シルクロード、西へ |
第14章 南カフカスを駆ける |
バクーを離れる 私は夕暮れのバクー駅にたたずんでいた。グルジアの首都・トビリシを目指す国際列車を待っていたのである。タシケントからの道連れ・ロバートは一足先に発ってしまい、私ひとりだけが取り残された格好だ。 駅はヨーロッパによくみられる頭端式、つまり行き止まり構造になっていて、何本もあるホームにダークグリーンのエレクトリーチカが一編成ぽつりと停まっているだけである。室内灯も落とされており、乗り込む乗客もまばらだ。 こういうものにふらりと乗り込んで、どこに行くのか試してみたいという気にかられるが、今回はトビリシという目的地があるのでやめにする。 規模の割に、とにかく寂しいターミナル駅である。それが赤い夕焼けと相まって、尚更寂しい気分にさせられる。自分の乗るべき国際列車が早く入線してくれないものかと思う。 どれくらい待っただろうか、いい加減うんざりしてきたころ、視界の彼方からマッチ箱のような黒っぽい固まりがゆっくりとこちらに向かって来るのが見えた。ようやく視認できるあたりまで来て、それが客車の「おしり」の部分であることが分かった。トビリシ行きの国際列車が推進運転で入線してきたのである。 |
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しかし、これほどみすぼらしい国際列車も珍しい。カーキ色の塗食は旧ソ連のそれを引き継いでいるとはいえ、まともに手入れされている気配がない。車体はすすだらけ、機関車も塗りを重ねた頼り無さげな姿である。 まあ、一晩十数時間の旅である、文句は言えない。 このころになると、ホームに乗客や彼らを見送る人々の姿が多く見られるようになってきた。移動売店も見られ、なかなか活況を呈している。私は缶ビールを二本とミネラルウォーターを買い込み、古びた客車に乗り込んだ。 車内は意外にもさっぱりとしていた。各コンパートメントは扉がついた二段ベッドの個室になっていて、ベッドにはぼろぼろながらも寝具がある。これで通風さえしっかりしていれば心地よい一夜が明かせそうだが、残念ながらファンやエアコンといった類の装置はついていなかった。そして、窓は壊れていて開かなかった。なかなか苦行の旅程になりそうな気がする。ただ、車内はがらがらで同じコンパートメントに入る客がいなかったので、気楽な旅となりそうだ。 |
適当に荷造りなどをしているうちに列車は音もなく発車していた。何の感動もない。水を飲みつつ通路に出て窓の外を眺める。かなり暗くなったバクー市街の高層団地の灯りがゆっくりと流れて行く。 トイレに行きたくなった。用を足して自分のコンパートメントに戻ってくる途中、あるコンパートメントが半開きになっているのを見た。何気なく中をのぞくと、大柄なロシア系のおっさんが着替えをしている。まずい!と思ったがおっさんと目が合ってしまい、大層な剣幕で怒鳴られる羽目になってしまった。ロシア人は列車に入ると着替えをするという習慣があり、それを見ることは非常に失礼なことだと聞かされていたからである。車掌まで飛んできてちょっとした騒動になってしまった。これに懲りた私は、トビリシまでおとなしくしておくことにした。 おとなしくコンパートメント内で横になっているはいいが、先に述べた通り空気の通りが恐ろしく悪いので暑くてたまらない。かといって扉を開け放っておくのは防犯上どうも気が引ける。不思議なもので、このようなつまらないことで悩んでいるうちに時間は過ぎて行く。列車の速度は恐ろしく遅い。そうこうしているうちにうとうとし始め、ついには完全に眠ってしまった。 国境にて 列車が停車している。辺りは薄明るくなっており、そろそろグルジア国境なのかと思われる。洗面所で顔を洗って外を見ると、果たして国境にふさわしい厳重な警備が敷かれ、多くの兵士がホームに立っている。