サイトマップ   ホーム > 活動報告 >西南シルクロード紀行


『西南シルクロード紀行』 -第17章-


第17章 岷江(びんこう)を下る


参考資料
 1992年9月23日、NHKスペシャル『謎の仮面王国・古代揚子江文明を探る』が放映され話題を呼んだ。そして1998年4月、東京・世田谷美術館において『三星堆 中国5000年の謎・驚異の仮面王国』展が開かれ、やがて京都、福岡、広島と全国をまわることになる。この二つの出来事に前後して、三星堆遺跡に関する本が出版された。

日本で出版された本のタイトルには、すべて<謎>の文字がつく。


 いま私の手元に6冊の本がある。日本で出版されたもの4冊、中国のもの2冊を年代順に並べてみる。
①1993年『謎の古代王国・三星堆遺跡は何を物語るか』NHK出版
②1998年『長江文明の発見・中国古代の謎に迫る』角川選書
③    『三星堆 中国5000年の謎・驚異の仮面王国』朝日新聞社・テレビ朝日
④    『三星堆・中国古代文明の謎 史実としての<山海経>』大修館書店
⑤2002年『三星堆・古蜀王国の聖地』四川人民出版社
⑥ 『三星堆博物館』四川少年児童出版社


四川省関係者
 ①~④まですべてに徐朝龍氏は深く関わっていて、②、④の著者であり、①の監修・共同執筆者、③の監修者のひとりである。また中国側では、③、⑤ともに四川省文物考古研究所の馬家郁(所長)&陳徳安が監修者あるいは著者となっていて、すべて四川省関係者なのだ。内容はどうしても<三星堆青銅器の独自性>に力点がおかれることになる。

  ①の「あとがき」で徐氏はこう述べている。「自分の故郷における絢爛たる古代文明を紹介することができるのは、<蜀>で生まれ育った筆者にとってはこの上なく嬉しいことである。故郷への限りない愛情が、謎の文明を解き明かし、歴史の真の姿を復元する挑戦に取り組む私の原動力である」。考古学には郷土愛が付きまとうものらしい。

 私は個人的に徐氏の研究成果と文章力を大いに評価しているのだが、「三星堆遺跡に関する資料」が彼の著作しかないというのが不満なのである。例えば、講談社から<中国の歴史・全12巻>が出され、第1巻『神話から歴史へ』、第2巻『都市国家から中華へ』(ともに2005年に刊行)を注意深く見ても、前者では2ページ、後者では「無文字のせいもあって<わからない>ことが多い」とのコメント付きで、数行の記述しかないのである。一読者としては専門家が三星堆文化をどう見ているのかどうしても知りたいと思うのだが、多くを語ってくれない。


盉(か) 高さ34cmの土器で、黄河中流域の二里頭文化の中に頻繁に見られるもの。飲酒儀礼に用いられた。


「三星堆文化の系譜」
 ③のなかで「三星堆文化の系譜」を書いている監修者のひとり岡村秀典氏(京都大学人文科学研究所教授)は努めて客観視しようとしている。三星堆遺跡から出土した青銅の仮面や人頭像は殷・周青銅とは全く異質であり、三星堆文化の独自性を認めたうえで、しかし、それは黄河中流域の中原地域から孤立していたものではない、と断言する。

  土器の写真を見ていただきたい。「三星堆遺跡の居住区から出土した土器のなかで、袋状の三足をもつ盉(か)と高い脚をもつ豆(とう)とは、中原の二里頭文化前半期に特徴的な器形である。中原のものにくらべて、大型で粗雑なつくりであるが、中原の二里頭文化に起源することはまちがいない」と解説している。ちなみに二里頭文化とは洛陽の東約30キロの地で発掘された殷前期ないしは夏王朝晩期(紀元前2000年頃)の遺跡を標準とする文化を言う。


