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西南シルクロード紀行
『西南シルクロード紀行
』 -第15章-
第15章 大地震に襲われた都江堰
四川大地震
「2008年5月12日、晴れのち曇り、蒸し暑い。風が次第に吹きつのる。前兆は何もなかった。温江(成都と都江堰の間)のニュータウンに着き、自宅になる新築マンションの入り口まで来たとき、突然地震が起きた。まるで大地が、手で口をふさいであくびをこらえていたが、がまんしきれずに大砲みたいなくしゃみを連発したようだった」。震源地に近い成都在住の反骨詩人・廖亦武(リャオイウ)のリポート(5月24日『朝日新聞』)はこうした書き出しで始まる。89年の天安門事件を批判して4年間投獄された彼は「天災であれ、人災であれ、いかなる災難でも、記録し続けることは文学者の責務である」とし、朝日新聞に寄稿した。「都江堰の友人から電話が入った、二王廟の入り口が崩れた、町中が廃墟だ、至るところ死体だ」。都江堰市の犠牲者は3060人を越えた。
川(岷江)の中央に浮かぶ人工の中洲が金剛堤である。右側の流れが内江、左が外江。
2004年7月撮影。
工事の指揮官・李冰(りひょう)と息子の二郎を祀った『二王廟』。四川大地震で建造物の大半が倒壊、と伝えられる。
マグニチュード8.0
石寨山遺跡の探訪からスタートした『西南シルクロード紀行』は、時には北上しながらも基本的には雲南省を西へ横断し続け、ミャンマー国境にまで至った。15章は西南シルクロードの起点となる古代・蜀の国を取り上げよう、と思っていた。4年前に<都江堰・三星堆>を訪れたことがある。写真の整理、地図の作成など準備をすすめていたところにマグニチュード8.0の「四川大地震」がおきた。しかも、震源地が都江堰のすぐ近くだったのだ。
<世界遺産・都江堰市が壊滅的な被害>の写真=5月30日『産経新聞』(山田俊介撮影)より
死者8万人を超えるか
もう少し地震の話を続ける。犠牲者が8万人を超えるだろうと言われている。地震のエネルギーが阪神大震災の約20倍という想像を絶する大きさによるものだが、建物のもろさが被害を拡大させた。報道によれば、震源地に近い地域の少数民族の家屋は急峻な谷にレンガを積んで、泥で固めただけの簡単な家屋が一般的で、それが30、40戸ずつ集落をなしている状況だという。
レンガを積み重ね、隙間に泥土を塗って固めていく。すべて手作業、高い部分は足場を組んで行う。
最終的にレンガは見えなくなり、左の白い建物と同じになる。2001年、北京市海淀区にて。
日乾しレンガを積むだけ
その記事を読んで、私は8年前のことを思い出した。北京での留学生時代に住んでいた寄宿舎が売店を増設したときのことである。作業員はたったふたり、しかも2~3日で出来上ったのである。日本では見られない方式で、確かに簡単で便利だが、大地震にはひとたまりも無いに違いない。
「おから工事」で犠牲者増大
こうした安普請の建物が崩壊するのはやむを得ないとしても、問題なのは鉄筋コンクリート製の建物である。都江堰市の中心部では小学校、病院、マンションなどが軒並み全壊、半壊し、無傷の建物は見られないと言う。5月15日の産経新聞によれば、「校舎の倒壊で生徒ら約900人が生き埋めになった聚源中学校では14日、徹夜の救出が続いたが、血とほこりにまみれた子供の遺体が次々と発見されるだけだった」という。都市部の死傷者が圧倒的に多いのが、今回の地震の大きな特徴である。
卒業旅行で都江堰へ
雲南民族大学基礎中国語のクラス。前列左から、中村、陳老師。後列左から(アメリカ)、(ノルウエー)、安達、(タイ)、宍戸、掘切。
学校主催の春の日帰り旅行(春遊)は
