サイトマップ   ホーム > 活動報告 >西南シルクロード紀行


『西南シルクロード紀行』 -第10章-



第10章 楚雄(そゆう)の古い墓

元代の地図
  麺類を提供する店が一軒もない村、というのは始めての経験ではあるまいか。私は少しでも長くこの村に滞在して、村人の話を聞きたいと思った。それには食事をするのが一番なのだが、食堂がないのである。これにはまいった。引き上げざるを得ない。緬公路に戻り、飲食店へ入る。お腹が空いていたせいか、すごく美味い。きしめんに似た、幅のひろいミーシェン(米線)であった。


雲南を代表する米線、一碗2~3元(45円)前後。肉入りの具はプラス1元が相場である。
『中国歴史地図』社会科学院編 元・明時代
禄豊県の年平均気温は16.2度。日本では四国の高知市と同じ暖かさ。11月でも田畑は緑。


  煉象関の地名は『中国歴史地図集』第7・「元、明時期」に登場する。これを見ても、重要な位置を占めていたことがお分かりいただけるだろう。なお、地図の中央右に「富民」がある。今から100年以上前、この地を踏査した鳥居龍蔵博士(第4章参照)の記述を引用する。当時、中国は清朝時代であり、昆明市は「雲南府」と呼ばれていた。彼は、雲南府を発ち、富民~元謀へのルートを歩いている。

気候
  「麦の穂が青々と秀で、また豌豆の花・菜の花など、今を盛りと咲き匂って、さながら春の郊外の眺めである。今や季節は11月の下旬であるから、日本の内地ならば、もう草木が霜に痛められて」(『中国の少数民族地帯をゆく』朝日選書)と気候の違いに驚いている。私たちの旅も11月であり、腰站村の村人たちも農作業に忙しいのである。ついでながら、これから向かう禄豊と星宿河の名も地図のうえで確認しておいて頂きたい。

啓明橋
  緬公路を西に走る。禄豊の市街地に入るすこし手前、旧道に寄り道する。啓明橋を撮影するためである。禄豊市街地から南に3.5キロ、南河という小さな川に古い橋が架かっていると言う。指摘されなければ、走り過ぎてしまうだろう。なんと言うことのない、ほこりっぽい石畳の道。この橋が1641年の創建というから400年近い歴史を持つ。煉象関(1643年)とほぼ同時期にあたり、当時としては重要な意味をもっていたに違いない。長さ46m、幅9m、高さ6m。中央のアーチには龍の石像が飾られている。


旧道なので車の数は少なくなり、牛や黒い山羊を引き連れた村人が通る。
南河の水量も減り、3つのアーチのうち真ん中を流れるだけ。両側は土砂で埋まっていた
中央のアーチの上面に石像がある。鼻の部分が欠落していて、龍には見えないが。
牛(複数の場合も)は良く見かける。禄豊の街は車もスピードをあまり出せない。

星宿橋
  車は禄豊の街に入る。街は一段と賑やかになるが、牛が堂々と闊歩するのどかさを残している。「禄豊恐竜博物館」を見学する前に、もう一つの橋を見ることにした。星宿橋は市街地の西寄りにあり、俗に西門大橋という。広大な河原に満天の星のようにたくさんの石があるので星宿河と言われ、その河に架けられた星宿橋。歴史は古い。明の万暦42年(1614年)の架設である。初代は木製だったらしい.。1727年の水害と地震で倒壊し、1832年に再建された。7つのアーチを持った美しい石橋である。現在は、上流にダムを作るなどの水利事業が完成して水害の患いもなくなり、川岸には柳が植えられ、橋を中心とした「星宿公園」が市民の憩いの場となっている。私たちが行ったときは乾期のせいか水も少なく、公園の係員だろう、泥の中から魚を捕るのどかな光景が見られた。


高さ12m、幅11mの大きな門。禄豊市街地の西にあり、公園は街のシンボルである。
7つのアーチが美しい全長108mの石作りの橋。1615年の架設で、初めは木製だった。
東と西の橋詰には1対の獅子像が鎮座している。それぞれ表情と姿態が違っていて面白い 逃げ場を失った魚たちは手つかみ状態だ。それにしても水の無い河の末路は哀しい。


栄枯盛衰
  星宿橋は昔から「西(昆明の西)の大通りで、交通の要衝」であり続けた。激しく水が流れていたために、橋身は赤い砂岩で築き、もち米をすった汁を混ぜた石灰で隙間を埋め、極めて堅牢なつくりにした。1832年の修建のときは白銀1万両以上もの大金が投じられた、と誇らしげにその経緯を石碑に記載している。しかし今は<交通の要衝>としての役割を終え、橋は公園の一部になってしまった。そして、禄豊の街も高速道路の完成により、ひとつの平凡な田舎町になりつつある。圧倒的多数の車が大理方面へ向かい、素通りして行くからだ。