国境のビュヨック・ケシィク駅と見て間違いないだろう。 国境ということは列車を降りてイミグレーションオフィスに行き、パスポートにスタンプを捺してもらわなければならない。とりあえず荷物を背負って下車した。ホームを照らすオレンジ色の街灯がまだついたままである。 と、ひとりの兵士に「列車に戻れ」という仕草をされた。どうやらここでは車内にイミグレーションの係員がやってくる方式らしい。重い荷物を運ばなくて楽と言えば楽だが、車内の乗客全員の手続きが済むまで下車できないのは残念だ。 車内に戻ると再び睡魔が襲ってきたので、横になってうとうとする。と、荒々しくコンパートメントのドアがノックされ、二人の係官がやって来た。いずれも男性で軍服のような物々しい装いをしており、非常に威圧的である。 手続き自体はそれほど厳しくなく、当時日本人はグルジアのビザが不要であったこともあり、五分とかからずスタンプが捺されて係官は去って行った。 安心した途端、猛烈にトイレに行きたい衝動に襲われた。しかしここで頭をよぎったのは、この列車が「古い客車」で、しかも「停車中」であるということだった。西安のところでも書いたが、この手の客車のトイレは一般にたれ流し方式のため、停車中は施錠されていることが多い。しかも国境での審査中である。いつ客車のトイレが使えるようになるのか全く分からない。 しかたがないのでホームに降り、近くにいた兵士に「トイレに行きたい」と訴えると、「あっちだ」とばかりにホームの外れを指差した。 言われるがままに列車の進行方向に向かってホームを歩いて行く。私の乗っている車両は編成の後方にあったため、どうしても小走りになる。とうとう客車が尽きて機関車が見えてきた。それでもトイレらしき建物は見えない。 機関車も通り過ぎ、ふと線路の向かい側を見ると粗末な建物があった。早速線路を横断してそちらに向かう。果たしてそれはトイレであったが、これがかなり危険な造りであった。 というのは、この建物の背後がすぐ崖になっており、十メートルほど下に渓流が見える。このトイレは「穴」に板きれを二本渡して下の渓流に一気に落とすというシステムで、危険極まりない。板が腐っていたら………などと考えながら近づいて行ってもうひとつ重大な問題を発見した。ドアがないのである。つまり、このトイレはホームから衆人にさらされつつ、さらに川に転落する恐れもある危険極まりないものであったのだ。 しかし、ドアなしトイレは中国で慣れっこになっているので、それほど抵抗なく用を足すことができた。特に見る人もいなかった。 列車に戻る途中、行きは見る余裕がなかったホームを観察していると、野菜売りのおばさんたちが地面に売り物を広げて細々と商売をしていた。 トビリシに到着 再び目が覚める。列車は時速三十キロほどの低速で走行しているが、貨物の側線群が現れ、遥か彼方の丘陵地帯には密集した家々が見られる。そろそろトビリシなのだろう。
列車はぐんぐん速度を落とす。そして完全に停車した時には窓の外に荒れ放題のプラットホームが待っていた。果たしてここがトビリシ駅であった。車掌に「トビリシ、トビリシ」と連呼され、追い立てられるように下車する。下車する乗客の数は少ない。もともとの乗客も少なかったが、直通客はさらに少なくなっていた。
そのまま橋上の駅舎を通って出口へと向かう。出口付近には売店、理髪店、両替店など様々な店舗が並び、それにタクシーの客引きや闇両替屋などが声をかけてきて混沌極まりない。それでも改めて駅舎を見渡してみると関西の国電駅のような雰囲気もして、どこか懐かしさを感じさせる。