滇池へ。左から宍戸、王老師、丁老師、3人おいて右端が呂老師。
話しは2004年に遡る。私は昆明市にある雲南民族大学に6ヶ月間の短期留学をした。正式の1年コースは9月~翌年7月までとなっているが、半年コースは2月~7月である。この6ヶ月間の留学が私に西南シルクロードを結び付けてくれたことは間違いない。
まず、雲南民族大学の方針がおおらかであった。外国の学生の皆さんは<中国語を学ぶのは当然だが、それよりも少数民族のことをよく知り、よき理解者になってほしい>というわけである。そのためには、
●学生たちと友達になること
●(教室での授業よりも)少数民族の町や村へ旅をすること
が有効なのであった。
学校当局が旅行を積極的に勧めたわけではないけれど、教師に「○○県へ5日間の旅行に出かけます」と告げるだけでいい、快く許可してくれる。
限りなくラオス国境に近い村での水掛祭り。近郷近在から大勢集まってくる。2004年4月15日、最高潮に。
水掛祭りは、一年で最高の晴れがましい日。女たちはおしゃれをし、髪を飾り、男たちが水をかけるのを待つのだ。
雲南大学の学生たちと昆明近郊の寺へ。左端、魏娟、右端が故・香川良和(当時72歳)さん。04年5月。
麗江へひとり旅、4日間滞在。午前8時になると観光客でごったがえす街中も、早朝は雰囲気がある。04年5月。
こうして私は授業の合間に雲南省各地を旅行した。6月末の試験が済むと長い夏休みが待っていて、学生たちはさらに長い旅行を計画する。04年当時、昆明の学生たちに人気があったのはチベットと九寨溝(きゅうさいこう)である。私は若いN君を「都江堰と三星堆へ行こう」と誘った。余り興味を示さなかったN君も「パンダ研究基地も回ること」を条件に同意したのである。
研究基地だけあってパンダは放し飼いに近い状態。まるでN君とのんびり話しをしているよう。
7月5日、パンダ基地からバスを乗り継いで都江堰市へ入る。夕方になっていて、さっそく旅館を探す。若いN君は私との旅行のあと成都に残り、別の友人とチベットへ行く予定であり、「予算が厳しいので安い所にしましょう」というのである。民宿に毛の生えたような「明蓉旅館」に宿泊、ひとり80元(約1200円)。その小さな旅館は今回の地震で倒壊してしまったかもしれない。
紀元前の水利事業
都江堰とは「首都の川のダム」と言う意味である。作られたのは2200年以上も前のこと、洪水を防ぎ、灌漑用水と舟による運搬兼用の多目的大型水利事業で、21世紀の現在も立派に使い続けられている。私の第一印象は「とてつもなく広い」ということだった。詳しい解説書の類を用意しないで来たために、よく理解できない部分もあった。
歩き疲れたN君は「どこかで休みましょう」と言う。立派な鳥居のある「南橋」に立つ、気のせいか少し涼しい感じがする。そうか、大勢の人達が腰を下ろしているのは、水しぶきが飛んで涼しいからなのだ。川の両側には椅子とテーブルがあり、お茶を飲む人達がいた。こちらは有料のお休み処、橋の上は無料と言うわけだ。
100人以上が南橋の上で涼んでいる。屋根付きの橋は、<通路>というよりも<憩いの場>と言える。N君撮影
表面張力で水面が盛り上がっているよう。ごうごうと音が聞こえるくらい流れは激しい。この水が成都を潤す。
南橋の激流
いまは7月、雨季で水の多い季節である。上の写真は内江から離堆(りたい)取水口(俗に宝瓶口という)へ流れ込み、500m入ったところにある南橋である。結構な水量ではないか。撮影した時点では、この激流が人工の川であることを知らない。2000年以上も前の古代人にこれほど豊かな流れを自在に調節する技術力があるとは、そのとき考えが及ばなかったのである。南宋の詩人は「まるで雷のように轟(とどろ)き、雲のように逆巻いている」と流れを表現している。
