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第11章 サマルカンド――「青の都」と「文明の十字路」 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
今後の予定 トルクメニスタンへの入国が挫折する形となったため、アゼルバイジャンまで飛行機で飛ぶことになった経緯は前章で述べた。 飛行機には一週間後に乗る。それまで、ウズベキスタンの南部から西部にかけて広がるイスラム王朝の古都を駆け足で巡ることにした。 ウズベキスタン領内にはイスラム王朝の古都が多く存在するが、代表的なものとして、サマルカンド、ボハラ、ヒヴァ、コーカンドなどが挙げられるだろう。 高校で世界史を選択した人は、十四世紀後半にサマルカンドを中心に成立した「ティムール朝(帝国)」の名前を覚えているに違いない。少し興味のあった人なら、十五世紀以降にウズベク人が中央アジアに建国した「ヒヴァ・ハン国」、「ボハラ・ハン国」、「コーカンド・ハン国」のウズベク三ハン国の名前も思い出すであろう。 サマルカンドはイラン・イスラム文化の中心として学問や芸術が大いに栄えた。ティムール朝の建築物はテレビや書籍で「青の都」とか「文明の十字路」と称して広く紹介されており、馴染みが深いと思う。中でも街の中心に位置する「レギスタン広場」の壮大さは言葉では表しつくせない。 これに比べ、ウズベク三ハン国の方はあまり聞き慣れないだろうが、ヒヴァとボハラの二つの古都はユネスコの世界遺産に登録されている。世界遺産で観光上の知名度等を判断することは必ずしも適当ではないかもしれないが、ひとつの指標になるのは確かだ。 これら古都のうち、東方のフェルガナ盆地に位置するコーカンドはタシケントに到着する直前に通過した。街は一九一七年のロシア革命の際に戦場となって徹底的に破壊されてしまい、無機的なソ連風団地がひたすら建ち並ぶばかりであった。がらんとした街並みに痛々しさを感じた。 ウズベク三ハン国の中で一番西方に位置するヒヴァは、遠すぎて今回はとても行けそうになく、訪問を断念することにした。とはいっても、次がいつ来るのか分からない。 よって、今回巡るのはサマルカンドとボハラの二都市である。見どころの多いそれぞれの観光都市を、移動も含めて僅か一週間で回るというのは少し余裕がない気もしたが、仕方ない。 早速タシケントの安宿を引き払う準備をする。荷物をまとめつつも、タシケントを離れがたい気分になった。私にとって居心地の良い街だったと、改めて実感させられた。 同室のみこと君に別れを告げる。ウルムチで初めて一緒になって以来、偶然にも何度かの邂逅を繰り返して来たが、次回会うチャンスはあるのだろうか。 「そうですね、僕はしばらくタシケントにいて、それからはどうしようかな。タジキスタンに行くか、ガオさんと同じルートをたどるか、まだ決めていませんね」 そう言って笑うみこと君と固い握手を交わして部屋を出る。 「あ、最後に」と彼が呼び止めた。 「サマルカンドへ向かうバスターミナルは、地下鉄のサービル・ラヒーモフ駅で下車するんでしたよね。その駅は悪徳警官が多いらしいので注意してください」 最後の最後まで有益なアドバイスをくれたみこと君に感謝して、部屋を出た。 サマルカンド行きおんぼろバス タシケントの「ギロチンドア」を備えた地下鉄ともこれでおさらばである。なぜだか少し寂しい気持ちで乗り込む。いつものように人が少ない車両に座り、サービル・ラヒーモフ駅へ向かった。この駅はアゼルバイジャン大使館へ向かう際に利用した駅の少し先に位置していた。 三十分ほどで地下鉄から降りると、背後から呼び止められた。振り返ると二メートル近くはあるのではないかと思われる警官が、怖い顔をして立っていた。 彼が噂の悪徳警官か。