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『西南シルクロード紀行』 -第5章

                                                                 


第5章 心優しい「五尺道」の雲助


冒険旅行? 


 <往復で料金20元>と交渉が成立、三輪タクシーは猛烈な勢いで走り出した。工事中の砂利道で、道幅は広いので崖下に転落すると言う心配はないのだが、道は凹凸があるので上下動が激しい。座席は幌付き、4人が向かい合って座れるようになっているけれど狭い。

 通訳の「ガオヤン」こと近藤高陽氏(雲南民族大学留学生・大学院4年生、歴史専攻。高陽の中国風発音で、響きがいいので友人たちはこう呼ぶ)と必死に鉄枠を握り締める。

 時々平坦な村道を走ることもあるが、基本的には山岳地帯の国道、つまり高速道路の建設現場をスピードを緩めることなく突っ走っているのであった。お尻が痛いどころではない、怪我の恐れさえあるのだ。66歳の身にはいささかこたえる。

塩津から約20キロ南西、国道沿いに『豆沙鎮』の標識がある。タクシーはここまで。豆沙村までは三輪タクシーの営業範囲。 三輪タクシーの運転手、洪永林さん(36歳)。最後はやさしいところを見せたが、値上げ交渉の技術はしたたか。かなわない。

雲助

 悪路の砂利道。上りあり、下りあり。大きな道路の橋げたを建設中の作業員4,5名に呼び止められて、ストップした。停まるとほっとする。運転手はなにか早口でしゃべっている。また走り出した。20分ほど経ったのだろうか、すごく長い時間に感じられる。

 突然、三輪タクシーが停車した。近くを川が流れ、見ると家も数軒ほどあり、山側に砂利がうずたかく積んである開けた場所だ。ガオヤンが言う、「運転手は道を間違えたと言ってます」。何ということだ、プロの運転手が道を間違えたなんて、嘘に決まっている。「そして、案内料も含めて50元にしてくれと」。五尺道の雲助じゃないか。

 くもすけ[雲助・蜘蛛助]
①江戸時代、街道の宿駅や渡し場などで、荷物の運搬や駕籠かきなどを仕事としていた無宿の者。
②人の弱みにつけ込んだり、法外な金銭を取ったりする者をののしっていう語(『大辞泉』小学館)。

 目の前の運転手は、若くて、男前だがいかにも強そうに見えた。喧嘩になったらこちらは2人だから負けることはないだろうが、こんなところで決裂し、放り出されたらお手上げだ。しかし、言いなりになるのも腹立たしい。

 時計を見ると午後3時15分。五尺道を取材するために、私たちは昨日の午前10時、昆明飛行場を飛び立ったのである。昭通(しょうつう) 市まで飛び、ホテルに1泊。今朝9時25分昭通始発の快速に乗って、塩津(えんしん)北駅12時20分着。昼食の後、タクシーを雇い45分走り、さらに三輪タクシーに乗り換えて、豆沙(どうさ)村へ行こうとしている。ここまで1日半、費用は約2000元ほど使っている。いまさら30元を惜しんで、決裂するわけにはいかない。ガオヤンと相談して、呑むことにした。
 


豆沙村

 交渉は50元で決まり、「雲助」の言いなりに引き返すことにした。30元の出費より時間の浪費が惜しい。

 本当に知っているのだろうか? 村人が一人乗り込む。運転手は「後ろの座席は弾むので、運転席のすぐ後ろの鉄枠に腰掛けろ」という。なるほど、そのほうが上下動は少ない。その際、気がついたのだがデイバッグに差し込んでいたペットボトルが無い。激しい上下動のせいで落ちてしまったものらしい。それほどすさまじいのだ。

 同じ道を引き返している。必死の思いで、鉄柱にすがりつきながら彼の耳元でどなる。「五尺道はどこにある? 本当に知っているのか?」彼は「大丈夫」と答える。途中、村人が降りた。そしてまた激しく揺れた。

 ガオヤンが「道が変わったようです」という。彼のほうが冷静に見ていたようだ。行く手に古い家並みが見えてきた。これならわかる、いままでは一貫して国道の工事現場のなかだった。やがてストップ、ここが豆沙村の入り口だった。



日本流に言えば<中仙道の宿場町>とでも言おうか。そういった風情の豆沙村。古い遺跡で村興しをしようという商魂も見せるが。 築何十年の建物だろうか。いまにも倒れそうだが、勿論いまでも人々は生活している。開発からは取り残される運命の村である。

  幅5メートルほどの道があり、左右に崩れかけた木造家屋が連なる。ときにはモルタル作りの店舗がある。ふつうに良く見る田舎の村で、電気屋があり新しい洗濯機が売られている。店の奥でテレビが放映されているのが見える。

