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『西南シルクロード紀行』 -第3章
                                                                 


第3章 李家(りか)山頂の桃


王墓

  雲南省都の昆明市は標高1891メートルの高原都市である。1月の平均気温が8度C,7月の平均気温が20度Cと穏やかで「春城」、つまり「一年中、春のような街」と呼ばれる。市の南には滇池(てんち)という湖がひろがり、さらに撫仙湖(ぶせんこ)、星雲湖(せいうんこ)などが南に連なる。

石寨山・李家山遺跡地図

  滇池湖畔にある石寨山をあとに星雲湖湖畔にある李家山遺跡を目指して、私たちは車を走らせている。途中、自動車事故があって足止めをくらったが、幸いにも30分程度で解決。ふたたび李家山へ向かう。

  田園風景のなか、道路は広く、快適に走る。車をとめて「李家山遺跡は知りませんか?」と尋ねること数回、ほどなく確定した。日焼けした老人が指差して小高い丘を教え、そこに到る道も正確に伝えてくれた。近くまで行くと「李家山遺跡、ここより670メートル」という立派な石碑があり、新しくできた階段を上ることになっていた。


墓によって大きさが違う。深さ4,5メートルの穴があいたままの状態で残されたもの。傍らに「李家山古墓群」の標識。 穴の周りは舗装され、自由に覗けるようになっている。底には雑草が生えている。背景にかすかにみえる星雲湖。


山頂

  石寨山の塀から飛び降りたときに右足のかかとを痛めたらしい。ゆっくり階段を登る。ヘビースモーカーのHさんが遅れている。ようやく頂上にたどり着いた。麓から100メートルほどの高さか。頂上は平地になっていて、いくつか発掘された穴が残されており、穴の周りは木の柵が立てられていた。その墓から掘り出された主な副葬品の写真が掲示されている。



どのように埋葬されていたか説明図もある24号墓案内板。有名な『牛虎銅案』や『立牛傘蓋』などもここで発掘された。 69号墓。次に登場する『祭祀貯貝器』、『紡織貯貝器』など前漢時代の実生活を生き生きと、立体的に描写している。

  前の石寨山の場合とは違って「李家山遺跡管理事務所」があり、係員がひとり居た。入場料はひとり1元。40歳くらいの係員が説明してくれた。発掘のきっかけは、「農作業中に牛が見つけた」ものという。客はめったにないらしく、退屈していたのだろう。陳さんが通訳する暇が無いほどしゃべりまくるのだった。向かいにある小高い山は、昔は樹木があった、毛沢東の大躍進政策で大量に樹を切り倒してしまい、いまはだんだん畑になってしまったこと。今、植えているものは主にタバコであることなど。


星雲湖

  ひと通り説明し終えた係員は「さあ、休んでください」と、みんなに小さな椅子を勧め、紙コップに湯を注いでくれた。私はその場を離れて、水田の向こうに見える星雲湖を眺めた。左手の緩やかな丘陵には森林があり、田植えを終えたばかりの田園風景の果てにゆったりと湖水がひろがっていた。2000年前もこの光景は変わらなかったに違いない。むしろ、昔のほうが樹木は多く、森は深かっただろう。野獣とともに多くの小動物たちがいて、たくさんの魚がいた。田や畑は二毛作ができるほど恵まれた自然環境で、稲作に必要な水資源も限りなくある。ここには豊かさの条件が全部そろっていた。遥かな古代を思う。


李家山の隣りにある山。毛沢東の政策により、裸にされた。山にも歴史があり、2000年前は野獣や小動物がいたに違いない。 湖畔の村には大きな漁具が残されていて、大きな魚が獲れていたようだ。農業と漁業を巧みに組み合わせた暮らしぶり


桃の実

  陳さんの声が聞こえた、「桃を自由にもいで、食べていいそうです」。事務所の傍らに果樹があり、実がなっていた。ちいさめの桃である。色付いた実を2,3個探した。用意してきたナイフで皮をむく。果肉はかたく、熟するにはほど遠いが、それなりに野趣があっておいしい。日本の果物屋でみる桃は品種改良を重ねた結果、大きく、柔らかで、甘い。日本の桃の四分の一にも満たない小さな実である。渋みのあるほのかな甘さは、2000年前の桃の味を思わせた。