決して気を許してはならないと思いながら、言われるがままにパスポートを見せたが、別に何もなく解放してくれたので拍子抜けした。なんだったのだ、と思った。あるいは、運が良かったのかもしれない。 地下鉄駅から外に出ると、一面見渡す限りの駐車場だった。そこがサーヒル・ラヒーモフターミナルで、各方面へ向かうバスや乗り合いタクシーが雑然と停車している。 早速客引きに取り囲まれる。 「サマルカンド!」を連呼しているひげ面のおっちゃんに乗り合いタクシーの値段を尋ねると、一万五千ウズベク・ソム(1,500円、当時)とふっかけてきた。相場の三倍以上の値段だったので、踵を返して一般の乗り合いバス乗り場へ向かうと、背後から「このくそ野郎、中国へ帰れ!」と罵声が聞こえてきた。どうやら私は中国人旅行者と思われているらしかった。 各地への乗り合いタクシーが尽き、その先におんぼろバスが並んでいるのが見えた。ボハラ、カルシ、ウルゲンチ、ヌクス……とウズベキスタン中西部への行き先ばかりだったので、サマルカンド行きもあるに違いないと踏んでいたら、果たしてあった。どこの国のメーカーか分からないが、赤い車体でフロントガラスのところにキリル文字で「САМАРКАНД」とあり、これはこれまでの経験でサマルカンドと読むだろうことはほぼ間違いなかろうから、バスに乗り込み、暇そうにしている運転手に尋ねてみた。 「このバス、サマルカンドに行くの?」 すると運転手は「イエス、サマルカンド! お前はヤポンスキーか? ウズベキスタンへようこそ!」と妙に歓迎姿勢を見せつつ私をバスの後方座席へ案内してくれた。 客が一人もいない。たった今発車したばかりなのか、それとも客が満員にならないと出発しないバスなのかよくわからなかった。
荷物を積み込んだあとに前方ドアに行き、久々に二胡を弾こうと試みてケースを開けると、実に悲惨な光景が広がっていた。二本の弦が共に断裂していたのであった。旅の途中でなかなか手入れをしてやれず、弦が錆びてしまったのが原因だろう。なんとかしてやりたいが、替え弦を持ってきていないのだった。これで二胡が入っているケースは、完全に片手を塞ぐお荷物と化してしまった。 やることがないので、傍らの売店で炭酸水を買って蒸し暑い車内へ戻る。いつ発車するのか分からぬのでバスから離れず、読みかけだった伊藤整訳の『チャタレイ夫人の恋人』を開くが、古い版のため伏せ字だらけで面白いのかそうでないのかすら全然分からない。車内が暑くて集中力がないのも関係しているのかもしれない。 眠くなってきた。昼下がりの暑い日である。眠くならない方がおかしい。うとうとしているうちに「きゅるきゅるががががっ」という音とともにエンジンがかかり、バスは発車した。気がつくと、がらがらだった車内は立ち客が出るほどまで混み合っていた。
バスはまずタシケントから南下して百五十キロほど進んだところで西に進路を変え、これまた百五十キロほど進む。そこにシッザフという街があり、ここまで来ればサマルカンドはすぐ近く(とはいえ百キロ近くあるが)である。 実はタシケントからシッザフまで直通する道路があるのだが、その道は使うことができない。道路の途中にカザフスタンの領土が入り込んできているからだ。例の「入り組んだ国境線」である。このために我々のバスは迂回を余儀なくされ、サマルカンド到着はかなり遅れることになる。しかし、あのフェルガナ盆地で国境線の複雑さを実感したため、それほど不満を感じるようなことはなかった。「ああ、そんなものか」くらいに思った程度である。 車内は混んでいる。エアコンはあるが当然のように壊れている。窓を開けると砂埃が入って来るので閉め切ったままで、まるで蒸し風呂の中にいるかのようだ。私は座っているからまだいいが、立っている人の体力消耗はかなり激しいだろう。これが中央アジアの移動と言えばそれまでなのだが。 