さて、早速宿探しを始める。聞くところによると、トビリシの駅周辺は治安があまり良くなく、スリや置き引きはもちろん、夜間は強盗も出現するようなので、駅から離れたところに居を定めた方がよい。色々考え、トビリシ駅から地下鉄で東南へ五キロほど行った「サムゴリ」地区の宿に決めた。 タシケントやバクーと同様、トビリシにも旧ソ連時代に建設された地下鉄が存在する。切符の買い方や車両の形状などは同じなのだが、カラーリングが異なっているものがあり、白地に赤い十字架が描かれていて鮮やかだ。これはグルジア国旗と同じデザインである。 十五分ほどでサムゴリ駅に到着した。宿が数件見られたので、そこそこ綺麗なところを選んで入った。フロントでは英語が通じたのでチェック・インはスムーズに進み、ようやく旅装を解くことができた。
グルジアについて ここで、グルジアという国について少しおさらいをしておきたい。グルジアは南カフカス三国のうちの一国であり、東をアゼルバイジャン、南をアルメニア、西をトルコ、そして北はカフカス山脈を隔ててロシア領北カフカス諸国と接している。かのヨシフ・スターリンはグルジアのゴリ出身である。ソ連時代はそれを構成する十五共和国のひとつで、ソ連崩壊後にグルジア共和国として独立した。 が、この他、領内に南オセチア共和国、アブハジア共和国、アジャリア共和国などグルジア政府に従わない「自称共和国」を抱えており、それらの自治をめぐってこれらの自称共和国を支援するロシアと抗争を続けてきた。それが爆発したのが2008年のグルジア紛争であり、これによってグルジアは南オセチア共和国の独立を半ば承認した形となった。私がグルジアを通過したのは紛争勃発のちょうど一年前だったが、表向きは平穏だったと記憶している。 ともかく、北カフカス、アルメニア、アゼルバイジャンも含め、カフカス地方一帯は民族紛争のメッカと言ってもさしつかえない。旅行には細心の注意が必要である。 また、グルジアに入国して劇的に変わった要素が一点ある。宗教がイスラム教からグルジア正教に変わったのである。無論、多くの民族が複雑に入り組んで住んでいるカフカス地方なのでムスリムやユダヤ教徒も居住しているが、彼らは概して少数派である。グルジアでは早くも五世紀には国教をグルジア正教とし、西欧のそれとは教義も建築も異なっている。地下鉄のアブラバリ駅から宿に着くまで、伝統的なグルジアの宗教、建築様式が密集している様子を見ることができた。ここらで市内をぶらつくことにした。 トビリシ市街は旧市街の生きた博物館といった感じで、これまで巡ってきた旧ソ連圏の大都市とは趣を異にする。駅の方から旧市街側へ歩いて行くと、緩やかな下り坂になっており、ムトゥクバリ川なる川が流れている。そこから再び丘陵が始まり、その上には「ナリカラ城塞」が誇らしげに聳えている。歴史は大変古く、千五百年ほど前に最初の砦が築かれたという。現在では城壁跡に円錐形のとんがり屋根が特徴的なグルジア建築の教会が建っている。
坂を下って行くと橋があり、渡ったところにアルメニア人居住地とユダヤ人居住地がある。アルメニア教会、その隣にはシナゴーグもみられた。 各教会や建物には、キリスト教等をモチーフにした絵が描かれているのだが、これが頗る平面的で、世界史の時間に習った「イコン画」を連想させる。このあたりの地は東方正教会の影響が強いことを改めて実感させられる。
とにかく旧市街は寺院の数が多いが、橋を渡って川沿いに三百メートルほど北上したところに、グルジア正教会の総本山「スィオニ大聖堂」がある。遠くから中を覗いてみたが、イコン画でいたるところが埋め尽くされ、これまでに感じたことのない崇高さを味わった。と、中からひとりの修道士が出てきて目が合った。黒服にまるでイエス・キリストを思わせるような髯と長髪が風に吹かれていた。
