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第12章 「霽虹橋(せいこうばし)をめざして |
第9章~11章でも触れたが、「雲南横断2000kmの旅」について説明したい。 雲南横断 連載を始めた以上、<昆明~大理~保山~騰衝>のルート、つまり滇緬公路を走らない訳にはゆかないのである。大理は3度訪れたことがあるが、その先は未知の世界である。初めは飛行機で保山へ飛び、現地で車を調達する方法を考えた。科技国際旅行社のSさんに相談したら、昆明で車を用意し滇緬公路を往復するのが経済的だろうということだった。そこで案内役をSさんに依頼し、運転手付きの車として、楊さんの愛車を借りることにした。「車&運転手」に関して、一切合財ふくめて借り賃は一日600元の条件である。期間は一週間。
こうして06年11月12日から18日まで、「雲南横断2000km」を走破することとなった。雲南省を旅行する場合、車の運転手しだいで旅の成否が問われることが多いと言う。車の所有者、つまり個人事業所の経営者でありかつ技術者でもある運転手は強い発言権を持つ。機嫌を損ねると旅の途中で車ごと引き上げてしまうことさえあるらしい。幸いにも「標識制作(看板デザイン)会社」の社長である楊さんは、古道探しを面白がった。ホームページ『看看雲南』を製作中のSさんと私、それに楊さんのコンビで旅がスタートしたのである。 大理へ 雲南駅の取材を終え、大理方面へ車は向かう。西南シルクロードも、五尺道と霊関道との合流地点を過ぎ、いよいよ博南道へ入ることになる。今夜の宿泊地は大理白族自治州永平県の予定。舞台の中心となる「大理」は雲南省の中央部に位置する。大理の歴史を簡単にながめてみたい。
春秋、戦国時代は滇池を中心とした部族と洱海を中心とした昆明族が競い合っていた(第10章を参照)。両者は常に戦争状態にあり、前者がやや優勢であったように見える。やがて、秦・漢王朝が雲南地方の経営に乗り出してくる。後漢明帝永平12年(西暦69年)、漢王朝は永昌郡(現在の保山市辺り)を設ける。それは物産の集散地であり、官道としての西南シルクロードは事実上、全線貫通したことになる。博南古道は幅が2mあり、最も広い道路であった。
この時点で滇国の勢力は衰え、押さえ込まれたとはいえ洱海周辺の部族は漢への抵抗をやめていない。永昌郡には金、銀、銅、錫のほか貴重な物産が多く、官による収奪が激しかったからである。その後、漢王朝が倒れ三国時代には諸葛孔明の南征などがあるが、基本的には中原の王朝の支配力が弱まり、雲南地区を省みる余裕がなくなったと言えるだろう。雲南は漢族の支配から免れることになる。それは唐王朝の時代も変わらない。大理を都とする南詔(なんしょう)国、それに続く大理国(中原は宋時代)の500年間は、地方の時代と言えよう。それは元のフビライの襲来によって終わりを告げたのである。 霽虹橋とは? 博南古道を取材する今回の旅の最大のターゲットは霽虹橋である。難しい漢字であるが「霽」は、せいと読む。雨がやむ、晴れる、怒りがおさまるの意。そして「虹」はにじ。あの美しい虹の原義が「空をつらぬく蛇」であることを始めて知った。蛇は龍と同義である。[せいこうきょう]と読むのが正しいのかもしれないが、日本式に[せいこうばし]と呼びたい。 霽虹橋はメコン河の上流、瀾滄江(らんそうこう)に架けられた大橋であった。 博南古道、つまり西南シルクロード上の越えなければならない最大の難所である。後漢の時代には蘭津あるいは蘭津渡と呼ばれた。この当時の橋はどのようなものであったろう。古い資料『滇西雑記』によれば、竹で編んだ縄をもって橋とし、攀じ登って渡るとある。人ならばできる、しかし馬はできない。渡った人間が、筏の船に荷物と馬をのせて曳く。後漢時代はこの併用だったと考えられる。それがやがて、唐の時代は竹製の吊橋に、元の時代は木橋に、明の時代は鉄製の吊橋と、時代とともに進化した。橋の名が霽虹橋になったのは元の時代からである。 チベットを源流として雲南に入り、やがて南シナ海に注ぎ込むこの大河をどう越えるか。数千年来、両岸の住民は工夫をこらした。無数の渡し場のうちで最も歴史の古いのが蘭津渡である。近年の大洪水で橋は消失してしまったが、華やかな歴史を持ち、現在も橋の残骸が見られるという霽虹橋。そこは車でアプローチできるのか、撮影は可能なのか?