博物館の目玉は恐竜である。入館料は15元。「禄豊古猿」の化石も展示されている。


恐竜博物館
  「禄豊恐竜博物館」に入る。1.7億年前の恐竜の化石は子供たちに人気だ。しかし簡単に済ませて、800万年前の猿人の化石(禄豊古猿・1975年発掘)と春秋戦国から後漢時代に至る青銅器群を見る。展示された青銅器はそれほど多くは無かった。「禄豊の青銅器の特色としては、兵器と農具が主で、内容的には質朴で実用的なものが多い。当時の部落(禄豊)においては<農業の生産と戦争>が日常であったことを反映している」と解説にあった。


すべて戦国時代(BC5世紀~BC3世紀)の青銅の武器。矢じり(左端)と矛(右3点)。 戦国から前漢時代の鋤。武器のほうが春秋・戦国と古く、農具よりも開発は早い。
禄豊県は「恐竜の郷、化石の宝庫」と言われている。北に隣接して元謀県がある。


  博物館そのものは小さいが、この街の中心部にあり、子供たちにとっては格好の遊び場のようである。


楚雄の墓
  禄豊を離れ、車は一路西へ。緬公路を走り、楚雄イ族自治州(面積では日本の九州全土に匹敵する)の州都、楚雄に着く。細長く大きな街で、道路は新しく、広い。西南シルクロードの古い道を探す私たちにとって、まったく絵(写真)にならない街である。しかし、この中心街からさほど離れていないワンジャーバ(万家盆地)から、古い墓が79基も発見されたのである。


州都・楚雄にできた博物館。建物ばかりが大きく、展示物はまだ少ない。入館料10元。
楚雄イ族自治州は、禄豊・元謀県を含むので恐竜の陳列室があり、人気を呼んでいる。
北京原人よりも古い「元謀猿人」。1965年に門歯の化石が発見されて、話題となった。


  ここで、再び司馬遷に登場してもらう。第9章では、彼が「海地区にあった昆明国を訪れた」ことを述べた。中国の作家・李長之は「司馬遷のこのときの収穫は、国家利益の面は別にして、文学面で『西南夷列伝』のあの興趣に富む紀行文を生んだ」(『司馬遷』徳間書店)と述べ、さらに「この25歳のときの川[四川]・[雲南]への奉使で、西部辺境と西南部が補充され、ここにほぼ中国全域にまたがる巡礼が完成した」と評価するのである。

  その2000年以上前に書かれた紀行文を私たちはいともに簡単に読むことができる。岩波文庫『史記列伝4 』、700円、146ページ。


西南夷列伝
  西南夷には十指をもって数えられる部族の首長がいるが、夜郎(やろう)が最大の国である。その西方にある靡莫(びばく)の諸国も、十指をもって数えられ、(てん)が最大の国である。以北には十指をもって数えられる部族の長がおり、都(きょうと)が最大の国である。これらの国の人々はみな「ついけい」(槌の形のように前後につきでた髷)をゆい、農耕をし、集落がある。それら諸国の西側、同師(どうし)から東、北は楪楡(ようゆ)までの地域は(すい)や昆明(こんめい)という名で呼ばれ、いずれも辮髪(べんぱつ)をゆい、家畜の後をついて移動し一定の住所をもたず、部族の長もいない。

  論点を二つに絞ろう。ひとつは、靡莫(びばく)の国とは今私たちのいる楚雄ではないか。ふたつめは部族によって異なる髪形の解明である。
鳥越憲三郎『長江上流域の倭族の王国』を改変


楚雄の古名か?
  第4章掲載の『西南夷地図』を参照しながら、司馬遷の文を読んでみる。既に、夜郎(貴州省西部)(現在の昆明市周辺)都(四川省・西昌市付近)、昆明(海周辺)はいろいろな資料から確定的である。『西南夷地図』に靡莫の文字はない。中国の考古学者・劉弘は「楚雄は靡莫(びばく)の分布地帯である」と指摘(『金沙江中流域における考古学文化』)するのだ。金沙江中流域の北岸(四川省)、南岸(雲南省)全域の考古学文化を綿密に比較調査した氏が、「『史記』西南夷列伝の記載は、当時(中国王朝の前漢初期)の実際状況を客観的に反映している」と言う。私にも「靡莫は楚雄のあたり」という説は正しいと思われる。


国の上流階級、一般平民、さらにその下の雑役をする人たちもこの髪型である。
「男性銅俑」。手に傘を持った男。左の腰に剣を帯び、巻貝形の髪型を結う。


髪型
  次に移る。上の写真は司馬遷が「ついけい」と呼ぶ男性の髪型である。椎髻とも書く。中国の少数民族に見られるまげの一種で、髪を木槌のような形に頭の上で結んだもの。雲南省博物館に長く勤め、<石寨山・李家山>遺跡から出土した青銅器類を長い間研究した張氏は語る。「青銅器の立体的な彫鋳が多く、青銅器に描かれた絵もあって、人物の総数は500を越える。祭祀、紡織、戦争、放牧、狩猟、舞楽など、当時の国の社会生活の実際を表している。女性の髪形は比較的複雑だが、男性は単純で椎髻が主流。統計的に言えば80%を占める。貴族も祭祀の執事も騎士も船頭も狩人も踊る者も料理人も椎髻である。」(『国と文化』雲南美術出版社)。