古代の酒器
 古代の儀礼には飲酒がともなう。中国の酒といえば白酒を想起するが、蒸留法が一般化するのは12世紀頃からで、古代の酒は穀物からつくる醸造酒であった。

  「酒を温めて注ぐ盉は、袋状の三足と把手をもち、蓋に酒をいれる大きな口と管状の小さな注ぎ口がある。酒に薬草を混ぜて煎じたり、香りをつけるための器」で、山東龍山文化(紀元前2300年頃)に起源がある(岡村秀典『中国文明・農業と礼制の考古学』より)。

玉の戈(か)「2号坑」より出土。もともと武器で、矛(ほこ)と同義。玉の場合、宗教儀礼に用いられたと思われる。長さ24cm。 玉璋(ぎょくしょう) 儀礼用の道具で、元は石包丁だったと思われる。模様が面白いので部分アップで撮影したが、縦30cm、幅6cmのもの。三星堆遺跡で璋の出土数は圧倒的に多い。


二里頭文化
 玉戈(ぎょくか)も二里頭文化にはじまる、と言う。三星堆一号坑、二号坑の玉戈に近い例として殷墟5号墓の玉戈があるし、一号坑から40点、二号坑から17点出土した玉璋(ぎょくしょう)も二里頭文化に起源するタイプである。そして次のように結論づける。「三星堆の文物には、中原に源流のあるものが多くふくまれ、ほかにも長江中・下流域と関連するものがあった。そして、玉器や青銅容器類は、その源流こそ中原に求められるものの、三星堆のなかで独自に変容していることが明らかになった。」

石の壁(へき) 三星堆では玉製でなくほとんど石製。祭儀用というより、むしろ度量衡用ではないかと言う説もある。


デジカメ
 三星堆博物館では館内での撮影は自由なのである。観光客の多くは青銅の仮面や人頭像の前に並ぶ。玉器や土器の陳列台は人影もまばらの状態なので、じっくり撮影できるのが嬉しい。出土品を撮影するときは、次のカットで説明書も撮影しておくことが大切。メモを取るよりも早いし、間違いがない。デジカメ抜きの取材は考えられない。

三星堆博物館にあった西南シルクロード地図。


南方か西南か
 三星堆博物館に「南方シルクロード」の地図があった。地元の四川省、雲南省では「シルクロード」よりも数百年(あるいはもっと古い)早く使われていた道だからと「南方シルクロード」の名を使用する場合が多い。そしてドイツの高名な地理学者リヒトホーフェンが130年も前に「絹の道・シルクロード」と命名した<西安~河西回廊~中央アジア>のルートを「北方シルクロード」と言って区別している、郷土愛だろう。私は日本から眺めているし、司馬遷に敬意を表して「西南」が適切だろうと考えている。

四川盆地を中心に多くの遺跡発掘がすすんでいる。


成都平原
 三星堆に別れを告げ、路線バスで成都へ帰る。16章で軽く触れたが、四川盆地では数多くの遺跡が発見されている(写真参照)。なかでも土地が肥沃な成都平原に集中しているのが分かる。西側の山岳地帯から流れ出す岷江、沱江が扇状地を形成し、この地ではかなり早くから農耕社会が発達したものらしい。『中国の考古学』(同生社)によれば、「この成都平原には、面積にして十数万から60万㎡ほどの城郭をもつ大型の集落が、20km前後の距離をおいて5ヶ所で発見されている」。それらの遺跡は黄河流域の龍山時代(紀元前3100~紀元前2300年)に相当する。都江堰、成都、三星堆の旅はまさに「古代蜀の国」のなかをうろうろしていたことになる。


成都
 20年ほど前は雲南省への国際便はなく、成田から成都へ飛び、国内便に乗り換えて昆明へ行くという時代だった。成都は中国奥地への玄関口だったから、何度か訪れている。一番印象に深いのは、レンタサイクル(出祖自行車)を一日借りて走り回ったことだ。大きな毛沢東の像、武侯祠、杜甫草堂、陳麻婆豆腐店。これらは今でも存在する。しかし、建物が変わり、交通事情が変わり、成都の街のたたずまいが変わってしまった。ぜんぜん変わらないのは武侯祠の中だけではないかと思える。市政府庁舎前の巨大な毛沢東像は今でもあるそうだが、昨年も4年前も見る機会がなかった。20年前は市の中心・シンボルと言った感じだった。