博南 私たちは永平県の「博南賓館」に宿泊した。永平県は小さいけれど古い町らしく別名「老街鎮」ともいう。夕食は屋台の鍋料理にした。幼い男の子が母親の手伝いをしている。それが何とも言えずかわいらしいので、その店に決めた。ところが女主人に話を聞くと、明日私たちが行こうとしている花橋の出身だという。出発前に準備した資料によると、漢王朝がインドへの交易ルートを開拓するために莫大な物資と人力を投入した。その際、特別に博南県を設立する。「漢の博南県は今の花橋郷にあたり、現在ある永平県の古い町とは違う」(鄧廷良『謎の西南シルクロード』)。
ほんの僅かな資料しか持ち合わせていない。地元の人に話を聞くしかないのだ。 翌朝、出発前にホテルの従業員に話しかけたら、彼女は霽虹橋に程近い岩洞の出身であった。「大丈夫、車で行けます」とのこと、謝謝。好意とアドバイスを受けて、私たちは出発した。
(私の作成した地図。霽虹橋までの行程を示す)
花橋 滇緬公路を左へ曲がる」と教えられていたがなかなか難しい。一度通り過ぎ、作業中の人たちに聞いて引き返す。いかにも見過ごしてしまいそうな細い道だった。新田の集落を抜け、道を尋ねながら進む。途中、「永平県」行きのミニバスとすれ違う。一日一便の定期バスらしい。この道で間違いがないことを確認してホッとする。舗装のない凹凸の激しい道を40分間ほど走ったろうか、ようやく花橋へ辿り着いた。まさに古ぼけた辺鄙な田舎町と言った風情である。
走って来た道と博南古道が交差している。小学校の前に売店があった。このあたりが集落の中心らしいと見当をつけて停車。古道の道幅は2mほど、曲がりながら下り坂になっていた。両側に土壁の民家があり、幼稚園があったりする。博南古道が実際に町の生活道であるのに驚く。まさか、漢代の道ということはあるまいが。
坊門 古道は東へ向かっていて、私たちは町外れまで歩いた。家並みが途切れて、畑が現れた。昼休みの子どもたちが寄ってくる。古老に話を聞く。この町は大花橋といい、町の東端に坊門がある。そこは大花橋の町の入り口で、昔は敷石が続いていた、剥がして畑にし、門だけ残したものだと言う。門を出てさらに下ると小花橋の集落があり、学校は共有らしい。
車を停めてある地点に引き返す。古道を登ってみることにした、方向としては西である。5分ほど歩くと家並みが途絶え、完全な山道になっていた。山の向こう側にある杉陽鎮は歩いて3時間半かかるということだった。時計を見ると12時を回っている。お腹が空いていたので、食堂を探したが一軒もなかった。 私たちは滇緬公路へ戻り、大回りして杉陽鎮まで車を走らせなければならない。本日はなんとしても霽虹橋を目指すのだ。
杉陽鎮 杉陽鎮の町へ入ると真っ先に食堂を探し、その前に車を停めた。大急ぎで料理の注文をすると、私は町の人に「どれが博南古道か?」をたずね回った。Sさんは霽虹橋まで案内してくれる車探しである。ホテルの従業員は「車で行ける」とは言ったけれど、かなり急な山道があり、地元の人でないと危険だという。結局、私たちは楊さんの車を捨て、若い運転手の車に乗り込むことにした。
鳳鳴橋 悪路であることは覚悟の上だが、この若い運転手は乱暴すぎると思った。しばらく行くと畑になり、落ち着く。20分ほど走ると川があり、橋のところで車が止まった。「ここは撮影する価値がある橋だ」とガイド兼運転手の彼はいう。そこが鳳鳴橋だった。私たちが撮影している最中、2匹の驢馬と黒豚を連れた農夫が通りかかった。すれ違いざま、黒豚を橋の上で撮る。