「女性銅俑」。通常、農業や手工業の生産に従事するのが女性で、この髪型が多い。

  女性の場合は上の写真。<最も流行の髪型>というよりは定着していたのだろう、「長幼、貧富の別なく」、数字で示せば153人中103人(67%)がこのヘアスタイルである。肩まで伸ばして、結んである「銀錠髷」。


石寨山出土の銅矛(ほこ)。この武器に装飾として辮髪の奴隷がぶら下がっている。


辮髪
  そして青銅器の図像のなかに、少数だけれど辮髪の男たちがいる。髪を編んで後ろへ長く垂らしたもの。上の写真は以前、番外編で紹介済みの『吊人銅矛』だが、受刑者の髪型が辮髪である。彼らは恐らく国以西地区の「昆明」人に違いない、と張氏は述べる。捕虜あるいは奴隷の多くは昆明人である、とする氏の論拠は司馬遷の『西南夷列伝』である。彼ら(男だけで無く女の奴隷もいて、髪型は辮髪)は集落内で最も重い労働を担当し、行動の自由は無い。彼らの末路は、ある者は祭祀のいけにえとなって虎や豹の餌となり、ある者は奴隷主の墓に殉葬された。


楚雄の古い墓から出土した中ほどにすじのある矛。副葬品の中では圧倒的に多い。


武器と農具
  雲南省の青銅文化遺物の発見は大変多い。出土地点もほとんど全省に及んでいる。そのなかで第1章、第2章で取り上げた池の周りの遺跡を別格とするなら、次に考古学者たちが注目する遺跡のひとつが楚雄の墓である。79基の墓が発掘されたことは既に述べた。時代は古く、紀元前5世紀あるいはさらに早く、春秋中・後期と見られる。大きくて豪華な墓が13、小さくて粗末な墓が66あり、明確に階級社会が存在していたことを示す。そして、副葬された青銅器のほとんどは生産道具と武器であった。春秋時代の中期には発達した稲作農業が成立していたこと、同時にこの地も禄豊と同じく「戦争が日常」であったことを物語っている。


祥雲県大波那の墓から出た銅棺。2007年3月、雲南省博物館にて撮影。
牛を筆頭に馬、羊、豚、犬、それに鶏の「六畜」。祥雲の墓から出土、戦国時代。

祥雲県大波那の墓
  そしてもうひとつ、海地区に属する祥雲県大波那の墓が注目される。ここで発掘された重さ257キロもある青銅鋳造の棺(写真上左)は、中国では最も古く、最も大きいものである。高さ79cm、長さ243cm(底の部分は198)、幅76cm(底の部分は63)。大量の銅を使用、しかも高度な鋳造技術をもっていたことが知れる。写真(上右)は家畜を造形したもので、「六畜」と呼ばれるものの一部。戦国時代の作で芸術的価値が高い。見ごたえのある出土品は現地の博物館には無く、昆明博物館に展示されていた(銅棺と六畜)。

  祥雲県の墓の副葬品中には武器と農具が多く、剣、矛などの形は楚雄のものと同じである。


大国と大国の狭
  先の考古学者・劉弘は楚雄の墓から出土した各種の青銅器総数900点近くを整理分類し、早晩2期に時代区分する。「早期墓から出土した器物は海地区青銅文化の要素をより多く有し、晩期は文化の要素が顕著であるが、器物の諸相は器形、紋飾、工芸水準のどれもが正統な文化(李家山、石寨山墓の出土品)に比べて原始的である」(同書)と論じている。

  楚雄一帯は、強い力を持った東の池地区と西の海地区に挟まれていた。両者が戦争をするときは、常に戦場となった可能性が強い。そして文化的にも、両者の影響を受けたことが分かる。双方の交流は戦時、非戦時を問わず、頻繁に行われた。西南シルクロードが緬公路となり、さらに高速道路に変わっても、楚雄を通らないわけにはいかない。雲南省の地形は迂回することを許さないのだ。


考古学VS司馬遷
  楚雄と祥雲の墓からの出土品は、当時の実態を雄弁に物語る。大量の青銅製の農機具が発見されているし、六畜がそろっていて家禽飼育業もかなり発展していたと思われる。現代考古学は、司馬遷のリポートにある「昆明国の人々は辮髪を結い、遊牧の生活を送る」のうち、<遊牧>を否定するのである。つまり、「遊牧ではなく、農耕定住だった」。漢代にあっては、この地帯は「蛮夷」と呼ばれた。中原から見れば、どうしても低く見ると言うのが時代意識であったろう。司馬遷は誤った伝聞を記録したのだろうか。私たちは複雑な気持ちで、楚雄の大きな博物館を後にした。


博物館は傾斜地にあり、楚雄市が一望に。雲南省は今後の考古学的発掘が期待される。



頁先頭次へ