シルクロード、西へ 

第13章 カスピ海を越える 

 
 

空港にて

空が暗くなり始めるころ、私は再びタシケントに戻ってきた。だが、今回はそのまま空港から飛行機に乗ってアゼルバイジャンのバクーに向かうため、街に出ることはない。空港は首都のそれとは思えないほどこじんまりしている。

国際線の時刻がブラウン管式テレビに表示されている。液晶パネルの画面に慣れてしまっているため、逆に新鮮だ。

その行き先を見ると、私が向かうバクーの他、モスクワ行きが三便、さらにウルムチ、サマーラ、サンクトペテルブルク、リガと、さすが旧ソ連の国だといわんばかりの都市が並んでいる。ただ、イスラム教の国なのにイスラエルのテルアビブ行きがあるのが少し変わっていると思った。
     
タシケント空港。質実剛健な感じの建物。    ブラウン管に映し出されている行き先。 

そのようなことをしながら空港内をぶらぶらしていると、不意に後ろから肩を叩かれた。振り返ると、一週間前に別れたカールマルクスシュタット出身のドイツ人、ロバートが神経質そうな笑みを浮かべて立っていた。この一週間、安宿でカフカスの歴史に関する書籍を読んでいたそうである。前にも述べたがこのロバート、「ドイツ」と言わずに旧東ドイツを表す「DDR」と言ったり、「トビリシ」と言わずに旧称の「ティフリス」と言ったりするなど、どこか妙なこだわりを持っている。一言でいえば変わり者である。カールマルクスシュタットという地名も旧東ドイツ時代のもので、現在ではもちろんこの呼び名の街は改称されている。

喫茶店などという洒落たところには入らず、ロビーでとりとめもない話をしているうちに我々の乗るバクー行き「Imair」の登場案内が放送された。慌ただしく出国手続きを済ませて待合室へ向かった。


ツポレフTu-154という飛行機
先にも述べたように、ツポレフTu-154は1960年代より現在に至るまで生産が続けられている息の長い飛行機である。日本でも新潟空港でウラジオストク便を中心に見ることができ、旧ソ連のそれにしては割合身近な存在だといえよう。

そういえば、最近ポーランドの大統領を乗せた専用機が墜落し、大統領を始めとする政府要人が多数死亡する事故が起きたが、この時一行が乗っていたのもTu-154であった。かなり古い飛行機だというイメージがあるが、現在でもなお生産されており、必ずしもおんぼろの機材が充当されるというわけではないらしい。そのあたりは運に左右されるのだろう。

ただ、「Imair」はアゼルバイジャンのフラッグキャリーではなく格安航空会社であり、そのことを考えると新型機である可能性は低いだろう。旧東側をやたらと賛美するロバートですら、旧ソ連の機材だと聞いただけで顔面蒼白である。カスピ海を越えるのはそんなに命がけなのかと、こちらもつられて少し不安になる。

やがて、登場案内の放送が鳴り響いた。最早ロバートは一言も発しない。私も無言で彼の後について飛行機に向かった。ボーディングブリッジはなく、タラップまで暗い中を歩いて行く。駐機場もやたらと遠く感じる。ボハラの空港でもそうだったが、一国の首都であるタシケント空港の国際線でもこの方式をとっているのであった。

     
ツポレフTu-154の尾部。    機内にあった注意案内書き。 

ぞろぞろと歩く人の列に混じりつつ歩き、ふと顔を見上げると、初めて見るツポレフTu-154の機体が照明に照らされ鈍く光っていた。

なるほど、これはかなり奇妙な形状をした飛行機だな、と思う。目を引くのは水平尾翼にあたるところにエンジンがあり、水平尾翼は垂直尾翼の先端についているという点だ。エンジンは水平尾翼の前方にも配され、合計三発。主翼もかなりの後退翼である。このような飛行機に乗るのは初めてだった。

だが、飛行機自体はかなり老朽化したものであった。何度も塗りが繰り返されてボディはかなりの厚化粧である。外観でこのような状態なので、機内もかなりのものだろうと予想していたら、果たしてそうであった。