アルメニアへ さて、前にも述べたようにカフカス地方は内戦中の地域も存在し、長く滞在するのは危険な感じもする。そのため、トビリシ滞在も最低限に止め、次の目的地・アルメニアへ移動することにした。本当はトビリシから西方に百キロほどのところにあるゴリという街にも寄りたかった。というのも、先にも述べた通りゴリはスターリンの故郷だからだ。ただ、ゴリから北へ僅か四十キロで例の「南オセチア共和国」に入ることになる。当時、当共和国を支援するロシアとグルジアとの間で小競り合いが何度も起きていたし、危なくて寄れたものではない。以上がアルメニアへ針路を向けた理由である。 ちなみに、かの盟友・ロバートが目指した「グルジア軍道」というのは、トビリシのやや西方の街・ムツヘタより北上し、北オセチア共和国のウラジカフカスへ向かうルートのことである。このルートは南オセチア共和国の領内は通過しないとはいえ、やはり危険だろうし、第一、外国人の入国が禁止されている北オセチアへ入国などはできっこないだろう。そのような訳でロバートを案じつつ、アルメニア行きのバスターミナルへ向かった。 エレバン行きマルシュルートカ トロリーバスを乗り継ぎ、朝八時頃にオルタチャラ・バスターミナルへ着いた。ターミナルは旧ソ連時代に建造されたものなのだろうか、かなり痛みが激しい。アルメニアの首都・エレバンへのバスは三十ラリ(450円、当時)で所要時間はおよそ八時間である。例のごとくマルシュルートカが客を待っている。
喉が渇いたので、売店で飲み物を物色する。そういえば、グルジアはワインの産地だということを不意に思い出した。道ばたの店で量り売りなどをしていたのに、まだ飲んでいないのだった。ここは先の長いバスの旅、ひとつ景気付けのために飲んでおくかと、まだ日もそれほど高くなっていないのに五百ミリリットルのボトルを買った。が、一口含むと強烈な苦みが口一杯に広がり、思わず吐き出してしまった。これはワインではなく、アルメニア産のコニャックだったのだ。我ながら早とちりをしてしまった。しかし買ったからには最後まで飲まねばならない。車内でちびりちびりやることに決めた。
すると、その様子を見て面白く思ったのか、近くに座っていた年のころ三十代前半だが頭が軽く禿げ上がっている青年が笑いながら英語で話しかけてきたのである。聞くところによると、彼はジョージというウェールズ出身の文化史研究者で、アルメニアの田舎へフィールドワークに行くところだという。 「日本人がこんな田舎へ来るとは珍しいな」と、ジョージ。 言うまでもなく、カフカスに住んでいるウェールズ人もそれほど多くはなかろう。 ジョージは驚くほどの日本通で、日本についていろいろと語ってくる。そうこうしているうちに発車の時刻となり、マルシュルートカはエンジンを吹かして走り出した。 カフカス地方は険しい山脈の中に僅かばかりの盆地があり、その中に都市が形成されている。トビリシとて例外ではなく、すぐに道路はくねくねの山道に突入した。道路の整備状態は良いのだが、横揺れが半端なく、おまけに私の座っている座席は真ん中なので車窓からの眺めも見られず、かといって書見も居眠りもできずに苦労する。三時間ばかり苦行を強いられているうち、沿道にトラックが多く見られるようになってきた。これは国境が近いのかと思ったまさにその瞬間、隣に座っていたジョージが「国境だ」と言った。我々はマルシュルートカから降り、イミグレーションオフィスへ向かった。
アルメニアとは グルジアの出国は何事もなく終わり、アルメニアへのイミグレーションオフィスへと歩いて行く。途中に谷川があって国境となっている。アルメニアへの入国はビザが必要であるが、国境で取得できるためにそれほど面倒ではない。ただ、隣国アゼルバイジャンおよびトルコとの関係が非常に悪いため、両国のスタンプやビザがあった場合に入国を拒否されるかも知れない。少し不安になったので、歩きながらジョージに尋ねてみた。 「アゼルバイジャンに関しては全然問題ないよ。トルコのスタンプがあれば、やや嫌な顔をされるけどね」とジョージ。 