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『西南シルクロード紀行』 -第1章
                                                                 


第1章 石寨山(せきさいざん) へ向かう


出発

 <『雲南大学賓館』前に朝7時集合>というので6時30分に部屋を出た。昆明での定宿・雲南大学留学生センターは『賓館』(2つ星ホテル)のすぐ近くにある。出発前に、かるく麺類でも食べていこうと考えていた。太陽はまだ昇ったばかりである。中国の西南部に位置する雲南省は初夏の6月というのに、太陽が顔を出すのは遅い。メンバーはまだ誰も来ていない。『賓館』横にある小さな食堂もまだ準備中で、店の前の空き地を従業員が掃きそうじをしている。

 本日の計画は省都・昆明から40キロほど南方にある「石寨山(せきさいざん)遺跡」へ行き、さらに50キロ離れた「李家山(りかさん)遺跡」へ向かうことになっている。参加者は私を入れて5名、それに通訳の陳さん、旅行社が手配してくれた車の運転手の計7名。遅れた人を待つ間、Aさんと簡単な腹ごしらえをした。7時20分出発。


雲南大学構内は広々として、緑が多い。太陽が昇る頃太極拳に集まる人々、子犬と散歩する人を見かける。 雲南の食を代表する米線(ミーシェン)。米粉の麺で、この店は安くてうまい。「開遠地鳥麺」50円。薄味。

地図

石寨山へはどう行けばよいのか、手がかりとなる地図がない。石寨山遺跡のことを最初に知ったのは司馬遼太郎の『街道をゆくー中国・蜀と雲南のみち』なのだが、そのなかで司馬さんも「なにしろ私が持っているあらゆる中国地図に、石寨山も昆陽(こんよう)も載っていないために、関係位置の知りようがない」と嘆いている。

通訳も運転手も知らない。私が日本で調べてきた<中国古代文明・石寨山遺跡>には、「雲南省昆明市晋寧(しんねい)県で発見された、戦国時代末頃から後漢初め頃にかけての墓地。現地までは、昆明市内からバスまたはタクシーに乗り、晋寧県で下車し徒歩30分ほど」と書いてあった。

昆明市内で購入した『雲南省地図冊』(中国地図出版社)を陳さんに渡し、とりあえず晋寧県の中心となる晋城(しんじょう)へ向かうことにした。途中、何度も車を止めて尋ねたが知る人はいない。晋城の町に着き、交通整理をしていた警官に聞いても知らないと言う。ようやく知っている人を捜し当てた、タクシーの運転手だった。しかし「20元出せば教える」と言う。我々の運転手さんが車を降り、たむろしていた若いバイクの男に話しかけている。交渉成立、10元で案内してくれることになった。


石寨山遺跡地図

私の製作した地図を元に説明したい。石寨山は滇池(てんち)の東南の位置にあり、小さな丘といえなくもない。南北の長さが500メートル、東西に200メートル、高さが33メートル。滇池の岸から1000メートルしか離れていない。湖上から眺めると一匹の鯨が横たわっているように見えることから、地元では「鯨魚山」と呼ばれている。私たちが「くじら山へ行きたい」といえばすぐに分かったのかもしれない。晋城鎮から5キロ。

案内人

バイクの先導でデコボコ道を走る。揺られゆられて車はのろのろ走る。豚や水牛や鶏やひよこ、小さなロバから大きめなロバまで道を横切る。黒い山羊もいる。もちろん小さい子供たちが遊んでいる。結構ながい。徒歩30分どころではなく、歩けば1時間はかかりそう。

突然、先導のバイクが停車した。目的地の近くへ来て若い男が「10元を20元にしてほしい。そうすれば最後まで付き合う」と言っているらしい。我々は受け入れた。これ以上車では進めないところで停車した。女たちがなにやら作業している場所を抜け、さらに細い道を20メートルほど登る。

