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『トルコ紀行』 |
竹山 文士 |
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第2章 悠久の古都を見る・語る・食べる | ||
6.カーリエ博物館 イスタンブール2日目の朝を迎える。曇り時々雨。今日は旧市街西北部のカーリエ博物館を訪ねる。カーリエという名前の由来のコーラ(Chora)とはギリシア語で「田舎」を意味する。初期キリスト教会として市街の外に紀元400年ごろ建造された。ここも例にもれずイスラム治世にはモスクとして使用されていた。アヤソフィアと同じく、第二次大戦後にはがされた漆喰の内壁から50点に及ぶキリストの生涯を描いたモザイクとフレスコ画が現れ、現在は博物館となっている。そのモザイクとフレスコ画はビザンチン美術屈指の傑作と言われていて、それを鑑賞するのが今回の旅の大きな楽しみの一つなのであった。 ホテルを出るとき、玄関の横のソファでゼラが子犬と遊んでいる。大学に行かないのかと聞いたら、「だって行きたくないんだも〜ん」と言う返事、まるで子供のようである。イスラム教徒だろうが何だろうが、古今東西、学生はこんなもんだろうか。 カーリエ博物館は遠方にあるのでバスで行くことにする。バスターミナルには行き先別に多くのバスが停車していて、カーリエの近くを通るバスを探すのに迷う。行先を大声でどなっていると、近くの運転手が「あのバスに乗れ」と教えてくれた。バスのなかでは乗客の一人の中年男性が肩を叩いて降りるバス停を教えてくれる。また道を歩いていると老人男性がカーリエの方向を指し示してくれた。この国の人たちの親切さと優しさが身に沁みる。さてそのカーリエの美術品だがこれは素晴らしかった。小さな館内に入るとそこはもう紀元5世紀の時間が流れる古代ローマの教会であった。内部は静謐さが支配している。 7.哲学者あるいは詩人たち 1時間ほどかけてカーリエ博物館の美術を鑑賞して外に出ると、雨が上がり、明るくなっていた。博物館の近隣は普通の民家の建ち並ぶ地区である。 近くの土産物屋のオヤジにトルコ名産のイズニックタイルや絵皿の講釈を受ける。トルコのタイルはモスクの装飾品として発達し、なかでもイスタンブールの近くのイズニックでは良質の土が採取され陶器が発達した。トルコの土産といえば、この伝統を受け継いだタイルや絵皿で大方派手な模様だが、なかには溜息の出るような繊細な美しさを秘めているのもある。そんな絵皿の一つに見入っていたらオヤジはこんな話を始めた。 「あなたはいずれトルコの旅を終えてこの国を去り、日本に帰るだろう。やがて私のことも、この街のことも、カーリエ博物館のことも忘れ去るだろう。それは自然なことだ。でもあなたがこの皿を買えば、あなたとこの皿の出会いは残る。それはこの出会いが真実だからだ。」 翌日訪れたスルタンの宮殿でも、僕が日本人添乗員付きのツアーに参加していない理由を聞いてきた英語ガイドに、冗談で「貧乏だから」と答えたら、「お金のあることが必ずしも幸福なのではない」という内容のことを諄々と説かれた。 また、この旅の最終日にはホテルの従業員が、雨の空を指して「なぜ空が泣いているか分かるか」と聞くので、「冬は雨が多いのでしょう」と答えると、「違う、今日はあなたが去る日だからだ」と答えた。 そのほか何人かのトルコ人と話す機会があったが、彼らは些細なことにも深い意味を見ようとする。その話の目的はともかくとして、彼らは街の哲学者であり詩人なのであった。 トルコ人の男性の外貌は、とにかく造作が大きい。目も鼻も大きく、そして全体に老けて見える。この旅行の最中、僕はひんぱんに年を聞かれた。56歳だというと、40代にしか見えないという。ひどい時は、学生かと聞かれたときもある。それくらい彼らの方が老けて見えるのだ。 前日、アヤソィアを見学しているとき、館内を巡回している係員とこんな話になった。 「日本人か」 「そうだ」 「いくつだ」 「56歳だ」 「そんな年に見えない」 「・・・・」 「(悲しげに自分の頭をさすりながら)しかし、なぜトルコの男は 禿げるのかなぁ・・・」 「頭が禿げてもいいではないか。そんなに立派なひげが生えているのだから」 「・・・・」 トルコの男性が老けて見えるのは大抵ひげを生やしているからかもしれない。そんな彼らが吐く名言はまさしく、哲学者か詩人のそれなのであった。 この日はその後、再び降り出した雨のなかを幾つかのモスクと、名高いグランドバザールを訪ねた。体がすっかり冷えたので「晩飯は中華麺、中華麺」と呪文のように唱えながら歩いた。しかしその夜、探し当てた中華レストランは本当に不味かった。 8.ドネルケバブの日 イスタンブール3日目の朝を迎えた。曇り。