バスは砂漠の中を飛ぶように走る。とはいえ、中国で見たような石ころだらけの砂漠であり、辺り一面荒涼としている。風が強いのか、砂埃が強烈に巻き起こっている。 ところが、ある地点を過ぎたところで道の両側が緑の農作物で埋め尽くされるようになった。荒涼としたイメージだった中央アジアの認識を覆す程の大規模な農場が、視界の果てまで続いている。私は「はは-ん」と思った。 ウズベキスタン名物、灌漑農業というのはこれに違いない。アラル海に流れ込むシルダリヤとアムダリヤから水を引き、綿花を中心とする灌漑農業が行なわれていると聞いたのは小学校の社会科の授業だったか。当時はシル川、アム川と呼んでいて、「砂漠がこんなに豊かな土地になりました」なんていう記述は覚えている。 しかし、現状は周知の通りである。アラル海は無惨にも干上がり、塩湖だったためにかつて湖だったところでは塩害が発生して付近の農業に深刻な打撃を与えているのである。 アラル海の湖畔を訪れる予定はないが、この地では干害の地を全く連想することができないほどの豊かな農地が広がっている。複雑な想いでそれを眺める。
婿に来ないか バスはこまめに客を拾い、いよいよ満員となった。前方の扉が人と荷物でぎゅうぎゅう詰めになってしまっていてこれ以上乗せられないため、どうするのかと思っていたら後方の非常扉を開け、そこから人を乗せていた。このような非常扉の使い方は以前中国の広西チワン族自治区でも体験したことがある。 このバスの中で東洋人は恐らく私だけなので、好奇の目がものすごい。立ち客はもちろん、前方に座っている人もわざわざ振り返ってこちらをじろじろ見る。あまりいい気持ちはしない。何やら話しかけてくる人もいるが、英語が通じないので意思の疎通が全くできないのだった。 と、立ち客の一人が英語で話しかけてきた。タシケントの大学に通う学生とのことだった。日本の文化に接する機会は結構多いとのことだった。
「タシケントには『日本センター』があるからね。そこで情報収集をするんだ」 そういえば、みこと君が時々「日本センター」に行ってそこにある文庫本を読んでいると言っていたのを思い出した。 「ところで」青年が続けた。 「君の前の座席におっさんが二人座っているだろ。彼らが何て言ってるか分かるかい?」 確かに、私の前の席に二人のおっさんが座り、ことあるごとにこちらをちらちら見ている。ひとりは丸いムスリム帽を被り、白い髯をたらしている。もうひとりはかなり大柄である。まあ、東洋人が珍しいからこちらを見るのだろうと思っていたが、青年は驚愕すべきことを続けたのである。 「あの帽子のおっさん、ウズベクに住んでいるタジク人なんだが、君のことが妙に気に入ったらしく、孫娘の婿にどうかって言ってるぜ」 ぎょっとした。初対面の言葉も分からない男に、大切な孫娘がやれるのか。それとも単にからかっているだけなのか。 「いや、娘のほうもまんざらでもないようだよ。もうひとつ前の座席に座っている」 見ると、二十歳前後の女の子が振り返ってこちらに笑いかけている。実際はもう少し若いのだろう。なかなか可愛いが、歯は三分の一くらいが金歯だった.。 一瞬、シルダリヤのほとりで灌漑農業をしている自分の姿が思い浮かんだ。それも悪くないのかもしれない。しかし、もちろんそんなことは夢物語だと考え直し、精一杯の笑顔を彼女に送るのみにしておいた。
おっさん二人と孫娘は、サマルカンド手前の村で下車した。一緒に降りていたらどのような展開になっていたのだろうかと、今でも時々考えることがある。 かくして、満員のバスはサマルカンドに到着した。西日がずいぶん厳しくなっている。 夜の街を彷徨う コピーさせてもらった地図を見ると、下車地点は「ウルグ・ベクの天文台」付近だった。世界史の授業で習った建造物が近くにあるのか、と思うが、ひとまずは宿を見つけなければならない。
