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『西南シルクロード紀行』 -第8章-



第8章 「懸棺」はるかな旅


   塩津の駅から列車、バスを乗り継いで10時間、四川省の南端にある洛表鎮に到着したことは7章で述べた。下の地図を見て頂きたい。右端の公路上に洛表鎮があり、そこから三輪タクシーに乗って「懸棺の郷」に入るのである。

<懸棺葬と岩絵の分布図>(陳明芳『中国懸棺葬』重慶出版社を改変)
懸棺の郷
   この地帯を麻塘坡(まとうは)という。中央を「かに川」が流れており(水量は殆どなかったが)、地図上で薄いブルーの部分が畑や田んぼである。豊かな水田風景がひろがり、畑ではとうもろこしの葉が揺れていた。東側の崖と西側の崖のあいだは300メートル前後。細長い廊下のように南へ約5キロメートル続いていて、その両側の崖に木製の棺が懸けられている。その数、100個以上。


田植えを終えたばかりの、のどかな田園風景。
A地点の展望台から撮影
地面に垂直に立つ断崖だからこそ、懸棺には適しているのだろう
  
   日本にない文字が多いので説明のしかたが難しい。赤丸の地点をA地点と呼ぶことにしよう。現地では[ジュウジャンドン]と発音する。ここの岩壁に棺が集中している。私たちはこの村で3時間以上取材した。幾組かの観光客(中国人)とも出会ったが、みんなA地点だけを見て帰った。ちょっとした見学ならここだけで十分といえるし、他の岩壁も見るのなら、案内人と三輪タクシーなしではきつい。

断崖絶壁
   さすがにA地点の懸棺は圧倒的な迫力があった。数も多い。とにかく主目的は撮影なので、いろいろな角度からパシャ、パシャ。望遠レンズでも狙った。肉眼で感じる高さと迫力は、写真では表現しにくい。人物を入れることで、どうにか伝わるかもしれない。


懸棺を間近かで見られるように階段がついている。 遊歩道には危険防止の柵がついている。かなりの高さであることが分かる

一望、十数個の懸棺が。古代文献史料で「懸棺」が最初に出てくるのは南北朝時代(5世紀前後)である。
方形の穴、木の杭だけ、棺など、岩壁は年月の長さを物語っている

いまにも転落しそうな棺も見られる。棺材は楠木、漆は塗られていない

穴の数は40以上。この壁面は風が強いのだろうか

真下から天を仰いで撮影した。棺身の長さは2メートル前後が多い
黒い棺は漆を塗ってあるのだろうか。上級の権力者だったのか

「棺を高くかかげれば、かかげるほど親孝行」の習慣がある、と唐時代の文献にある。


懸ける
   最も一般的に見られる懸棺の方式は、「岩壁に小さな方形の穴を穿ち、木杭をその小さな穴に打ち込み、その後、この木杭の上に棺を置く」(『四川の考古と民俗』第一章・蜀と滇の間の考古学・霍巍)のである。「まさに『懸』という一文字を如実に体現している。そのため現地の人々は、それを『挂岩子』(グワイエンズ)と呼称している」(同上)。


置く
   第二の方式は棺を岩壁の天然の洞窟内に置くもの、あるいは壁面に突き出るようにできた天然のテラスに棺を置いたものである。このタイプの棺安置方式は少ない。ここで第6章の豆沙村の「懸棺」をクリックして欲しい。天然の洞窟に木片が残されていて、第二の方式であることが分かる。

上は「置く」方式、下が「懸ける」方式。 天然のテラスに置かれた棺、特等席のように思われる


  上左の写真では、第一の方式と第二の方式が同居している。ここでお断りしておきたい。霍巍(かくぎ)教授(四川聨合大学)の説明では整理しにくいので、私流に変えた。つまり、第一の方式は「懸ける」であり、第二の方式は「置く」のである。それでは、第三の方式は?

鄧家岩
   岩に穴をあけて、人工の洞窟を掘り、そのなかに棺を置く方法。私たちが牟さんに案内されて行った鄧家岩(地図では緑色)が完全にそれである。彼の説明によれば「子供の頃、よく中に入り込んで遊んでものです。なかはがらんどう、なにもありませんでした」。


岩壁をくり抜いて作った第三の方式、鄧家岩。地上から4,5メートルの高さ。

写真左(3個の穴に注目)のさらに上の壁面である。
三輪タクシーの運転手と案内人を兼ねる牟家華さん。


調査
   今まで何度も学術調査が行われている。四川省博物館、重慶博物館、四川大学歴史系考古専業実習隊などによる調査であるが、総合的に判断すると
●四川省南部の地域の懸棺葬俗は、雲南の一部地区にも影響を及ぼしている
●古い文献と考古資料の一致が見られる
以上の2点は証明済みであるとみていい。

  「古く、四川大学博物館のアメリカ人学者グラハムが、川南一帯の懸棺葬を調査したときの記録では、[洛表の懸崖には、木棺の数がきわめて多く、しかも、南に分布が伸びて、雲南の豆沙関岸壁にまで至る]とある」(同上)。これは同時に、往来する道が存在していたことの証明でもある。


珍珠傘
   地図に戻って、オレンジ色(珍珠傘)の懸棺を見てみよう。縦に規則正しく懸けられている、珍しい例である。アップで迫ってみると上ふたつが年代は古く、下のふたつが相対的に新しいことが分かる。さらに、遠景でながめると、高さはせいぜい20メートルくらいかと思える。