 運転手(彼の名は洪永林といい、36歳)が盛んに挨拶をしている。声が返ってくる。国道沿いにある標識『豆沙鎮』とこの村を往復する「三輪タクシー運転手」が彼の職業なのである。だから知り合いもいるし、村人も時にはお客さんになるわけだから愛想を振りまいているのだった。 

石門関

 150メートルほど家並みが続き、尽きたところに「石門関」があった。左側が深い峡谷で川を隔てて対岸にも岩壁がそびえる。

 山道は険しく、右側も絶壁。遠くから眺めると、左も右も断崖絶壁でまるで石の門のように見えるところから「石門関」と呼ばれた。ここに古道・五尺道が生き残っていた。しかも現役として立派に機能して。

 少し進むと、関所が復元されて建っていた。子供たちが2,3人遊んでいた。


復元された石門関。いつの時代の関所跡であろうか。百年前の記録では「苔蒸し草茂る」とあり、15年前の写真では何もなかった。(画像clickで拡大画像) 村人たちがさかんに行き来する。秦の時代は「五尺」だったというが、それよりは広くなっている。何度か作り直したのだろう。(画像clickで拡大画像)

五尺道

 1尺の長さは日本でいえば30.3センチだが、現代中国では33.3センチ。もともとは中国から輸入した長さの単位である。ところが時代とともに変わるのだ。前漢時代の1尺は22.5センチしかない。正確に言えば5尺道は1.125メートル幅ということになる。

 私たちが撮影している間、村人、籠を背負った農婦、学校帰りの小学生が通る。大きな石を並べただけの素朴な石段。昔は兵隊たちが往来していたに違いないし、驢馬が荷物を運んだ通商の道でもある。石は丸みをおびて、光っていた。



この部分は崖が迫っていて、本当に幅が「五尺」しかなさそうな階段。歴史的にみると軍事目的に使われたことが多い道である。(画像clickで拡大画像) 「山高く谷深し」が実感できる。逆に言えば、この険しさがあるからこそ石門関は2000年以上生き続けて、今も現役なのである。(画像clickで拡大画像)

 登りの急な石段の先にあずまやが見えた。唐碑亭(とうひてい)に違いない。私たちは洪さんと共に大きな寺院を訪れた。穏やかな午後の日差しの中で尼さんが農婦と話をしている。石門関へ引き返し、もう一度シャッターをおした。

唐の時代に、岩壁に書を刻み残した袁滋(えんじ)を記念して建てられた「唐碑亭」。
岩壁の書そのものが歴史的に貴重な資料。

約束の時間

 あまり長居はできなかった。帰りのタクシーが国道の標識・『豆沙鎮』のところで待っていることになっていた。約束の時間は4時半。もうとっくに過ぎている。

 タクシーのチャーター料は100元。最初に50元渡し、「ホテルに帰った時点で残額50元」とガオヤンは主張したのだが、運転手は「全額、今欲しい」と譲らず、もう既に100元支払い済みなのである。あまり遅れると、運転手は帰ってしまうかもしれなかった。<石門関・豆沙村>は魅力にあふれ、もっと記録しておくべき風景がたくさんあった。あの雲助が余計な策略を使ったために、時間を無駄にしてしまったのが悔やまれてならない。


「民宿・五尺道」の看板。ほかに「民宿・シルクロード」もあった。前途多難ではあるが、観光で生き延びようとたくましい。 学校帰りに乗せてもらった少女。恥ずかしそうに、ひとことも口を利かなかった。外国人には厳しく、村人に優しい三輪タクシー。

 遥か下のほうを列車が走っている。午前中に利用した鉄道で内昆鉄路という。おそらく昭通方面へ向かうのだろう。平行して流れる河は横江といい、四川省に入って金沙江(きんさこう)と合流する。

 私たちも帰らねばならない。ふたたび家並みを通り抜けて、停めてあった三輪タクシーに乗り込む。

 帰りは余りとばさない。口笛を吹きながら運転している。途中、歩いていた女の子を見かけて、停車した。学校帰りの小学生だった。声をかけると、彼女が乗ってきた。数百メートルほど走って、女の子は降りる。雲助こと洪さん、同じくらいの子供がいるのだろうか、やさしい父親の表情をしていた。

 国道に着いたときは5時をまわっていた。30分以上の遅刻だが、タクシーの運転手はハンドルに足を乗せて睡眠中だった。

私たちは30分以上遅刻したが、タクシーは待っていてくれた。「謝謝」。
そのかわりチップとして30元、要求された。やむを得ない。


 

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