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『西南シルクロード紀行』 -第4章

                                                                 


第4章 西南シルクロードとはなに


 「シルクロードは知っているが、西南シルクロードは初めて聞いた」という方がおられるかもしれない。確かに使われ始めてまだ20年しか経っていない。しかし、その古い道路というか、交易のルートは2200年以上前から存在しているのだ。「西南」について論証する前に、「シルクロード」を私の経験をふまえて述べてみたい。

シルクロード
 
 広義のシルクロードとは、この上もなく優雅で上質な絹の生産地・古代中国とそれを愛でてやまない王侯貴族のいる一大消費地・ギリシャ、ローマを結ぶ交易の道を言う。

 そして狭義のシルクロードとは、古都長安・現在の西安を発して河西回廊(かせいかいろう)を経、天山山脈の南側・タクラマカン砂漠のオアシス都市を伝って中央アジアへ抜けるいわゆる『天山南路』を言う。勿論、天山山脈の北側、ステップ地帯を通る『天山北路』やタクラマカン砂漠の南を通る『西域南道(せいいきなんどう)』もあり、一般的なシルクロードとは、以上の3ルートを含んだ総称といえる。また、「海のシルクロード」という使われ方があることは皆さんご承知のとおりである。

砂漠の中

 私の体験を述べれば、『天山南路』を3年間で2000キロ、自転車で走った。蘭州~張掖500キロ、張掖~敦煌650キロ、敦煌~トルファン800キロである。その2年前、『西域南道』のカシュガル~和田(ホータン)をバスで往復した。これらの道は、すべて砂漠(ときには無限に広がる畑や岩山)の中を走る舗装道路である。2000年前の古道は舗装道路の下に眠っているのだろうか

天山南路へ入り、中国の西の果てにカシュガルがある。ポプラの樹木が両側に並ぶシルクロード。1992年撮影。(画像clickで拡大画像) 玉の産地として知られるホータン近くの西域南道。めったに車も通らない。見えるのは空とタクラマカン砂漠のみ。(画像clickで拡大画像)

西南シルクロードの登場

 さて「西南シルクロード」だが、その存在を知らしめたのが張騫(ちょうけん)であり、それを記録したのは司馬遷(しばせん)である。『史記列伝』(四)小川環樹ほか訳(岩波文庫)を引用する。

 元狩(げんしゅ)元年(紀元前122年)、博望候(はくぼうこう)の張騫が大夏(バクトリア)に使者として赴き、帰ってくると、「大夏におりましたとき、蜀(しょく)でできた織物と邛(きょう)の産物の竹の杖を見ました。その由来を訊ねさせますと、『数千里ほど東南にあります身毒国(インド)からもって帰ったもので、そこにある蜀の商人の店で買いました』と答えました。邛の西方二千里ほどのところに身毒国があると聞きました」と申しあげた。


『西南夷地図』
鳥越憲三郎『古代中国と倭族』図36を改変
(画像clickで拡大画像)

  
西南夷地図

 紀元前3,4世紀の四川省と貴州、雲南地方、いわゆる「西南夷」と言われた地域の古代地図を改変・作成した。秦・漢時代の概略図である。参考にして頂きたい。蜀の国は四川省の成都を中心とした地域であり、邛は四川省西昌市あたりにあった国である。

張騫

 張騫は都を発ち『天山南路』を通り抜けようとするが、匈奴によって身体を拘束される。数年後、逃げ出して、大夏(現在のアフガニスタン北部)まで苦労の末にたどりつく。彼は、中国人としては初めての世界に到達したと考えたに違いない。ところが何と、中国の物産がすでに運ばれていたのである。しかもインドには蜀の商人の店まであるというのだ。出発してから13年を経過し、長安に逃げ帰って武帝に報告したのがBC122年のこと。それ以前に、四川省~雲南省~ミャンマー~インドを結ぶ<絹の道>ができていたのは間違いない。このルートは途絶えることなくほそぼそと続き、ときには世間に忘れ去られながら、突然浮上することになる。