一緒にバスに乗っていた大学生の青年におおまかな街の方向を教えてもらい、歩いて行くことにした。さすがティムール朝の大首都だっただけあり、いたるところに大小のモスクが並んでいる。名も知れぬ小さなモスクでさえ、緻密な緑色のドームをもち、それが西日に反射して美しく光っている。私はこれまで、かように美しいモスクを見たことがなかった。 両側に整然と並木が植えられている通りを歩く。十五分ほど軽い上り坂が続き、上りきったところに大きな広場があり、美しい三つのマドラサ(神学校)が並んでいる。これが「レギスタン広場」で、サマルカンド観光のランドマーク的存在となっている。日も暮れかけているのでひとまずは宿探しに専念したいのだが、その美しさについつい歩みを止めてしまうのであった。
安宿街はレギスタン広場脇の路地にあった。一件目の宿に入るが、現在は営業していないということで別の宿を案内された。行ってみると主人は外出中で、代わりに十二歳くらいの少年と、その妹が出てきた。言葉が通じないので、一階の共同食堂でしばし待つ。 三十分くらいして主人が戻ってきた。空き部屋があるが個室はすべて埋まっており、共同のドミトリーならあるというので泊めてもらうことにした。案内されてびっくりした。三十畳はあろうかという大広間に、客は私だけなのである。ベッドはなく雑魚寝をする形式のため、まるでお寺の本堂に泊まらせてもらっているかのようだ。これはこれでのびのび部屋を使用できる反面、他に客がいないのは心細くもあり、落ち着かない。
早速、夜のサマルカンドを見てくるかと思ったが、その前にボハラ行き列車のチケットを確保しておきたかった。悲しいことに、今回のサマルカンドおよびボハラ行は一週間しか余裕がないのである。列車の切符を確保しておかなければ最悪、バクーへの飛行機を逃してしまう恐れがある。 切符を入手後、どこか適当な店で食事、それから夜景見物という計画を立てた。 サマルカンド駅まで安いマルシュルートカで行きたかったが、宿の主人に「夜なので本数が少ないし、タクシーの方がいい」と言われた。その言葉に従ってタクシーを拾ったが、これが例の白タクであった。運転手は小太りの兄ちゃんで、色々と調子良く話しかけては愛想笑いをするのだが、それが逆にうさん臭かった。二十分くらいでサマルカンド駅に到着した。交渉の末に乗車賃を払ったが、確実にぼられている気がした。
列車の切符は簡単に手に入った。翌々日の昼過ぎ発の特急列車「レギスタン号」である。ウズベキスタンはタシケントからサマルカンドを経てボハラまで観光特急を走らせているらしい。 首尾よく切符が手に入ったので、帰りはマルシュルートカに乗ることにした。暗い車内はすでに満員であった。彼らの間に割り込むようにして乗り込んだはいいが、行き先、下車地が両方ともわからないのである。まあ、ちょうど良い「散策」のようなものかと軽く考えた。 果たしてマルシュルートカはやってきたのとは別の、新市街と覚しき方向へ走り出した。このままレギスタン広場方面へ劇的に方向転換するとは思えないから、二十分ほど走ったところで降りることにした。持っている地図でなんとか現在位置の場所は把握できている。 降りたところは新市街であった。例のごとくマッチ箱のようなアパート群が並んでいる。同じ古都でもここまで違いがあるのかと思うくらい、無機的である。ただ、アルマトゥイやタシケントの新市街より遥かに規模が小さい。かつてはティムール朝の大首都だったサマルカンドも、現在はウズベキスタンの一地方都市なのである。 ようやくレギスタン広場のあたりまで歩いてきた、と思っていたら、右手にライトアップされた大きな建物が見えた。ドーム部分が青く光っており、幻想的な雰囲気を振りまいている。これは「グーリ・アミール」だった。モスクではなく、ティムール、シャー・ルフ、ウルグ・ベクというティムール朝の最盛期を演出した三人の君主を葬った廟である。