今日は新市街を歩いてみることにする。新市街の中心にはタクシン広場という交通の中心地があり、そこから旧市街へつなぐガラタ橋までイステクラールという通りが下っている。ここを店や人々を眺めながらゆっくり歩いてみようというのが計画であった。 まず、トラムで終点のカバタシュまで行き、地下鉄に乗り換える。この地下鉄は一駅だけでタクシン広場が終点となる。いずれ遠くまで開通するのだろうが、今は一駅だけの運行なのである。これが非常に重宝されている。なぜか。イスタンブールは坂の街だからである。下りはともかく上りはだれでも辛い。この地下鉄はケーブルカーの上りの役割を果たしているのだ。 タクシン広場に出ると、その広さと賑わいに驚いた。ケバブ(焼き肉)の立ち食いスタンドや花屋の集まっている地区や、銀行、ショッピングセンターのビルなどが広場を取り囲み、さまざまな方角からバスが走りこんでくる。朝は十分に食べたが、まだドネルケバブを食べていない。よし、ここは早い昼飯とするか。 立ち食いスタンドの一つを選び、チキンとビーフのある回転肉(ドネルケバブ)の塊りのうち、ビーフを指さす。次に丸いパンかクレープ状のパン(デュリュム)のうちデュリュムを指す。削ぎ落とした肉のスライスを生のトマト、タマネギと一緒に巻いてくれる。うまい。ハンバーガーと同じ原理だが、違う。何が違うか。ドネルケバブにはハンバーガーのような不健康さが感じられないのだ。柔らかいが、しっかりした味だ。街にはどこに行ってもこのドネルケバブ屋のオヤジが一日中、包丁で肉をいとおしむ様に削いでいる光景が見られる。こんなにたくさんあって過当競争にならないかと心配になるくらいその数は多い。僕はドネルケバブを初めて食べた。ドネルケバブ記念日である。 9.ガラタ塔から ドネルケバブを食してイステクラール通りに足を踏み出した。銀行、貴金属店、カフェ、レストラン、市場などが軒を並べている。また路面にはアンティックな赤いトラムが走っている。華やかだが、懐かしい穏やかさが漂っている。この感じは硬質的なヨーロッパの街にはないものだ。 この地域は古来外国人に開かれた街であった。東ローマ帝国時代には街の建設が進み、1200年代にイタリア出身のジェノア人の街として整備された。オスマントルコの征服(1453年)後は、ヨーロッパ人のための区域となり、外国商人の店舗、大使館、市場、居酒屋などが立てられ、一種の租界として発展してきたのである。歴代イスラム王(スルタン)は外国人の商業活動を保護し、妨げることはなかったという。いまでもこの街は珍しい舶来品が積まれた市場や各国大使館が軒を並べ、国際都市としての雰囲気に包まれている。 通りを一時間ほどかけて下るとガラタ塔にたどり着く。地域住民だったジェノア人が、対岸を監視するために14世紀に建てたものだ。エレベータで最上階まで行き、さらに階段を上ってバルコニーに立った。曇っているが、イスタンブ−ルの旧市街が一望のもとである。ただこの眺めには何か不安な感じが伴う。よく見るとバルコニーの足元が外に向かってかしいでいるのだ。地元の人は、あの塔はいまに倒壊するといって登らないらしい。 非常に不安だが、それでも眺めは良い。金角湾の対岸の左手に一昨日歩いたブルーモスクやアヤソフィア、そして中央にはオスマントルコ最高の君主といわれたスレイマン大帝の造らせたスレイマンモスクが見える。この眺めはさすがにオスマントルコの往年の繁栄を感じさせて余りあるものがある。オスマントルコ、その版図は、東は現在のイラクから西はアルジェ、南はエジプトから北はロシアまで及んだ。その繁栄を呼び起こすかのように金角湾に午後のアザーンが鳴り響く。 そのアザーンを聞きながら、同時に昨日のカーリエ博物館のひっそりとした佇まいを思う。あそこには数百年間塗りこめられていた図像が眠っていた。僕にはそれらの図像からは、古代の初期キリスト教徒の人々の小さな祈りの声が聞こえるようだった。オスマントルコの繁栄の足元深くこれらの祈りが封印されていたのである。 この日はその後、ガラタ橋を渡り、旧市街の何軒もの陶器屋さんをはしごして、絵皿やタイルを見て歩いた。そして次第に高価だがまことに美しいイズニックのタイルに心ひかれていった。とはいえ、まだ明日からイズミールへの旅が控えている。買うのは最終日でもいいか、と思いながらホテルに帰着。タクシン広場からホテルまで約8キロ歩いてきたよ、とゼラに言ったら、眼をまるくして、「トルコ人でもそんなには歩かない。でも足は大丈夫ですか」と心配してくれた。この日は近所のレストランでトマトとピーマンのドルマ(野菜に肉を詰めたもの)を買ってホテルで食べる。もちろんビールとワインも美味しくいただく。明日は朝10時にこのホテルを出る。 |
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