『三国志』と言えば諸葛孔明。劉備玄徳とふたりを祀った武候祠入り口。日本人観光客も多い。


蜀の国の都
 成都の街の歴史は長い。今から2400年ほど前に古代蜀の都となり、成都と名づけられた。以来、名前が一度も変わらない都市は中国にはないのではないかと思われる。そして成都の名を有名にしたのは、『三国志』の劉備(161~223)・諸葛孔明(181~234)のコンビだろう。劉備が国王を名乗り、成都を都にしたのである。日本では女王・卑弥呼が魏に使者を送った(238年)時代である。

諸葛孔明の塑像。蜀の軍師。天文・地理・人情に通じ、智謀は超人的。奇抜な作戦で人を驚かし、合戦に勝利する。
劉備玄徳。義兄弟の関羽・張飛、それに名参謀・諸葛亮の助けを得て勢力を伸ばし、やがて蜀の皇帝となる。



武侯祠
 蜀漢王・劉備玄徳に仕えた宰相として諸葛孔明の名は広く日本でも知られている。最初は劉備を祀った「昭烈廟」がつくられ、6世紀のはじめに孔明の廟が並んで建った。やがて両者は併合され(14世紀)、今でも正門の額には劉備の名がつけられている。しかし、孔明の人気は主君をはるかに上回り、人々はみんな「武侯祠」と呼ぶのである。君主と家臣を一緒に祀る例は、中国でも珍しい。

奥の左にある劉備の墓「恵陵」。高さ12m、周囲180m。皇帝の墓としては質素、いかにも倹約家の劉備らしい。
諸葛亮殿から「恵陵」につづく参道。朱色の塀と竹の葉の緑が美しい。


杜甫草堂
 20年ほど前の成都は自転車の波であった。道路は広くなっていたが高いビルは市の中心部だけ、レンタサイクルに乗った私は緑の残る道を走って杜甫草堂にたどり着いた記憶がある。ところがどうだろう、賑やかな街中に堂々たる門構えの<草堂>なのであった。

漂泊の生涯を送った杜甫(712~770)だが、成都で暮らした4年間は最も充実した時期であった。

 4年間この地に住んだ杜甫は、240首あまりの詩をつくった。成都の西の郊外の浣花渓(かんかけい)という小川のほとりは、彼にとってつかの間の安住の場所であったと言えよう。

      絶句    杜甫
江(こう)は碧(みどり)にして鳥逾(いよいよ)白く
山青くして花然(も)えんと欲っす
今春看(みすみす)又過ぐ
何(いず)れの日か是れ帰年(きねん)ならん


浣花渓(かんかけい)の渓は広くて深い川のこと。現在は小川だが、1300年前は水量が豊かな流れだった。

 江とは成都の南側を流れる錦江のこと、浣花渓は錦江の上流にあたる。現在の成都市街地図を見ると、中心部の北を流れる府河、南を流れる南河がある。その昔、この南河で織り上がった錦を洗うと、色がいっそう鮮やかになることから錦江とも呼ぶのである。そしてもっと大きな地図で眺めると、2本の川は都江堰の内江の分流である(第15章参照)ことがわかる。岷江から分かれ、成都を取り囲むようにして流れる水はやがて岷江にもどる。

茅屋(ぼうおく)の文字。草ぶきの屋根の家、みすぼらしい家、あばらや。又自分の家をへりくだって言う語。

 大好きな杜甫の詩をもう一首。草堂を建てた翌年(761)の春につくる。

     春夜雨を喜ぶ         杜甫
好雨 時節を知り
春に当たって乃(すなわち)発生す
風に随(したが)って潜(ひそ)かに夜に入り
物を潤して細(こまや)かにして声無し
野径(やけい)雲は倶(とも)に黒く
江船 火は独り明らかなり
暁に紅の湿(うるお)える処を看れば
花は重し錦官城(きんかんじょう)

