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『シルクロード自転車旅行2005』遠征報告
(ツール・ド・シルクロード20年計画:第12次遠征)
トルクメニスタンのマリーからイランのケルマンまで1050 km

(ツール・ド・シルクロード20年計画)
注記:『ツール・ド・シルクロード20年計画』は、
長澤法隆が地球と話す会の事務局長を務めていた1993年から2001年までは、長澤法隆が隊長として実施しています。2002年からは『シルクロード雑学大学(歴史探検隊)』にて、『ツール・ド・シルクロード20年計画』を継続しています。

写真・文/長澤法隆

【タイトル】

シルクロード自転車旅行 トルクメニスタンのマリーからイランのケルマンまで1050キロメートル

「ツール・ド・シルクロード20年計画」第12次遠征

【リード】

   シルクロード雑学大学という市民グループ。

  中国の西安からイタリアのローマまでの1万5000キロメートルを20年かけての完全走破を目標としている。

  1993年に西安をスタートして、今年は12回目。トルクメニスタンのマリーから国境を超えてイランへと、キャラバンサライの遺跡を巡り、1050キロメートルを見聞した。  

【本文】

 5月5日午前5時50分、モーニングコール代わりのノックで起床。
 エレベーターもあるホテルなのだが、なぜか部屋には電話がない。
 場所は、独裁者ニヤゾフ大統領への個人崇拝を国民に強制しているトルクメニスタン、南部にあるマリー。
 東30キロメートル地点には、世界遺産に登録されているメルブ遺跡がある。メルブは、紀元前4世紀頃、古代シルクロードのオアシス都市として栄えていた。しかし、1221年にモンゴルの襲来により歴史の舞台から消えた。その遺跡を、前日の日中に観光していた。遊牧のラクダがのんびりと草を食んでいる世界遺産は、快晴だった。子どもたちの遊び場でもあった。

深夜の豪雨、出発の朝はどうなる

 前夜11時頃、稲妻と豪雨の音で目が覚めていた。「スタート時には、小雨くらいになってくれればいい」と思いながら、再び寝入ったのだった。

  だが、モーニングコールの直後に外を見ると、青空が広がっている。ラッキーだ。昨夜の稲妻や豪雨は、夢だったのではと思うほどだ。同室の市川武邦さん(64才)に聞いてみた「すごい雨でしたよ。どうなることかと思った」。夢ではなかった。砂漠の雨は恵みの雨という。とはいっても、やっぱり乾いた空気の中を気持ちよく走りたい、と願う思いは同じだった。 

  ホテルの裏にある駐車場で、迎えの車を待つことになっている。駐車場のあちこちに水溜りが残っていた。それでも、青空の下、ニヤゾフ大統領の大きな肖像画のかかっているホテルを出発する事ができた。雨上がりなので気温は低く、空気はひんやりとしてさわやかだ。 

  また、3年前に訪れた時より街は静かなようだ。車の往来も少なくなっているように感じる。3年前の2002年、ウズベキスタンのブハラを出発して、マリーへと向かった。マリーの市街地に入るとマウンテンバイクに乗った3人の子どもが列に加わり、一緒に30分ほど走った。夜の8時を回っていた。真っ暗な中を、伴走のワゴン車の後ろにぴったりとくっついて走った。行き交う車が多いので、数珠つなぎとなって走った。 

  しかし、ヘルメットをかぶり、派手なサイクル・ウエアーに身を包むサイクリストは珍しいにも関わらず、今年は行き交う人でわたしたちに関心を示す人はいない。能面をつけているような街。この静かさが、独裁国家の証明なのだろうか。

写真をclickすると拡大し解説があります。

 さて、ビルの林立する市街地を走って30分。警察によるチェックポイントとがあり、ガイドが通行許可書を提示して通過した。道路の両側には、柳の並木が4列程の幅を保って延び、その外側には麦畑が広がっている。ポリスチェックの先、すっかり郊外に達したのか、放牧している牛を追う少年、軍服のような服装で農作業をしている青年などをみかけた。街の中心部と違い、牛追いの少年も農作業の青年も話しかけてきた。写真を撮ってほしいというのはわかったけれど、それ以外の意思は通じない。