まず、普通我々が慣れ親しんでいる機体の内装はおおむね強化プラスチックでなされているのが普通だが、このツポレフは柔らかい金属である。前席の背についているテーブルもそうだ。テーブルのストッパー部分の金属コーティングが剥げて貧相なイメージを醸し出しているのが寂しい。飛行機というより古い鉄道のそれを連想させる。また、エアコンや読書灯は壊れて使えない。

更に驚くべきものを発見した。酸素を表す「Oxygen」の表示に「
气」と中国語で併記がなされているのである。それから判断すると、これは中ソ蜜月のころに生産された機体なのかと考えてしまう。さすがにそれはないと信じたいのだが。

そうこうしているうちに離陸案内の放送がなされた。程なくしてツポレフはがらんとしたタクシングウェイをかいくぐって滑走路に向かい、あっというまに離陸した。離陸音は「きゅいーん」という、かなり甲高いものだった。

     
塗りの剥げかかったテーブルストッパー。金属製。    エアコンと読書灯。大半が壊れていた。 


カスピ海を越える
おんぼろのツポレフにもだいぶん慣れてきた。落ち着いて機内を改めて見渡すと案外居心地良く感じるものだから、不思議である。格安航空会社にも関わらず、機内サービスもあった。アゼルバイジャンはイスラム国家なので残念ながら酒は出ないが、機内食のピラフが出てきた。これがとても美味で、これだけでも満足行ける空の旅になり得るとすら思った。 ただ、機内食を配膳して回るキャビンアテンダントは太った年配のロシア系おばさんとおっさんで、色気というものを全く感じない。街の食堂でみかける無愛想なおばさんと何ら変わらないのである。まあ、しかたがない。

それから、私は通路側の席に座っており、窓の外を見ることができない。サマルカンドからボハラにかけての砂漠地帯と、今まさに越えんとしているカスピ海の様子だけでも見ておきたかったので、これだけは悔やまれるところである。尤も、あたりは真っ暗になっているので、仮に窓側だったとしても何も見えなかったのかも知れない。

搭乗前はあれほどツポレフにおびえていたロバートだが、離陸して飛行機が安定しだしてからは落ち着きを取り戻し、窓側に座っているムスリム帽をかぶったアゼルバイジャン男性と意気投合して喋っている。通路側の私は全くもってかやの外である。仕方がないので目をつぶると、昼からの旅の疲れがどっとでてきたのか、うとうとしてしまった。

と、機内放送で目が覚めた。どうやら着陸態勢に入ったようだ。シートベルトの確認を行ない着陸に備えるが、機内前方に数名のおっさんが立ったままである。キャビンアテンダントも全然注意をしない。これは時々特定の航空会社で見かける光景である。ビーマン・バングラデシュ航空では着陸のアナウンスすら聞こえなかった覚えがある。結局着陸しても、これら立っているおっさんらが席に着くことはなかった。
     
着陸が近くなっても立ったままの乗客。    なぜか、座席が前方に倒れる構造。 

かくして、飛行機は無事にカスピ海を越えてバクーの空港に着陸した。座席が通路側だったのと窓の外が真っ暗だったため、何ら感動のない旅程であった。ただ、珍しい飛行機で旅ができたことには満足した。

ツポレフから降りる際、奇妙な光景を目撃した。すべての座席が前方に倒れているのである。西側の飛行機ではこのような光景を見たことがない。一体どのような意味があるのだろうか。そのようなことを考えつつ、タラップを降りた。


バクー市街地へ
さて、すでに述べたようにアゼルバイジャンのビザを取得していたために通関はすんなり終わった。ロバートも問題なかった。これから市街地へ出て行かなければならないが、夜もかなり更け気味である。バス等の交通機関があるのか分からないし、ここはタクシーで移動するしかあるまい。料金でもめたりする可能性もあるが、この際仕方ないとロバートと話していた。