「宝瓶口の図表的横断面」ニーダム教授の説明図から引用。斜めの点線が、昔あったと思われる岩盤。高低は水位を示す。
岩を砕く
イラストで示したように、元は硬い岩盤の山だったのである。岩を砕く為に大いに火を燃やして山を熱し、冷水をかける。これを何度か繰り返して岩を脆くする。気の遠くなるような根気の要る仕事だ。紀元前250年頃、李冰(りひょう)が蜀郡の太守(地方長官)に任じられてから建造を始め、彼の死後、息子の李二郎の監督のもと紀元前230年頃完成させたものとみられている。親子2代、20年の歳月を必要とする大工事だった。
『史記』
以上のことは司馬遷『史記』「河渠書」に記録されている。ジョセフ・ニーダム教授の大著『中国の科学と文明』第10巻を見る。
『中国の科学と文明』全10巻。1979年、思索社 日本語版監修が東畑精一、藪内清。日比谷図書館にて。
司馬遷『史記』「河渠書」 本の中央部分に「蜀守冰」や「沫水之害」、「穿二江成都之中」などが読み取れる。
太守の(李)冰は、離れた岡(離堆)を(つくろうとして、山の肩部を)切り通した。そして沫水による災害を取り除き、成都(平原)に2本の大きな水路(江)を開鑿(かいさく)した。
ニーダム教授は1943年と1958年の2度に及ぶ調査のうえ、都江堰の灌漑システムに関して「それに匹敵しうるのは古代のナイルの工事だけである」と絶賛する。
南橋の近くのお休み処でお茶を飲む。いろいろな物売りが来るのは当然としても「爪を切りませんか」という商売人が回ってきた。さすが中国だと感心した。
4年経った今も、一番印象深いのが南橋付近の水の流れや人々のことであるが、いくつかの資料にあたると「それだけではない」と言うことらしい。
せき止めを作らずに取水する
「初めて都江堰の水利施設を見た人たちは、いつも離堆の雄大さにひきつけられるが、<せき止めを作らずに自流調節し、取水できること>が最大の鍵である」と専門家たちは言う。
水利施設を作るとき一番むずかしいのが
●如何に洪水を防ぐか
●如何に土砂を排出するか、
なのである。
地形を巧みに利用してせき止めを作らず、渇水の季節には積極的に浚渫し、満水の季節に自在に放流する。だからこそ2000年もの長い期間、河川が塞がることもなく、流れが変わることもなかった。
暴れ川・岷江(びんこう)
今回の大地震報道でお分かりのように、3000m、4000m級の山岳地帯の間を河が流れている。地震で土砂が崩れ、せき止められた川は大きなダムと化し、二次災害の危険性を帯びてくる。都江堰を流れる岷江の源流は、甘粛省との省境に近い4000m余の岷山山脈の南麓に発する。河源から都江堰までが320km、標高差が2000m以上もある。その激流が山岳地帯から飛び出してきて平野部に出たところが都江堰なのだ。雨季ともなれば増水した流れはいたるところで洪水をおこした
。
「都江堰構造物配置図」(『長江水利史』より)原図を加工修整した。
人工の中洲・金剛堤と魚嘴(ぎょし)
地図上で説明しながら、ご案内しよう。離堆公園の入り口でチケットを買って入場することになる。7月6日晴れ、午前10時。高所から全体の風景を眺める。
川が流れており、中洲があり、その先に山々が見えた。今にして思うのだが、大地震の震源地がこの光景のなかにあったはずである。
専門家が言うところの最大のポイント・人工の中洲へ向かう。川の流れを二分するために細長い堰を築いた、その名を金剛堤という。中央部分は緑に覆われており、舗装された歩道がある。当時すでに世界遺産に登録されていたけれどあまり有名ではなかったし、私も『地球の歩き方』程度の知識しか持ち合わせていなかった。<灌漑システム>を理解していなければただの堤防に過ぎない。