遺跡

  改めて地図を見てみよう。江川県は玉渓の東に位置していて、江川の町から北へ15キロ、李家山がある。この李家山の山頂で古墳が発見されたのは1963年のこと。雲南省博物館による第一次発掘は1972年に行われ、主に戦国時代の王族墓27基が確認された。いずれも長方形の竪穴土坑墓で、青銅器、鉄器など1300件の副葬品(うち800件以上は青銅器)が出土した。さらに1992年にも58基、2000件以上の副葬品が発見された。これらの発掘調査によって、青銅器が春秋時代中・晩期(紀元前600~500年頃)から戦国時代を経て前漢(紀元前200~0年頃)時代初期のものが主流であることが判明した。これは何を意味しているのだろう。

  私たちが午前中に訪れた石寨山から出土した青銅器は、戦国時代末期のものもあるが前漢の武帝(紀元前141年即位~87年没)時代~前漢末に集中している。このことから「滇国の当初の王都は江川県にあり、後に滇池湖畔の晋寧県に遷都した」(鳥越憲三郎『古代中国と倭族』中公新書)ものと考えられる。このことは炭素14の測定値による年代推定だけでなく、青銅器が示す内容の「高度化・複雑化」からもうなずける。


青銅器6

 『牛虎銅案』24号墓から出土。戦国時代に作られた逸品である。「案」とは中国語でテーブルやお盆をさすが、古い時代には食事を運ぶのに用いられたお盆のこと。高さが43センチ、幅76センチと大きく、銅製なので重い。<祭祀の供物>用に使用されたものかもしれない。虎に襲われた親牛が、耐えて子牛を守ろうとしている図。スキタイの動物闘争文様では、馬の背中に噛み付く獅子の図が見られる。この銅案はアメリカ、フランス、日本などに「海外出展」され、世界的にも知られる。現在、雲南省のシンボルになっており、巨大なレプリカが昆明市の雲南省博物館や江川の李家山青銅器博物館の入り口に堂々と飾られていた。

牛虎銅案(画像clickで拡大画像)
地元・江川の町にある「李家山青銅器博物館」。
李家山遺跡から出土した青銅器や副葬品が分類され、展示されている。



青銅器7

 『牛が立つ傘状の蓋』 これも24号墓から。戦国時代のもので、高さ16.センチ、直径43センチ。お盆か容器の蓋だけが残ったもの。取っての部分に穴がふたつあり、木製の柄がついていたらしい。

牛が立つ傘状の蓋(画像clickで拡大画像)


青銅器8

 『祭祀貯貝器』 前漢時代のもの。中央に高い柱が立っている。乗り物に乗った貴婦人は祭りの中心人物なのだろう、金メッキを施している。卑弥呼のような存在なのか。傘を持つ従者、乗り物を担ぐ4人。合計35人が登場しているが、面白いのは祭祀に直接関係していない人たちを描いているところだ。農作物、瓜や果物らしいものを入れた籠。人が集まるところでの交易活動をリアルに表現している。高さ40センチ、蓋の直径28センチ。

祭祀貯貝器(画像clickで拡大画像)


青銅器9

 『紡織貯貝器』 1992年、69号墓から出土した前漢時代のもの。高さ48センチ、蓋の直径が24センチ。通貨の貝殻を貯えておく貯貝器としては大きいほう。写真では見えない腰部には、左右にそれぞれ一対の虎形の耳がついている。蓋の上に登場する人物は10名。中央の金メッキを施された女性は紡績の監督であろう。ひとりは傘を捧げ、ひとりは弁当箱を差し出している。女性たちは懸命に機織りをしている。



紡織貯貝器(画像clickで拡大画像)


  ところで、李家山の『紡織貯貝器』と石寨山の『紡織貯貝器』を比較すると面白い。前者は単純で、後者が複雑化していることが良く分かるのである。後者では登場人物が18人になっていて、糸を紡ぐ人、布を織る人、成品を検査する人、執事、全体の監督など機能が分化してくる。時代の流れが青銅器の内容を規定する。既に述べた<滇国の遷都(江川県から晋寧県へ)>という鳥越説を証明する資料のひとつであろう。



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