珍珠傘(地図ではオレンジ色)の懸棺。道路のすぐそばの岩壁である。

300ミリの望遠で撮影。縦に整然と並ぶ珍しいスタイルの懸棺
これがこの村の日常風景であろう。珍珠傘の遠景。


   下の写真は案内人の牟さんが子供の頃遊んだという鄧家岩の近くで見かけた<洞窟バージョン>の懸棺。左上方にポツンと孤立して在るのが見える。「ここの岩は何と呼ぶのですか?」と訊ねたら「没有(メイヨウ)」という返事であった。

   本当に名前がないのか、彼が知らないだけなのか分からない。ちゃんとした建物の農家やパラボナアンテナもあって、裕福な農村と言う印象を受けた。


鄧家岩の近くにある「名もない岩崖」の懸棺。


懸棺博物館
   さてここで、懸棺の謎に迫ってみたい。入り口のところにある「懸棺博物館」での説明に耳を傾けよう。棺を断崖絶壁に懸ける理由は、「死者を安らかにするため」であろうと言う。<高く険しいところに置けば水や人間、獣などの侵入を防ぐ>からだ。ちなみに洛表地区にある懸棺で一番高いところにあるのは、獅子岩(地図では青色)のそれで約60メートル。低いのは鄧家岩にある洞窟で、子供が道具を使えば登れる高さ、5メートルほどだろうか。


「懸棺の郷」の入り口。入場料はひとり20元。女性は切符切りの係員。
奥に見える三輪タクシーは牟さんの車。
<懸棺博物館>にて撮影。懸棺葬の名称と地点、時代統計表。


   上左の写真に「ぼくじんの懸棺」とあり、懸棺を残したのが「ぼくじん」という民族であったことは間違いない。古代、四川省西南部に住んでいた少数民族であるが、16世紀に明の大軍に攻められ、滅亡したという。それ以外は不明である。上右の写真では、懸棺葬の風習が約3000年前、商周時代にあらわれて、近代まで続いていること、長江(揚子江)流域に散在していること、さらには台湾にまで見られると説明している。


「中国懸棺葬分布図」。揚子江の南に広く見られる。
「懸棺の郷」マップ

鄧家岩にあった棺。長さ192センチ、幅52センチ、高さ47センチ。「数百年経っているが、保存は良好」とある。


明代中期
   副葬品として景徳鎮の食器(明代正徳、嘉靖年製の染付け碗)や明の時代の銅銭などが棺のなかから発見されている。これによって、懸棺葬の年代は<明代中期>と想定される。左下写真の棺は楠木をくり抜いて作られている。見学した人々がお金を入れていったのだろう。朽ちた棺は相当に古そうであった。


人骨
   学術調査のときに棺内部に残存していた人骨を展示したもの。仰身直肢葬による残存状況で、頭骨は冠状にくぼんでおり<生前において頭部に変形を加えられた模様>とある。


棺に残されていた人骨。頭骨がくぼんでいるのは何体か共通しており、生前において圧力が加えられたと推察できる。


岩絵
   棺が置いてある岩壁に、赤色顔料によって描かれた岩絵が残されている。単独のものは少なく、その大部分が懸棺葬の周囲の岩壁や洞窟内部に描かれているのが特徴的だ。棺の底部に描かれているケースもある。


赤色顔料によって描かれた各種の岩絵。当時の生活を知る上で貴重な資料であるが、解明はすすんでいない。


   写真でも見られるが、岩絵の題材は①人物 ②動物 ③記号、の三種類に大別できる。人物の服装は多くがズボンを着用したり、スカートをはいていたりする。写真のように、頭上には羽毛の飾りを挿したのも目立つ。動物図案では馬が圧倒的に多く岩絵総数の70%以上を占める。騎馬の動作が巧みに描かれていて、高度な乗馬術をもっていたことを予想させる。写真下中央の岩絵は鄧家岩で発見されたもの。一頭の馬がまさに厩舎の中に入って行くところだと解釈されている。
しかしまだまだ、大部分の図案が意味の解明はなされていないという。


どのようにして絶壁に懸けたか
   そして最後の問題。どんな方法でもって断崖絶壁に大きい棺を懸けたのだろうという疑問が残る。ある説では、崖の上に滑車を取り付け、舟をつかって引き上げたとする。桟道説は、絶壁に桟道をつくり、その上で作業をする。棺を置いたら桟道をはずしてしまう。上攀(じょうはん)説や下垂(かすい)説もある。しかし、いずれの説も実証されていない。

  私たちは、バスに乗って「懸棺の郷」を後にした。そして、走り始めて間もなく、農夫が2本の竹を引き摺っているのに出会った。道端に寄り、バスをやり過ごすために立ち止まった農夫を見た瞬間、「竹をつなぎ合わせて、長い梯子を作ることは簡単ではないか」と思った。それを何組も使って、共同作業をやる光景を頭に描いた。中国人は高層ビルを建設するのに、いまでも竹で足場を組むではないか。バスは15分ほどして停車した。地元の人が2名、乗り込んできた。上羅鎮である。「上羅鎮緑蔭堂あたりでは道路から懸棺を眺めることができる」ことを知ったのは帰国後である。


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