私たちは風に吹かれながら歩道を歩いた。外江側の堤を外金剛堤といい長さは750m、内江側の堤の長さは680m。この半月の形をした金剛堤が都江堰の「堰」
なのであった。
左側に金剛堤、その先端にあるのが魚嘴である。内江の上に架かっている吊り橋から撮影した。震源地はどのあたりだろうか。
船首を思わせる魚嘴、大昔は<石詰め竹籠>製だった。2002年冬の修理工事で再建、鉄筋コンクリート製に。
魚のくちばし
堤の尖がった最先端部分が中国の代表的な淡水魚レンギョの口に似ているところから「魚嘴」と呼ばれるようになった(地図では都江魚嘴)。流れて来る水を左の外江(本流)、右の内江に分ける。内江は宝瓶口に入って南橋の下をくぐり抜け、成都平野に流れる。大工事以前はここに玉塁山がたちはだかっていたわけで、流れ下ってきた岷江は岩に当たって曲流し、洪水の原因となったという。
満水の季節の激しい流れは土砂も多い。土砂を含んだ大量の水は地勢や湾曲のため外江に流れ込み、土砂の少ない表層水は魚嘴で分流されて内江に流れる。水量の割合は外6対内4。逆に春の渇水期は水位が低く、入り口の広い内江に流れる量が多く、割合は4対6となり、農地の灌漑の需要を満たしてくれる。
太いロープで結んだ三足の丸太は堤防を囲むときなどに使われるもの、現在も使用されている。石詰め竹籠とともに。
石詰め竹籠は「説明用に展示されている」と考えていたのだが、そうではない。現実に必要な資材なのである。
石詰め竹籠
この中州を築く上で重要な役割を果たしたのが<石詰め竹籠>だった。この建築資材は、急流に対して十分対抗でき、材料が簡単に入手できる、さらに費用が低廉であるという3条件を満たした。農家が簡単に作れるということが毎年の改修、改良をも可能にしたといえる。しかし、それにしても何万、何十万個の石詰め竹籠が必要だったのだろうか、この大きな中州を作り上げるために。
飛沙堰(ひさえん)
写真ではお見せできないけれど、もうひとつの工夫がある。金剛堤と人字堤の間にある長さ200mの堤防で、飛沙堰という。満水期(7月はその時期に当たる)には水面下に没し、渇水期に姿を現す。その堤防の高さがポイントなのだ。水量が多いときは飛沙堰を越えて外江へ流れる、つまり飛沙堰の高さは南橋の橋桁を越えないという計算になる。水量の少ない春先は飛沙堰にせき止められて、すべて南橋の方へ流れて灌漑用水となる。年間を通して水位を自然調節すると同時に、土砂が灌漑水路に流れ込むのを防ぐ装置なのでもある。「2度目の土砂対策」がなされているわけだ。
李冰
まとめてみよう。都江堰は魚嘴、飛沙堰、宝瓶口(ほうへいこう)の3点セットが相互に機能して、<せき止めを作らずに取水する>という世界でも例のない水利施設なのである。しかもその原型は2200年前に確立した。4世紀に書かれた『華陽国志』では都江堰に隣接した県出身の収集官が記録している。
1974年3月、堰の改修工事中に、長さ約3m、重さ4.5トンもある李冰の石像(西暦168年、後漢時代に製作)が発見された。
「李冰は河川をさえぎり堰をつくり、ふたつの川を開削して支流とした。やがて水田が開かれた。このため蜀は沃野千里の地となり、陸の海と称され、土地が乾けば引水し、雨が降れば水門を閉じ、水の調整は人に従い、飢饉を知らず凶作が無く、天下は天府と呼んだ」。
吊り橋の上から撮影した内江。(現在は満水期だから)この流れはすぐに二手に分かれそしてまた合流し、最後に長江となる。
私たちは休憩の後、山側にある二王廟(冒頭の写真参照)へ向かった。樹木の繁った山腹に李親子を祀った廟とそれに付随する建物がある。