武侯祠と杜甫草堂を訪れた後、新華書店で資料を2冊買い求め、その夕べは麻婆豆腐を食す。


鄧廷良著『西南シルクロード』四川人民出版社 2002年
山椒の辛さで舌、唇が痺れてしまう。「陳麻婆豆腐店」本店はいつ行っても客でいっぱいだ。


岷江コース
 いよいよ西南シルクロードの出発地点に立ったことになる。成都からインドへ向かう道はふたつ。ひとつは陸のみち(霊関道)、もうひとつは水上のみち(岷江~五尺道)である。水路・岷江コースを検証しよう。

岷江地図。

 四川省と甘粛省の境にある岷山山脈に源を発し南に流れる岷江(びんこう)は、楽山で青衣江、大渡河と合流し、宜賓でさらに金沙江と合流、名を長江と変えて海に注ぐ中国第一の大河だ(地図参照)。岷山の源から宜賓まで全長735km、四川省を流れる川の中で最も水量が豊富である。戦国時代の『尚書』禹貢(うこう)に「岷山導江 岷山より長江を導く」としるされていて、中国では2000年以上も前から岷江が長江の源流と考えられていた。金沙江のさらに上流が長江の源であると確認されたのは、つい30年ほど前のことである。

都江堰から岷江上流を望む。08年5月の四川大地震の震源地に近く、復旧はすすんでいないという。

 都江堰から先を上流、都江堰~楽山を中流、楽山~宜賓を下流と呼ぶ。上流は高山峡谷を激しく流れ、中流は成都平原を網の目のように分流して潤し、下流は水量増大して船便は年中休むことがない。これは『中国大百科全書』中国地理からの要約だが、蜀の時代も変わらなかったと思われる。

9月10日、朝から小雨、流れが速い。楽山市は成都の南164kmに位置する。水陸交通の要衝である。


楽山へ
 夏(6月、7月)は雨季なのである。11月まではゆっくりと水量が減少し、その後は急速に減少する。青衣江、大渡河と岷江が合流する楽山の夏は水が溢れて渦を巻き、船の難所と化す。私が訪れたのは昨年(07年)9月だったが、流れは速くまさに満ち溢れんばかり。一つの川でさえ水量は多くなる時季なのに、さらに大きな流れが二つも加わるのだから無理もない。

岷江の東岸から対岸にある楽山市区を写す。左側は雨に煙る大渡河。中央の高いビルは「観仏楼」だと思われる。

大仏の頭部は山と同じ高さ。坐像の高さは71mと巨大なので、船からでないと写真に収めきれない。
足の寸法は8.5m,足から膝までの高さ28m。両足の甲には大人100人が余裕で座ることができる。


大仏
 楽山といえば大仏で名高い。世界最大の石仏で、世界文化遺産に登録されている。岷江の東岸、凌雲山の絶壁に彫られた弥勒(みろく)坐像で、凌雲大仏ともいう。唐の開元元年(713)に僧の海通が着工し、90年の歳月を費やして完成させた。

頭の寸法は縦14.7m、幅10m、肩幅24m、目の長さ3.3m、耳の長さ7m。耳の中に2人立てる。


 私は観光名所の説明をしようとしているのではない。この楽山に15章で詳しく述べた李冰(りひょう)が深く関わっていることを述べたいのだ。二つの地図を用意した。現地で撮影した案内図(右)、もう一つはガイドブック(左)。写真右は光って文字が読みにくいけれどやや正確。写真左は、デフォルメし過ぎているが位置関係などが分かりやすい。注目して欲しいのは大仏のある凌雲山と烏尤山(うゆうさん)の間である。ふたつは大橋で繋がっているが水路であり、これが李冰の仕事なのである。

まず青衣江が大渡河と合流し、それから大渡河が岷江と合流する。中州の鳳州島は水路と相対するのが正しい。 「案内図」。大仏のある凌雲山と烏尤寺の間にある水路は2200年前の土木工事で掘られた、という記録がある。


