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『トルコ紀行
                                                                 
竹山 文士

第3章 ついにエフェス遺跡にたたずむ



10.イズミールへ


 12月8日。快晴。今日は午後1時のフライトでイズミールへ立つ日だ。イズミールはイスタンブールから飛行機で一時間、地中海に面したトルコ第3の都市である。近郊にエフェスやベルガモなどのギリシア・ローマ時代の古代都市遺跡のあることで知られ、観光の拠点ともなっている。僕の旅の後半のハイライトはエフェス観光だ。少年時代からエーゲ海に面した丘の、大理石の列柱の遺跡の写真を見るたび、古代の風や光や人々を思い浮かべ、いつの日か行ける日が来ると信じていた。その日が実現するのだ。

 この日はこれまでとうって変わって晴天となった。カモメの飛ぶブルーモスクに朝日が当たり、マルマラ海が煌いている。それはイズミールへの旅を祝福しているようであり、心が浮き立つ思いだった。

 パッキングを済ませ、10時半にチェックアウト。ゼラに、「しっかりジョン・ダン勉強しろよ。大学にも行ったほうがいいよ」と言うと、「なぜ?」と思案顔に訊く。「年取ってから、あの時勉強しておけばよかったと必ず思うものだよ」と答えると、素直に頷いた。握手をして別れる。質素だったがいいホテルだった。

 初日に来たときは迎えの車を頼んだが、もう交通事情はわかっている。トラムと地下鉄を乗り継いで、一時間弱で空港に着いた。空港の建物の中に入るとき、厳重なチェックを受ける。自動小銃をもった兵隊たちも巡回している。そうだ、この国はいまクルド族と交戦中なのだと思い、身を引き締める。


 飛行機は定刻出発、短時間のフライトには珍しく、うとうととする。眼が覚めると妙に疲れている。後になって考えてみるとこの時から旅の後半の暗雲は立ち込めはじめていたのだ。「変だなぁ」と思いながら窓外を眺めると、眼下に乾いた小アジアの大地が広がっていた。午後2時着。待機していたバスに乗って市中に向かった。丘の斜面を埋め尽くすように見渡す限りレンガ色の屋根が広がっている。その合間にオリーブの林が点在している。道には馬が荷車を引いている。人々の風貌はイスタンブールと異なって、(行ったことはないが)ギリシアやクロアチアを思わせる。一言でいってイスラム色がない。ここは地中海世界なのだと思う。

 イズミールの宿はユムコグルホテル。インターネット上のこの街のホテルのホームページはトルコ語版しかなく、予約は東京の代理店を通じて行った。一泊朝食付きで、8000円。バスタブも電話もついた立派な部屋だ。チェックインのとき、現地の旅行会社が催行している翌日のエフェスツアーを予約した。英語のガイドつきで65ユーロ(約一万円)。


11.暗転

 ホテル・スルの部屋には電話がなかったから、到着初日に電話をして以来、東京の自宅とは連絡をとっていなかった。心配しているかも知れないと思い、早速電話をする。すると、家人から驚きの知らせが伝えられた。Iさん逝去の葉書が届いたというのだ。

 Iさんは、僕がこの9月まで勤めていた会社の元同僚で、年上ではあったが、もっとも親しい友人の一人でもあった。先代社長の郷里の出身で、そのつてで入社したのはもう40歳半ばを過ぎていたろうか。社会経験もそれに伴う労苦も十分味わってきた人であろうのに、軽妙で、さばさばした人柄が好ましく、15歳近い年の隔たりを超えて友人付き合いをしてきたのだった。世事に疎く、単細胞の僕に色々と世話をやいてくれたのもIさんだった。おかげでこんな僕でも会社の経歴をなんとか積み重ねることができたのだ。一緒にシンガポールに出かけたこともある。初めての海外旅行で、飛行機のサービスの酒に酔ったIさんが、外国人女性アテンダントが通りかかるたびに、「ユウーアービューウティフル!」「アイラブユー」と連呼するのを、必死で止めたこともある。もっともあまりに発音がひどいので、彼女たちには全く通じていなかったが。