これで少し安心した。事実、ビザはものの二〜三分で発給され、スタンプも無造作に捺された。 こうして無事にアルメニアへ入国を果たしたのであるが、我々が乗っていたマルシュルートカがなかなかやってこない。乗客と車両のイミグレーション・カウンターが別々となっていて、トラックの列に遮られているからである。 その間、道ばたの草むらに腰を下ろし、ジョージと話をする。 「どうしてアルメニアの文化を研究しているの?」 「そうだな、アルメニア文化はひとことで言えば、古代オリエントやローマ帝国の生きた博物館みたいなものだからかな。ほら、あそこに英語と併記されているアルメニア文字を見てみろよ」 たしかにそれは、以前世界史で習ったフェニキア文字のような形状をしている。 「それからあまり注目されないが、アルメニアは紀元前から王国を形成し、貿易で繁栄していたんだよ」 ローマ帝国とササン朝ペルシアという大勢力の中にあって、アルメニア商人は両者の間を巧みに動き回って王国の維持に努めていたそうだ。 「それにアルメニア使徒教会。最も古いキリスト教の形態を現在にも残している」 エジプトのコプト正教会、エチオピア正教会、そしてシリア正教会と並び、451年のカルケドン公会議で異端とされた教会のひとつがアルメニア使徒教会であったはずである。「単性説」、「非カルケドン派」という言葉をふと思い出した。 そのような古い歴史と文化を持つアルメニア人が、現在ユダヤ人と並ぶディアスポラになった原因について聞いてみる。 「それはやはりカフカス地方が、東西南北から攻められやすい地形だったというのが主な理由かな。つまり、西のローマ帝国やオスマン帝国、東のペルシア帝国、南のイスラム諸王朝、北のモンゴル帝国やロシア帝国といった大勢力の脅威に常にさらされ、移住せざるをえなかったんだ。ここ百年ではやはり、オスマン帝国のアルメニア人大虐殺が主な原因だな」 そういうことか。アルメニアを始めとするカフカス諸国をとりまく民族、国際問題の一端が少し見えたような気がした。 まもなくマルシュルートカがやってきた。再び険しい山道を走り出す。何時間走っただろうか、いつの間にか道の両側の雑木林が低い灌木に変わっていた。ジョージが「あの山を越えればエレバンだ」と教えてくれた。山を登りきると、月のクレーターのような盆地にやや古びた都市が貼り付いているのが見えた。
エレバンの月曜日 マルシュルートカから降り、荷物をまとめるとジョージは「じゃあ俺はこれで…」と去ってしまったが、その前に「この先を左に行ってしばらくいくと民宿があるから」と宿の場所を教えてくれた。彼に別れを告げ、言われた通りに道を歩いて行くと果たして特徴のある家がある。中に呼びかけてみると中年のおっさんが出てきたが、英語を全く話さない。ひとまず奥の部屋に案内された。四つのベッドがあるが、他の宿泊客はいないので私が独占するかたちとなった。エアコンもファンもないのでかなり暑い。ひとまず、この日は余ったコニャックを飲んで寝てしまった。 翌日。ひとまず私がいるところを地図で照合してみる。エレバンの街を円形のクレーターに例えると、私は南西方向の「へり」の部分にいることが分かった。そのままクレーターを降りて行くと、ちょうど中心に共和国広場、劇場、博物館などが位置している。地下鉄や路面電車はバスターミナルには来ていないため、おなじみのトロリーバスで移動する。十五分程度で共和国広場と覚しき広場に到着した。 昨日ジョージに色々と教えられ、アルメニアの歴史や文化に興味を持ち始めていたので、国立博物館に行ってみたが、休みであった。続いて、作曲家のハチャトゥリヤンがエレバン出身ということを知り、邸宅跡に行ってみたがこちらも休み。この日は月曜日、あらゆる施設が休館日なのだった。