山側の建造物は水利施設に直接関係はない。いわばお飾りなのだが、楽楼の灌瀾(かんらん)亭では壁一面の彫刻が目についた。それは「治河三字経」の書き出しの部分であり、「李冰の精神を忘れるな」という戒めであろう。再び、ニーダム教授に解説をお願いしよう。
全文で60文字からなる「治水技術の要諦」の最初の6文字。文は元時代のものらしいが、「千年の秋」守られている。
水路を深く掘れ [深淘灘]
そして余水路を低くしておけ [低作堰]
この6字の教訓は [六字旨]
千秋の間、有効である、川の石をさらい取り、それを堤防に積み重ねよ、石を切って魚のくちばしをつくれ、(略)竹かごをしっかりと編み、石をその中にきっちりと詰め込め、水を4対6の割合で分配し、水位の高低を統一せよ、(略)
毎年毎年、川底をさらえよ、そして洪水とあらゆる災害を取り除くため、古代の方式を尊重し、そしてそれを軽々しく変更してはならぬ
(『中国の科学と文明』より)
都江堰の旅はここで終わるが、『朝日新聞』6月6日夕刊「文化財再建手つかず」の記事で締めくくりたい。
成都の中心から北西約50キロの都江堰。紀元前から工事が始まった中国最古の水利施設の一帯は、道教の聖地の青城山とともに世界文化遺産に登録されている。土木工事を指揮した親子をたたえ、約1500年前に建立されたとされる道教寺院『二王廟』は、建築物の大半が崩壊した。境内には約30人の信徒らのテントが並ぶ。(略)がれきの撤去はほとんど手つかず。警備関係者は「地盤がよくないし、車も入らないので手作業で片づけるしかない」とため息をついた。周辺のホテルも軒並み廃虚と化した。
話しは若いN君とのふたり旅に戻る。都江堰から東南に50キロ、路線バスに乗って成都へ帰り、『交通飯店』に宿泊。2004年のメモによれば、2日後の7月8日、三星堆博物館のある広漢市へ日帰り旅行をしている。成都から北へ40キロ、これも路線バスでの往復であった。三星堆遺跡の報告は16章に譲り、ここでは<都江堰、成都、広漢>の位置関係、歴史などについて述べたい。
成都平原へ
四川省の年平均気温は16.3度と温暖で、年間雨量は1000ミリ以上であり、亜熱帯性の湿潤なモンスーン気候に属している。専門家によれば過去数千年間にわたってこの気候条件は変化していないという。大昔から豊かな農作物をもたらす条件を備えていた。
成都平原には複数の城壁都市の跡が発見されており、成都付近の「龍馬古城」は約4500年前と推定された。この遺跡は東西600m、南北1100mの長方形の城壁に囲まれており、城壁の壁は厚く、幅40m、高さは7mに及ぶ。この頑丈な壁は外敵を防ぐばかりでなく、洪水から田畑を守る為のものであったろう。また都江堰市の近くで「芒城遺跡」など、成都平原だけでもかなりの数の城壁都市遺跡が確認されている。
「蜀の国」旅行案内図
古代蜀の国
都江堰と成都は岷江水系で、その標高差は300m。これに対して広漢は沱江水系にあり、しかも南の成都より小高いところに位置する。暴れ川・岷江とは無縁でしかも肥沃の地に三星堆があったことの意味は大きい。京大名誉教授の竹内実は「蜀の国の歴史はどこまでが伝説で、どこまでが事実かわからないところがあるが」とことわった上で「むかし四川省の西部に『蜀』と言う国があって、さいきん発掘された三星堆をみやことしていた。そのみやこが成都にうつったのは紀元前五世紀のころ」(『中国長江・歴史の旅』朝日選書)と言う。ちなみに蜀が秦に滅ぼされるのは紀元前316年、これはあらゆる史料で一致する。また都江堰の大工事が始まるのは紀元前250年ころとされる。
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