神経質そうな青年で、口数が少ない。カフカスに数度旅をしたことがあるとのことで、グルジアの首都・トビリシのことを「ティフリス」と第二次大戦前の旧称で呼んでいた。ちなみに「俺は『DDR』出身だ」なんて言っているので「おいおい、大丈夫か?」と思ってしまう。

「今回はティフリスからグルジア軍道を北上し、北オセチアのウラジカフカスまで行きたいな」と言っている。ここでは簡単にしか触れないが、確かその道は外国人の往来が禁止されているのではと尋ねたところ「大丈夫だよ」と笑う。本当に大丈夫なのだろうか心配だが、これまでにもそのような例は何度も見てきたような気がするので、あまり心配し過ぎるのも馬鹿らしくなる。
     
整然としているタシケント駅前。    地下鉄「タシケント駅」の入り口。

イヌイ君は東京の大学生で、今回が初の海外旅行だという。その割にえらく濃い旅をしている。スペインからジブラルタル海峡を渡ってモロッコへ、それからもう一度ヨーロッパに戻り、東欧あたりをうろうろしていた時間が長かったようだ。旧ソ連モルドバ共和国の東部に位置する自称国家「沿ドニエストル共和国」で発行されている紙幣を見せてくれた。

「ジブラルタルでは飛行場の滑走路に『踏切』があって、飛行機が離着陸する時には踏切が閉まるんですよ」という面白いことを教えてくれた。

「パスポートに押されるスタンプも、ほら」と見せてくれたスタンプには、「GIB」とあった。普段は押してくれないそうで、記念に頼む旅行者向けのスタンプなのだそうだ。
     
 巨大で立派なタシケント鉄道駅。   しかし鉄道は数えるほどしかない。主な行き先はモスクワ、サマルカンド、ボハラなど。行き先表示器が壊れていた。 

主にこの三人で喋っているうちに、昼の二時過ぎになった。相変わらず日差しが地面を猛烈に焼きつけ、我々の体力を消耗させていく。その間にもウズベク人かトルクメン人か分からないが、ビザ待ちの人々がまとまった人数だけ大使館の中に入っていき、そして晴れやかな顔をしながら出てくる。おそらく無事にビザが発給される運びとなったのだろう。

我々もかくありたい、などと大河ドラマの流行語のようなフレーズを思いついたところ、不意に「そこのツーリスト五人、中に入れ」と、先ほどの警備員に呼ばれた。いよいよ我々の順番が来たのだ。勇躍中に入る。

中に入ると、窓口に頑丈な鉄格子のようなものが据え付けられており、あたかも刑務所の面会室のごとき雰囲気である。無表情の職員が座っており、その奥には細い眼をますます細くさせてにこやかにほほ笑んでいるニヤゾフ前大統領の写真が飾られている。

いよいよトルクメニスタンか、そう思って前に出ようとしたところ、それまで無表情だった職員がいきなり目をむいて「アゼルバイジャンのビザを持っているやつは出ていけ。イランとアフガニスタンのビザを持っている者だけトランジット・ビザが発給される」と叫んだのである。

「え?」と思った。するとそれまで優しかった警備員の態度が豹変し、「早く出ていけ」と私、ロバートおよびイヌイ君の腕をつかんで乱暴に大使館の外へ放り出したのであった。

一瞬何が起こったか分からなかったが、我に返るとすぐ三人で警備員に「どういうことだ、説明してくれ」と訴えた。が、警備員は「知るか。こんなところでうろうろするな、さっさと帰れ」と言うのみである。確かに警備員がそんなに深いところまで事情を知っているはずはない。我々は肩を落としてその場を立ち去った。

それにしても、最初は優しかった警備員が、ビザが発給されないと分かったとたんに態度を一変させたことは少しくショックでもあり、怒りをも感じたのだった。

我々にビザが発給されなかった理由は少し後になって分かった。これをさかのぼること数週間前、カスピ海にてトルクメニスタンとアゼルバイジャンの領海問題が発生、両国の関係が一時悪化していたのである。これから数週間後には和平的合意へと落ち着き、それ以降トルクメニスタンを経てアゼルバイジャンへ向かう旅行者には以前と同じようにトランジットビザが発給されるようになったという。

つまり我々は、気まぐれな領海問題のささやかな犠牲者なのだった。


新たな目的地
トルクメニスタンへの道は断たれた。
ニヤゾフ前大統領の黄金像も見ることはできないし、貨客船に乗り込んで甲板で寝ながらカスピ海を越えるという旅情あふれる夢も、本当に夢と終わってしまった。

しかし、それができないとなれば、現実に戻らねばならない。

三人で相談し、市内の格安航空券を扱うオフィスへ出かけることにした。
     
  ロバート(左前方)たちと共にエアーチケットを求めに出かける。   

トルクメニスタンの次に目指すべき国はアゼルバイジャン、その首都は油田で知られるバクーである。タシケントからバクーへ向かう格安航空券を探してみると、一週間後のフライトで二百ドル弱の便が見つかった。国際便なのに妙に安い。