ナゴルノ・カラバフのこと さて、エレバンに着いた私にとっての次の目的地は「ナゴルノ・カラバフ共和国」である。この「国」はアゼルバイジャン西部のアルメニア人自治州がソ連崩壊の混乱にまぎれて1992年に勝手に独立を宣言したもので、国際承認している国は世界でもアルメニアしか存在しないという、いわゆる「自称国家」である。 ナゴルノ・カラバフの主要民族はアルメニア人だったのでソ連崩壊の折にその帰属をアルメニアに求める運動が起こり、それを弾圧しようとしたアゼルバイジャン軍と支援しようとするアルメニア軍の間で「ナゴルノ・カラバフ紛争」が発生、94年まで続いた。戦局は終始アルメニア側が優勢に進めたが、調停を担当したフランスとロシアはバクー油田を抱えるアゼルバイジャンの経済に目をつけ、アゼルバイジャンに有利な和平案を提示した。結果、アルメニアはこの調停に反発し、現在でもナゴルノ・カラバフ問題解決の目処は全く立っていない。国際的にはナゴルノ・カラバフはアゼルバイジャンの一州ということになっているが、事実上はアルメニアの影響下にある。 この「国」に入国するにはエレバンにあるナゴルノ・カラバフ代表部でビザを取得する必要がある。一旦ナゴルノ・カラバフのビザを取得してしまえばアゼルバイジャンには二度と入国することができなくなる。だが、私はすでにアゼルバイジャンを通過済みなので問題はない。 ナゴルノ・カラバフ代表部はクレーター状になっているエレバン市街の北のはずれにある。クレーターの「へり」の部分に位置しているので、螺旋状になった外縁道路をひたすら登って行くしかない。トロリーバスが通じているようだが、エレバンの街をよく見ておきたかったので歩いて出かけることにした。
歩き始めてすぐに後悔した。日差しが容赦なく照りつけ、恐ろしく暑い。エレバンの街は狭く、街の中心から代表部まで直線距離では大したことがないのに、街がクレーター状の構造をしているために意外に遠回りをすることになるのである。上り坂というのも厳しさに拍車をかける。
ようやく代表部に到着した。中に入ると数人の旅行者と覚しき若者がいる。申請書をもらい、該当する項目に必要事項を記入して行く。これで申請料の15米ドルを支払えば晴れてビザ取得となるはずなのだが、「しばらくここで座って待っていろ」と言われ、おとなしく椅子に腰掛ける。 目の前にナゴルノ・カラバフの大きな地図が掲げられている。てっきりアルメニアとナゴルノ・カラバフは地続きだとばかり思っていたのだが、ナゴルノ・カラバフはアゼルバイジャン南西部に浮かぶ島の如き形状をしており、アルメニアとは繋がっていない。となれば、エレバンからどのようにしてナゴルノ・カラバフの首都ステパナケルトへ行くのか。隣に座っている西洋人に尋ねてみると、アルメニアとナゴルノ・カラバフはアゼルバイジャン領によって遮断されているが、その地域は事実上アルメニアの支配下にあり、バスで一気に突っ切るには問題ない、とのことであった。 言われてみると納得できるが、少し不安を覚えた。 しばらくして、唐突に私の名前が呼ばれた。そのまま別室に連れて行かれる。どうやら面接があるようだ。 「コンドウ・タカアキ、日本人か。よくこんな遠くまで来たな」とスーツ姿の面接官が言う。 「それで」、と彼は続けた。「どうしてナゴルノ・カラバフに行きたいのだ?」 これは当然の質問だ。小競り合いが続いている地域に外国人を簡単に行かせる訳には行かないだろう。 「カフカスに生きる諸民族の実情、およびソ連崩壊後、なぜ各地で民族紛争が発生するに至ったのかを自分なりに理解しておきたいからだ」と答えた。 「スターリンの定義した民族定義」というものがある。すなわち、「広大な地域、共通の言語、経済生活、文化の共通性を持ち、長い歴史的な基礎を有する共同体」というのがそれである。