 突然の降雨。変化の激しい沙漠の天気

  さらに30分走ると、扇状地を等高線にそって西へと延びる道路は、柳の並木もなくなった。まばらに草の生える砂漠の風景に変わった。前方には、道路を挟んで右側に真っ黒な雨雲がすごいスピードで左へと動いている。左側は青空。だが、見ているうちに黒い雨雲が埋めてしまいそうだ。引き返したいが、明日は国境を超えてイランだ。ともかく前進。曇り空が覆い、稲妻がとどろき、ついに雨が降ってきた。やられてしまった。ところが、さらに走っていると、青空が広がっている。まさに、猫の眼の様にめまぐるしく天気は変わった。それでも気温は30℃前後を行ったり来たり。サイクリングには丁度いい陽気である。

 午後になると天気は落ち着いた。湿地帯に生える葦のような植物の原っぱ。その中を水路があちこちに延びている。こんな風景が、行けども行けども続いた。単調なサイクリングとなった。ペダルを踏むのも飽きてしまうような気分になった。約130キロメートル進み、ホズハンという小さな集落に到着。入り口にある農家に自転車を預けて、3歳くらいの男の子と女の子に、お菓子をあげようと近づいた。泣かれてしまった。見慣れない服装が驚かせてしまったのかもしれない。言葉が通じれば、ちょっとは安心させてあげることができたであろう。車でマリーのホテルへ戻った。午後6時30分であった。

  
  5
6
。6時30分起床。南風があるが、外は肌寒い。
  地図を広げると、国境のセラフスへ向かう道は西へと進むが、途中で南へ向かっている。向かい風の中を走ることになるのだろうか。


 7時40分、昨日、走行を終えた地点までバスで移動した。途中で風は東風へと変わり、曇り空は青空へと変わった。

 8時30分、気分よく国境へとペダルを踏み出した。道路の両脇は、葦の草原が広がる。踏んでも踏んでも風景は変わらない。前へ進んでいる実感が得られないほど、実に単調な風景が続く。路面は舗装道路であるが、傷みがひどく凹凸が多い。青空が広がると気温も上がった。1015分、葦の草原で1本の木を見つけて木陰で休憩とした。1210分、トップを走る市川さんは時速27キロメートル。しんがりは時速17キロメートル。スタートして45キロメートル。ここまではマイペースで走ってきた。

 しかし、イランへ入国するには、入国の手続きが行われている間に国境へ到着しなければならない。しんがりの人にはここで自転車から降りてもらい、先に国境へと車で送る事にした。他のメンバーは、スピードをあげて時速
25キロメートルから30キロメートルで国境をめざした。途中にチェックポイントがあり、手続きに時間がかかる。思ったように前へ進めない。90キロメートル進んだところで、トップを走る市川さんだけがペダルを踏み、山田悦子さん(57歳)、村山幹子さん(40歳)、そして長澤法隆(51歳)の3人は、先に車で国境へ向かい、出国手続きをはじめることにした。

 風が出てきた。空も暗くなってきた。市川さんが国境へ到着したのは
15時。荷物をまとめて出国の手続きをはじめたのは1530分。イランへ入国したのは1550分。16時に国境の手続きは終了するので、車での移動で何とか間に合うことができた。

 国境を越えるには、各自が自分の荷物を全部持って移動しなければならない。こういう時、旅に慣れていないメンバー、お土産を日本へ持ち帰るのが目的のメンバーの荷物は多い。他のメンバーに持たせようとする人が1名いた。自分のことは自分で。子どもの頃から、親に何度も言われて育ったはずだが。

