シルクロード、西へ |
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「シルクロード、西へ」を連載するにあたって |
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この十五年間で私は、中国、インドシナ半島、マレー半島、スールー諸島、スンダ列島、ミャンマー、バングラデシュ、インドなどの国や地域をあまねく回ってきた。そのような中に身を置いていると、これらの地に絶えず影響を与え続けてきた文化のひとつに、西域からもたらされた文物が数多くあることに気づいた。イスラム教しかり、ゴマやキュウリなどの農産物しかり、リュート楽器しかり。 歴史的に、はるかに多くの中国文化の受容を受けてきた日本文化にも、西域文化の一部が含まれていたと考えるのが自然なことかもしれない。 だが、現代日本人の認識としては、日本文化が中国文化を受容したことは疑いないことだと思ってはいるが、さらに西方からの文化を受容していた点についてはそれを中国文化の一部としてとらえてしまい、西方文化にはほとんど関心を持たない場合が多いのではあるまいか。 西方へ向かったことのない私もそのひとりであった。この旅を行う数年前、そのような問題意識の解明からバングラデシュを起点にしてインド〜パキスタン〜イラン〜トルコの旅を試み、中途で挫折した。そのような苦い思い出があるからこそ、今回シルクロードの国々をめぐることにより、東西文化の結節点を見出す意義をなんとしても明らかにさせたいという気持ちに満ち溢れている。 西方へ向かいたい。 ただ、私は当時長らく中国雲南省およびマレーシアのペナン島に居住していたということもあり、中央アジアの動向には疎い部分が大きい。読者の皆様のご意見、ご指摘をお待ちしております。 なお、この連載にはシルクロード雑学大学主催者の長澤法隆氏、前田種雄氏、そして盟友宍戸茂氏の協力なくしては実現できなかった。この場を借りて心より御礼申し上げます。 著者紹介 近藤高陽(こんどうたかあき) 1977年福岡市生まれ。現在河北大学講師。 |
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目次 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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第1章 西安――旅の起点 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
第2章 ウルムチ行き夜行急行 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
第3章 ウルムチ・トルファン――奇妙な共存 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
第4章 イリ――不注意の代償 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
第5章 アルマトゥイへの道――天山北路とカザフ人 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
第6章 アルマトゥイ――無聊な日々 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
第7章 ビシュケクへ | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
第8章 フェルガナ盆地を行く――国境線と飛び地の旅 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
第9章 タシケント(1)――癒しの街 |
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第10章 タシケント(2)――ブロードウェイと謎の国 |
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第11章 サマルカンド――「青の都」と「文明の十字路」 |
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第12章 ボハラ――砂塵の都 |
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第13章 カスピ海を越える |
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第14章 南カフカスを駆ける |