すると、駐車場の隅に停まっていたソ連製のラーダ2106のクラクションが鳴り、ウインドウから見覚えのあるおっさんが顔を出した。機内でロバートと意気投合して喋っていたおっさんだった。彼はバクー市内へ帰る途中らしく、ついでに我々を送って行ってくれるという。ここでまた色々と考えた。つまり、このおっさんが強盗に変貌する可能性もあるからだ。見知らぬ地を旅していると、だんだん他人が信用できなくなる。

だが、最終的にはこのおっさんの世話になることにした。ロバートの「勘」に賭けてみたのであった。こちらも二人だし、いざというときにはなんとかなるだろう。

彼の好意に礼を述べてラーダに乗り込むと、自動車は荒っぽく走り始めた。あたりは真っ暗で何も見えない。これが初めて見るバクーの風景であった。

三十分くらい走ったであろうか。自動車は高層ビルディングの前で停車した。「バクー駅だ」と運転手のおっさんが言う。なるほど、駅舎と覚しき建物の向こうには鉄道の操車場が見える。

「この建物に簡易宿泊所があるから、ここに泊まればいい」とおっさんが教えてくれた。ロバートともども、固い握手を交わして別れを告げ、簡易宿泊所のチェックインを行なう。十五階の五人部屋に宿泊、料金は一泊四マナト(約440円、当時)で、あらかじめ空港で両替しておいたお金で支払う。十五階に上がってみると、五人部屋にもかかわらず部屋は私とロバートの独占状態だったのだが、ベッドのクッションが朽ち果てて悲惨なことになっている。すなわち、ベッドに横になると体が沈み込んでしまうのである。寝心地の良さそうなベッドを探し、なんとか横になる。
     
  窓からはバクー駅の全景が見渡せる。   

夜中、猛烈な腹の痛みで目が覚めた。何か妙なものでも食べたのだろうか、下痢をしてしまう。廊下の隅にある共同トイレに行くが、例のごとく便座がない洋式トイレである。この夜は四、五度もトイレに駆け込む羽目になってしまったので、便座なしトイレは正直かなり辛かった。

翌朝、明るくなってから窓の外を眺めると、バクー市街が一望できた。西洋式の古い建物と近代的なビルディングが混じり合っている。これまで見てきた中央アジアの都市とはかなり違った印象を受ける。そして、市街地の奥には青々としたカスピ海が広がっている。
     
  バクー市街の様子。後方にはカスピ海。   

南カフカス地方について
さて、中央アジアを離れた私が旅をして行くのは南カフカス地方である。英語読みではコーカサスというので、そちらの方で覚えている人もいるかもしれない。カフカスとは平たく言えば、カスピ海と黒海に挟まれた地域で、東西に長く聳えているカフカス山脈を境にして、北カフカス、南カフカスの二地方に分かれている。

このうち、北カフカスはロシア領で、チェチェン、北オセチア、イングーシなどの自治共和国が存在する。この地方は外国人の立ち入りが禁止されており、今回の旅とは無縁の地である。

一方の南カフカスはアゼルバイジャン、アルメニア、グルジアの三国から成っている。ただ、ソ連崩壊後に発生した紛争や内戦によって、非常に複雑な状況を呈している。南カフカスの至るところに各国の支援する「自称独立国」が存在しており、それらの地をめぐって現在でも国際紛争が起こることがある。例えば二〇〇八年八月に発生したグルジア紛争は、グルジア領内に存在する「南オセチア共和国」を支援するロシアとグルジアとの紛争であった。その他、アゼルバイジャンとアルメニアの国境付近には「ナゴルノ・カラバフ共和国」が、グルジア領内には「アジャリア自治共和国」、「アブハジア自治共和国」が存在し、このうちのいくつかは事実上の独立状態にある。