  
国境を越えると、砂嵐が待っていた


 イランへ入国時、一人のメンバーがトルクメニスタンでお酒を買ってイランへ持ち込んだことがわかった。運良く、通関でみつからなかったが、誰かに通報を受けたりして警察に知られたら厄介だ。どうやって持ち込んだか、どうして持ち込んだのか。イランへお酒を持ち込むのは、法律に触れることを知っていなかったのか。リーダーや旅行会社は、そのことを伝えなかったのか。取調べで、時間はロスする。場合によっては、日程を変更しなければならない。忙しい仕事の中で何とか休暇をもらい、12日間で帰国しなければいけないメンバーもいるというのに。何ということを。日本へ麻薬を持ち込んで、「日本では使いません」と返事したところで、通用しない。常識なのだが。お酒を持ち込めないことは準備の会合で伝えてある。ガイドのレザは、困り果ててしまった。「ホテルへ到着したら、トイレから流して捨ててください」との言葉も、力が抜けていた。

 さて、イラン入国後、走行を続ける予定だった。しかし、外は砂嵐。走行を断念し、車で180q先のマシェッドへ向かった。どうしても走りたいというものはいなかった。途中で、遊牧している人がテントを張って暮らしているところで休憩させてもらった。羊のバターがとてもおいしかった。日本へ持ち帰られないのが、とても残念に思えた。

 5月7日は、マシェッドを観光した。市川さんが、岩塩を買いたいというので、山田さん、村山さん、そして私も加えた4人で、岩塩を探すことにした。ガイドのレザに岩塩のペルシャ語をノートに書いてもらい、これをもってあちこちできいてみた。ハンバーガー・ショップならば塩を使うので、売っているお店を知っているかもしれない。お店に入った。店主は知らないとジェスチャーで答える。すると、40歳くらいの男性のお客さんが、住所を書いてくれた。ペルシャ語だ。それをタクシードライバーに見せた。手で合図して、乗れという。4人で乗った。雨が降りそうな雲行きだった。

 車が到着したのは、問屋街だった。何でも売っている。確かに、岩塩のお店。かなり大きな塊だ。岩塩を見ていると、お店の人らしき人がやってきた。欲しいだけはかりに載せて買った。タクシーの片道料金は、12000リアル。塩は4人分で2000リアルだった。ホテルまでのタクシー代は、さらに12000リアル支払った。こんな小さな旅が、とても記憶に残っている。今回の参加者は、女性3名、男性2名だった。女性3名は、忙しい仕事をやりくりして休暇を取得。12日間のショートコースでの参加であった。マシェッドを観光してこの日のうちにテヘランへ移動。翌日、テヘランから日本へ帰国の途につくのだった。

  沙漠の真ん中、子牛ほどもある犬に追われた二人旅

  5月8日、1日休養し、再び走行をスタート。
 女性3人が帰国したので、ここから先は市川さんと長澤の2人での走行となった。
 まずは、6時に車で出発。トルクメニスタンとの国境・セラフスまで戻り、9時20分に自転車でスタート。

  一昨日の砂嵐は夢かと思うほどの青空が覆っていた。路面はあまり良くない。
  標高225メートルから525メートルと緩やかな上り坂。野犬に追われれるハプニングにどきりとしたが、12時35分までに66キロメートル進む。ドライバーの調理してくれた昼食で一休み。午後は13時25分にスタート。車で追いぬくイランの人たちは、バックして戻ったり、途中で停まっていてくれたりして、水やジュース、クッキーなどをさし入れてくれた。「ヘンリー・マムヌーン(ありがとう)」とペルシャ語でお礼の言葉を返す。そんな親切に何度も恵まれた。

 15時35分、92キロメートル進んで一番高い峠に到着した。標高は930メートル。気温は26℃で、空気はすがすがしい。峠には茶屋があり、幹回り3メートルはある大きな桑の木が5本ほど。緑色ではあるが、落ちている桑の実を食べてみた。すでに熟しており甘い。シルクロードを走っている気分はますます高まった。10分ほど休憩し、再び走行。