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第1章 西安――旅の起点 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
西安駅前の安宿 二〇〇七年初夏のある日、私は早朝の西安駅に降り立った。まだ夜が明けて間もないというのに駅前広場には熱風が容赦なく吹きつけ、全身はすぐに汗とほこりにまみれてぐちゃぐちゃになった。内陸中国にありがちの乾燥した空気、照りつける太陽が容赦なく体を痛めつける。
とりあえずは宿を見つけなければならない。重いバックパックを引きずるように駅前の大通りをだらだらと歩いていると、行く手に「旅社」の看板が見えた。暑いのと列車の中で寝付けなかったことで頭の働きが鈍くなっており、どのような設備なのか確認せずに入ってしまった。その旅社は地下に降りていく構造になっていて、階段を降りた先にフロントがあった。一泊三十元(約400円、当時)と値段も手ごろなので、部屋をろくろく見ずにチェック・インしたのだが、後になって少し後悔した。 地下にある部屋は外から光も入らず、窓もなくじめじめしている。天井からは水滴がぽたぽた垂れているし、廊下の電球は青白くてとても薄気味悪い。部屋に入ると、むき出しの白熱灯が頼りなげに灯っている。エアコンはもちろん、ファンもないので湿気が肌にまとわりつく。記念すべきシルクロード行の第一歩がこのような座敷牢のごとき宿で良いのだろうかと思ったが、睡魔には勝てずに程なくして眠ってしまった。 旅の計画 西安にたどり着く前、私は東南アジアを旅していた。当時住んでいたマレーシアのペナンを出発して南下、シンガポールでマレーシア人の旧友と合流して北上、クアラ・ルンプール、コタ・バル、ハジャイを経てバンコクに到着、ここで友人と別れ、ラオスの首都ビエンチャン、世界遺産のルアンプラバン、水かけ祭りで有名な景洪などを通り中国雲南省の昆明に到着したのが一週間前のことだった。ここは以前、三年以上に渡って住んでいた思い出深い土地である。毎日違った旧友と再会して食事をともにする。それを喜びつつ、定宿にしていた雲南民族大学の招待所に戻るとすぐ、大ざっぱに旅の計画にとりかかった。
ひとまず、西へ向かいたいという漠然とした思いはあった。ただ、途中のルート設定に難渋した。ミャンマーは外国人の陸路通過を認めてないので、バンコクから飛行機でバングラデシュに飛んでそこからインド、パキスタン、イラン、トルコを目指すルートを数年前に試みたことがあったが、インドのバラナシでカメラを盗まれたのがきっかけで頓挫した。 西安から新疆ウイグル自治区西南部を通ってパキスタンに入るルートも考えたが、パキスタンのビザは北京でなければ取得できない。今さら北京に引き返すのもどうにも面倒な気がする。 そこで考えたルートが、ウルムチからカザフスタンに入り、キルギス、ウズベキスタン、トルクメニスタンなど中央アジアの国々を経て西へ向かうものであった。カザフスタンのビザはウルムチで取得できるので都合が良い。他にいくつかのルートがない訳ではないが、ひとまずはウルムチを目指すことにした。昆明を後にして西安行きの列車に乗り込んだのは二日前のことであった。
西安でやるべきこと 西安でやらなければならないことは二つあった。ひとつはウルムチ行きの列車のチケットを入手すること。もうひとつはデジタルカメラを買うことである。旅をするのになぜカメラを用意していないのか不審に思うかもしれないが、これには少し説明を要する。 昆明を後にした私は、成都経由西安行きの列車に乗り込んだ。途中、雲南省北部から四川省南部にかけて広がる雄大な景色に私はすっかり魅了されてしまった。飲み終わったビール瓶を窓枠に何本も並べつつ、ループ線や日本では考えられないほどの線路の高低差を楽しんだ。そのような光景も終わり、列車が成都の郊外に差しかかった時、ふと尿意をもよおしてトイレに入った。どうやらビールを飲みすぎたようだった。 中国の列車は僅かな例外を除いていわゆる「垂れ流し方式」を採用しているので、用を足していると地面が見える。貴重品を落としたりしたら一大事なので手で押さえて飛び出さないようにする。用心深く用を足し終え、ドアを開けようとしたその時、気が緩んだのか覚えずズボンのポケットから愛用のデジカメが飛び出し、ちょうど水を流し終わった直後のトイレに吸い込まれていった。あっと叫ぶ間もなく、デジカメは成都平原の土と化していた。 私は泣きたい気持ちになった。シンガポールから昆明まで撮りためてきた写真はあらかじめCDに焼いていたので難を逃れたが、愛着のあるデジカメが一瞬にして失われてしまったので、旅を続ける気持ちが全くもって萎えてしまったのである。