三星堆

 1986年夏。成都市から北西へ約40キロ離れた広漢市三星堆(さんせいたい)村で、四川大学の考古学調査隊による発掘が行われた。彼等が引き上げた3日後、地元のレンガ工場の彩土工事で一台のブルドーザーが考古学調査隊による発掘現場からわずか数十センチしか離れていない場所にあった「宝の穴」を掘り当てることになる。世紀の大発見の一瞬だった。いわゆる「三星堆文明」がよみがえったのである。


黄金マスクをつけた青銅頭像。三星堆遺跡の発見の中でとくに注目を集めているのが金製品の形と量の多さ。 青銅面具。高さ26センチ、幅41センチ。このように眼を大きく、誇張してある仮面が圧倒的に多い、なぜだろう。

眠りから覚めた西南シルクロード

 中国史では脇役でしかなかった蜀の国にスポットライトが当てられた。翌1987年、中国で「わが国の西南部と外国を結ぶ通商の道として『西南シルクロード』があった」とする説が大きな話題となった。それに前後して、四川省の一学徒・鄧廷良(とうていりょう)が、「三星堆の発見に励まされ、大変な勇気と志を抱いて」成都から単独で調査行を開始した。1986年11月のことである。さらに中国西南師範大学の協力のもと調査を行い、『謎の西南シルクロード』を1991年8月、王矛、王敏訳で出版(原書房)した。孔健『秘境・西南シルクロード』(学生社)も1990年9月に出版された。以上が中国人による資料である。



西南シルクロードに関する資料。手元にあるものだけ集めて撮影。
日比谷図書館、世田谷図書館にもお世話になった。

 明治学院大学探検部が「日中合同西南シルクロード調査隊」を組んで、1996
年、四川省のルートを1ヶ月間歩きとおしている。また、2003年に高野秀行『西南シルクロードは密林に消える』(講談社)が出ている。学術書だが、東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所編『四川の考古と民族』(慶友社)1999年も詳しい。

西南シルクロード地図

 ふたつの資料をもとに「西南シルクロード地図」を作成した。ひとつは鄧廷良の略図、もうひとつは学術書『古代西南シルクロード研究』からの概略図である。前者は地図に関して言えば、実に荒っぽい。誤字もあり、辻褄の合わない部分が多いのである。そして後者はくわしいのだが、漢字が適切でない。2000年前の地名をあらわす文字が、日本にはないのである。分かりやすさを基準にして、作図してみた。

『西南シルクロード略図』(画像clickで拡大画像)

 
 両者に共通しているのは、オレンジ色のルートを西南シルクロード幹線、黄色のルートを西南シルクロード支線と名付けていること。鄧廷良は西南シルクロード西線(オレンジ色)、東線(黄色)ともいい、これは分かりやすい。さらに2000年以上の歴史があるだけに、時代によって名称が変わっているのだが、私の独断でオレンジ色を「霊関道」、黄色を「五尺道」ということで統一したい。
なお緑色のルート<大理~保山~騰沖>部分を「博南道」という。



萬水千山を越えて


 先に述べたように、シルクロードは果てしない砂漠かあるいは大草原のなかを行く。ところが西南シルクロードは「萬水千山」を越えなければならない。
もう一度地図を見ていただこう。成都を出発してオレンジ色の霊関道へ入ると右手に5000mの山があり、左手に4000m級の峰が続く。断崖絶壁の渓谷を渡り、峰を回りながら行く。黄色の五尺道も似たようなものだ。最初こそ成都から宜賓(ぎひん)まで岷江(みんこう)を船で下り、南下して山岳地帯に入る。貴州省は総面積の97%を山地と丘陵が占め、雲南省は同じく94%を山地と高原が占める。まさに「千山」であり、山が高く谷が深い。

 

五尺道へ

 私が最初に訪れてみたいと思ったのは「五尺道」である。秦の時代から始まった官道で、その険しさの故に開発に取り残され、2000年前の姿を今もそのまま見られると聞いたからであった。

 
秦の時代に作られた道幅1.2メートルの古道が現在も残されている。
「五尺道」である。たどり着くまでが大変であった。
(画像clickで拡大画像)


 

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