  17時25分には125キロメートル進んだ。標高690メートルと高度は下がり、気温は28℃に上がった。集落でポリスにパスポートとビザの提出を求められた。5分ほどのロスではあったが、日没までに距離を稼ぎたい。ロス時間は30分ほどにも感じた。

 夕陽を追ってペダルを踏んだ。もはや風景は目に入らなくなっている。19時20分、日没なので走行を終えることにした。マダバンドまで、150キロメートル進んだ。高度は840メートル。気温は19℃。マシェッドまでは車で移動した。


 

キャラバンサライの遺跡が、繰り返し何度も道路わきに出現するイランの砂漠を走る

 5月9日、車で昨日、走行を終えた地点まで戻った。

 トマトと卵を炒め、ナンにのせて道路脇で朝食。車の往来はほとんどない。

 7時40分に出発、900メートルと800メートルの間をアップダウンを繰り返した。9時40分、気温は20℃となり、往来する車が急に増えた。マシェッドに入ったのだ。

 マシェッドからは高速道路に入った。路面は快適だ。路肩も十分広く安心してペダルを踏んだ。しかし、アップダウンを繰り返す道路と強い向かい風。上りでは時速10キロメートル。下りはペダルを踏んでも時速15キロメートル。気温は33℃前後だったが、向かい風には叶わない。150キロメートル走行。トルクメニスタンのビザ取得で手間取った日程をカバーするために150キロメートルを車で移動。トルバット・ヘダリーで宿泊した。
 町中に響くコーランで目覚めた小さなオアシス

   5月10日、4時頃、アザーンで目覚める。敬虔なイスラム教徒の多い街なのだろう。

 6時25分追い風に送られて時速35キロメートルで進んだ。9時少し前、道路脇にキャラバンサライを見つけ、20分ほど見学。陶片が落ちている。いったい、いつ頃の時代のキャラバンサライなのか。お昼前にも大きなキャラバンサライを見学した。

 さらに進むと、バス停がある。どうしてこんな砂漠の真ん中にあるのだろう。バッタが多いし、トカゲもいる。わたしたちの目には見えないが、近くに集落があるのだろうか。午後もキャラバンサライに立ち寄りながら走行。気温はドンドン上がり40℃を超えている。ところが、宿泊地ゴナバッドに入ったとたん砂嵐に遭遇。目を開けていられない。128キロメートルの走行を終えて近くのホテルに泊まることにした。
 気温40℃を超えるイランの春。5月のサイクリング。水のシャワーが気持ちいい。

 5月11日、気温23℃の中、ビスケットで朝食を済ませて、6時15分に走行を開始。

 今日も暑くなりそうだ。スタート地点は標高1170メートルだが、9時少し前には標高1700メートル、気温は35℃。岩山に囲まれた道路は川筋に沿って、まだまだ上っている。後ろから来るトラックのドライバーは、汗だくでペダルを踏む姿を見て、助手席に乗れと親切だ。それでも休憩しながら「あのカーブを曲がれば下りかもしれない」と、自分をだましながらペダルを回転。川の様子から、峠はまだまだ先のようなのだが。峠に到着すると、先の道路は岩山の間をジグザグに下っている。往来の車は見えない。

 11時、体が冷えるのを防ぐために上着を着て、ダウンヒルを楽しんだ。30分で高度を1000メートル以上も下げた。峠の気温は23℃。ふもとに下りると42℃。熱風の中で木陰を見つけて昼食とした。午後も気温は上がるばかり。それでも、雲が地上に影を作ると、急に熱風はさわやかになる。
 16時50分、ロバット・ホシャブのホテルに到着。すぐに水のシャワーを浴びた。

 