離堆(りたい)
 離堆 「大渡河・青衣江・岷江の合流点にあたり、急流をなし、舟航には危険が伴った。戦国時代の秦の昭王(在位紀元前306~前251)のとき、蜀郡太守の李冰が治水のために凌雲山と烏尤山の間(現在の麻浩口のところ)に水路を開削して流れを分かち、舟航の便をはかった。」(『中国名勝旧跡事典』西南編)

遊覧船から撮影した烏尤山(うゆうさん)。左側に麻浩(まこう)乗船場と大きな橋が見える。

「離堆」と言う文字は都江堰の章でも登場した。凌雲山と烏尤山は連なっていたが、大渡河の流れの激突を避け水を通すために切り離したのだ。離れ小島となった烏尤山には、漢代、唐代、宋代の寺や碑が残る。なお工法は熱した岩に水をかけて冷やし、岩盤をもろくして削る。そうした作業を繰り返して、山を水路に変えたのである。この工法は岷江だけでなく後に「五尺道」でも用いられることになる。山を崩して道を開くのである。


李冰(りひょう)
 『華陽国志・蜀志』には、都江堰以外にも李冰が楽山と宜賓において工事を行ったことが記載されている。ここで我々は李冰の業績を褒め称えたうえで、彼にそう命じた秦の孝文王と当時の政治状況を考えなければならない。単に農産物を増やすために、あるいは舟の事故を防止するために大工事を命じたのではないであろう。秦と楚の国境は接しているが高い山脈で隔てられていた。秦は最大のライバル楚の国を攻めるためにまず蜀を落とし(前316年)、軍用道路たる岷江(上流)=長江(下流)の整備を行っていたのである。穀倉地帯にかえ、兵糧を潤沢にする意味も大きいが、西から楚を攻めるには岷江の舟運が重要なのである。水上交通というより高速軍用水路であり、それに合わせた造船技術もかなりの水準に達していたことを想像させる。

関連事項を整理してみる。
前250年  李冰、蜀郡の長官に任命される
前250年頃 李冰、都江堰工事開始
前230年頃 李二郎、都江堰工事完了
前224年  秦が楚を滅ぼす
前221年  秦始皇帝、中国統一

大仏に隣接する凌雲寺のなかのひとつ。創建は唐代であるがすたれ、現存するのは明・清代ものである。
大仏の右手が見える。至るところに仏像があり、まさに「山は仏、仏は山」である。善男、善女がやってくる。


舟運
 もう一度、岷江の地図を見て頂こう。楽山あたりからは丘陵地区になり、宜賓へ入る古道はいろいろあるようだ。しかし、「民間伝承や古籍、および文物を調べてみると、東線コースは、どうやら岷江を下る水路であった」(鄧廷良『謎の西南シルクロード』)。三星堆遺跡から出土した青銅器の成分分析の結果、銅の産地は会理、東川であり、鉛の産地は永善であることが判明した。「それぞれの

 含有量はかなり低く、選別するときに大量の夾雑物を除去しなければならないので、多くの人出と資財が必要」であった(冒頭③の『三星堆』より)。大量の鉱石を運ぶには水運が便利なのは明らかであろう。楽山付近は夏期を避ければ安全なのだから。川とともに生活をしてきた蜀の国の人々が船を操るにたくみであったことは容易に想像できる。難所は一時的に陸路をとればいい。

 約5000年前の良渚遺跡(長江下流)から長さ約2mの木製の櫂が発見されているし、『周易』(前1000年頃)には「木を穿って舟をつくり、木の棒を削って船を漕ぐ櫂とした」の記述がある。西南シルクロードを旅するのは個人ではない、厳重に警備をした隊商である。成都から宜賓まで約350km、船便を利用したら2~3日もかかるまい。安全さえ確保できれば陸路を選ぶはずがないではないか。



