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『西南シルクロード紀行』 -第9章-


第9章 「没有銭」 お金はありませんよ

西南夷地図
 下の写真(雲南省博物館にて撮影)はいまから約2,200年ほど時代を遡った秦・漢時代の歴史地図で、この地域は「西南夷」(現在の雲南省、貴州省西部)と呼ばれていた。滇池を中心とする円は「滇国」の勢力範囲を示す。そして、左上の洱海(じかい)の周辺には「昆明国」があった。

滇池の周りには滇国、洱海の周りには昆明国が大きな勢力を誇っていた。BC3世紀頃

 雲南省で一番大きい湖は滇池で、琵琶湖の約半分の広さ。次に大きいのが洱海で、耳の形をしているところから名づけられた。滇池地区と洱海地区はともに大きい湖を囲む平野で、農業に適した自然条件を備えていた。新石器時代から稲作が行われた形跡があり、深い文化の蓄積があった。

 そこに、漢王朝の武帝が本格的な経営に乗り出してくる。大軍の前に、夜郎国、滇国は膝を屈するが、昆明国は抵抗をやめない。一時的に漢軍に制圧されてもすぐゲリラ戦で反乱を起こすという具合であった。


司馬遷の肖像画(『三才図会』より)中国の歴史(特に古代史)は、彼抜きには語れない

司馬遷
 こうした状況下に、後年『史記』をまとめることになる当時25歳の司馬遷が昆明国にやってくる。現在の昆明市ではなく、洱海地区の昆明国(いまの大理市周辺)なのでご注意を。
藤田勝久『司馬遷の旅』(中公新書)を見てみよう。

 「このあと司馬遷は、元鼎6年(前111年)に西南への旅をした。大史公自序は、その経過を簡単に述べるが、この旅行は皇帝の巡行とは目的がちがっている。

ここに於いて、わたくし遷は、仕えて郎中となった。のちに使を奉じて西方は巴・蜀の以南を征し、南方は邛(きょう)・笮(さく)・昆明の地を略し、還って命を奉じた。

それは使者となって、西南夷の諸民族の制圧に赴く旅であった」

 李長之著、和田武司訳『司馬遷』(徳間書店)にも同様の記述がある。
「翌年(元鼎6年、司馬遷25歳)こんどは巴・蜀・滇へ奉使した。これは漢朝の西南夷経営にかかわる重大事であった。(略)司馬遷の奉使地は、先人たちよりも遠くて、巴・蜀以南の邛・笮(西昌一帯)の地ばかりでなく昆明まで及んだ」

<司馬遷こだわりの旅>を続けたい。

五尺道を西へ
 20006年11月、私は西南シルクロード・古道探しの旅を再開する。ここで、第4章の『西南シルクロード略図』を見ていただきたい。スタート地点は昆明(もちろん現在の省都)で「五尺道」をひたすら西へ向かう。楚雄から大理を経て「博南道」(緑色)に入り、保山~騰沖まで行くことにした。ガイド役は雲南科技国際旅行社のSさんこと佐藤宏孝氏、運転手の楊さん、それに私の3人旅である。ふたりとも30代前半で呼吸が合うのだろう、それぞれに有能で(道案内、運転技術)きびきびしており、仕事ぶりが小気味よい。恵まれた旅になりそうな予感がする。

看板デザイン会社を経営する楊峻嵩さん(左)と佐藤宏孝さん(右)。楊さんの愛車の前で

滇緬公路
 今回の旅は、雲南省を東から西へ横断する。そのルートは2000年前も今も変わらない雲南省の大動脈・メインストリートである。昔は「蜀~身毒道」(成都からインドへの道)と呼ばれ、現代の『滇緬公路』(テンメンこうろ)である。雲南省・昆明(滇)とミャンマー(緬甸)を結ぶ全長959kmの国際道路であるが、さらに高速道路がこれに加わる(2007年4月現在、昆明~保山開通)。

昆明市街地に立つ「滇緬公路記念碑」。雲南省を横断してミャンマーに至る国際道路の出発地点

 雲南省は日々、進化する。06年11月に昆明市から楚雄市まで自動車で3時間半だったのが、07年3月には2時間15分で行けるようになった。高速道路の接続がスムーズになったからだ。しかし、私たちの旅は早く着くのが目的ではない。高速道路を途中で降りて、でこぼこ道に入り込むことが多い。車では走れない、道なき道を探す旅なのだ。

煉象関
 最初の目的地は禄豊県腰站村。360年前の姿がほとんど変わらず今も見られるというのである。滇緬公路(国道320号線、正式にはミャンマー国境の畹町の名をとって滇畹公路と呼ぶが、「テンメンこうろ」で通したい)は山道をくだり、見晴らしが良くなったところで停車した。そこは下の地図上で言えばA地点である。

「滇緬公路」上のA地点から腰站村を眺める。
中央上に「煉象関」がかすかに見えるだろうか
歴史文化名村「煉象関」を案内する標識はあるが見落としそう。地図上ではB地点である。
中央の岡を右周りに越えた向こう側に村がある。
2200mほど歩くことになる。
唯一の交通機関は馬車である。学校は滇緬公路の南側にあるので子供たちは歩いて通う。
滇緬公路ができる前は重要な役割を果たした腰站。いまは、離れ小島のようである。