ショッキングな出来事は人間の気持ちをネガティブな方向へ引きずっていってしまう。もう旅をやめてペナンへ帰ろうか、とまで考えてしまった。が、ここで旅をやめたら数年前のインドでの挫折と同じことになってしまう。なんとしても旅を続けたい。新しいデジカメを買い求めることは、旅のモチベーションを維持する唯一の手段のように思われた。 そういう訳で、西安に着いて真っ先にしなければならないことは、デパートの開く時間に合わせてデジカメ売り場に行くことだったのだ。列車の切符はそれからでも大丈夫だろう。時間はいくらでもあるのだから。 うとうとしていると、背後でがさがさ音がした。もしかすると、泥棒が部屋に入って来て荷物をあさっているのだろうか。不埒なやつと思い、反射的に起き上がって音のする方を向いたところ、ネズミが二匹、バックパックをかじっているところだった。ネズミが苦手な私は、その場に固まってしまった。 カメラを買いに フロントの女性にデパートの場所を尋ねた。西安の繁華街になっている鐘楼の周辺にあるというので、駅前からトロリーバスに乗り込んだ。西安には十年ほど前に来たことがあった。その時は冬だったが、埃っぽい空気だけが全く変わっていない。二両連結の薄汚れたトロリーバスはぴかぴかの新型車両に置き替わっていた。 途中、渋滞もあって三十分ほどで鐘楼に到着した。ロータリーの真ん中に鐘楼が聳え立っている。西安の市街地は面目を一新していた。以前は陰気な感じの団地や低層の建物が密集していたが、それらがすべて取り壊され、斬新な造りの高層マンションや小綺麗なビルディングに建て替えられている。十年のブランクが長すぎたのか、それとも中国の発展が速すぎるのか、判断がつきかねた。 教えられたデパートに入ると、フロア一面にデジタルカメラを売っているブースが目に入った。ウィンドウを眺めていると、早速販売員の女性が近づいてきた。製品のスペック紹介は万国共通である。日本製品、韓国製品など、様々なメーカーのカメラを勧められた。そのいずれも長所があり、短所があった。私の希望はそれほど多くはなかったが、一番重要視していたのは「日本語でメニュー画面が表示できるか否か」ということであった。この要望を満たすカメラはたった一種類しかなかった。それはカシオの青いデジカメで、日本人の来訪を待っていたかのように、他の製品とは別の場所に鎮座し、丁寧に扱われていた。
私がこのカメラの購入を告げると、女性店員はうれしそうに棚から品物を取り出し、伝票になにやら記入を始めた。彼女は書き終わった伝票を私の手に握らせ、「向こうのレジでお金を払ってきてちょうだい」と指示した。現在の中国では珍しくなった、売り場とレジが分離した方式のフロアだった。三枚綴りの伝票を持ってレジに並び、お金を払うと伝票にハンコが押され、三枚のうち二枚を渡される。それを持って売り場に戻り、店員に渡してようやく品物と伝票の控えを受け取った。極めて面倒くさい方式の販売方法だが、初めて中国で買い物をしたことを思い出し、少し懐かしい気持ちになった。 デジカメは無事に手に入った。次はウルムチ行きの列車のチケットを入手しなければならない。近くに列車の場外切符売り場があるかと思ったが見当たらないので、再びトロリーバスで駅に戻り、切符売り場の長い列に並んだ。切符売り場は屋外にあってエアコンが効いていないので、すぐに体中汗まみれになった。おまけに列に割り込む無法者などもいるので、あたりは殺伐としており、ところどころで口論が起こっていた。中国の鉄道駅やバスターミナルで見られる日常的な光景だが、こればかりは毎回見ていてうんざりさせられる。 三十分ほど並んで、ようやく私の番になった。中国の列車はいつも混んでいて、当日や翌日の切符は売り切れていることが多いが、意外にも翌日夜のウルムチ行き二等寝台の切符を入手できた。切符から判断すると、列車はエアコンなしの普通急行のようだ。西安を午後九時二十五分に出発して、翌々日の午前七時ちょうどにウルムチに到着する長距離列車である。 回族居住地 切符を入手した時点でまだ昼過ぎである。市内をぶらつくことにした。鐘楼周辺には西安城の遺構が多く残っている。鼓楼のそばには大きなモスクがある。それらを眺めているうちに、回族居住地に迷い込んだ。