 砂嵐に遭遇し道路わきに緊急避難。午後になると気温は40℃を超え強風が発生。

  5月12日
、7時25分にスタート。昨夜は寒さで何度か目が覚めた。

 朝の気温も低いので、ゴアテックスの上着を着た。風景が広い上に電柱もなければ草も木も生えていない。上っているのか下っているのか、見た目はもちろん、足の感覚でも分からない。風景が広いのだ。後ろを振り返ってはじめて、上っているのか下っているのか確認できる。

 9時少し過ぎた頃、左手に大きな水溜まりが広がっている。高度の一番低い地域のようだ。気温は35℃を超え、追い風に恵まれて好調に進んだ。昼前に気温は40℃を超えた。川と山の間を等高線に沿うようにして進んだ。ところが、前方からだんだん黒い雲が近づいてくる。あっという間に砂嵐に巻き込まれた。前も後ろもまったく見えない。車を避けるために道路脇の岩場に自転車を押し上げて、砂嵐の通りすぎるのを待った。それでも、187qを走行。さらに180キロメートルを車で進み、ラバーという小さな街に宿泊した。
   ケルマンに到着後、孤児院を訪問、車いすを届けたりとボランティア。子どもたちは絵本に感激

 5月13日
、ケルマンまでは160キロメートル。ケルマンへ到着後、孤児院へ絵本や文房具を届ける予定になっている。

  2003年にバムで発生した地震で、3万人を超える市民が命を失い、6000人もの子どもたちが両親も家族も失い孤児となってしまった。そんな子どもたちの一部が暮らしている孤児院がケルマンにあるのだ。孤児院を訪問した後には、さらに、車でバムへ移動し、2003年の地震でケガをした子供に車いすを届ける約束もある。

  この車いすは、使われなくなった車いすを工業高校の生徒が修理し、わたしたちのような海外への旅行者がリレーして、主にアジア各国の経済的に恵まれない人たちに届けている。「空飛ぶ車いす」という。今回、車いすを修理してくれたのは、東京都の大森学園、新潟工業、神戸市立科学技術工業、沖縄県の美来工科高校の4校だ。

  そこで、120qを車で移動。9時過ぎ、ケルマンの40キロメートル手前から走り出した。車でかなり高度を上げたため、緩やかな下り坂をのんびりと走行。時間にゆとりがあるので、花やピスタチオ畑の写真を撮ったり、山から大理石を切り出している場所を見学したり、アイスクリームを食べたりしながら、ゆったりとケルマンに入ったのは11時30分であった。ケルマンの標高は約1700メートルだというのに、すでに気温は40℃を超えている。

  午前中に走行を終え、孤児院での交流で、子どもたちと一緒に踊りも楽しむ事ができた。2時頃、車いすをバスに乗せて260キロメートル東にあるバムへ向かった。

  車いす5台のうち、1台を小学校に通う女の子、他の4台はバム看護士協会を通じて、必要としている人たちに届けてもらうことにした。あとで、受け取った人の写真を送ってもらう約束をして、ケルマンへ戻った。

ようやく始まったバムの復興。孤児となった子どもたちの成長を応援し続ける自転車旅行

  地震から1年半の時間が過ぎた。しかし、バムの街は復興していない。ようやく、基礎工事をはじめた家が、ぼちぼち見られるような状態だ。家族を亡くした心の傷は深く、復興への気力も出てこなかったのだろう。

  これからも、子どもたちへは、イランでペルシャ語の絵本を購入して、届けてあげたいと願っている。親がいなければ、ますます教育は重要な意味を持つ。仕事に就くためにも、コミュニケーションのためにも、母国語を大切にして欲しいと願い継続していきたい

  「ツール・ド・シルクロード2005」は、1050キロメートル走った上に、日本からバムまで、1万キロメートルもリレーして車いすを届けたり、絵本を届けたり、一般家庭を訪問したり、イランの人たちとの触れ合いはもちろん、絵本を開いて喜ぶ子どもたちの成長も楽しみとなった。 
 
 来年は、どんな出会いと風景が待っているのだろうか。さらに西へと、すでに心は旅をしている。