このような地域なので、旅をする際には現地の情報に注意し、無理をしないことが肝要である。

だが、同行のロバートの目的地は、外国人立ち入り禁止のはずの「北オセチア」である。本気なのかどうか分からない。

私の次の目的地は、グルジアの首都トビリシとした。アゼルバイジャンと隣国アルメニアは、「ナゴルノ・カラバフ共和国」をめぐって紛争を起こしたことがあり、現在でも時々軍事行動が行なわれることがあるらしく、当然ながら国境も閉鎖されているので、必然的に次の目的地はグルジアとなる。バクーからトビリシまでは、国際列車で約十四時間の旅程である。


バクー市街を歩く
バクーと言えばカスピ海油田とコンビナートである。中学校の社会科でそう習った。だがそれは二十世紀初めから旧ソ連時代の話で、カスピ海の油田は既に枯渇してしまい、ロシアの油田生産はシベリアに移ったらしい。

この街自体は古くから栄え、旧市街中のいくつかの歴史的建造物が世界遺産に指定されている。だとしたら当然、市街地をのんびりと歩いてみたいのは当然の思いである。早速街に繰り出したいところだが、どうにも腹具合が悪く、トイレに駆け込む状態が続いている。当分は宿から出られそうにない。
     
  バクー駅前広場の様子。人がまばらである。   

同行のロバートが「とりあえず俺一人で歩いてくる。薬も買ってきてやるから」と言って出て行った。私は窓の外から美しいカスピ海を眺めながら、時にトイレに駆け込むしかない。

昼前にロバートが帰ってきた。水と怪しげな錠剤を買ってきてくれたのでそれを飲む。相当苦いが、一時間ほど経つと効いてきたようだった。ロバートとともに街に繰り出すことにした。

てっきり駅前広場から市街地の方へ出て行くのかと思いきや、ロバートは「近道を見つけた」と言ってプラットホームの方へ歩いて行き、ホームの隅から線路に降りた。そのまま操車場をずんずん歩いて行く。時折入れ替え作業を行っている貨物列車などが迫ってくるので、危険きわまりない。日本よりレールの幅が広いせいか、貨物列車の車両も日本に比べて巨大であり、轢かれたらひとたまりもないと思った。
     
ホームの端から線路に下りる。    列車の車輪が放置されていた。 

そのまま車輪や廃車体などが放置されている辺りを進む。線路に引っかかって実に歩きにくいが、ロバートはそんな私を尻目にずんずん進んで行く。本当に変わり者である。ふと傍らを見ると、「BAKI-MOSKVA」のサイドボードを掲示した客車が停まっている。モスクワ行きの国際列車もあるようだ。ただし、外国人は残念ながら乗ることができない。

操車場を抜け、ようやく普通の市街地へ出た。十九世紀に油田が発見されたことにより欧米資本が流入して形成されたというヨーロッパ風の装飾を施した建物と、旧ソ連風の無機的な団地が混在しており、誠に奇妙な印象を受ける。
     
  客車を縫うように歩いて行く。   

二十分ほど歩くと、大きめの広場に出た。カフェやレストランが建っており、遠くを見ると旧市街の城壁も見える。ここでロバートが何やら用事があるとのことで、どこかに行ってしまった。仕方ないのでどこかのカフェで休憩しようと思い辺りを見ると、マクドナルドがあったので入ってみた。マクドナルドはずいぶん久しぶりである。世界中どこにいても同じ味なので、安心感がある。この時はお腹を壊しているのでなおさらだった。
     
落ち着いた雰囲気の街並み。    マクドナルドの雰囲気は万国共通なのだろうか。 

マクドナルドを出て、旧市街の方へ向かう。ここがバクー観光のハイライトだろう。バクーの旧市街はいつごろ成立したのかは定かではないが、古いものだと十二世紀ごろからのモスクが残っているため、非常に古い歴史を持っていることは疑いない。この辺りはイランやロシアの王朝の係争地となっており、非常に複雑な歴史を持っていてとても把握できない。ひとまず、十九世紀の初めにロシア帝国の支配下に入ったことだけを書いておく。