 尾根道が開けて、小さな盆地が見下ろせた。山また山の雲南では、山あいに無数の盆地が点在する。中国語の西南方言(つまり雲南、貴州省地方の言語)で<バーツ>と呼ぶが、腰站村はまさにバーツのなかに存在する。手前に段々畑があり、「煉象関」がかすんで見えた。A地点での簡単な撮影を終えて、車はさらに下る。

馬車
 車はB地点で右折するのだが、標識は小さく、注意しないと通り過ぎてしまいそう。ここから2200メートル歩くと腰站村に着く。公路と村を結ぶ馬車があり、1年前は5角(約7円)だったが、いまは1元になっている。

村の中心部で驢馬が休憩、と言うより客待ちをしているところ。この部分、古い敷石は剥がされていた。 干した農作物を道路に撒き、牛や人間に踏ませて脱穀するという原始的な方法。
村を貫く古道はほぼ直線に近いが、起伏に富んでいる。石橋と組み合わされた楼門の一部。
300年の風雪に耐え、堅牢さを誇るレンガ積みの建物。

腰站村
 腰站村は東西に534mの長さで広がっていて、東端には大きな楼門「煉象関」が
西端にはやや小さい無名の楼門がある。明の崇禎16年(1643年)というと明滅亡の前年だから、むしろ清代に入って関所として整備されたといっていい。
 煉象関を出ると滇池地区方面へ、西の楼門を抜けると禄豊を経て大理方面へ。この関は「西南の喉元、西南の抑えの鍵」と言われるほど重要な役割を果たしたという。交通の要衝として、賑わったのだろう。360年後のいまでも、レンガ積みの民家は風格がある。

離れ小島?
 滇緬公路から完全に切り離され、車は通らない。のんびりと驢馬がいて、石畳のうえには乾燥した農作物を敷き詰め、牛や通行人に踏ませている。どこの家の軒先にもとうもろこしが干してある。時代に取り残され、寂れていくだけの村。まだ観光客も来ない。飲食店は1軒もない。それだけに、まるで何百年も昔の古道を歩いているような雰囲気なのだ。

どこの家でもとうもろこしを山のように吊るしている。食糧として、家畜の飼料として必需品。 賑やかだった時代の面影を残す街のたたずまい。風格を感じさせる。
乾燥させた豌豆を棒で叩いている農婦。あまり効率が良いとは思えないけれど。

東の門
 東端の楼門に向かう。石積みの高さは10m、幅が26m、奥行きは10mもある堂々とした楼門で「煉象関」の額がかかっている。Sさんの説明によると、西南シルクロードや茶馬古道が脚光を浴びるようになり、最近きれいに整備されたらしい。楼門の一歩外に立つと、下り坂になっているのがわかる。しきりに農作業をする村人が通る。背負った籠を覗くと、豌豆(えんどう)が入っていた。道のところどころに豌豆のさやが落ちていたりする。きっと今が収穫の時期なのだろう。

没有銭
 私たちは出てみることにした。東、つまり昆明方面へ進むと、どんどん上り坂になる。立派な石畳が残っていて、見上げると老婆がひとり座っていた。

威風堂々の「煉象関」。東端にある村の入り口である。右下でカメラを構えるSさん。 藁(わら)を束ねて運ぶ。雲南の農村ではよく見かける光景。この辺りは何毛作だろうか。

 Sさんが先に上っていく。老婆とすれ違う寸前に彼は小型のデジカメを構えてすばやく写真を撮る。その後に私が続く。老婆が何事かつぶやいている。「没有銭」「没有銭」と聞こえた。とっさに意味が分からなかった。そして、Sさんと話をしてようやく理解した。老婆は彼をお坊さんと勘違いしたのだ。黄色のウインドブレーカーは法衣に、帽子は剃髪に、カメラを構えたポーズは祈りに。そして彼女はお坊さんへの「お布施」の持ち合わせが無いことを、詫びたのだ。

立派な石畳だなと思って見上げると、ひとりの老婆が休んでいるのに気づいた。
ゆっくり、ゆっくり時間をかけて降りてくる。
なにやらつぶやいている。よく聞くと「没有銭」「没有銭」。お金は持っていませんよ。 たき木拾いが彼女の仕事なのだった。
これは別の場面でのSさんの撮影ポーズ。老婆は<お坊さんの祈り>と見た。

 観光地では、どんな辺鄙な田舎でも少数民族の衣装を身にまとった女や子供たちがバスに群がりポーズをとる。カメラを向けるとお金を要求するのが常。それに比べて老婆の素朴さはなんということだろう。まれにしか外部からの客が訪れることの無い腰站村に幸いあれ。

西の門
 いったん村に戻って、反対側の西端の楼門へ行く。煉象関に比べるとかなり小さい。しかし、昔のままで、素朴さがある。門を抜けるとすぐ右側に共同便所がある。村人だけでなく、旅人も出立の前に用を足したのだろう。そのすぐ先に古井戸があった。西のほうからやって来た旅人は真っ先に喉を潤したに違いない。籠を背負った村人が遠ざかる。近くの畑へ行くのか、あるいは小さな山を越えて禄豊の街へ行くのだろうか。

村の西端にある昔のままの古い楼門。道は禄豊を経て大理の方向へ。 写真右のレンガは「公厠」つまり共同便所である。
村にいくつかある古井戸のひとつ。


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