この定義を実践すべく、旧ソ連では民族の強制移住も行なわれたし、人の住まない極東に突如「ユダヤ自治州」などの民族居住地が出現することにもなった。 私はフェルガナ盆地の飛び地だらけの地を巡っているうちに、この民族定義というものに大いなる不信感を抱くことになってしまったのだった 。本来、民族とはある程度雑居していて当然であろう。それに反するかのように「遊牧を行なうキルギス人はここに住め」、「農業を行なうウズベク人はここに住め」などとそれぞれの産業に適した地に強制移住が行なわれ、さらに計画的な領土が引かれた結果、中央アジアには多くの飛び地が存在するようになってしまった。例えば、ウズベク人が住む農業地の一部に遊牧に適した地があるという理由でキルギス人をそこに住まわせると、その地はウズベク人居住地に囲まれたキルギス人の飛び地になってしまう。そしてソ連崩壊後、そこはウズベキスタンに囲まれたキルギスの飛び地として扱われることになってしまった。現在、これらの飛び地に住む人々は自由に飛び地から出ることができない状態になってしまっているという。 一方のカフカスではソ連崩壊後、パッチワークのように散らばっていた各民族がそれぞれ自称国家を名乗るようになり、それを押さえつけようとする国家との間で内戦が発生し、また、周辺国の介入もあって、至る所で民族紛争が起きている。北カフカスのチェチェンを筆頭に、南オセチア、アブハジア、アジャリア、そしてナゴルノ・カラバフなどの自称共和国をめぐる紛争はこのような過程で生まれたものである。 このような視点から見ると、ナゴルノ・カラバフはまさにスターリンの制定した民族定義の犠牲となった地域であり、積もり積もった矛盾と不満がソ連崩壊後に一気に爆発したものと思われるのである。では、アゼルバイジャンの支配から解き放たれたナゴルノ・カラバフの現状はどのようなものであろうか。そのような問題を是非知りたい。 このようなことをつらつらと、勿論表現は控えめにして述べた。 すると面接官は、「よし、そういう目的があるならいいだろう」と、パスポートにシールを貼りつけ、手書きで名前その他を記入し、私に渡してくれた。こうして、何とかナゴルノ・カラバフのビザを手に入れることに成功した。 早速宿に帰ろうと支度をしていると、面接官が話しかけてきた。 「お前、アルメニアに入る前にアゼルバイジャンに入国しているな。まあいい、分かっているとは思うが、最早ナゴルノ・カラバフはアルメニアの手中にある」 そう言って彼はにやりと笑った。いかにも「アゼルバイジャンなぞは眼中にない」という雰囲気の笑いだった。その笑いに、私はいい知れぬ「民族の闇」を覗いた感じがした。 翌日、朝食を終えて宿のロビーにあるテレビをぼんやりと見ていた。ニュースが流れているが、おそらくアルメニア語なので何を言っているのか分からない。 話題が変わった時、一緒に見ていたフランス人のドミニク=シャルルが嘆息して吐き捨てるように言った。 「ナゴルノ・カラバフ付近に駐屯していたアルメニア軍とアゼルバイジャン軍との間で小競り合いが発生したようだ。これでナゴルノ・カラバフには当分行けなくなった」 彼もナゴルノ・カラバフを目指していたひとりであった。その話を聞きながら、私は残念な気持ちとどこかほっとした気持ちがごちゃ混ぜになったような、何とも言えない不思議な感覚に陥っていた。 。
トビリシに戻る 私はトビリシに戻る列車に乗るためにエレバン中央駅にいた。中央駅とはいえ、クレーターを外れたかなり南側に位置するので、移動には地下鉄を使った。地下鉄はタシケントやバクーで見たものと同様、かなり古びたものだった。
発車の一時間くらい前に到着すると、エレバン行きの国際列車は既に入線していた。これまでと同様旧ソ連の古い客車である。機関車を見てみると、大きな二つ目灯に、これまた巨大な赤い星があしらってあった。今更「赤い星」でもないだろうと苦笑した。このコミカルな機関車が引っ張る古びた列車は、イモムシのようにも見える。