回族は中国で三番目に多い少数民族(約一千万人)だが、その民族アイデンティティを決定する要素はイスラム教の信仰、それだけである。共通の言語すら存在しない。回族は北京にも上海にも広州にも、およそ中国内地と呼ばれるところにあまねく居住している。彼らが住んでいない地域は東北地方くらいなものだ。内地の回族はそれぞれの地域における漢族文化を多く受容している。言葉の面から見ると、上海の回族は上海語を喋り、広州の回族は広東語を喋るといった具合である。漢族との混血も進んでいるため、顔立ちも漢族に似ている。彼らから、「シルクロード」等のエキゾチックな要素を見出すのは困難なことかもしれない。 これは昆明の例だが、ある漢族の青年がいた。彼の恋人が回族だったので、彼はなんとか彼女と一緒になろうと、回族へ民族籍を変更しようと試みた。そのようなことが可能なのかどうか分からなかったが、彼は毎晩のようにコーランを暗誦していた。数ヵ月後彼に再会したときに彼に尋ねた。「回族になれたのかい?」すると彼はうれしそうにポケットから身分証明書を取り出し、「回族」と書かれた部分を見せびらかした。中国での漢族と回族の関係はさもありなんと、面白く感じた記憶がある。
ただ、西安以西の回族に関して言えば、状況はやや違ってくる。北京や上海の回族が「内地回民」と呼ばれるのに対し、彼らは「西北回民」と呼ばれ、一応の区別がなされているのである。顔つきも、目はくぼみ鼻が高く、トルコ系の人々を連想させる。西域への憧憬が一気に煽り立てられる。だが、周りを見渡してみると、建物は中国の下町で見かけるレンガ造りのそれだし、看板には漢字が踊っているし、飛び交う言葉は陝西訛りの漢語である。一瞬、自分がどこにいるのか分からなくなった。
ふと気づくと、道の傍らに立派な「清真寺」が建っている。モスクである。ちょうど礼拝の時間なのか、丸いふちなし帽を被った人々が吸い込まれていく。白い立派なひげを蓄えた老人が道端に腰掛けている。空気を震わすアザーンの声が耳に入ってくる。それで私はようやく理解した。ここ西安は紛れもなく、漢族文化とイスラム文化が交錯するシルクロードの起点なのだと。 シルクロードの起点 西安で一箇所だけ行っておきたい公園があった。唐長安城の西門にあたるところにあり、「絲綢之路起点群像」という名前のモニュメントが建っているという。「絲綢之路」とは中国語でシルクロードのことである。当時の遺構は全く残っていないようだが、これから西域へ向かう一種の決意表明ができるのではないかと考えて、行くことにした。 すでに夕方になっている。市バスも走っているようだがどの路線に乗ればよいのか分からないので、タクシーに乗車した。タクシーは渋滞気味の旧市街を抜けるのに手間取り、四キロほどの行程に三十分以上も費やした。公園に着き、タクシーから降りようとしたら小銭がない。不機嫌になった運転手は五百メートルほど離れた商店の前で車を停め、「ここで両替してこい」と言う。ただ両替するだけでは申し訳ないので、レッドブルという少し高級な清涼飲料水を買った。百元札を出すと、店のおばさんは露骨に嫌そうな顔をしたが結局受け取ってくれた。タクシーの運転手にお金を渡すと、仏頂面の運転手は表情を崩さず、猛烈な勢いで走り去って行った。おかげで、商店から公園までの五百メートルを歩く羽目になった。
公園に着いた。なんてことはない、ラクダを引いた隊商のモニュメントが並んでいるだけだった。ひとりのお婆さんが子供を遊ばせている他には人影も見えない。すでに薄暗くなっていて、あたりはわびしい雰囲気に包まれている。たったそれだけのことなのに、夕日に包まれた隊商のモニュメントを見ていると、西域へ向かおうという気持ちが強くなってきたように感じた。このときのためにiPodに仕込んでおいたゴダイゴの「ガンダーラ」という曲を聴きながら口ずさむ。子供の時に再放送でよく観たテレビドラマのエンディング・テーマになっていた。この番組では、エンドロールとともにシルクロードの風景が画面に現れていたが、子供の頃はこのような異郷にいけるのだろうかと夢のように思っていた。それが現在、シルクロードの入り口に立っている。子供のころの夢を思い出すことによって、西域へ向かう「儀式」が完了したと思った。ドラマはもちろんドラマだが、少なくとも自分の中では、西へ向かうという気持ちが大きくなっていた。 決意も新たに、帰りはバスに乗って駅前の旅社まで戻った。部屋のテレビで中国の連続ドラマを見る。香港のアダム・チェンという中年俳優が出ている退屈なホームドラマだ。観ているうちに眠くなり、そのまま眠ってしまった。夜中にネズミが出るのではないかと心配したが、結局この夜は出なかった。 華清池と西安事変 夜が明けた。今日はウルムチに移動する日である。列車は夜の発車なので昼間は時間をもてあます。どこに行こうか迷ったが、華清池に行くことにした。華清池は西安の東方約二十キロのところにある、唐の玄宗が楊貴妃と共に過ごした温泉地である。長距離バスが西安駅前の広場から出ているので、それに乗り込んだ。
バスはしばらく幅の狭い道をのろのろと走った後、にわかに高速道路に入る。快適に飛ばすのでおよそ一時間弱で華清池に着いた。華清池の施設は残念ながらほとんどが改修中だった。ほとんどの建物は、内部を見学することもできなかった。表に建っている裸体の楊貴妃像も改修工事中で、遠くからようやく眺めることができた。ただ、温泉水が湧き上がっているところは開放されており、多くの人が集まっていた。