明代末の地理学者で旅行家の徐霞客(シュー・ショー・ク)は、長江沿岸から雲南、貴州各地をまわり、自然地理だけでなく風俗にいたるまで観察し、貴重な記録を残した。『徐霞客游記』である。1639年3月、彼は大理から永平へ博南古道を通り、この橋をわたり、瀾滄江の大鉄橋を越え、水寨へ到着している。「その橋にあずまやがあり、曰く。鳳鳴橋」。私が黒豚を撮影した中央部分に、亭子(あずまや・屋根を四方へふきおろし、壁を設けない小さな建物)があったらしい。 博南山? 集落(岩洞)を通り抜けると前方に山が見えた。これが私たちの目指す目的地で、山の向こう側を瀾滄江が流れているのだという。30分間ほど走ったろう、車は蛇行する山道をゆっくり登る。手元にある資料(周勇『最後の古道』中国南方シルクロードを尋ねる 民族出版社)によれば、これが博南山であると言うのだ。
「蘭津渡は蜀~滇~インドをつなぐルートの境界線である。橋の東は雲嶺山脈系の博南山であり、橋の西が碧羅雪 山脈系の羅岷山である」。杉陽鎮で地元の人々に「 博南山はどれか?」と聞くと、皆が東方にある山を指差すのだ。私たちを案内しているガイド兼運転手氏も杉陽鎮と花橋の間に横たわる山だと言う。 どちらが正しいのだろう。ちなみに彼の言う博南山は、写真下右のアーチ型の門から覗いている山である。
江頂寺 山の名前はどうあれ、車は山頂付近に辿り着いた。まぎれもない博南古道の痕跡が私たちを待っていた。それは摩滅した石畳とアーチ型の門である。霽虹橋が竹製の吊橋から鉄製の橋に架け替えられた明の成化年間(1465~1487年)に、時を同じくして山頂に大きな建造物が建てられた。徐霞客も「普済庵と言う。僧がいて、茶を飲ませてくれる。ここは頂上である」と記している。その寺の名を地元の人は「江頂寺」と呼んだ。現在ある寺とは違い、もっと大きな建物で、門だけが残された。
私たちを乗せた車が停車した。道路が崩れていてこれ以上進むことができないのだった。歩くことにする。黒い山羊の放し飼いをしていた。若い男が2名、誰もいない山頂の小屋に寝泊りして山羊を監視する役割なのだった。オーナーが様子を見に立ち寄ったところだろう。彼は瀾滄江の西側から吊橋を渡って来たという。
ついに霽虹橋 ガイド役の運転手が吊橋と霽虹橋の遺構を一望できる場所に案内してくれた。この山の海抜は2100mほどある。遥か下方に瀾滄江が流れていた。300ミリの望遠で霽虹橋の遺構を捉えた。「世界で最古の現存する鉄製橋」とアメリカの専門家が書き記した(『保山市文化志』)霽虹橋。その歴史を遡れば二千年も前の記録がある。私たちは雄大な眺めにしばし見とれていた。 1986年10月12日の大洪水で橋は流され、消失。14年後の1999年7月、やや上流に小型ながら鉄製の吊橋が架けられた。それは記録によれば、蘭津渡における21回目の修復であったという。なお望遠で眺めると右上方で大型の工事が進められていた。これは「大理~保山」を結ぶ鉄道であろう。
最後に、霽虹橋にまつわるふたつのエピソードを紹介したい。 「漢徳広、開不賓。渡博南、越蘭津。渡瀾滄、為他人」 三言六句の古い民謡が残されている。漢王朝が永昌郡を開発するため多くの民間人を徴発した。そのときの恨みと悲惨さを歌ったもので、博南古道に蘭津渡が既にあったことを立証している。 清の康煕20年(1681年)の修復で、橋の長さは106m、幅3.5mになる。華やかさを競うように、橋の東側に武候祠、王皇閣、橋の西側に観音閣、御書楼などが建てられた。康煕皇帝の書「飛虹彼岸」を納めた御書楼と武候祠はとりわけ豪華絢爛で、黄金色の瑠璃瓦が輝いていたと伝えられている。
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