旧市街の正門に相当するであろう「シャマフ門」をくぐって旧市街へ足を踏み入れた。自動車も通れるように改造されており、自動車用のゲートが設置されていたので少し残念に感じた。だが、入ると幅が百メートルほどありそうな広場の中に、立派な建物がそびえ立っている。これがハーンの宮殿であった。
     
バクー旧市街地のシャマフ門。    旧市街の街並み。 

早速写真を撮ろうとカメラを出そうとして、背後に異様な気配を感じた。振り返ると、中年のおっさんが妙な目つきでこちらをじっと見ている。どうも気持ち悪いので、写真を撮らずに足早に歩き出すと、おっさんもついてくる。足を止めると向こうも足を止め、路地に入ると同じ路地に入ってくる。

非常に怪しく、少しく身の危険も感じたのでこのおっさんから逃げるべく、足早で迷路のような旧市街をさまよい歩いた。三十分ほど歩いて後ろを見ると、ようやくおっさんの姿は消えていたのだが、おかげで旧市街の観光はめちゃくちゃになってしまった。

旧市街の城壁を出て、地下鉄に乗って宿に戻る。ロバートはどこへ行ったのか、まだ帰っていない。
     
迷路のような旧市街。    モスクか。現在は使われているのだろうか。 

バクー郊外へ行く
翌日。腹具合はややおさまってきたように思える。ロバートは朝っぱらからどこかに行ってしまった。今日は何をするか決めていなかったが、ふと「バクーは旧ソ連有数の工業地帯」という文言を思い出した。旧ソ連の石油生産を支えた工業地帯を見てみるのも面白いと思い立った。

思い立ったはいいが、どこに行けばいいのか皆目分からない。しばらく考え、工業地帯というのは沿海部に建設されるのが常なので、おそらくカスピ海へ近い方へ行けばいいのではという結論に達した。早速駅前の地下鉄駅からカスピ海方面と覚しき方向へ出発した。

バクー地下鉄はタシケントと同様、旧ソ連時代に作られたもので、おんぼろの車体、もっさりしたカラーリング、「ギロチンドア」など、すべてがタシケントのそれと同じ造りであった。もちろん写真撮影も厳禁で、陰気な事この上ない。乗り込んで十五分ほど走っていると、にわかに腹痛がした。これは終点まで持たないと判断したので、途中の駅で降りてトイレに駆け込んだ。間一髪間に合ったが、やはり便座のない洋式便器であった。

下車駅の名前すら分からないが、取りあえず地上に出てみると国鉄の線路が通っていて、その上で陸橋工事をしている。そして遠くには石油精製工場と思われる建物の煙突が火を噴いている。これが一応のバクー工業地帯の遠景だと勝手に判断した。
     
石油コンビナートを遥かに望む。    陸橋の工事をしていた。 

線路の辺りをうろうろしていると、陸橋工事の作業員たちが近づいてきた。外国人に興味を持ったのか、色々と話しかけてくる。「どこから来たんだ?」、「日本ってどこだ?」、「日本語の挨拶はどう発音するんだ」など、質問攻めにあった。中央アジアを出てカフカス地方へ入った訳だが、アゼルバイジャンの主要民族たるアゼリー人がトルコ系民族ということもあるせいか人々のノリが中央アジアの延長線上にあり、実にフレンドリーである。

道の傍らに巨大なアリエフ前大統領の看板が見える。アゼルバイジャンは旧ソ連で唯一、世襲による権力委譲が行なわれた国家である。すなわち、二〇〇三年に死去したヘイダル・アリエフ前大統領の後を注いだのがイルハン・アリエフ現大統領であり、このような事はあのトルクメニスタンでも行なわれなかった。政治的にはかなり強権的なイメージをうける。
     
  ヘイダル・アリエフ前大統領の写真。   

さて、大統領の看板の下にちょっとしたバザールがあるのでのぞいてみた。食料品、雑貨など色々な物が売られているが、これまでの中央アジアの国々に比べ、品揃えがやや変わったように思われる。まず、ナンが見られなくなった。代わりに目立つのが野菜や果物、豆類である。中央アジアを離れてカフカスに入ったことを実感させられる。それから、マクドナルドなどファーストフード店の類も多く見られるようになった。中央アジア的バザール要素とヨーロッパの要素が混じり合っている結節点であるとも言える。
     