すこし離れたところに、一九三六年の西安事変の際に蒋介石が宿泊していた建物がぽつんと建っていた。ここは改修中ではなかった。ガラスに銃弾の痕が残っており、とても生々しい建物である。壁には蒋介石、張学良、楊虎城の写真が掲示してある。特に後者二人に対しては「救国英雄」と賛美のことばで埋め尽くされている。華清池で蒋介石を監禁した張学良と楊虎城の末路については聞いたことがあった。張学良は国民党政府が台湾へ逃げた時に一緒に連行され、長い自宅軟禁の末に、十年ほど前に百数歳で亡くなった。楊虎城は一九四九年に重慶で殺害された。彼が監禁されていた家が貴陽郊外にあり、二○○三年に訪れたことがあったが、ここ華清池とそれほど変わらない風光明媚なところだった。 その傍らでは路上に書籍を広げて販売していた。『楊貴妃秘伝』、『中国古代四大美女艶史』といった本の隣に『蒋介石と宋美齢』という意味深なタイトルの本があったりするので、中国の歴史を軽くとらえてよいものか、重くとらえるべきなのか、よく分からなくなってしまった。
華清池から少し足を伸ばせばかの有名な兵馬俑博物館があるのだが、かつて訪れたこともあり、また、列車の発車時間が迫っているので参観をあきらめて西安駅に戻ることにした。帰りの高速道路で追突事故があったので少し足止めをくらい、午後三時過ぎに西安駅に到着した。駅前には列車を待つのであろう、多くの人々が大きな荷物とともに座り込んでいた。
西安の街並み 列車の出発にはまだ時間があるので、西安の街中をぶらぶらする。西安には明代に建てられた城壁がそのまま残っている。北京でもその他の多くの街でも、城壁は都市機能を拡大するのに大変不便であることから、1960年代までに壊されてしまっているところが多い。例えば北京の城壁の跡は現在環状道路になっており、その下には地下鉄の環状線が走っている。 そのような状況下で西安の城壁が残っているということは、ある意味奇跡に近いといえるかもしれない。ただ、もちろん昔ながらの城壁をそのまま保存、というわけにはいかないようだ。城外からの大通りが城内に直通する際、城壁には大きな穴が穿たれ、十分な道路幅が確保されている。これらの道路はすべて昔、門だったところである。趣のある城門は失われ、代わりに、大きな穴から絶えずクラクションを鳴らしまくる自動車がひっきりなしに出入りしている。このような城壁の活用法は賛否両論なのだろうが、世界遺産に指定されている山西省平遥のような田舎町の城壁はともかく、西安は陝西省の省会であり、重要な観光都市である。その両立をはかるための苦肉の策が、城壁をくりぬくことであったのだろう。
大雁塔は西安の南城門を出て、南に向かってバスで十五分ほど行ったところにある。ここは慈恩寺といい、『西遊記』でおなじみの玄奘三蔵が仏典の漢語訳を行った寺である。が、現在では大雁塔の他にはめぼしい建物を見出すことができなかった。塔の周囲は公園になっており、たくさんの噴水が水を噴き上げている。人に聞いたところ、この噴水は「東洋一」の規模を持ち、暖かい時期には毎晩噴水ショーなどのフェスティバルが行われることになっているという。家族連れには面白いイベントかもしれないが、今はひとり旅の最中である。ひととおり公園内を歩いたあと、城壁の方へ向かった。
道の傍らでは地面に将棋盤を敷いて熱戦に興じる男たちがいるかと思えば、籠に入った自慢の鳥を持ち寄って歓談している老人たちもいる。中国内地の街ではどこでも見られる光景である。これからウルムチに行くにあたって、このような光景も少しずつ少なくなっていくのだろう。
旅の起点 西安駅に着いたのは午後五時を少し回ったころであった。中国の標準時間は北京に合わせているため、西方の西安は午後五時でもまだ明るい。列車の発車までにはまだ三時間ほどの余裕があるが、もう西安の街をうろつく元気はなくなっていた。全身汗と埃まみれ、歩く気力は最早ない。旅社に預けておいたバックパックを引き取り、駅前の食堂で蘭州牛肉麺を食べた。回族が経営している店だった。彼らの店で麺を注文すると、麺をこねるところから始めてくれるので、こしがあってとてもおいしい。ただし、酒を飲むことはできない。 キヨスクで缶ビールを四本買って、人々がたむろしている駅前広場の一角に座りこんだ。生ぬるい缶ビールの栓を空けながら、これから始まるであろう行程に対する期待感と不安感が胸をよぎった。だが、私はまだ旅の起点に立っているだけなのだ。余計なことを考える必要はなかろう。どこまで行けるか分からないが、いけるところまで行きたい。まとわりつく熱気を払うかのように、一気に缶ビールを飲み干した。 ウルムチははるか西方にある。 旅はまだ始まったばかりだ。 |