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『西南シルクロード紀行』 -第5章 |
第5章 心優しい「五尺道」の雲助 冒険旅行? |
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塩津から約20キロ南西、国道沿いに『豆沙鎮』の標識がある。タクシーはここまで。豆沙村までは三輪タクシーの営業範囲。 | 三輪タクシーの運転手、洪永林さん(36歳)。最後はやさしいところを見せたが、値上げ交渉の技術はしたたか。かなわない。 | |||||||||||||
雲助 |
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悪路の砂利道。上りあり、下りあり。大きな道路の橋げたを建設中の作業員4,5名に呼び止められて、ストップした。停まるとほっとする。運転手はなにか早口でしゃべっている。また走り出した。20分ほど経ったのだろうか、すごく長い時間に感じられる。 |
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豆沙村 交渉は50元で決まり、「雲助」の言いなりに引き返すことにした。30元の出費より時間の浪費が惜しい。 |
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日本流に言えば<中仙道の宿場町>とでも言おうか。そういった風情の豆沙村。古い遺跡で村興しをしようという商魂も見せるが。 | 築何十年の建物だろうか。いまにも倒れそうだが、勿論いまでも人々は生活している。開発からは取り残される運命の村である。 | |||||||||||||
幅5メートルほどの道があり、左右に崩れかけた木造家屋が連なる。ときにはモルタル作りの店舗がある。ふつうに良く見る田舎の村で、電気屋があり新しい洗濯機が売られている。店の奥でテレビが放映されているのが見える。 山道は険しく、右側も絶壁。遠くから眺めると、左も右も断崖絶壁でまるで石の門のように見えるところから「石門関」と呼ばれた。ここに古道・五尺道が生き残っていた。しかも現役として立派に機能して。 少し進むと、関所が復元されて建っていた。子供たちが2,3人遊んでいた。
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五尺道 1尺の長さは日本でいえば30.3センチだが、現代中国では33.3センチ。もともとは中国から輸入した長さの単位である。ところが時代とともに変わるのだ。前漢時代の1尺は22.5センチしかない。正確に言えば5尺道は1.125メートル幅ということになる。私たちが撮影している間、村人、籠を背負った農婦、学校帰りの小学生が通る。大きな石を並べただけの素朴な石段。昔は兵隊たちが往来していたに違いないし、驢馬が荷物を運んだ通商の道でもある。石は丸みをおびて、光っていた。
登りの急な石段の先にあずまやが見えた。唐碑亭(とうひてい)に違いない。私たちは洪さんと共に大きな寺院を訪れた。穏やかな午後の日差しの中で尼さんが農婦と話をしている。石門関へ引き返し、もう一度シャッターをおした。
約束の時間 あまり長居はできなかった。帰りのタクシーが国道の標識・『豆沙鎮』のところで待っていることになっていた。約束の時間は4時半。もうとっくに過ぎている。タクシーのチャーター料は100元。最初に50元渡し、「ホテルに帰った時点で残額50元」とガオヤンは主張したのだが、運転手は「全額、今欲しい」と譲らず、もう既に100元支払い済みなのである。あまり遅れると、運転手は帰ってしまうかもしれなかった。<石門関・豆沙村>は魅力にあふれ、もっと記録しておくべき風景がたくさんあった。あの雲助が余計な策略を使ったために、時間を無駄にしてしまったのが悔やまれてならない。 |
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「民宿・五尺道」の看板。ほかに「民宿・シルクロード」もあった。前途多難ではあるが、観光で生き延びようとたくましい。 | 学校帰りに乗せてもらった少女。恥ずかしそうに、ひとことも口を利かなかった。外国人には厳しく、村人に優しい三輪タクシー。 | |||||||||||||
遥か下のほうを列車が走っている。午前中に利用した鉄道で内昆鉄路という。おそらく昭通方面へ向かうのだろう。平行して流れる河は横江といい、四川省に入って金沙江(きんさこう)と合流する。
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私たちは30分以上遅刻したが、タクシーは待っていてくれた。「謝謝」。 そのかわりチップとして30元、要求された。やむを得ない。 |
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