 Iさんは数年前に退職した。その直後大腸癌が見つかり、手術をしていた。入院中は子どものいないご夫婦のことを思って何回か見舞に出かけた。しかし、僕の会社が金融不況のあおりをくらって経営危機に陥ってのち、長いトンネルに入ってからは僕自身に精神的余裕がなく、Iさんとは会うことがなかった。それがこの11月初め、突然電話がかかってきた。妙に高揚した語り口で一方的に話し続け、「元気でな」と電話を切った。それが最後だった。今思うとあれは別れの挨拶だったのだ。交友を絶っていた自分が責められる。

 ホテルの電話の受話器をおいた後、しばらく茫然とベッドの上に座っていた。そのうち、妙に平衡感覚がなくなり、ベッドの下に転落した。幸い怪我はなかったが、この時から明らかに暗雲は僕の頭上に厚くたれこめていたのだった。

 部屋にいても仕様がない。街に出て気分を転換しようとホテルを出る。海に向かって歩くが、しかしIさんのことが頭から離れない。Iさんは電話のとき自分の死期がすぐそばに迫ってきていることを知っていたのだ。最後はどんなにか辛かったろう。イズミールの海を見渡す海岸に出た。しかし心は重く沈み、あまつさえ現実感覚がなく、地軸が歪んでいるように感じる。ホテルに戻る。部屋に入った瞬間、左の眼に鋭い痛みが走った。


12.エフェスへ

 12月9日、旅に出て6日目。左眼の痛みで眼を覚ます。昨夜はティッシュペーパーを水で濡らして眼に当てて冷やした。そうしていると幾分はいいようだった。しかし一晩中Iさんのことを思って輾転反側した。起きてみると疲労感が体中を支配している。しかしこの痛みは何だろうと思う。鏡を見ると、左目は赤く充血している。まあそのうち治まるだろう。今日は何といってもローマ時代の遺跡、エフェスに出かけるのだ。

 高校生のころ、フランスの文学者、アルベール・カミュの著作が好きだった。時代は政治の季節で、学園紛争の波動は九州南部の田舎町のボンヤリした高校生の僕にも押し寄せてきていたが、声高なアジテーションや、党派の論理には近づきにくい思いをしていた。それより、同時代の(政治的な旗印を鮮明にしていた)サルトルと距離をおいたカミュに心ひかれていた。なかでも、エッセイ、とりわけカミュの生まれたアルジェの海岸に題材を採った、潮風の匂いのするようなエッセイを繰り返し読んだ。それは地中海的思想とでもいうべきのびやかさと自由の矜持に貫かれていた。長年、エフェスに代表される地中海沿岸の遺跡に憧れてきたのは、こうしたことが背景にあった。

 ツアーのガイドが、約束の10時を10分過ぎてホテルに駆け込んできた。日本人の目が3つ入りそうなくらい大きな目をした若い女性、名前はスーザン(Suzan)。

 今日のツアー客は二人で、もう一人はポーランド人の女性だった。職業は「バスビルダー」という。何だろうか、と訊くと、太陽熱を利用したバスの運行システムの設計が仕事で、トルコにはプロジェクトのプレゼンテーションで来たとのこと。この日は休日でツアーに参加した。名前は忘れたので彼女のことは、ポーランド嬢と呼ぶ。僕とポーランド嬢とスーザン、それに運転手の男性4名が本日のエフェス観光のご一行様なのであった。

 われわれを乗せた小型のバンは高速道路を一路南下、エフェスへと向かう。道中スーザンがイズミールの歴史について説明してくれる。イズミールの街は紀元前1000年に建設、その後ギリシアの植民地となり、ついでペルシア、アレクサンダー大王のマケドニア、ローマ帝国、ビザンチン、そしてオスマントルコの支配するところになった。支配者が変わるたびに街は破壊と復興を繰り返し、そのたびに建築様式が異なるので、現在は古い建物は残っていない。ただよく検分すると、ある建物が、その前の時代の建築様式の土台の上に建てられていることはよくあるらしい。この近隣にはその起源が数千年遡る街がいくつもあるが、それらの歴史は支配を受けた帝国、王朝によってバラバラなのだという。まったく「万世一系」のわが日本は単純なものである。分りやすくてイイか、とも思う。

 車は降ったり止んだりする雨の中を走る。歴史の説明の終わったスーザンは、今度はトルコの産業について説明する。絨毯、陶器などが有名だが、実は農業が非常に盛んで、全就業人口の40%が農業。とりわけ果物は豊富で、オレンジ、りんご、さくらんぼ、ぶどうなどが多い。そういえば高速道路の沿線にはオレンジの林が眼につく。一時間の走行ののち、車はエフェスへの起点の街、セルチェクに入る。