少しティムール朝のおさらいをしておきたい。ティムール朝は一三七〇年にモンゴル貴族のティムールが西チャガタイ・ハン国から独立して打ち立てた王朝で、中央アジアから西アジア、南ロシア、北インドに進出、イル・ハン国を滅ぼし、トルコのオスマン朝をも脅かすに至った。外征に明け暮れたティムールの死後、第三代君主のシャー・ルフと第四代のウルグ・ベクは学芸を奨励し、サマルカンドはイラン・イスラム文化の中心として栄えるが、彼らの死後王朝は衰退し始め、一五〇七年にウズベク族によって滅ぼされた。と、まあこのような感じである。 なお、一五二六年に北インドに成立したムガル朝の始祖バーブルもティムールの子孫と言われる。ティムールが中央アジアに及ぼした影響は非常に大きなものがある。 ティムールたちが打ち立てた功績に思いを馳せながらこの幻想的な廟を飽きることもなく眺めていたならば格好がいいが、実際は「ああ、ウルグ・ベクって天文台を建てた人だよな」程度の知識しかないので話にならない。ともあれ、見ていて飽きないのは本当である。 ようやく「青の都」に降り立ったと実感した。 「青の都」と「文明の十字路」 翌日、この日が実質的なサマルカンド観光の日である。 まずは昨日もちらっと見ていたが、レギスタン広場に行くことにした。徒歩五分で着くのでまことに好都合である。先にも述べたが、三つのマドラサが並んで建っている。左より、「ウルグ・ベクのマドラサ」、「ティッラカーリーのマドラサ」、「シールダールのマドラサ」である。天気がいいので青い空に緑色のドームやタイルがよく映えて美しい。ただ、広場の正面にはなにやらステージのようなものがあつらえてあり、全景の写真を撮るのに邪魔になった。残念である。
この地点が実質、サマルカンドの中心部となる。ティムールはイラン、西アジア、トルキスタンなどに外征を行う一方でサマルカンドの建設にも力を入れ、この都市をイラン・イスラム文化の中心たらしめる大都市に成長させることに成功した。ティムールが出現する前は、東西貿易に従事するソグド商人の重要な中継都市となっていたようだ。そのような意味で、サマルカンドはシルクロードの重要な拠点であったことは疑いなかろう。東方の文化と西方の文化が交わる街、サマルカンド。「文明の十字路」とはよくいったものだ。私は壮大な三つのマドラサを長い間眺めていた。
レギスタン広場のステージ脇に女の子たちが集まって、なにやら踊りの稽古をしていた。私が近づくと、特に恥ずかしがるわけでもなくポーズを取ってくれる。タシケントでもそうだったが、ウズベキスタンの子供たちはすれておらず、明るい印象がある。
昨晩見たグーリ・アミールへ行ってみた。意外なことに、太陽に照らされた廟は昨晩見たような幻想のかけらも感じられなかった。やはりモスクやマドラサではなく「廟」だからであろうか、緑が美しい公園の中にひっそりと建っているのだった。
そういえば夜間、このグーリ・アミールはライトアップされていたが、他のモスクやマドラサはライトアップされていなかった。これはどういうことだろうか。以前ブルネイに行った時、王立モスクは派手な黄金色にライトアップされていたものだが。これはお国柄の違いというものだろうか。どちらが美しいと考えるのかは、見る人の感性によるだろう。
地味な外観とは対照的に、内側に入って驚いた、廟内の壁の至る所に金箔が貼られているのである。まるで宮殿のようだ。そういえば、廟や墳墓の類は外見より内部の装飾を重視しているような気がする。これが、外見は美しいが内部は意外に素朴だったレギスタン広場のマドラサ群との相違点である。 再びレギスタン広場まで戻り、朝食兼昼食をとることにした。例のごとくシャシリクと生ビールである。シャシリクはこれまで食べてきたものとは少し違い、「つくね」のようにひき肉を練ってあった。そしてウエイターがわざわざ串から外したものをお皿に盛ってから持ってきてくれる。やや上品なシャシリクであった。