難民、南へ
 この西南シルクロードは、当然のことながら蜀布、鉱石、兵器だけでなく仏教、習俗、美術なども運ぶ。そして時には大勢の難民も運ぶ、秦に滅ぼされた蜀の人々は、生贄や奴隷にされるより岷江の流れに身を任せるに違いないのである(秦の昭王は大量の殺戮を行い、領土を拡大するたびに斬首、生き埋めにした数100万という記録がある)。

目の前は激流という麻浩湾上の崖にある後漢時代の墓。数多くの出土品は古代社会の文化、歴史の貴重な資料である。


麻浩崖墓(まこうがいぼ)
 崖墓(がいぼ)と呼ばれる変わった風習、切り立った岩山を穿ってつくられた墓のこと。四川省と雲南省の一部に見られる。山や崖を敬った神仙思想によるものか、盗掘を防ぐ為のものか、理由は定かではない。後漢~南北朝期(およそ500年間)にかけて盛行した墓制で、岷江や嘉陵江など長江上流域の岩壁に多いのである。その代表格が楽山の凌雲山にある麻浩崖墓で、漢の宮廷様式を学んでいる。天然の赤い砂岩を掘り、洞内は広く、深さ数十メートルのものもある。なかに高さ37cmの仏像があり、一部には「これこそが中国最初の仏像であろう、西南シルクロードを経由してビルマから伝来した」と唱える学者もいる。

第8章でご紹介した懸棺の一例。崖であることに変わりはないが、目の前は田園である。

宜賓へ
 青神県あたりから宜賓周辺まで岷江の両岸は丘陵地帯の岩が連なり、その数一万を越す崖墓(あるいは岩墓、民族岩墓とも呼ばれる)が見られるという。宜賓の西、あるいは南に、宋や明時代の崖墓が多い。ここまで来れば賢明な読者の皆さんは気づかれるに違いない、第8章の懸棺葬と似ているのではないか、と。秦に滅ぼされ、遁走してきた<蜀人>が宜賓周辺、あるいはさらに南(雲南省の一部)に住みついた。彼等が漢族墓葬をまねて築いた、という説がある。

雲南省の西北部を流れる金沙江。崖に阻まれ、急角度で流れを変える場所<長江第一湾>は、川幅も広く、穏やかな流れになる。諸葛孔明の軍もここで渡河した。

雲南省の麗江市上空から撮影した金沙江。ここから東北方面に大きく流れを変えて四川省へ向かう。撮影・佐藤宏孝

宜賓市内の金沙江。急峻な山岳地帯から抜け出して、ゆったり流れる泥の河。間もなく長江と名を変えるはずだ。


金沙江
 宜賓で岷江と金沙江が合流して長江となる。金沙江は写真だけでご紹介しよう。そして李白の有名な詩を詠んで幕を閉じることにする。

      峨眉山月の歌    李白
峨眉山月(がびさんげつ)半輪の秋 
影は平羌江(へいきょうこう)の水に入りて流る
夜に清渓(せいけい)を発して三峡に向かう
君を思えども見えず渝州(ゆしゅう)に下る

 平羌江は楽山大仏の合流地点から北へ、つまり岷江の数キロ上流の部分を言う。沿岸に旧跡が多いことで知られる。平羌江の東岸に板橋渓という町があり唐代には清渓駅と言った。渝州は現在の重慶市、三峡はさらにその下流。

 李白の傑作中の傑作と言われる詩。李白25歳(725年)、故郷・蜀を離れるときの作(荘魯迅『李白と杜甫 漂泊の生涯』)だとすれば、僧・海通が大仏の建立を始めて8年目ということになる。李白を乗せた船は宜賓に停泊したはずである。李白はそのまま船にのって長江を下るわけだが、私たちは陸路「五尺道」
に向かわなければならない。

右から泥の河・金沙江が、左から青い水をたたえた岷江が握手をする。長江はここから東シナ海まで流れ落ちて行く。



<連載を終えて>

2年間のお付き合い有難うございました。技術的なことはすべて前田種雄さんにお願いしました、この機会をお借りしてお礼を申し上げます。

なお来年3月、朝日出版社から『西南シルクロード紀行』として出版される予定です。


頁先頭目次へ