自分の乗るべき車両に乗車すると、デッキに車掌がいる。50〜60代の銀髪をなびかせたじいさんなのだが、ウォッカ臭いのである。この国の乗務員は勤務中に飲酒するのかと、少しく不安になった。 車内へ入ると、不安は増大した。ベッドに寝具が用意されていないのである。勿論、寝具のない寝台列車というのも存在するが、この車両のベッドはあまりにもチープで頼りない。これはとんだ列車に乗ってしまったと思った。 ベッドの構成について特筆しておくことは、通常の寝台車は片側に通路があり、それに垂直にベッドが配置されるのだが、この列車はレールの幅が広いためか、通路に沿って進行方向にもベッドが配置されている。インドでよく見るベッドの構成だ。
荷物を網棚に載せ、時折通りがかる酒臭い車掌の相手をしているうちに乗客の数も増え、発車となった。私の席は進行方向に配置されたベッドの下段、就寝前は折りたたんで普通の座席になっている。向かいにはエレバンの大学に通う青年が座った。 列車は遅く、ひたすら遅くエレバンの市街地を抜けて行く。地図によると、グルジア国境まで直線的に結ぶのではなく、一旦アルメニアの南部国境付近まで南下して行って、そこから国境沿いに西進、ついで北上して行くようだ。時計の「三時」がエレバンだとしたら、グルジア国境は「十一時」にあたる。山がちの地形のため、このようなルートでしか線路が敷設できなかったのだろう。
向かいの座席に座っている青年と話をする。私がナゴルノ・カラバフ問題の話をすると、彼は「アルメニア軍はナゴルノ・カラバフ問題でアゼルバイジャン人を多数殺害した。しかし、アルメニア人だって百年前にトルコ人に虐殺された」と言う。 そう、トルコ人のアルメニア人虐殺問題は日本でも有名だ、しかし、一方でアゼルバイジャンとの紛争やナゴルノ・カラバフの問題は知らない人が多いと答えると、「両カフカスに平和な地域なんか全くない」と声を潜めて語り始めた。「ソ連時代はみんな平和に暮らしていたのに、ソ連崩壊後、ある日突然民族同士で争うようになった」そうである。旧ユーゴスラビアと同じ問題が南カフカスでも起こっていたのである。
青年が食事を始めたので反対側の寝台へ視線を移すと、スキンヘッドの大男とその妻と覚しき女性が向かい合って座っている。あまりかかわり合いになりたくない雰囲気だったので視線をそらそうとした時、スキンヘッド氏が「お前のつけている腕時計を10ドルで売ってくれ」と言ってきたのである。 私のつけている腕時計は、マニラかどこかで入手した安物のクォーツである。正直、5ドルもする代物ではない。だが、旅においてクォーツ時計はなくてはならないものだ。勿論、丁重に断った。するとスキンヘッド氏は「11ドル!」、「12ドルならどうだ?」と値をつり上げてくるのだが、その金額が一ドル刻みと実に面倒くさい。
スキンヘッド氏を相手にするのをやめ、窓の外に目をやる。小高い丘にへばりつくような格好で存在しているエレバンの街がゆっくりと遠ざかって行く。残念ながらクレーターの中は見えない。地形が平坦なので、その光景はいつまでも視界から消えることはなかった。 トルコ人は過去にアルメニア人を虐殺し、そのアルメニア人はアゼルバイジャン人と殺し合いをする。一方でロシア人はカフカス山脈を越えてグルジアを虎視眈々と狙っている。国家同士の抗争にあって独立を画策するナゴルノ・カラバフや南オセチア。南カフカスの問題は、無限回廊のごとく解決すべき手段を持たないかのようにも見える。 私は眠ることにした。列車はアルメニア人の聖なる山・アララト山を遥かに仰ぎ、翌日にはグルジアに着いていることだろう。 |
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