13.ついにエフェスにたどり着く
 

 紀元前5世紀の歴史家ヘロドトスは「ここ(エフェス)に集まったギリシア人は世界一恵まれた気候と美しき空の下、彼らの都市国家を築き上げた」と述べているそうだが、眼前のエフェスは大雨だった。

 エフェスの歴史は車中でスーザンが説明してくれたイズミールの歴史に重なる。しかし異なるのは、はるかにこの地が歴史上重要な役割を占めていたということである。そのことはこの地を訪れた人物を列挙するだけでも容易に想像できる。天然の貿易港として発達したこの都市はプラトン、アレクサンダー大王、クレオパトラ、聖母マリア、聖パウロ、聖ヨハネ等が訪れる政治・文化の中心地であった。ローマ時代には小アジアの首都となっており、ローマ帝国アジア領最大の都市であったという。

 スーザンがしのつく雨のなか、一つ一つ遺跡の説明をしてくれる。遺跡は丘の上から、かつての港への通りに沿って、神殿、公会堂、住宅、図書館、劇場、浴場、門、商店、競技場と続く。地中海沿岸でこれほど見事に形を留めている遺跡はほかにない。これらはすべて2000年以上前の都市の跡なのだ。自由と芸術を愛した人々の往時を偲び、胸が高鳴る。遺跡の一つにそっと手を当てる。僕はいま古代と接しているのだと思う。



14.娼館の抜け穴 


 港に通じる通りの中頃に2階建ての格調高いファサード(正面外観)の建物が残っている。ケルスス図書館。ローマ帝国のアジア州長官だったケルススの死後、彼の息子が父を祈念して造った。かつてこの図書館には12000巻もの書物が所蔵されていたという。

 その図書館の前で、スーザンとポーランド嬢がひそひそ話をしている。「Brothelなんとかかんとか」とスーザンが言うと、ポーランド嬢は「Brothel?」と聞き返している。Brothel。ポーランド嬢が知らないのも無理はない。僕も従軍慰安婦をめぐる英文報道で初めてこの単語に触れた。「売春宿」の意。ここは格調高いローマ遺跡だから、「娼館」としておくか。その娼館の遺跡が図書館の道路をはさんで斜め前にある。これが娼館だった証拠はあるのかとスーザンに問うと、山ほどあるという。たとえば、通りを下った道路上の敷石に刻まれた娼館の広告。ガイドブックの『地球の歩き方』によるとその意味は「右側の女性像が『女の子が待っている』、その下のお金が『お金を持っておいで』、左上のハートが『心をこめてサービス』、その下の足が『左側』にある」という意味だという。ここは関西弁で「ほんまかいな」と茶化したいところだが、実際には色々な説があるらしい。そしてスーザンは嬉しそうに驚くべき事実を教えてくれた。「実はあの図書館と娼館の間には秘密の抜け穴があったのよ。うふふ。」

 これは驚いた。この格調高いアカデミックの殿堂、ケルスス図書館と娼館の間に秘密の通路があったとは。そんなことガイドブックには書いていない。僕はしばし図書館と娼館の抜け穴をめぐる妄想にふける。どんな男女がその抜け穴をくぐったのだろう。学問を志したギリシア人の若者と娼婦に身をやつしたアジア出身の美少女の恋か、学問に憧れた娼婦と老学者のセピア色のような交流か。あるいは単なる好色な学者の通い路であったか。いずれにしても、眼前の遺跡が急に生き生きとしたものに変化する。

 ツアーはその後昼食となる。食事をしながらスーザンにガイドになった理由を聞いた。彼女はトルコ東部のアゼルバイジャン国境の近くの街で生まれた。ガイドになろうと決めたのは10年前に16歳で初めてエフェスの遺跡を見たとき。わくわくした。アンカラの大学でツーリズムを勉強し、大学院に行くことも考えたが、はやく実地に出たくて今の会社に就職した。イスタンブールのような大きな街で働く気はない。私はエフェスが好き、と彼女は言う。リスのように元気で、よく頭の回る彼女はきっといいガイドになるだろう。ツアーはこのあと博物館や絨毯の工場見学で終わった。 

 いままで触れなかったが、実は昨日からの左目の痛みは引いていなかった。いや、むしろ激しくなっていた。
僕は帰りの車のなかでじっと眼を閉じていた。




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