そこに赤レンガを積み重ねた塀で囲われた相当広い墓地状の場所があった。なだらかな丘の頂上部分にあたる。正面には鉄柵があり施錠してあった。これが石寨山遺跡だというのである。なんの標識もない、にわかには信じがたい状況である。鉄柵越しに覗くと雑草が生い茂り、数匹の黒い山羊が草を食んでいた。


塀を乗り越えて飛び降りたところに、「石寨山遺跡及古墳群」の石碑。「山頂には新石器時代の遺跡も」とある。 塀の内部は意外に広い。放し飼いの山羊が元気に走り回っている。奥に見える小さな白いものが使われているお墓。

 Aさんが塀によじ登り標識を判読して、ここが捜し求めてきた遺跡であることを知る。鉄柵を開けてもらうにはどうすればいいのだろう。バイクの男に尋ねると「管理事務所はかなり離れていて、時間がかかる。乗り越えるのが一番早い」との答えだった。


王墓を掘り起こした跡は夏草が生い茂っていた。写真左H(樋口)さん、右が科技旅行社の佐藤さん。 石寨山から李家山へ向かう途中、交通事故でストップ。
左からM、宍戸、陳、A(淺川)、Hのみなさん。

侵入

彼の忠告に従い我々5名と陳さんが思い思いの方法で中に入った。ひとつは塀によじ登り飛び降りるやり方、もうひとつは鉄柵を乗り越えるやり方である。私は前者。飛び降りた時、右足を少し痛めた。白髪の留学生Hさんは後者だが、鉄柵にふくらはぎを引っ掛けて傷を負った。

そうした涙ぐましい努力にもかかわらず、収穫は何もなかったに等しい。掘り起こされた穴に雑草が生い茂り、茶碗のかけら、ビニールのひも、そのほかゴミに類するものが散見された。小さめの穴があり、大きい穴が開いている。

その向こうには新しい墓があって、2001年と言う文字が読み取れた。それらの間を黒い山羊やこげ茶の山羊が飛び回っている。実に約2200年前の滇王国の王の墓(もぬけの殻ではあるが)と現代中国の庶民の墓が同居しているのだ。注意深く探すと貝殻や土器の欠片があった。しかし、不法侵入者としては静かに退去するのがルールというものだろう。

金印

ここで、少し長いが司馬遼太郎の文を引用する。

「石寨山(せきさいざん)」という山がある。そこに古墳群があり、1956年の発掘のときに、漢代の金印が発見され、話題をよんだ。彫られた文字は、

滇王(てんおう)之印


一辺の長さが2.4センチ、高さは2.3センチ。「滇王之印」の滇の文字は、「滇池」の中に今も生きている。 つまみの部分が蛇なので「蛇鈕(だちゅう)金印」と呼ばれる。虎、亀、駱駝などがあり、蛇は農耕民族に。

 という四個である。紀元前109年、滇王が漢に服従したときに武帝から授けられたものかと推定されたが、おそらくそうであろう。

 ここで、似たような金印が日本の博多湾岸からも出土していることを思わざるをえない。1784年(天明4年)に現在の福岡県志賀(しか)町から出土したもので、このあたりは古代の「な」であり、そこに王がいたらしい。さらにその倭の王は、漢に服し、使者の往来があったかと思われる。志賀から出土した金印には、

漢委奴國王(かんのわのなのこくおう)


 という5個の文字が彫られている。『考古学辞典』のその項の小林行雄氏の記述によると、委は倭の略であるという。
この印は、後漢のものらしい。『後漢書』「東夷伝」によると、紀元57年、光武帝のころに倭の奴国王が朝貢した。金印はそのときに授けられたものかという。(略)

 「滇王之印」が前漢の武帝の時代のものだというのは、むろん推定をこえない。たとえ後漢のものであったにしても、紀元前後を通じ、漢帝国の風圧の内縁に、一方では倭の奴があり、一方では、倭からはるかな雲南の地に滇が存在したということは、この地を訪ねようとしている私どもにとって、一興趣であることをさまたげるものではない。
                    (『街道をゆく 中国・蜀と雲南のみち』より)