昨日上ってきた並木道を今度は逆に下りて行く。左右に見られた大小のモスクにもそれぞれ名前がついており、由来があるに違いない。 左手に見える美しいドームを持つモスクは「ビビ・ハヌムモスク」といい、中央アジア最大のモスクと言われている。ただ、十九世紀後半の大地震で倒壊してしまい、現在のものは一部修復されているものである。それでも青緑色に光るドームには目を奪われてしまう。
傍らの道路では、道路にカボチャや瓜を無造作に放り出して並べようとしている。おそらく夕方に出るバザールの準備なのだろう。また、韓国車に押されて少なくなっているとはいえ、旧ソ連製の自動車が走っているのを見るにつけ、ここは旧ソ連の一部だったのだと思ってしまう。尤も、タシケントほど大規模な街ではないせいか、このあたりの旧市街には「ソ連的要素」が皆無なのである。面白いものだ。
旧市街の道路を完全に下りきってしまうと、あたりは簡単な谷になっている。そして向かい側は大きな丘がそびえ立っていた。ここは「アフラースィヤーブの丘」といい、ティムールの出現前にサマルカンド中心地だったところだという。すなわち、ソグド商人たちの拠点だったところに違いない。時代は古く、アレキサンドロス大王のころまで遡ることができるという。モンゴルの侵入によって破壊され、現在は荒涼とした風景が広がる。入ることができるのかできないのか分からないので、遠くから眺めるにとどめておいた。
丘の一角に真新しいイスラム建築物が見えた。真新しいとは言っても数百年は経っているに違いない。これは「シャーヒー・ズィンダ」と言われる霊廟群で、百メートルばかりの細長い小道の両側にティムール一族の廟が並んでいるという。入ってみようと近づいてみたが、残念ながら改修中で入ることができなかった。
旧市街の裏通りにて 霊廟群が改修中のために入ることができず残念に思ったが、見るべき文化財はあらかた見終わったものと確信した。そこで今度は、文化財の中を縦横無尽に縫うように伸びている裏通りを歩いてみることにした。気温は三十度を越えているのか、とにかく暑いが、木陰に入ると例のごとく涼しい。
一歩裏通りに入ると、それまでサマルカンドに対して持っていた観光的イメージが一転し、素朴な路地が広がっていた。 旧市街の表通りは騒々しいくらいだが、裏通りにはほとんど人が見られない。 強い日差しが照りつけるなか、時折手押し車を押した人が歩いてくる。あるいは子供たちが駆け回って遊んでいる。そのような光景を多く目にした。子供たちだけで馬車に乗っていることもあった。サマルカンドの子供たちはたくましい。かと思えば、伝統的なムスリムの衣装を身にまとったおばあさんが座ってのんびりひなたぼっこをしている。私が近づくと、にこにこしてなにやら話しかけてくるのだった。残念だが、いつものように満面の笑みでもってお返しするしかなかった。
ふと行く手を眺めてみると、路上に大きなスイカが放置されている。売り物にするのだろうが、無造作に置かれているだけで誰もいない。無断で盗って行く人がいないのだろうか。のんびりしたものである。 「青の都」や「文明の十字路」と称され、多くの観光客が行き交う旧市街の表通り。細い路地に囲まれた裏通り、そして旧ソ連風の無機的な新市街。サマルカンドは、これらすべての要素を飲み込んだ都市なのであった。 そのサマルカンドの名も知れぬ裏通りの一隅で、私は道に転がっているスイカを眺めている。ふと顔を上げると、裏通りの建物を威圧するかのように表通りの大きなモスクが建っていた。 モスクのドーム屋根、青い空。まさしくここは「青の都」であり「文明の十字路」でもある。
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