バザールで豆を売っていた。    CDショップ。 

CD屋があったので入ってみる。実は旧ソ連圏のCD屋に入ったら、確認しておきたいことが一点あった。それは、イギリスのバンド、「ユーライア・ヒープ」が本当に流行しているのかということである。以前読んだロック雑誌で、「ユーライア・ヒープは旧ソ連圏で絶大な人気があり云々」という文を読んでから、それが忘れられなくなっていたのだった。

早速店員に「ユーライア・ヒープはある?」と尋ねると彼はにやりと笑い、一旦奥に引っ込んで、両手に山ほどのCDを抱えて戻ってきた。その数二十枚では済まない。ちょっとした好奇心からCDを要求した私は少し後悔した。CDを買わざるを得ない状況に陥りつつあるからだ。

とりあえずその場にあった一番安いCDを買うことにした。一枚五マナト(550円、当時)だったが、買ってからやはり後悔した。どうせ買うなら地元アゼルバイジャンのミュージシャンのCDにしておくべきだった。これなら日本でも買えるではないか。

今後の予定
郊外をしばらく歩いたので、もと来た地下鉄の駅に戻る。入り口に来てぎょっとした。よく見ると、何もない更地の真ん中に地下鉄の入り口がぽっかりと空いているのである。どうしてこのような何もないところに地下鉄の駅があるのだろうか。それとも、更地だったところが以前は住宅地だったのだろうか。謎は尽きない。夜にこの駅で降りると、かなり危険であろう。

よく見ると、地下鉄入り口の脇に線路が敷かれていて、プラットホームと覚しき石積みの建造物があった。ここは近郊電車が通るのだろうか。もし通るならその電車に乗ってバクー駅まで戻っても面白いと思った。が、この駅には人っ子一人おらず、果たして電車が停車するのか定かでない。時刻表も当然のごとく、ない。廃駅かもしれないので、待つだけ損になるかも知れない。
     
  何もないところに地下鉄駅が。   

だが、時間だけはあるので、しばらく待ってみることにした。午後の日差しが容赦なく照りつけ、砂塵も巻き上がっているがここは我慢である。特に観光地でもないところで無聊に時間を送る、それもいいだろう。

三十分ほどホームに座っていると、線路の向こうから緑色の電車がやってきた。旧ソ連の都市圏で運転されているという「エレクトリーチカ」である。何度も塗り直しを繰り返したと覚しき塗装はところどころ剥げ落ち、窓ガラスは傷だらけでところどころひびが入っている。車内も真っ暗で、非常に陰気な様相を呈していた。正直、夜間にはお勧めできない電車であった。

十分ほど走るとエレクトリーチカはにわかに速度を落とし、先日私がロバートと通った操車場を抜け、バクー駅へゆっくりと到着した。すでに午後六時を回り、辺りは夕闇につつまれている。
     
  旧ソ連圏の通勤電車、エレクトリーチカ。   

宿に戻るとロバートが荷造りをしている。聞くと、この日の夜汽車でグルジアへ旅立つという。彼の「南オセチアを経由して北オセチアのウラジカフカスまで」という目的が叶えられるかは分からない。おそらく無理だとは思うが、心の中で少しだけ応援することにした。

彼を見送りにバクー駅のホームまで降りて行く。既に発車間際でホームは大変混雑している。最後に彼と固い握手を交わしてホームを後にした。ふと、その足で私もそろそろバクーを離れようかと思うようになった。思い立ったらすぐに行動するのが良い。

私は駅ビルの一階にある切符売り場へ行き、グルジア行きの切符を一枚予約した。
     
なぜか日本の新幹線が描かれている。    時刻表。概ね一時間に一本程度の運行。