「Imair」なる聞いたことのない航空会社だが、私としては乗れればいいやと考えていた。ところが、同乗となるロバートの考えはそうでないらしかった。オフィスの金髪ロシア美人に「使用機材は何だ?」としつこく聞いている。少しの時間があって調べてもらったらしく「ツポレフTu-154」というのが判明した彼の挙動はかなり見ものだった。両手で顔を覆いながら天を仰ぎ、「おお、神よ」と情けない声を出したのである。

私としては、旅客機の機材などボーイングやエアバス程度しか知らないし、東側の飛行機に乗る機会もないので、ツポレフやイリューシン、アントノフなどという旧ソ連製機材の名前を聞いただけで胸がわくわくするものだが、「DDR」出身の彼に言わせれば、機体のおんぼろさ加減が身にしみて分かっているのだろう。後で分かったが、ツポレフTu-154は一九六〇年代から現在でも生産が続けられている飛行機なので、機体の当たり外れが激しいようだ。

それにしてもロバートよ、「DDRから来た」と言っているなら、もう少し東側の機材を信用しろよ、と思う。

一方、イヌイ君は当初イランを目指していたが、チケット代が高いために断念し、インド北部のアムリトサルまで飛び、パキスタンをうろうろするという。デリーではなくアムリトサルへ行く国際便があるとは、少し驚きである。

ともかく、三人とも今後進む道が決まったので近所の食堂で軽く乾杯をし、宿に戻った。バクーへ向かう飛行機のチケットは一週間半後なので、それまでロバートとは別行動である。その時間を利用して、ウズベキスタン中西部のサマルカンドやボハラを回ることにした。最西部のヒヴァは日程の関係上、無理だった。
     
   タシケントから日本への便はあったように記憶しているが……。  


タシケント最後の日

宿に戻り、みこと君に経過を説明した。明日のバスでサマルカンドに向かう旨を伝えると「それはいきなりで寂しくなりますけど、またどこかで会えるでしょう」という。この日は大いに飲み明かすことにした。

とは言え、行くところといえばいつもの食堂に決まっている。店の兄ちゃん、ウェイトレスのおねえさんが笑顔で迎えてくれた。

兄ちゃんが「ジャパン、サムライ、ティムール」と叫んでいる。これはおそらくサッカー・アジアカップの準決勝・日本対サウジアラビア戦の結果を踏まえてのことだと思われる。兄ちゃんの様子からてっきり勝ったものだと思ってみこと君に聞くと「惨敗した」とのことだった。しかし最後まで勝負をあきらめない姿勢が地元の人々から賞賛を得たようである。

このようなローカルな試合が当然ウズベキスタンで放映されるはずもないので、どうやって経過を知ったのかみこと君に尋ねてみると、インターネットカフェの試合速報にかじりついていたらしい。なかなか執念深いところがある。

ついでに、「オリックスの川越投手が四勝目を挙げましたよ。今更四勝目だって勝てなさすぎですよね」などという実にどうでも良い情報も得られた。

さて、宴会が始まった時点ではまだ明るい。オープンテラスのテーブルにちらほらと客が見られるが、中には赤ちゃんの姿も見える。この子の名前は「ジャハンギール」。男の子か女の子かわからないが、ムガール帝国第四代皇帝の名前なので、やはりそういうところを重視するんだろうなと思っていると、父親が「お前たちにもウズベク名をつけてやる。これでウズベキスタンでも軽く見られることがないぞ」と言い出した。

酒でも入っているのか、と思うが面白そうなのでつけてもらうことにした。

すると、みこと君が「ティムール」。

私は「フマーユーン」。

フマーユーンとは確かムガール帝国の第二代皇帝だが、国を傾けた暗君だったはず。何かひっかかるものがあるなあと少し不服そうな顔をみせたら、おっさん「じゃあお前は『ヌヤゾウ』、つまりニヤゾフだ」と落ちがつき、一同大爆笑のうちに宴会が終わったのだった。
     
   一緒に食事をした家族。若奥さんが抱いている赤子が「ジャハンギール」。  

後片付けも終わり、今日のお題を払おうとしたら店の兄ちゃんが「いいんだ、旅に出る人間をもてなすのが俺たちの仕事だからな。代わりにタシケントに来たらまた寄ってくれ」と言ってお金をどうしても受け取ろうとしない。仕方ないので「スプーン立て」の下にこっそりと忍ばせた。

最後に、食堂を去る時に店のスタッフが総勢で見送りに出てきてくれ、人間の顔くらいあるナンを土産にくれた。みんな笑顔だった。

こうして、タシケントでの騒がしくも平凡な日々は終わった。
     
  タシケントでの日々も終わろうとしている。